「邪馬台国=西都」説/オーソドックスなアプローチ
いわゆる「邪馬台国論争」は、ひところのブーム的な現象は終わったかのようであるが、まだまだ熱気は冷めていないようだ。
必ずしも網羅的に論争をレビューしたわけではないが、断面を切り取って見せたものに、渡辺一衛『邪馬台国に憑かれた人たち 』学陽書房(9710)、岩田一平『珍説・奇説の邪馬台国』講談社(0004)がある。
⇒2008年11月27日 (木):「憑かれた人たち」と「珍説・奇説」
上掲2書に紹介されている説は、タイトルから受ける印象と異なり真摯な探究の姿勢のものが多いが、「邪馬台国論争」には、憑かれたように自説へのこだわりを見せる人や、ずいぶんと奇矯な説などがある。
学界の説は、九州説と畿内説に大別され、最近は考古学的な発掘の成果から、纏向などの畿内説が有力だと言われている。
⇒2009年11月11日 (水):纏向遺跡の巨大建物跡は卑弥呼の宮殿か?
しかし、私は、纏向=邪馬台国説に違和感を感じざるを得ない。
「邪馬台国」は、いわゆる『魏志倭人伝』に登場する名前であって、考古学的に所在地論争が決着するのは「親魏倭王」の金印などの決定的な遺物が発見されることが条件である。
あるいは、金印のような「動くもの」だけでは決定的な証拠足りえないというべきかも知れない。
現時点では、『魏志倭人伝』の記載をベースに、『記紀』や考古学的な知見を含め、総合的・大局的に「仮説」として考えることが、オーソドックスな立場といえよう。
⇒2009年11月13日 (金):邪馬台国と大和朝廷の関係
中田力『日本古代史を科学する
』PHP新書(1202)は、上記のような意味で、まことにオーソドックスな立場に立った古代史論であり邪馬台国位置論だと思う。
著者の中田氏は、巻末の紹介文を参照すれば以下の通りである。
1950年学習院一家の末っ子として東京に生まれる。学習院初等科・中等科・高等科を経て、76年東京大学医学部医学科卒業。78年にアメリカの西海岸にて臨床医になるために渡米。カリフォルニア大学、スタンフォード大学で臨床研修を受け、92年にカリフォルニア大学脳神経学教授に就任。96年にファンクショナルMRIの世界的権威として日本に戻り、2002年に新潟大学脳研究所・統合脳機能センター設立、センター長に就任
つまり医学畑の人である。
医学は、もちろん自然科学的に基礎を置くが、人間に対する深い理解がなければならないだろう。
いみじくもiPS細胞をめぐる山中伸弥京大教授と森口尚史東大病院特任研究員の著しい対照が、人間性の側面の重要性を示しているのではなかろうか。
著者は、自らの立場を次のように言っている。
科学者としての私は自然科学者である。
複雑系脳科学を専門としているが、研究の対象は人文学的命題であることが多い。
・・・・・・
複雑系科学において最初に考えなければならないことは「初期条件の設定」である。
・・・・・・
また、複雑系科学ではマルコフ連鎖が重要な役割を果たすと考える。・・・・・・一般に、過去を問わないという表現で教えられる理論である。
過去を問わないということは、過去を問えないという意味でもある。・・・・・・考古学の当てはめて言えば、時間軸に沿った考察だけが許されるという意味である。
・・・・・・
これらの原則に当てはめながら日本の歴史、特に考古学的な歴史を自然科学者として考察してみることにする。まずは初期条件の設定であるが、それは、どう考えてみても「魏志倭人伝」にあるように思える。
そして中田氏は、理論展開の規準となる「前提(postulate)」を次のように定める。
前提1 「魏志倭人伝」に書かれている記載には故意に変更された事項がない。
前提2 科学・技術の時代背景をきちんと考察する。
前提3 社会学的な意識を持ち込まず、常識的でない解釈は採用しない。
そして衛星画像を処理して考古学的に利用することを、中野不二男氏が「宇宙考古学」と命名しているが、中田氏は、衛星画像を使い、「魏志倭人伝」に記された行程を検討する。
先ず、帯方郡~末蘆国までは通説の通りで、九州上陸の場所である末蘆国を唐津近辺とする。
次に問題となるのが、「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」である。
多数説は、前原付近(糸島市もしくは怡土と呼ばれた福岡市西区付近)に比定するが、それは論理的ではない、とする。
上記の場所は、水行の方が有利であり、魏王朝の一向が陸行したとの記述に合わない。
また、方角も北東に近く、東南という記載に合わない。
1里は、それまでの記述から、約60メートルと推定される(いわゆる短里説)。
そうすれば、五百里≒30kmだから、東南方向に30kmほどのところが伊都国の地である。
「魏志倭人伝」の行程は、不弥国以降、記載の調子が変わる。
南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
いよいよ諸説が乱立(?)する箇所である。
松本清張が『水行陸行』という小説にしたように、その前までと文章の書き方も異なるので、難解である。
中田氏は、「宇宙考古学」によって、奴国の2倍以上の戸数が扶養できる場所は、熊本付近だけであることを確認する。
そしていよいよ邪馬台国である。
水行十日で、八代市付近で上陸する。
陸行一月は、人吉盆地まで行くのが地形的にも自然である。
以後のルートは、北へ行くと熊本に戻り、南に行くと伊佐、えびの市、東へ行くと西都である。
「魏志倭人伝」によれば、邪馬台国は海岸に面している。
陸行で行くに相応しいのは、人吉からまっすぐ東へ行っても、南へえびの市に出て都築へ抜けるかしても、いずれにしろ宮崎平野、日向灘に面したところである。
上記の説は十分に納得的である。
西都という「都」がついた地名と有名な古墳群の存在、天孫降臨神話との親和性等である。
⇒2012年7月 9日 (月):天孫降臨の高千穂峰/やまとの謎(66)
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