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2012年10月31日 (水)

「ネット集合知」VS「専門知」/知的生産の方法(22)

今日(10月31日)の日経新聞「経済教室」に載っている西垣通氏の『ネット集合知、精度向上を』という論考は示唆に富んでいた。
西垣氏は、福島第一原発事故によって、アカデミックな専門知全般に対する人々の信頼感が低下したことが、後遺症の中で最も重大なものの1つでである、と論を始める。
このことについては、信頼感を失ったのは、「アカデミックな専門知」なのか、という疑問が湧く。

確かに、原子力ムラという専門家集団が安易に安全宣言をしたことは事実だろうが、国民はそれをもって「アカデミックな専門知」とは考えていないのではないか?
むしろ、「原子力ムラ」にはアカデミズムも入るであろうが、「業界団体」と考えた方がいい感じがする。
アカデミズムは、「原子力ムラ」に対峙した「熊取六人衆」の方が相応しいのではないか?
六人衆の中で最も有名なのは小出裕章氏であると思われるが、上記の趣旨については以下のサイトなどが参考になる。
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち 

「アカデミックな専門知」といえば、最近は山中伸弥氏のノーベル賞受賞により、むしろ国民に明るい希望をもたらし、リスペクトされている感じがする。
⇒2012年10月 9日 (火):山中伸弥京大教授のノーベル賞受賞/花づな列島復興のためのメモ(148)

私は、信頼感が低下したのは、「東大話法」の使い手たちだという気がする。
もちろん、その中にはある種の「アカデミックな専門知」も含まれるのかも知れないが、真の「アカデミックな専門知」に係わる人たちは、「東大話法」とは無縁であろう。
⇒2012年10月10日 (水):「霞ヶ関文学」と「東大話法」はメダルの表裏/花づな列島復興のためのメモ(149)

「アカデミックな専門知」に対する見方は別として、西垣氏のテーマは、専門家の知見に衆知(大衆の集合知)は勝るのか、ということである。
昔から、「三人寄れば文殊の知恵」といわれてきた。
「ネットの集合知」は、そのネット版ということになるが、特に、「ウェブ2.0」の概念と共に注目されるようになった。
⇒2008年4月14日 (月):ロングテール

西垣氏は、「「ネット集合知は必ずオープンな民主的社会を約束する」と楽天的に言われると、眉にツバをつけたくもなる」と言う。
私の周りにはそんな楽天的な人は見当たらないが、西垣氏の周りにはいるのであろう。
西垣氏は、ネット集合知と制度疲労を起こしている専門知と対比して、IT時代の新たな知の可能性を検討してみる値打ちはあるだろうという。

結論は、ポイントとして挙げられている3点のうちの下記の2点である。
・ネット集合知は正解を推定する場合に有効
・集団的な意見や価値観の算出は容易ではない

西垣氏は、出演者が4択問題に応えるクイズ番組で、分からないときに専門家に聞くか、スタジオの視聴者代表集団のアンケート結果を参考にするか、どちらでも選べる、という例で正答率を比べる。
たとえば、スタジオに100人の視聴者代表がいて、以下のような構成だったとする。
①4択問題の正解を知っている人が10人
②2つの選択肢に絞り込める人が25人
③3つの選択肢に絞り込める人が25人
④全然見当がつかない人が40人

アンケートをとると、正解を選ぶ人が約41人、他の選択肢はいずれも20人くらいと計算される。
つまり、正解を知っている人が1割、全然見当がつかない人が4割という素人集団でも、「集合知」としては正解を得ることになる。

ところが、世の中には、正解のある問題とない問題とがあって、学校を卒業して世の中に出てみると、学校と違い、正解のない問題の方が圧倒的に多い。
⇒2012年3月17日 (土):論争家吉本隆明と複眼的思考/知的生産の方法(19)
あるいは、問いを立てること自体が重要である。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)

それでは、集団のメンバーの価値観が様々なときに、集団としての意見や一般的な意志をネットを利用して算出できるか?
結論は消極的である。

 精密な議論なしにネット集合知と直接民主主義を短絡させるなら、その先には迷妄と地獄が待っている。
 ではどうすればよいのか。
 こうした問題では、性急に多数決に走る前に、アジェンダ(政策課題)や選択肢の設定作業そのものに人々が参加する仕組みをつくるべきだ。

この結論的部分を読んで、今年の夏実施された「2030年時点の原発依存度をどう考えるか?」というアジェンダのことを思い浮かべる人も多いだろう。
野田政権は、意見聴取会や討論型世論調査により民意を探り、今後のエネルギー・環境政策に反映するとしたが、「アジェンダ(政策課題)や選択肢の設定作業」を大手広告代理店に丸投げしているようでは、「その先には迷妄と地獄が待っている」ことになるに違いない。

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