『ゴジラ』論の変容/戦後史断章(6)
映画『ゴジラ』は、戦後史の中で、状況に応じてさまざまに論じられてきた。
そに一端を、笠井潔『8・15と3・11―戦後史の死角』NHK出版新書(1209)によって紹介した。
⇒2012年10月21日 (日):ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史(2)
以下、吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream』ちくま新書(1208)によって、さらに検討してみよう。
吉見氏は、以下のように言っている。
ゴジラを論じることは、紛れもなくビキニ環礁での第五福竜丸の被爆、アメリカの核戦略と被爆国日本の関係、そして広島、長崎の被爆の経験を論じることであり、さらには日本人の戦争経験を論じることでもあった。
つまり、ゴジラは、「戦後」という時代の主要なテーマをどう考えるかを判断するための試薬である、ということになる。
『ゴジラ』が封切られたのは、1954年11月であった。
その直後には、否定的な批評が多かった。
当時の朝日新聞の映画評は、次のように酷評している。
(科学映画的なものに乏しいだくでなく)空想的なおもしろさもない。とくに、ゴジラという怪獣が余り活躍せず、『性格』といったものがないのがおもしろさを弱めた。……ただ、企画のおもしろさはあり、一般受けはするだろう。宝田明と河内桃子の二人の青年と娘の恋愛が、なにか本筋から浮いているが、これは構成上の失敗だった
また、読売新聞も同様であった。
ゴジラ自身に水爆実験のため平和な住まいを追われた悲劇味が何一つ出ていない。映画は、ゴジラ対策の人間側でいろいろ芝居をもりこむが、この処理がまったく拙い。荒唐無稽なものにせず、科学的な面も見せようという手段も実に不手際。特殊撮影だけがミソの珍品
当初の評価の低さに対し、90年代以降、『ゴジラ』は多くの論者に取り上げられ、繰り返し考察の対象になっていく。
それは、ゴジラが戦後の日米関係を象徴し、同時に日本の戦争と戦後の象徴でもあるという構造をひめていたからである。
佐藤健志氏は、1992年刊行の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋(9207)で、「南太平洋で生まれた怪獣が少しずつ日本に近づき、ついには本土に上陸して東京を火の海にするという第一作『ゴジラ』の展開は、太平洋戦争後半の戦局をそっくりなぞったもの」と指摘した。
それは、米ソの冷戦やアメリカの世界戦略に巻き込まれて被害を受けるのではないか、という国民感情の反映で、底流に軍国主義や軍事超大国によって翻弄される被害者(佐藤氏も言葉では「ひがみ」)意識があると論じた。
余談ではあるが、佐藤氏は、政治学者佐藤誠三郎と弁護士佐藤欣子を両親とする保守派の評論家・作家である。
なるほどここにも「血脈」の流れを感じる。
⇒2007年12月 7日 (金):血脈…①江国滋-香織
⇒2007年12月 8日 (土):血脈…②水上勉-窪島誠一郎
⇒2009年6月26日 (金):太宰治と三島・沼津(4)
しかし、『ゴジラ』と破壊的他者であるアメリカの関係はより複雑であると考えるべきではないか。
五十嵐恵邦氏は、『ゴジラ』では「アメリカ」は徹底して名指しされない存在であるが、「敵として回帰し、戦争の記憶を呼び起こす。ゴジラが通過した後の東京のありさまは、アメリカの戦略爆撃の後の荒廃した光景、特に広島、長崎のそれを思い起こさせよう。病院のシーンでは、ガイガーカウンターによって、一見何の外傷のない子供も、放射線を被爆したことが明らかにされる」としている。
「ゴジラ」とアメリカによる空爆・原爆投下の結びつきは、明白である。
笠井潔氏は、『8・15と3・11―戦後史の死角』NHK出版新書(1209)において、川本三郎らの『ゴジラ』が戦没兵士たちの象徴ではないか、という説を紹介している。
⇒2012年10月21日 (日):ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史(2)
吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream』ちくま新書(1208)も川本説に触れている。
ゴジラは「銀座を破壊し、国会議事堂を破壊し、紀尾井町のNHKのテレビ塔をへし折り、その次に当然目標にしていい皇居を前にしてなぜか突然、くるっとまわれ右して海へと帰って行く」。
このことから、川本氏は、天皇制に呪縛された旧日本軍兵士の「痛ましさ」を読み取るのだが、吉見氏は、天皇=皇居を攻撃目標にしなかったのは米軍も同じであり、このゴジラの攻撃目標の選別には、旧日本軍兵士の「痛ましさ」と米軍の「狡猾さ」の両方が含まれていると考えるべきだろう、としている。
加藤典洋氏についても、笠井氏と同様、吉見氏も触れており、「ゴジラが日本の戦後における死者の『行きどころのなさ』を体現する見事な客観的相関物」という規定を紹介している。
「核放射能によって異常成長を遂げたゴジラは、こうして、かつては日本の国家の自存自衛と東洋の白人支配の打倒のための戦争に散った死者であり、かつまた、アジア諸国を蹂躙し二千万の死者をもたらした侵略戦争の先兵であり、いまとなっては意味づけようのない否定されるべき戦争えの加担者という、戦争の死者の多義性だけでなく、東京大空襲の米軍でもあり、アジア空襲の日本軍であり、かつまた原水爆の落とし子であると同時に原水爆そのものでもあるという、戦後日本全体の核心部をなす構造的な多義性」を帯びるのだ
これらの「ゴジラ」論を吉見氏は次のように整理する。
ゴジラ解釈の方向としては、これを過去の「戦争の記憶」と結びつける方向と、未来の「核戦争の恐怖」と結びつける方向の二通りがあり、またこれを「他者としてのアメリカ」と、「自己としての日本」と結びつける方向の二通りがある。この二軸を交差させるならば四通りの解釈パターンが示されるが、未来×他者という結びつきは、同時代の原水爆ものとの共通性を強調する方向に向かうことになるし、過去×自己という結びつきは、この映画をむしろ同時代の原水爆ものの映画とは異なる特異性において理解していく方向に向かうことになる。
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