感情失禁について/闘病記・中間報告(55)
11月9日の東京新聞に、早稲田大学教授(フランス文学)の芳川泰久氏が、『病気で発見 翻訳の世界』という文章を寄せている。
芳川氏は、3年半前に脳幹梗塞を患った、と書いている。
後遺症は、身体的にはほとんど残らなかったというから、ラッキーだったというべきだろう。
私も、入院して多くの脳疾患患者を見てきたが、多くは身体的な後遺症に悩まされている。
江藤淳は、「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず」と遺書にしたためた。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読
私も、「形骸に過ぎず」とまでは思わないが、後遺症がもう少し改善されないものか、と思いながらリハビリを続けている。
しかし、私も多くの同病者の中では、比較的にはラッキーだったのだろう(と自分自身を慰めている)。
芳川氏は、「軽い構音障害」と診断されたが、専門医から「使いながら慣らせ」といわれる程度だったらしい。
私も、回復期の入院中はST(言語聴覚士)の訓練を受けたが、退院後はリハビリ時間の制限もあって、もっぱら使いながらになっている。
自分では結構もどかしい思いをしているが、もともと能弁ではないこともあって友人・知人は、「良くなったなあ、以前と変わらないよ」などと言ってくれるが、自分自身が以前と同じでないことは承知している。
芳川氏は大学を半年間休職して散歩をしながら発声練習を繰り返したという。
その結果、記載はないものの、発声はほとんど障害としては残っていないだろうと推測する。
半年間の休職明けには、大学の講義等があるだろうからである。
興味深いのは、感情がコントロールできない後遺症が残ったということだ。
こういう現象を、感情(もしくは情動)失禁という。
失禁は、我慢できずに漏れてしまうことをいうが、文字通り感情(情動)が抑えきれないで、漏れてしまうことである。
感情失禁というのは、情動失禁とも言われますが、わずかな刺激で過剰に泣いたり、笑ったり、怒ったりすることをいいます。
感情失禁は、刺激に対して起こる情動の調節が障害された状態で、脳動脈硬化症や脳血管性痴呆症などの症状としてよくみられます。
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つまり、脳の病気では一般的なようである。
私も、元来涙もろいタチであったが、発症後いっそう亢進したことを自覚している。
「つまらない」と頭では理解している安手のTVドラマなどを見ていても、泣けてくるのを抑えられなくなる。
一緒に見ている妻などは、「バカじゃない」というような顔をするが、病気の後遺症なのだ。
芳川氏は以下のように書いている。
文字通り、何を見ても笑えてくる。かと思えば、理由もなく泣けてくる。しかしその理由が分からない。とつぜん、身体が勝手に反応しているのだ。自分であるのに、身体は自分ではない。
芳川氏は、「理由もなく」と書いているが、私の場合は、感情を刺激するモノはあるように思う。
しかし、リハビリを受けている病院の入院患者(だと思う)に、確かに「身体が勝手に反応している」ように笑ってばかりいる人がいる。
体が勝手に反応したり、麻痺して意図通りに動かなかったり、やっかいなことではある。
まあ、自然に笑う場合は、泣いたり怒ったりするのと異なり、周りも余り気にならないようであるが。
芳川氏は、病から得たものが一つだけある、という。
根気づよさが備わったというのだ。
裏返していえば鈍感になったということだと芳川氏は書いているが、同じ作業を繰り返しても飽きないという。
私は、もともと単純作業が好きだったので、この点で変化があったのかどうか良く分からない。
しかし、感情失禁と根気強さが両立するのだから、脳というものは不思議なものだと改めて思う。
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