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2012年11月 5日 (月)

『ゴジラ』とアメリカ映画の物語構造の類似性と差異/戦後史断章(5)

冷戦初期において、原水爆のモチーフは、映像にも用いられた。
吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream』ちくま新書(1208)には、核戦争をモチーフにした50年代のSF映画として、次のような作品が紹介されている。

1953年『原子怪獣現わる』
北極圏の氷の中に長らく眠っていた太古の怪獣が、核実験の影響で蘇り、ニューヨークに上陸する。
怪獣を追跡する古生物学者と美人助手が主要な登場人物で、最後はアイソトープ弾を撃ち込まれた怪獣が絶命する。

1954年 『放射能X』
ニューメキシコでの度重なる核実験の影響で巨大化したアリの群れが人間を襲う。ロサンジェルスにも襲来して軍隊と衝突。
アリ学者の老博士とその娘、若くてハンサムなFBI捜査官が主人公。

1955年『水爆と深海の怪物』
水爆実験の影響でサンフランシスコ湾岸に、巨大タコが出現。上陸しかけた巨大タコは原子力潜水艦からの攻撃で仕留められる。

これらの作品と、『ゴジラ』とは、基本的な物語の構造がよく似ている。
①巨大生物が原水爆実験の影響で出現する
②その因果関係を説明するのは老科学者
③老科学者には、美人秘書か娘がいて、手助けをする
④怪物と対決する若い科学者、将校、捜査官、新聞記者などが、老科学者を現場に導きいれる
⑤若者と美人秘書や娘が結ばれることが暗示される

こうしてみると、『ゴジラ』とハリウッド映画との同時代性は明らかである。
しかし、吉見氏は、これらの50年代のアメリカ製の作品と、『ゴジラ』には根本的な差異が存在するという。
ゴジラ』の迫力は、同時代のハリウッドの「水爆もの」の迫力を易々と凌駕している。

それは、どうしてか?

物語構造が類似であるのに、印象がずいぶん異なる。
それは、怪物の造形の差によるものであろう。
それでは、アメリカの作品における怪物はなぜ貧弱なレベルにとどまり、『ゴジラ』だけが圧倒的な優位性を持てたのか?

アメリカ作品の怪物が貧弱なレベルにとどまったのは、怪物たちが表象したのが、「原水爆」そのものではないことによる。
怪物たちは市民生活を脅かす存在ではあるが、最終的には米軍や警官隊に取り囲まれ、科学者の活躍や特殊兵器(しばしば核兵器)によって、息絶える。
つまり、怪物が表現しているのは、「原水爆」の恐怖ではなく、核を保有する共産主義の恐怖である。

原水爆によって作り出された怪物を殺すには、原水爆が必要だ。これが軍備競争の論理である。
チョン・A・ノリエガ

これに対し、『ゴジラ』が表象したのは、原水爆の恐怖そのものであった。
ゴジラは、ビキニ沖で被爆した第五福竜丸の隠喩であり、原子爆弾そのものの隠喩であった。
そして重要なことは、『ゴジラ』による破壊のイメージは、アメリカ作品のような未来の恐怖を煽る反共プロバガンダとしてではなく、主要都市が廃墟と化した生々しい記憶と結びついていることである。

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