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2012年10月21日 (日)

ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史断章(2)

私は、「3・11」が起きたとき、最初に連想したのは、小松左京の『日本沈没』光文社文庫(9504)だったが、次になぜか気になったのは、昔見た映画『ゴジラ』であった。
福島第一原発が、当初の政府発表よりもずっと深刻なものであることが分かってきた時点である。
⇒2011年5月 9日 (月)誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)

それについては、自分なりに納得したつもりであった。
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器/『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

ところが、笠井潔『8・15と3・11―戦後史の死角』NHK出版新書(1209)を手にして、『ゴジラ』により深い隠喩が込められている可能性があることを知った。
「可能性がある」というような曖昧な表現を使ったのは、笠井氏の言うことに全面的な賛意を表するのは保留しておきたいからである。
笠井氏(および参照されている論者たち)の議論は、深読みが過ぎるのではないか、という気もする。
深読みとは、デジタル大辞泉によれば、「他人の言動や文章、物事の事情などを、必要以上に読み取ること」である。

笠井氏の議論はつぎのように展開していく。

福島原発事故は、メイド・イン・ジャパンの事故である。
その惨事は、日本固有の事情で起きた。
66年前の敗戦も、同じ原因で起きた。 
国会事故調が「人災」性として指摘した以下のような事情である。

権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性。
目先の必要に追われた泥縄式発想。
あとは野となれ式の無責任、など。
笠井氏は、これらをニッポン・イデオロギーと呼ぶ。

1954年3月1日、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんは、半年後に亡くなった。
ゴジラ』の制作者・田中友幸がその構想を得たのは、この被爆事件だったといわれる。
監督の本多猪四郎も、出征から帰還の途上で見た原爆により荒野と化した広島の風景から、水爆怪獣の映画を撮る決意をしたと推測されている。
武田徹は、ゴジラは、ヒロシマ・ナガサキの2度の被爆に次ぐ災厄という位置づけ、としている。

一方、ゴジラが海へ消えていくことから、川本三郎は、戦没兵士たちの象徴ではないか、とした。
川本三郎は、赤衛軍と名乗る一味の朝霞自衛官殺害事件へ関与したかどで執行猶予付きの懲役判決を受けている。
この事件の経緯は、『マイ・バック・ページ-ある60年代の物語』として自伝的な作品化されている。
⇒2011年6月 6日 (月):『マイ・バック・ページ

川本説は、『敗戦後論』講談社(9808)で有名な加藤典洋が踏襲し、テクスト論的な根拠から正当化している。
テクスト性とは、「文学や映像作品が、作者の意図したこととは、自立している」ということである。

ゴジラは、国会議事堂を踏み潰したあと、隅田川方向に進路を変える。
これを、川本は、戦後になっても天皇制に呪縛されている意味だと解した。
これに対し、赤坂憲雄は、戦死者の亡霊であるゴジラは、天皇が現人神ではなくて人間天皇であることの失望して踵を返したのではないか、とする。
赤坂憲雄は、「東北学」の提唱者として知られ、「3・11」後にその言説が最も注目される1人である。
加藤典洋も、赤坂説を支持した。

制作者たち(田中、本多)と、批評家たち(川本、加藤、赤坂)の間には齟齬がある。
それを加藤は、テクスト性の観点によって正当化した。
しかし、両者の齟齬は、日本人の社会意識の変化によって説明できるのではないか、というのが笠井氏の見解である。

1945年8月15日、天皇は「大東亜戦争終結の詔勅」のラジオ放送を聞いた大多数の国民は、占領体制を無抵抗に受け入れた。
占領政策は、当初「日本の民主化」を効率的に進めるものであったが、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発により、日本を反共の砦にしようと反転した。
サンフランシスコ条約と抱き合わせで締結された日米安保条約により、1951年に占領期は終わった。
そして

1953年 朝鮮戦争休戦
1954年 第五福竜丸事件

笠井氏は、1945年~1955年の10年間を、「第一の戦後」とする。
この時代、生き延びた人は、戦没者と曖昧に連続していた。
戦没したのが自分だったかもしれない、だが自分は生き延びて転向して生活している。

その意識が変化したことを象徴的に宣言しているのが、1956年の経済白書の「もはや戦後ではない」という言葉である。
1955年は、自社という2大政党が成立した年である。
同時に、日本共産党も、「六全協」によって、平和革命路線に転じた。
⇒2007年10月13日 (土):『されど われらが日々--』

笠井氏は、1955年以降を「第二の戦後」とする。
その終期は、政権交代の2009年である。
「第二の戦後」期を通じて、「アメリカの戦争犯罪」と「第二次大戦で死亡した日本兵」のことは、意識的にか無意識のうちにか、隠蔽され忘却されていた。

「第二の敗戦」の始まろうとする直前の1954年にゴジラは日本列島に上陸する。
そして、バブル崩壊後の「失われた20年」は、戦後日本の「平和と繁栄」が終焉し、「戦争と衰退」の21世紀を示している。
2010年の尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、GDPが中国に追い越されたことの2つの事実がそのことを示している。
「3・11」の巨大複合災害は、その道への歩みを加速するものである。
その意味で、2011年にゴジラは日本列島に再び上陸したのである。
スクリーンの虚構としてではなく、現実の出来事として。

笠井氏は、かくして「8・15」の歴史的な結果として、「3・11の福島原発事故」が存在する、という。
私が、福島原発事故でゴジラのことを思い浮かべたのは、故のないことではなかったということになる。
しかし、このような深い含意などは、「想定外」であった。

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