開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)
日本の近代史は、ペリーの浦賀来航をきっかけとしたといっていいだろう。
爾来、アメリカとの関係は、一貫して戦後史に至るまでの日本史を規定している。
幕末維新史における最大の争点の1つが、攘夷か開国かであった。
徳川幕府は、日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限する鎖国政策をとった。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止以降を鎖国という。
200年以上続いてきた鎖国を解いて開国するか、はたまた外国勢力の干渉を排除して鎖国を維持するか?
この鎖国体制を揺さぶったのが、アメリカ東インド艦隊から選抜された船団を率いたマシュー・カルプレイス・ペリーであった。
ペリー提督は、アメリカの東インド艦隊司令長官兼遣日特使であったが、1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に黒船と共にやってきた。
浦賀沖に現れたのは、旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の4隻である。
いずれも船体は黒く塗られ、蒸気船の煙突からは黒い煙が上がったため、「黒船」と呼ばれた。
実際に蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻で、他の2隻は帆船だったが、サスケハナ号は2,450トンあって、せいぜい100トン程度の千石船しか見たことがない日本人が慌てふためいたのも無理はない。
泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず
黒船来航によるテンヤワンヤを歌った狂歌である。
上喜撰とは高級な日本茶のことであるが、蒸気船とかけて幕府のあわてぶりを皮肉った。
ペリー来航の目的は、日本を開国させることであった。
アメリカは産業として捕鯨を行っており、日本に薪炭、食料、水を供給させることが狙いだった。
ペリーは、アメリカ大統領フィルモアから将軍宛ての国書を受け取るように幕府に迫った。
鎖国を維持したい幕府は、長崎で交渉しようとしたが、ペリーは強引に幕府の喉元である江戸湾に入った。
船団が江戸湾内を示威的に航行すると、江戸は大騒ぎになり、浦賀には見物人が押し寄せた。
幕府はペリーの強硬姿勢に屈し、6月9日、久里浜に上陸を許可して国書を受け取った。
幕府は即答を避け、ペリーはそれを了解し、1年間の猶予ということで浦賀を去った。
直後に12代将軍徳川家慶が他界する。
暑気当たりで倒れたのが死因といわれるが、幕府の行方を暗示するかのような死であったといえよう。
嫡男の家定が13代将軍に就いたが、虚弱体質で政治的能力も凡庸だったといわれる。
必然的に幕閣に大きな役割が期待された。
老中首座の阿部正弘は35歳。
当初、阿部は鎖国の伝統を守り、異国船打払令の復活を主張した。
しかし、時の幕府に、アメリカの要求をはねつけて国防体制を整える経済的余裕はなかった。
阿部は、国難ともいうべき事態に対処するため、従来のやり方を大胆に改革した。「安政の改革」である。
まず、譜代大名が中心だった政治体制を改めた。
強硬な開国反対論者の徳川斉昭を幕政参与に起用すると共に、薩摩藩主島津斉彬ら有力な外様大名の意見を求めた。
同時に朝廷や公家社会との連携を強化して挙国一致を図った。
阿部は、アメリカ大統領の国書を諸大名に示して、意見を求めた。
さらには、大名だけでなく、幕府の役人、藩士、一般庶民にまで諮問した。
これらの改革を、阿部の開明性と見るか、幕府の威光の低落と見るかは、見解の分かれるところであろうが、阿部の朝廷との連携路線は、後に「公武合体論」へと発展していった。
諸大名や幕臣が出した意見書は700近くに及んだという。
その大多数は、鎖国堅持、相手が拒否すれば打払うというものだった。
「攘夷」とは、外夷を打ち払うことである。
⇒2012年9月17日 (月):維新ブーム考/花づな列島復興のためのメモ(144)
「それができるなら苦労はない」と阿部は思ったことだろう。
次に多かったのは、時間をかけて交渉するとか、アメリカとだけ開国しようというものだった。
幕府内の積極的な開国論者は、勝麟太郎(海舟)や井伊直弼など、ごく限られていた。
歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(1209)
結局、阿部はアメリカの国書に対し明確な回答をしないまま、「海防大号令」を発してペリーの再来を待つことになった。
決断しない先送りともいえるが、多くの優秀な人材を登用したことは功績といえよう。
その1人が、伊豆韮山の代官・江川英龍(担庵、36代太郎左衛門)である。
江川は、海防の建言を行い、阿部に評価され勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たした。
阿部の命で江戸湾に台場を築くと共に、反射炉を築造し、銃砲製作も行った。
現在も韮山(伊豆の国市)に残る反射炉跡は貴重な近代化産業遺産である。
⇒2011年2月19日 (土):大仁神社と大仁梅林
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コメント
そう言えば、阿部正弘が早死(39歳?)だったのは、
このときの心労・ストレスが原因ではなかったか、という
説を耳にしたことがあります。
楽しい記事を心待ちにしていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。
投稿: 住兵衛 | 2014年2月16日 (日) 17時05分
住兵衛様
コメント有り難うございます。
私は今まで阿部正弘という人に余り関心がなかったので、こういう記事になりました。いつの時代でも舵取りを任された人は大変ですね。
投稿: 夢幻亭 | 2014年2月24日 (月) 13時54分
阿部正弘の改革については、一般庶民にも諮問したというところに、なるほどと言う事が今の政治家にも聞かせたいですね。密室で行われる政治改革?これでは族議員であると言う事に他なりませんね。
選挙運動の多額な資金、簡単に返せるようなことが実態でしょうから。今の世の中戦後の社会を担ってきたのは中小企業だと言う事を忘れるなと言いたいです。
楽しく読ませていただきました、ありがとうございました。
投稿: 武 | 2014年5月 4日 (日) 17時46分