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2012年10月26日 (金)

菊田均氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(7)

(文芸)評論家・菊田均氏の著作に、『なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』小沢書店(9808)がある。
菊田氏は、1948年2月21日生まれで、『江藤淳論』冬樹社(7909)によって商業文壇にデビューした。
刊行時31歳だから、『江藤淳論』の論稿を書いていたのは20代であると思われる。
年齢の割に成熟した文体だという印象を持った。

なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』のオビには「戦後世代による戦争論」とある。
いわゆる団塊の世代ということになる。
団塊の世代は、全共闘世代でもあるが、上掲書の中で、「私は終始全共闘とは無関係だったが、同世代の人間として必ずしも無関心ではなかった」と書いている。

江藤淳論』を割合好意的に読んだので、この書も、私は刊行時に購入して一読した。
しかしその頃はまだ仕事が忙しかったので、そのまま本棚の一隅に放置してあった。
満州事変について改めて本棚を眺めていて、昔読んだ記憶を呼び覚まし、もう一度ざっと目を通してみた。

菊田氏は、「あとがき」でこの論考を書くきっかけについて、湾岸戦争に際して一部の文学者が出した「反戦声明」を挙げている。
その声明の中に、「(現行憲法が)他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた」と書かれている。
菊田氏は、この声明に対する違和感-自国の歴史に対してもっとまっとうに取り組むべきではないのか-と考えたことが、この本を書いた動機の一つである、と書いている。

そして、全てのスタートは、「なぜ結果として負けるような戦争をやってしまったのか」ということだと言っている。
田原総一朗氏が、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」と全く同じである。
田原氏は1934年4月15日生まれだから、およそ14年の歳の差がある。
田原氏にとって疑問であったことは、戦後生まれの菊田氏にとってより分かりにくいことであるのは当然のことであろう。

菊田氏は、先入観を排して事実に基づいて、可能な限り正確に検証しようというスタンスで臨む。
特に、結果論において戦争を見るのではなく、当時の現在進行形に即して戦争の経緯を考えてみようと努めた。

菊田氏は、タイトルが示しているように、「統帥権」を軸にして考察を進めている。
「統帥権」は、大日本帝国憲法(明治22年制定)の第11条に規定されている。

天皇は陸海軍を統帥す

統帥というのは、軍隊を率いることであるが、憲法には「統帥す」とあって、統帥権という言葉は出てこない。
統帥権の概念は憲法制定以前からあったが、言葉として明確に出たのは、ロンドン海軍軍縮条約に反対する鳩山一郎の質問においてであった。
Wikipediaでは次のように解説している。

1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。6月海軍軍令部長加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込んだ。
条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸総理はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。
同年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8月26日死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。

そして、統帥権の独立が明確に強調されるようになったのが、1932(昭和7年)刊行の『統帥参考』においてである、と菊田氏はいう。
『統帥参考』は陸軍大学で作られ、秘密裏に刊行されたものだという。
統帥権干犯問題以降、政治に対しして軍部が優位に立ち、軍部内部においては統帥を担当する陸軍参謀本部、海軍軍令部の力が強まったということであろう。

ここで昭和初期の主要な出来事の年表をまとめておこう。
1926 昭和元  改元
1927 昭和2  昭和金融恐慌。若槻礼次郎内閣→田中義一内閣
1928 昭和3  河本大作大佐による張作霖爆殺事件
1929 昭和4  田中義一内閣→浜口雄幸内閣。NY株式大暴落
1930 昭和5  ロンドン海軍軍縮会議。政友会による統帥権干犯
1931 昭和6  浜口内閣→若槻内閣。満州事変。若槻内閣→犬養毅内閣
1932 昭和7  中国国民政府樹立。満州国成立。5・15事件。犬養内閣→斎藤実内閣
1933 昭和8  国際連盟脱退。関東軍華北侵入
1934 昭和9  帝人事件。斎藤内閣→岡田啓介内閣
1935 昭和10 天皇機関説と国体明徴運動。相沢事件
1936 昭和11 2・26事件。岡田内閣→広田弘毅内閣。日独防共協定
1937 昭和12 広田内閣→(宇垣一成)→林銑十郎内閣→近衛文麿内閣

慌ただしく、日中戦争を含む大東亜戦争(太平洋戦争)に雪崩れ込んでいった。

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