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2012年10月

2012年10月31日 (水)

「ネット集合知」VS「専門知」/知的生産の方法(22)

今日(10月31日)の日経新聞「経済教室」に載っている西垣通氏の『ネット集合知、精度向上を』という論考は示唆に富んでいた。
西垣氏は、福島第一原発事故によって、アカデミックな専門知全般に対する人々の信頼感が低下したことが、後遺症の中で最も重大なものの1つでである、と論を始める。
このことについては、信頼感を失ったのは、「アカデミックな専門知」なのか、という疑問が湧く。

確かに、原子力ムラという専門家集団が安易に安全宣言をしたことは事実だろうが、国民はそれをもって「アカデミックな専門知」とは考えていないのではないか?
むしろ、「原子力ムラ」にはアカデミズムも入るであろうが、「業界団体」と考えた方がいい感じがする。
アカデミズムは、「原子力ムラ」に対峙した「熊取六人衆」の方が相応しいのではないか?
六人衆の中で最も有名なのは小出裕章氏であると思われるが、上記の趣旨については以下のサイトなどが参考になる。
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち 

「アカデミックな専門知」といえば、最近は山中伸弥氏のノーベル賞受賞により、むしろ国民に明るい希望をもたらし、リスペクトされている感じがする。
⇒2012年10月 9日 (火):山中伸弥京大教授のノーベル賞受賞/花づな列島復興のためのメモ(148)

私は、信頼感が低下したのは、「東大話法」の使い手たちだという気がする。
もちろん、その中にはある種の「アカデミックな専門知」も含まれるのかも知れないが、真の「アカデミックな専門知」に係わる人たちは、「東大話法」とは無縁であろう。
⇒2012年10月10日 (水):「霞ヶ関文学」と「東大話法」はメダルの表裏/花づな列島復興のためのメモ(149)

「アカデミックな専門知」に対する見方は別として、西垣氏のテーマは、専門家の知見に衆知(大衆の集合知)は勝るのか、ということである。
昔から、「三人寄れば文殊の知恵」といわれてきた。
「ネットの集合知」は、そのネット版ということになるが、特に、「ウェブ2.0」の概念と共に注目されるようになった。
⇒2008年4月14日 (月):ロングテール

西垣氏は、「「ネット集合知は必ずオープンな民主的社会を約束する」と楽天的に言われると、眉にツバをつけたくもなる」と言う。
私の周りにはそんな楽天的な人は見当たらないが、西垣氏の周りにはいるのであろう。
西垣氏は、ネット集合知と制度疲労を起こしている専門知と対比して、IT時代の新たな知の可能性を検討してみる値打ちはあるだろうという。

結論は、ポイントとして挙げられている3点のうちの下記の2点である。
・ネット集合知は正解を推定する場合に有効
・集団的な意見や価値観の算出は容易ではない

西垣氏は、出演者が4択問題に応えるクイズ番組で、分からないときに専門家に聞くか、スタジオの視聴者代表集団のアンケート結果を参考にするか、どちらでも選べる、という例で正答率を比べる。
たとえば、スタジオに100人の視聴者代表がいて、以下のような構成だったとする。
①4択問題の正解を知っている人が10人
②2つの選択肢に絞り込める人が25人
③3つの選択肢に絞り込める人が25人
④全然見当がつかない人が40人

アンケートをとると、正解を選ぶ人が約41人、他の選択肢はいずれも20人くらいと計算される。
つまり、正解を知っている人が1割、全然見当がつかない人が4割という素人集団でも、「集合知」としては正解を得ることになる。

ところが、世の中には、正解のある問題とない問題とがあって、学校を卒業して世の中に出てみると、学校と違い、正解のない問題の方が圧倒的に多い。
⇒2012年3月17日 (土):論争家吉本隆明と複眼的思考/知的生産の方法(19)
あるいは、問いを立てること自体が重要である。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)

それでは、集団のメンバーの価値観が様々なときに、集団としての意見や一般的な意志をネットを利用して算出できるか?
結論は消極的である。

 精密な議論なしにネット集合知と直接民主主義を短絡させるなら、その先には迷妄と地獄が待っている。
 ではどうすればよいのか。
 こうした問題では、性急に多数決に走る前に、アジェンダ(政策課題)や選択肢の設定作業そのものに人々が参加する仕組みをつくるべきだ。

この結論的部分を読んで、今年の夏実施された「2030年時点の原発依存度をどう考えるか?」というアジェンダのことを思い浮かべる人も多いだろう。
野田政権は、意見聴取会や討論型世論調査により民意を探り、今後のエネルギー・環境政策に反映するとしたが、「アジェンダ(政策課題)や選択肢の設定作業」を大手広告代理店に丸投げしているようでは、「その先には迷妄と地獄が待っている」ことになるに違いない。

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2012年10月30日 (火)

野田政権の余命は?/花づな列島復興のためのメモ(155)

臨時国会が、昨日召集された。
しかし、野田首相の所信表明演説は参院で拒否され、衆院だけという異例の事態である。
現行憲法下では初めてのことだそうだ。

参院で、野田首相の問責決議が可決されているためだが、演説拒否というのは如何なものかと思う。
問責を受けた首相が新たな国会に臨むのも初めてのことだという。
過去に問責された福田、麻生両首相は、結果的に次の国会審議前に退陣している。
まあ、常識的には次の国会審議前に退陣を考えるのだろうが、衆院の不信任案とは違って法的な拘束力がない。
とすれば、演説拒否というのは、少なくとも法的には理がないだろう。

参院不要論が言われる。
私は2院制の方がベターだと思うが、演説を拒否するような参院はいらない、という声が聞こえるような気がする。
堂々と、審議の場で、野田政権の非を衝いた方がいいのではないか。

とはいえ、野田首相が延命を図る限り、政治空白は避けられないだろう。
政治生命をかけると言って、「近いうちの解散」を条件に、3党合意にこぎ着けたことに思いを致せば、解散先送りは、契約不履行というべきものだろう。
密室の中の約束であるが、自身が「重い」と言っている言葉である。

しかし、野田首相の演説は、滑舌はいいが内容がない。
⇒2012年6月29日 (金):今後予想される未来図/花づな列島復興のためのメモ(97)
「近いうち」をめぐって2ヵ月以上空白が続いている事態が、「近いうち」の言葉を裏切っている。
演説では滑舌も大事だが、内容の方がより重要であろう。
「あー、うー」と演説した故大平正芳首相が懐かしい。

衆院だけで行われた所信表明演説も、具体的な課題解決の方針が伝わってこないものと言わざるを得ないだろう。
「明日への責任」を繰り返したが、実現の具体策は示されていない。

野田首相の演説は、言語明瞭意味不明瞭の典型だろう。
意味不明瞭なのは、「近いうち」に象徴されるように、言葉の指示する内容が国民一般とかけ離れているからである。
そして、それを「したたかさ」と勘違いしている節がある。

 自民党の谷垣禎一前総裁、公明党の山口那津男代表と交わした「近いうちに国民に信を問う」という約束を、首相は2カ月以上も実現していない。
 「総裁が谷垣さんなら、必ず約束は実現しなければならなかったのだが…」
 首相は最近、周囲にこうつぶやいた。安倍晋三総裁に代わり状況が変わったと考えているのだろう。
・・・・・・
 「しかるべきときに、やるべきことをやった後に信を問う」
 9月1日には記者団にこう語り、「近いうち」を後退させた。3日前の参院での首相問責決議に自民党が賛成したことで、谷垣氏との約束はほごになったという“本音”が口をついた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121013/plc12101301160002-n2.htm

まさか個人対個人の約束というわけではないだろう。
それに、公明党の山口代表の立場はどう考えているのだろうか。
口先だけではもはや乗り切れる状況ではない。

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2012年10月29日 (月)

開国を迫られた老中阿部正弘の苦悩の改革/幕末維新史(2)

日本の近代史は、ペリーの浦賀来航をきっかけとしたといっていいだろう。
爾来、アメリカとの関係は、一貫して戦後史に至るまでの日本史を規定している。

幕末維新史における最大の争点の1つが、攘夷か開国かであった。
徳川幕府は、日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限する鎖国政策をとった。
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止以降を鎖国という。
200年以上続いてきた鎖国を解いて開国するか、はたまた外国勢力の干渉を排除して鎖国を維持するか?

この鎖国体制を揺さぶったのが、アメリカ東インド艦隊から選抜された船団を率いたマシュー・カルプレイス・ペリーであった。
ペリー提督は、アメリカの東インド艦隊司令長官兼遣日特使であったが、1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖に黒船と共にやってきた。

浦賀沖に現れたのは、旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、プリマス号、サラトガ号の4隻である。
いずれも船体は黒く塗られ、蒸気船の煙突からは黒い煙が上がったため、「黒船」と呼ばれた。
実際に蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻で、他の2隻は帆船だったが、サスケハナ号は2,450トンあって、せいぜい100トン程度の千石船しか見たことがない日本人が慌てふためいたのも無理はない。

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず

黒船来航によるテンヤワンヤを歌った狂歌である。
上喜撰とは高級な日本茶のことであるが、蒸気船とかけて幕府のあわてぶりを皮肉った。

ペリー来航の目的は、日本を開国させることであった。
アメリカは産業として捕鯨を行っており、日本に薪炭、食料、水を供給させることが狙いだった。
ペリーは、アメリカ大統領フィルモアから将軍宛ての国書を受け取るように幕府に迫った。
鎖国を維持したい幕府は、長崎で交渉しようとしたが、ペリーは強引に幕府の喉元である江戸湾に入った。

船団が江戸湾内を示威的に航行すると、江戸は大騒ぎになり、浦賀には見物人が押し寄せた。
幕府はペリーの強硬姿勢に屈し、6月9日、久里浜に上陸を許可して国書を受け取った。
幕府は即答を避け、ペリーはそれを了解し、1年間の猶予ということで浦賀を去った。

直後に12代将軍徳川家慶が他界する。
暑気当たりで倒れたのが死因といわれるが、幕府の行方を暗示するかのような死であったといえよう。
嫡男の家定が13代将軍に就いたが、虚弱体質で政治的能力も凡庸だったといわれる。

必然的に幕閣に大きな役割が期待された。
老中首座の阿部正弘は35歳。
当初、阿部は鎖国の伝統を守り、異国船打払令の復活を主張した。
しかし、時の幕府に、アメリカの要求をはねつけて国防体制を整える経済的余裕はなかった。

阿部は、国難ともいうべき事態に対処するため、従来のやり方を大胆に改革した。「安政の改革」である。
まず、譜代大名が中心だった政治体制を改めた。
強硬な開国反対論者の徳川斉昭を幕政参与に起用すると共に、薩摩藩主島津斉彬ら有力な外様大名の意見を求めた。
同時に朝廷や公家社会との連携を強化して挙国一致を図った。

阿部は、アメリカ大統領の国書を諸大名に示して、意見を求めた。
さらには、大名だけでなく、幕府の役人、藩士、一般庶民にまで諮問した。
これらの改革を、阿部の開明性と見るか、幕府の威光の低落と見るかは、見解の分かれるところであろうが、阿部の朝廷との連携路線は、後に「公武合体論」へと発展していった。

諸大名や幕臣が出した意見書は700近くに及んだという。
その大多数は、鎖国堅持、相手が拒否すれば打払うというものだった。
「攘夷」とは、外夷を打ち払うことである。
⇒2012年9月17日 (月):維新ブーム考/花づな列島復興のためのメモ(144)

「それができるなら苦労はない」と阿部は思ったことだろう。
次に多かったのは、時間をかけて交渉するとか、アメリカとだけ開国しようというものだった。
幕府内の積極的な開国論者は、勝麟太郎(海舟)や井伊直弼など、ごく限られていた。Photo
歴史人別冊『幕末維新の真実』㏍ベストセラーズ(1209)

結局、阿部はアメリカの国書に対し明確な回答をしないまま、「海防大号令」を発してペリーの再来を待つことになった。
決断しない先送りともいえるが、多くの優秀な人材を登用したことは功績といえよう。

その1人が、伊豆韮山の代官・江川英龍(担庵、36代太郎左衛門)である。
江川は、海防の建言を行い、阿部に評価され勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たした。
阿部の命で江戸湾に台場を築くと共に、反射炉を築造し、銃砲製作も行った。
現在も韮山(伊豆の国市)に残る反射炉跡は貴重な近代化産業遺産である。
⇒2011年2月19日 (土):大仁神社と大仁梅林

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2012年10月28日 (日)

みちのくの小京都・角館/みちのく探訪(2)

秋田県仙北平野の北端に位置する角館は、みちのくの小京都と呼ばれている。
8月の旅行のとき、初めて訪れた。

町の中を流れる2つの川、桧木内川と玉川にはさまれて町並みが広がっている。
Photo
http://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/spot/07.html

角館は桜が有名であるが、8月の旅行で初めて訪れた。
⇒2012年8月27日 (月):大川小学校の悲劇と避難誘導の難しさ/因果関係論(20)・みちのく探訪(1)

角館に着いたのが、ちょうど昼飯時だったので「しちべぇ」という処で、昼食。
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稲庭うどん派ときりたんぽ派に分かれたが、私はきりたんぽにした。

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暑い盛りだったが、比内地鶏のスープが旨かった。

角館は、歴史ある武家屋敷の街並みから、「みちのくの小京都」と呼ばれている。
小京都とは、古い町並みや風情が京都に似ている街に名づけられた愛称である。
室町時代以降、各地の大名が京都を真似た町づくりをし、それが小京都の起源となった。

街の骨格は1620年(元和6年)角館地方を治めていた芦名義勝によって造られた。
街の設計上有名なのは、「火除(ひよけ)」と呼ばれる広場を中心に、北側は武家屋敷が建ち並ぶ「内町(うちまち)」に、南側は町人や商人が住む「外町(とまち)」に分けていることである。
この町割りが390年後の今日も、ほぼ変わらず残っている。
Photo_2
http://www.digi-came.com/jp/modules/pguide2/index.php?id=14

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内町風景。外町方向を望む。
お上りさんの常として、代表的な武家屋敷をいくつか拝見した。

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茅葺き屋根が武家の面影を残している。

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イタヤ細工の実演。

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岩橋家。樹齢300年以上の柏の木がシンボルとなっている。

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古い味噌屋の安藤醸造。同行の婦人は、使っているとかで、わざわざ買って帰っていた。

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2012年10月27日 (土)

吉本隆明氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(8)

吉本隆明氏は、戦後、最も大きな影響力を持った人だろう。
私自身、余り良い読者とは言えないが、特に初期の論考に大きな影響を受けたと自覚している。
⇒2012年3月16日 (金):さらば、吉本隆明

吉本氏の戦争観は多くの著書に書かれているが、『私の「戦争論」』ぶんか社(9909)は、そのものズバリのタイトルである。
田近伸和氏をインタビュアーとして、戦争観を語ったものを編集してできあがったものである。
全体は、次の5章で構成されている。

第一章 小林よしのり『戦争論』を批判する
第二章 「新しい歴史教科書をつくる会」を批判する
第三章 保守派の「思想」を批判する
第四章 私は「戦争」をこう体験した
第五章 人類は「戦争」を克服できるか

ここで問題にしようとしている満州事変に直接触れている箇所はないが、「他国の領土内で行う戦闘行為は「侵略」である」という項目は、満州事変のことにも該当すると考えられる。
第一次大戦後、国際連盟は総会で、「すべての侵略戦争を禁止する決議」を行った。
しかし、「侵略」の定義が共通認識になっていない状態での決議だった。

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語:World War I)は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ中東東アジア太平洋大西洋インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。
第一次世界大戦
国際連盟(こくさいれんめい、英語:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1919年のドイツとのヴェルサイユ条約、および中央同盟国との諸講和条約により発足した。連盟としてのはじめての会合は1920年1月16日にパリで、第一回総会は1920年11月15日スイス・ジュネーブで開催された。史上初の国際平和機構であり日本では連盟と略されることもある。連盟本部はスイスジュネーヴに置かれていた。
国際連盟

吉本氏は、「侵略とは何か?」という問いには、次の1つのことだけしか言えないだろう、と言う。

戦争をしている国同士ががあって、相手国の領土内で行われた戦闘行為があった場合、その相手国への「侵略である

先の戦争では、日本軍は中国に出て行って中国で戦闘行為を行っている。
日本軍が「侵略」を行ったことは否定できない。
この点でいえば、満州事変は、明らかに日本(関東軍)の行った侵略行為だった。

「相手国の領土内」という言葉から連想されるのは、帝国主義および植民地であろう。

帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義文化宗教経済体系などを拡大するため、新たな領土天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想政策
帝国主義
植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。
植民地

吉本氏は、「帝国主義戦争」という言葉を、倫理的な意味合い(=善悪の問題として)で使うようになったのはレーニン以降であり、マルクスは倫理的な意味では使わなかった、という。
マルクスは、植民地化には害と利の両面があるとしている。
吉本氏が、レーニンを非、マルクスを是としていることは、文脈からして明らかである。

吉本氏は、日本軍や日本の官憲の評価は、支配地の現地で何をしたかによる、という。
もちろん、スローガンが良くてもふるまいが悪ければ非難されても仕方がない、ということを言っているのであるが、他国の領土を支配すること自体は、必ず、しも非難されるべきことではない、と読める。
本当にそうだろうか? という疑問が湧く。

それは、戦争をして負けたのはアメリカに対してであって、太平洋の島々が戦地であり、アメリカさえいなければ勝っていたかもしれない、という言葉についても同様である。
だいたい、アメリカは、自国内で戦闘行為を行っていないではないか。
先の定義からすれば、アメリカは一貫して侵略国ということになる。
吉本氏は、アジアの国々のことは、余り眼中にないようである。
やはり、違和感を覚えずにはいかない。

ところで、小林よしのり『戦争論』の中で、インドのパル判事の言葉を引用している。

ハルノートのようなものを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクでも矛をとってアメリカに立ち向かうだろう。

これに対し、吉本氏は次のようにいう。

当時、アメリカは日本に対して、「満州国を撤廃しろ」「日本軍は中国から全面撤退しろ」と要求してきた。
それは、日本が20年も30年もかけて積み上げてきた歴史的な歩みをすべて否定するものだった。
国民感情としては、「そんな要求を飲むことは、とうてい不可能だ」であった。
もちろん、吉本氏も、朝日新聞党のメディアも、志賀直哉や谷崎潤一郎らの文学界の長老もこぞって戦争肯定だった。

当時の状況はそうだったに違いない。
しかし、「20年も30年もかけて積み上げた歴史的な歩み」の出発点となるのは、張作霖爆殺事件あるいは満州事変であろう。
それは、他国の領土内で行われた謀略であり戦闘行為ではなかったか。
それを考えると、吉本氏の語っていることは矛盾しているのではなかろうか。

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2012年10月26日 (金)

菊田均氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(7)

(文芸)評論家・菊田均氏の著作に、『なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』小沢書店(9808)がある。
菊田氏は、1948年2月21日生まれで、『江藤淳論』冬樹社(7909)によって商業文壇にデビューした。
刊行時31歳だから、『江藤淳論』の論稿を書いていたのは20代であると思われる。
年齢の割に成熟した文体だという印象を持った。

なぜ「戦争」だったのか―統帥権という思想』のオビには「戦後世代による戦争論」とある。
いわゆる団塊の世代ということになる。
団塊の世代は、全共闘世代でもあるが、上掲書の中で、「私は終始全共闘とは無関係だったが、同世代の人間として必ずしも無関心ではなかった」と書いている。

江藤淳論』を割合好意的に読んだので、この書も、私は刊行時に購入して一読した。
しかしその頃はまだ仕事が忙しかったので、そのまま本棚の一隅に放置してあった。
満州事変について改めて本棚を眺めていて、昔読んだ記憶を呼び覚まし、もう一度ざっと目を通してみた。

菊田氏は、「あとがき」でこの論考を書くきっかけについて、湾岸戦争に際して一部の文学者が出した「反戦声明」を挙げている。
その声明の中に、「(現行憲法が)他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた」と書かれている。
菊田氏は、この声明に対する違和感-自国の歴史に対してもっとまっとうに取り組むべきではないのか-と考えたことが、この本を書いた動機の一つである、と書いている。

そして、全てのスタートは、「なぜ結果として負けるような戦争をやってしまったのか」ということだと言っている。
田原総一朗氏が、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」と全く同じである。
田原氏は1934年4月15日生まれだから、およそ14年の歳の差がある。
田原氏にとって疑問であったことは、戦後生まれの菊田氏にとってより分かりにくいことであるのは当然のことであろう。

菊田氏は、先入観を排して事実に基づいて、可能な限り正確に検証しようというスタンスで臨む。
特に、結果論において戦争を見るのではなく、当時の現在進行形に即して戦争の経緯を考えてみようと努めた。

菊田氏は、タイトルが示しているように、「統帥権」を軸にして考察を進めている。
「統帥権」は、大日本帝国憲法(明治22年制定)の第11条に規定されている。

天皇は陸海軍を統帥す

統帥というのは、軍隊を率いることであるが、憲法には「統帥す」とあって、統帥権という言葉は出てこない。
統帥権の概念は憲法制定以前からあったが、言葉として明確に出たのは、ロンドン海軍軍縮条約に反対する鳩山一郎の質問においてであった。
Wikipediaでは次のように解説している。

1930年(昭和5年)4月下旬に始まった帝国議会衆議院本会議で、野党の政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎は、「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。元内閣法制局長官で法学者だった枢密院議長倉富勇三郎も統帥権干犯に同調する動きを見せた。6月海軍軍令部長加藤寛治大将は昭和天皇に帷幄上奏し辞職した。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込んだ。
条約の批准権は昭和天皇にあった。浜口雄幸総理はそのような反対論を押し切り帝国議会で可決を得、その後昭和天皇に裁可を求め上奏した。昭和天皇は枢密院へ諮詢、倉富の意に反し10月1日同院本会議で可決、翌日昭和天皇は裁可した。こうしてロンドン海軍軍縮条約は批准を実現した。
同年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8月26日死亡)。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まった。

そして、統帥権の独立が明確に強調されるようになったのが、1932(昭和7年)刊行の『統帥参考』においてである、と菊田氏はいう。
『統帥参考』は陸軍大学で作られ、秘密裏に刊行されたものだという。
統帥権干犯問題以降、政治に対しして軍部が優位に立ち、軍部内部においては統帥を担当する陸軍参謀本部、海軍軍令部の力が強まったということであろう。

ここで昭和初期の主要な出来事の年表をまとめておこう。
1926 昭和元  改元
1927 昭和2  昭和金融恐慌。若槻礼次郎内閣→田中義一内閣
1928 昭和3  河本大作大佐による張作霖爆殺事件
1929 昭和4  田中義一内閣→浜口雄幸内閣。NY株式大暴落
1930 昭和5  ロンドン海軍軍縮会議。政友会による統帥権干犯
1931 昭和6  浜口内閣→若槻内閣。満州事変。若槻内閣→犬養毅内閣
1932 昭和7  中国国民政府樹立。満州国成立。5・15事件。犬養内閣→斎藤実内閣
1933 昭和8  国際連盟脱退。関東軍華北侵入
1934 昭和9  帝人事件。斎藤内閣→岡田啓介内閣
1935 昭和10 天皇機関説と国体明徴運動。相沢事件
1936 昭和11 2・26事件。岡田内閣→広田弘毅内閣。日独防共協定
1937 昭和12 広田内閣→(宇垣一成)→林銑十郎内閣→近衛文麿内閣

慌ただしく、日中戦争を含む大東亜戦争(太平洋戦争)に雪崩れ込んでいった。

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2012年10月25日 (木)

放射性物質拡散予測地図をどう生かすか?

原子力規制委員会が原発事故時の放射性物質拡散予測地図を公表した。
避難の必要な高線量がどう拡散していくかをシミュレーションしたものである。
道府県が原子力防災の重点区域を設定する際に、参考資料として役立てることを目的としている。
ただ、予測には地形データを用いていないし、飛散する方向も放出開始時点の風向きが1週間続くと仮定するなど、実際に即した精度の改善が必要であるとされる。

ともあれ、シミュレーション結果が公表されたことは前進であろう。
問題は、運用である。
福島第一原発事故において、せっかく巨費を投じて製作された緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)が、肝心の時に有効に活用されなかった。
有効に活用されないばかりか、菅政権は、故意に隠蔽した疑いがある。
⇒2011年4月30日 (土):小佐古・内閣官房参与が辞任/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(19)
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)

その検証は、まだ十分になされたということを聞かない。
⇒2012年5月29日 (火):依然として不明朗な「藪の中」/原発事故の真相(32)

シミュレーションをどう生かすのか?
静岡県には、浜岡原発がある。
事故後1週間の積算被ばく量が100mSvに達する地域と、30km圏(緊急防護区域)とがほぼ一致した。
Ws000000
静岡新聞121025

自治体が地域防災計画を作成するのは、30km圏とされている。
121025
日本経済新聞121025

当然のことながら、30km圏と自治体の区分は異なっている。
浜岡原発の場合、焼津市、島田市、掛川市、磐田市等では、30kmの境界が市の内部にある。
実際問題として、30kmで線引きなどできないであろう。

また、規制委は、事故時の緊急モニタリングが重要だとしている。
福島の場合には、モニタリングポストが使えない箇所が多かった。
大規模地震の時に、機能しないでは意味がない。
せめて、地域防災計画が出揃うまでは、浜岡の再稼働はすべきではない。

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2012年10月24日 (水)

活断層定義問題と大飯原発の稼働/花づな列島復興のためのメモ(154)

原発の耐震設計指針における「活断層」の定義が再検討されることになったという。121024
東京新聞121024

現在の指針において、「活断層」とは、「13万~12万年前以降に動いたもの」とされている。
ところが、Wikipediaでは、「活断層」は次のように解説されている。

「極めて近き時代まで地殻運動を繰り返した断層であり、今後もなお活動するべき可能性のある断層」を特に活断層(かつだんそう、active fault)という。ここでいう「極めて近き時代」とは新生代第四紀を指す。狭義には、「過去数十万年」を指す場合もあるが、これは多くの場合、活断層の認定が断層の変位基準となる地形の形成年代に深く関わることから設定された便宜的なものであって、その曖昧さが指摘されている。別の定義によれば、「現在の応力場の下で地震を起こし得る断層のうちで、断層面が地表まで達しているもの(地表断層)に限る。ただし、伏在断層であっても断層面の上端が地表近く(およそ1km以下の深度)まで達しているものは、何らかの方法で最近の地質時代における活動を確認することができる。したがって、この種の浅部伏在断層は活断層の範疇に含める。」とされる。活断層では地震が過去に繰り返し発生しており、また今後も地震が発生すると考えられているため、活断層の活動度の評価は、そこを震源として発生する地震の予知に役立つと考えられている。

要するに、「新生代第四紀」のことということであるが、「第四紀」の定義自体が論争になっていた。
現時点では、以下が最新の提案のようである。

第四紀の始まりは、2009年6月に国際地質科学連合 (IUGS) が再定義した公式な地質区分では、258万年前である。従来は181万年前とされていた。258万年前~181万年前のゲラシアンは、これまでの公式な地質区分では新第三紀鮮新世に区分されていたが、新定義では第四紀に含まれることになった。 地球史46億年のうちでは短期間であるが、地球史の現代にあたり、近未来に続いてゆく時期である。
第四紀

Ws000000
新生代

地球史の「現代」ということだが、地質学上最も重要な期間であることは間違いない。
その始まりは、258万年前ということであるから、耐震設計指針はきわめて限定的に考えていたということになる。
指針の定義自体が問題になっていたのであり、それを見直そうということである。

 この日開かれた関西電力大飯原発(福井県)への規制委断層調査団の初会合の後、記者団に明らかにした。活断層の定義については、平成18年に改定された原発耐震指針で、比較的確認しやすい「13万~12万年前以降に動いたもの」としていた。
 しかし、島崎氏は「活断層かどうかの判断は、従来の基準にこだわらない。『12万年前』という数字を、私は使ったことはない」と強調。その上で「40万年までは同じと考えてよい」と述べ、年代にはこだわらず古い年代まで遡(さかのぼ)って調査する意向を示した。
 この日の会合では、従来の原発の耐震審査に批判的だった東洋大の渡辺満久教授(変動地形学)も調査団のメンバーとして参加。活断層の定義について「研究者によってばらつきがある。実際に調査して、将来動く可能性があるというだけでいい」と指摘した。
 規制委は来月から活断層の疑いがある原発周辺の調査に着手。11月2日の大飯原発を皮切りに、北陸電力志賀原発(石川県)など計6カ所で調査する。
 規制委の田中俊一委員長は「活断層であることが判明すれば、(原発の運転を)止めてもらう」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/science/news/121023/scn12102323560001-n1.htm

活断層か否かの判断あるいは定義は、人により異なるとしても、「3・11」以後において、「比較的確認しやすい」という条件で、ごく短い期間だけに限定することは、素人が考えても如何なものか、と思う。
野田政権は、政治判断で大飯原発再稼働を強行した。
⇒2012年4月 4日 (水):「大飯原発再稼働」の政治判断?/原発事故の真相(24)
⇒2012年4月13日 (金):拙速に過ぎる政府の大飯原発再稼働判断/原発事故の真相(26)
⇒2012年4月28日 (土):活断層の上の原発/花づな列島復興のためのメモ(57)

その政治判断が、如何に根拠のない情緒的なものであるか、もしくはアメリカの要求に屈したものであるかが分かる。
⇒2012年9月15日 (土):「言うだけ」感を拭えない政府の脱原発政策/花づな列島復興のためのメモ(142)

田中委員長の「活断層であることが判明すれば、(原発の運転を)止めてもらう」というのは、規制委の委員長として、如何なものか?
論理が逆立ちしている。
当然、「活断層でないことが判明するまで、止めてもらう」であるべきだろう。
野田首相が任命責任を問われるのは、田中法相だけではない。

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2012年10月23日 (火)

田中法相を更迭できない野田首相には政権担当資格がない

田中法相が辞任したという。
だが、ちょっと待っていただきたい。
田中氏の問題は、辞任すれば済む、というような性質のことではないだろう。

田中氏は、外国人献金問題や暴力団関係者との交際が発覚し、それを自ら認めている。
まあ、新たに発覚したというよりも、周辺では周知のことだったらしいが。
田中氏は体調不良を理由に19日の閣議を欠席して都内の病院に入院していた。
普通に考えれば、もはや詰んでいるいるのであって、いかに形を整えるかという状況だろう。

ところが、22日に退院したが、一時は続投の構えを見せていたらしい。
23日午前の閣議にも出席する意向だったが、野党側が参院で問責決議案の提出を検討しているため、22日の夜に藤村修官房長官に辞意を伝えたのだという。
23日午前、秘書官を通じて「体調不良」を理由に、野田佳彦首相に閣僚の辞表を提出した。
メディアは、「事実上の更迭」と報じているが、「事実上の更迭」と「実際の更迭」とでは大きな違いがある。

「事実上の更迭」とは、自発的な辞任である。
つまり、田中氏の適格性がどうであったかは、不問のままである。
このような、曖昧でなし崩しにコトを進めるというのは、野田政権の1つの特徴である。
⇒2012年6月 5日 (火):「なし崩し」に壊れていく「国のかたち」/花づな列島復興のためのメモ(77)
⇒2012年6月 8日 (金):政権に正統性、正当性はない/花づな列島復興のためのメモ(80)

しかし、どう考えても田中氏が法相の適材だったとはいえない。
いくら野田氏が人事のセンスが悪いとしても、異常である。
仄聞するところによると、民主党最後の内閣ということで、大臣をはじめ政府・党の要職に就けた人も多いらしい。

田中氏は当選6回ねベテラン議員であり、先の民主党代表選でいち早く首相の再選支持を打ち出した旧民社党系グループの重鎮だそうである。
つまり、論功行賞ということだろう。
こんな状況の折に、そんな発想で、人事を行うこと自体が驚きであり、当然任命責任を追及されることになろう。

田中氏は18日の参院決算委員会を、公務を理由に欠席した。
⇒2012年10月19日 (金):復興予算をめぐる永田町のお粗末/花づな列島復興のためのメモ(152)
驚くべきことに、田中氏に決算委員会の欠席を求めたのは、民主党や官邸であるという。
「国会を欠席せよ」と言われて欠席するとは、言う方も言われて従う方も、はなはだしい国会軽視である。
政府・民主党は、憲法の規定に堂々と違反しているのである。

第六十三条  内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。

前原国家戦略担当相が、野田首相が自民、公明両党に約束した「近いうち」の衆院解散について「年明けは近いうちではない」と述べた。
前原氏の意図が何だったかは別として、「年明けは近いうちではない」という言葉自体はその通りというしかないだろう。
これに対し、野田首相は、日本維新の会の松野頼久国会議員団代表と国会内で会談した際、松野氏が「閣僚が解散に言及するのはいかがなものか」と述べると「私もそう思う」と不快感を表明した。
不快かも知れないが、「近いうち」と言っておきながらズルズルと政権運営を続ける首相の方がより不快である。

藤村官房長官も、「(前原氏の)個人的な考えだ。解散を決めるのは首相の専権事項だ」と不快感を示し、輿石幹事長も、「解散は首相自身が判断するもの。他の者がいくら言っても関係ない」と強調し、民主党役員会でも「首相の専権事項だから、周りが言うことではない」との意見が続出したという。
http://mainichi.jp/select/news/20121023k0000m010045000c.html

いくら首相の専権事項だとはいえ、口に出した約束である。
「綸言汗のごとし」は政治家が良く使う言葉だが、まさに信義則の問題である。
当然のことながら、野田内閣の支持率は10%台に低落した。
野田政権は、政権担当の能力も資格もない。
⇒2012年10月14日 (日):問題山積の野田内閣は速やかに解散総選挙を行うべきだ
⇒2012年10月17日 (水):野田首相殿。シロアリとは、夫子たちのことではないか?

 

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2012年10月22日 (月)

60年安保と岸信介/戦後史断章(3)

自民党の総裁に返り咲いた安倍晋三氏の祖父・岸信介(母・洋子の父)の名前は、戦後史において、日米安全保障条約とセットで記憶されていると言っていいだろう。
保守合同後の最初の総裁選は、激しい争いだった。
決選投票の末、石橋湛山が岸信介を抑えて逆転勝利を収めた。
⇒2012年10月 3日 (水):自民党総裁選の決選投票をめぐる因縁/戦後史(1)

石橋内閣で副総理兼外務大臣に就いた岸は、石橋が2か月で病に倒れて総理を辞任すると、自然な形で石橋の後を継いだ。
石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任させ、外相兼任のまの総理大臣就任であった。
石橋が東洋経済新報に拠るリベラルな経済ジャーナリストとして、「小日本主義」として植民地放棄論を唱えたのに対し、岸は大東亜共栄圏を実践した高級官僚だった。
保守合同で誕生した自民党は、このような対蹠的な2人が総裁の座を争うという幅の広さがあった。
それが、長期政権を可能にしたのだと思われる。

岸は1955年8月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、ダレス国務長官と重光の会談に同席した。
このとき、重光は安保条約の対等化を提起したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に拒絶した。
以来岸は、安保条約の改正を政権獲得時の重要課題としていた。

岸は、敗戦後直ぐにA級戦犯容疑で逮捕されたことがあったが、東条英機らが処刑された翌日に釈放されている。
岸内閣は、軍事・教育・治安三点セットでの統制を強めた(福井紳一『戦後史をよみなおす――駿台予備学校「戦後日本史」講義録』講談社(1111)。
統制経済を主導した官僚の政治家としての姿ということだろう。

1957(昭和32)年2月に内閣総理大臣就任すると、自衛隊の装備を近代化するため、防衛力整備計画を策定した。
次いで、教員の統制を図るため、教員の勤務評定に実施を図った。
1958年、全国で一斉に教員の勤務評定が実施されると、日教組(日本教職員組合)を中心に激しい反対闘争が繰り広げられた。

1958年10月には、警察官職務執行法改正案が国会に提出された。
激化していた勤評闘争を押さえることが目的といわれ、「戦後版治安警察法」などといわれた。
この法案は廃案になったが、その過程で、社会党・総評を中心に市民レベルに反対闘争が広まった。

岸は、1957年訪米して、アイゼンハワー大統領と「日米新時代声明」という共同声明を出す。
そして、1960年1月、ワシントンで日米新安全保障条約に調印する。
1960年という年は、ある世代にとっては生涯忘れることのできない年と言えよう。
それは、「60年安保」であり、「三井三池炭鉱争議」の年であった。

1960年に私は田舎の高校に入学した。
今思い返せば、ずいぶんとノンビリした雰囲気の学校だったと思うが、その高校の所在地へ電車(当時は電化されていなかったので、正確には汽車もしくは気車(=気動車:ディーゼル機関車)で通学した私には、憧れの高校生活だった。
中には政治活動をやっていた人もいたのだろうが、個人的に接触していた範囲では皆無だった。
ずっと後になって、民青同盟員だった(?)という友人もいたが、少なくとも在学中にそんな様子を見た記憶はない。

「60年安保」は、戦後史における大きなエポックだった。
それは、形式的にはサンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約の改定に反対する運動であった。
しかし、現時点で振り返れば、安保条約の中身を問題とするというよりも、改定を進めようとする岸内閣および自民党のやり方に対する反感だったといえる。
⇒2007年10月11日 (木):「60年安保」とは何だったのか
その意味で、岸信介という政治家は、やはり戦後政治史において特筆すべき人物だった。

「60年安保」を戦後史にどう位置づけるか?
「もはや戦後ではない」という名文句を残したのは、1956年の経済白書であった。
笠井潔氏は、それを以て「第一の戦後」と「第二の戦後」の画期とする。
その日米関係における表現が、「旧安保」の改定であり、それは1960年に行われた。
「三井三池炭鉱争議」と合わせ、「敗戦後」という時代が明確に終わったということだろう。

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2012年10月21日 (日)

ゴジラは何の隠喩なのか?/戦後史断章(2)

私は、「3・11」が起きたとき、最初に連想したのは、小松左京の『日本沈没』光文社文庫(9504)だったが、次になぜか気になったのは、昔見た映画『ゴジラ』であった。
福島第一原発が、当初の政府発表よりもずっと深刻なものであることが分かってきた時点である。
⇒2011年5月 9日 (月)誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)

それについては、自分なりに納得したつもりであった。
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器/『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

ところが、笠井潔『8・15と3・11―戦後史の死角』NHK出版新書(1209)を手にして、『ゴジラ』により深い隠喩が込められている可能性があることを知った。
「可能性がある」というような曖昧な表現を使ったのは、笠井氏の言うことに全面的な賛意を表するのは保留しておきたいからである。
笠井氏(および参照されている論者たち)の議論は、深読みが過ぎるのではないか、という気もする。
深読みとは、デジタル大辞泉によれば、「他人の言動や文章、物事の事情などを、必要以上に読み取ること」である。

笠井氏の議論はつぎのように展開していく。

福島原発事故は、メイド・イン・ジャパンの事故である。
その惨事は、日本固有の事情で起きた。
66年前の敗戦も、同じ原因で起きた。 
国会事故調が「人災」性として指摘した以下のような事情である。

権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性。
目先の必要に追われた泥縄式発想。
あとは野となれ式の無責任、など。
笠井氏は、これらをニッポン・イデオロギーと呼ぶ。

1954年3月1日、ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんは、半年後に亡くなった。
ゴジラ』の制作者・田中友幸がその構想を得たのは、この被爆事件だったといわれる。
監督の本多猪四郎も、出征から帰還の途上で見た原爆により荒野と化した広島の風景から、水爆怪獣の映画を撮る決意をしたと推測されている。
武田徹は、ゴジラは、ヒロシマ・ナガサキの2度の被爆に次ぐ災厄という位置づけ、としている。

一方、ゴジラが海へ消えていくことから、川本三郎は、戦没兵士たちの象徴ではないか、とした。
川本三郎は、赤衛軍と名乗る一味の朝霞自衛官殺害事件へ関与したかどで執行猶予付きの懲役判決を受けている。
この事件の経緯は、『マイ・バック・ページ-ある60年代の物語』として自伝的な作品化されている。
⇒2011年6月 6日 (月):『マイ・バック・ページ

川本説は、『敗戦後論』講談社(9808)で有名な加藤典洋が踏襲し、テクスト論的な根拠から正当化している。
テクスト性とは、「文学や映像作品が、作者の意図したこととは、自立している」ということである。

ゴジラは、国会議事堂を踏み潰したあと、隅田川方向に進路を変える。
これを、川本は、戦後になっても天皇制に呪縛されている意味だと解した。
これに対し、赤坂憲雄は、戦死者の亡霊であるゴジラは、天皇が現人神ではなくて人間天皇であることの失望して踵を返したのではないか、とする。
赤坂憲雄は、「東北学」の提唱者として知られ、「3・11」後にその言説が最も注目される1人である。
加藤典洋も、赤坂説を支持した。

制作者たち(田中、本多)と、批評家たち(川本、加藤、赤坂)の間には齟齬がある。
それを加藤は、テクスト性の観点によって正当化した。
しかし、両者の齟齬は、日本人の社会意識の変化によって説明できるのではないか、というのが笠井氏の見解である。

1945年8月15日、天皇は「大東亜戦争終結の詔勅」のラジオ放送を聞いた大多数の国民は、占領体制を無抵抗に受け入れた。
占領政策は、当初「日本の民主化」を効率的に進めるものであったが、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発により、日本を反共の砦にしようと反転した。
サンフランシスコ条約と抱き合わせで締結された日米安保条約により、1951年に占領期は終わった。
そして

1953年 朝鮮戦争休戦
1954年 第五福竜丸事件

笠井氏は、1945年~1955年の10年間を、「第一の戦後」とする。
この時代、生き延びた人は、戦没者と曖昧に連続していた。
戦没したのが自分だったかもしれない、だが自分は生き延びて転向して生活している。

その意識が変化したことを象徴的に宣言しているのが、1956年の経済白書の「もはや戦後ではない」という言葉である。
1955年は、自社という2大政党が成立した年である。
同時に、日本共産党も、「六全協」によって、平和革命路線に転じた。
⇒2007年10月13日 (土):『されど われらが日々--』

笠井氏は、1955年以降を「第二の戦後」とする。
その終期は、政権交代の2009年である。
「第二の戦後」期を通じて、「アメリカの戦争犯罪」と「第二次大戦で死亡した日本兵」のことは、意識的にか無意識のうちにか、隠蔽され忘却されていた。

「第二の敗戦」の始まろうとする直前の1954年にゴジラは日本列島に上陸する。
そして、バブル崩壊後の「失われた20年」は、戦後日本の「平和と繁栄」が終焉し、「戦争と衰退」の21世紀を示している。
2010年の尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、GDPが中国に追い越されたことの2つの事実がそのことを示している。
「3・11」の巨大複合災害は、その道への歩みを加速するものである。
その意味で、2011年にゴジラは日本列島に再び上陸したのである。
スクリーンの虚構としてではなく、現実の出来事として。

笠井氏は、かくして「8・15」の歴史的な結果として、「3・11の福島原発事故」が存在する、という。
私が、福島原発事故でゴジラのことを思い浮かべたのは、故のないことではなかったということになる。
しかし、このような深い含意などは、「想定外」であった。

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2012年10月20日 (土)

象徴としての八ッ場ダム/花づな列島復興のためのメモ(153)

国土交通省が建設を進めている八ッ場ダムは、最初に計画が発表されたのが、1952(昭和27)年だというから、60年前のことになる。
また、計画の直接的な契機となったのは、利根川流域に大きな災害をもたらした昭和22(1947)年のカスリーン台風であるから、それから数えれば65年の歳月が過ぎている。

計画が遅々として進捗しない間に、時代は大きく変化した。
ダムの必要性そのものに疑問符が付けられたのである。
政権交代総選挙における民主党のマニフェストでは、公共事業の「ムダ」として「川辺川ダム」「八ツ場ダム」が明記され、事業中止とされていた。
2009年9月12日 (土):八ツ場ダムの入札延期 その1.計画の現況

八ッ場ダムj計画の是非については賛否両論が鋭く対立している。
国土交通省は、利根川水系の治水計画の要として位置づけている。
民主党にとっては、政権交代の大義である。

計画が発表されると、地元住民を中心に激しい反対運動が起きた。
紆余曲折の結果、昭和60(1985)年に計画を受容することになったが、補償の条件等が難航し、ダム本体工事が遅延しているところで、政権交代が起きた。

地元住民からすれば、長年翻弄された上に結局中止になるということでは、「今までの苦労は何だったのか?」と思うだろう。
1都5県の受益自治体も、既に相応の支出をしており、中止には反対という姿勢を明確にしている。
結局は、有識者会議にゲタを預けることになった。
しかし、有識者会議でもなかなか結論は出ないようである。

 八ッ場ダム(長野原町)本体工事着工の条件である利根川水系の河川整備計画の策定に向け、第7回利根川・江戸川有識者会議が16日に東京都内で開かれた。ダム建設の根拠となる「目標流量」についての議論で一致点が見られず、座長の宮村忠・関東学院大名誉教授は議論をいったん打ち切り、八ッ場ダムなど個別の整備内容の検討に入る方針を示した。
 目標流量は、1947年のカスリーン台風並みの水害があった場合、被害が出ないようダムなどで調節すべき流量のことで、国土交通省関東地方整備局は毎秒1万7000トンと算出している。これに対し、複数の委員が根拠資料や算出モデルの不整合性を指摘していた。

http://mainichi.jp/area/gunma/news/20121017ddlk10010151000c.html

こんな折に、国土交通省が会議に提出した資料に、重大な疑惑があることが指摘されている。

 この氾濫図は昨年六月、国交省が日本学術会議分科会の資料として作成し、ダム本体着工の条件である「利根川・江戸川河川整備計画」の策定に向けた有識者会議にも示された。一部の委員から「捏造(ねつぞう)した氾濫図」として撤回を求める意見が出ている。ダム建設の根拠となる治水の必要性の議論に影響を与えそうだ。
 氾濫図で示された上流域は、烏川や鏑川(かぶらがわ)が流れる高崎市、鮎川の藤岡市、利根川右岸の玉村町など。
 実地調査した有識者委員の大熊孝新潟大名誉教授によると、氾濫図にある氾濫地域(青色)のうち、烏川左岸の高崎市役所や高崎駅がある市街地部分は川から十メートルを超える高台で、鏑川左岸の上信電鉄の西側は標高約二百メートルの山間部だった。
 さらに鮎川や烏川と鏑川が合流する辺りの右岸の一部を除き周辺のいずれも浸水していなかった。玉村町のほとんどが氾濫したことになっているが、半分以下しか浸水していなかったという。
 整備局は有識者会議で氾濫図について「群馬県発行の『水害被害図』と『カスリン颱風(たいふう)の研究』に記録された浸水の深さを基に、見取り図的なひずみを現在の地図の正確な位置で補正して作った」と説明。現地での地形確認や聞き取り調査は行っていなかった。
 建設省(現国交省)は一九七〇年、カスリーン台風の利根川上流域における洪水被害の実態をまとめ、氾濫図を作成した。今回新たに作成された氾濫図では氾濫地域が大幅に拡大している。
 下流の治水基準点・八斗島(やったじま)でカスリーン台風の洪水時、整備局の推計で最大毎秒約一万七千立方メートルの水が流れ、新たな流出計算モデルでは同約二万一千立方メートルの水が出た(最大流量)としている。差の同約四千立方メートルが上流域で氾濫などしていたとする。
 大熊委員は「国は最大流量をかさ上げするために、つじつま合わせで、上流域で大規模な氾濫が起きたように捏造している。氾濫水量は八分の一程度ではないか」と批判する。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012101902000134.html

八ッ場ダムは、専門家の間では、必要だという意見が強い。
たとえば、東京大学名誉教授の虫明功臣氏は、『八ツ場ダムは本当に無駄なのか-治水と水資源の観点から考える』(「正論」09年12月号)という論考で、啓蒙的に八ッ場ダム擁護論を展開している。
⇒2009年12月 8日 (火):専門家による「八ツ場ダム計画」擁護論(4)八ツ場ダムの治水上の意義

私は八ッ場ダムの仕事に携わった人たちと個人的な面識がある。
⇒2009年9月17日 (木):八ツ場ダムの入札延期 その6.華山謙さん
⇒2009年9月19日 (土):八ツ場ダムの入札延期 その8.奈良忠さん

有識者会議の座長・宮村忠関東学院大名誉教授、国土交通省の資料に批判的な意見を表明した大熊孝新潟大名誉教授、虫明功臣東京大学名誉教授は、共に東京大学の河川研究室の大学院で学んだ人たちである。
八ッ場ダムは、これからの国土のあり方を考える上で避けて通れない問題であり、河川工学・河川行政のあり方の象徴である。。

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2012年10月19日 (金)

復興予算をめぐる永田町のお粗末/花づな列島復興のためのメモ(152)

復興予算をめぐる国会でのやりとりをTVで見ていて、情けなくなってきた。
復興予算が、被災地に直接関係しない事業に流用されている問題である。
この問題については、根っこには予算獲得が仕事の第一義と考える霞ヶ関官僚の思考があるが、政治家のレベルが低すぎることが浮き彫りにされているような気がする。
⇒2012年10月10日 (水):「霞ヶ関文学」と「東大話法」はメダルの表裏/花づな列島復興のためのメモ(149)

復興予算は2011年度から5年間で少なくとも19兆円とされる。
財源は所得税や住民税、法人税などを増税して充てることになっている。
電気料等の値上げ、消費増税等もあって、ごく一部の富裕層を除いて多くの家計は引き締めざるを得ないと考えていることだろう。
これでは、景気が良くなるはずがないと思うが、それはさておき、復興増税については、被災地復興を日本国民全体で支援するという趣旨だと理解している。
この国民の共助の気持ちに水を差すような予算の内容が、徐々に明らかになりつつある。

流用に近い予算として例示されているのは、以下のようなものである。
Photo_2
http://news.livedoor.com/article/detail/7035394/

さすがに政府の行政刷新会議(議長・野田首相)も、来年度復興予算の一部事業の抜本的見直しを行う方針を固めた。
野党を中心に、東日本大震災の復興予算として不適当な事業があるとの批判が強まったためだ。
しかし、衆院決算行政監視委員会の小委員会は、民主党委員が欠席して開催要件を満たせないため流会となった。
自民党が同小委員会による「国会版事業仕分け」をするよう求めてきたのに対し、民主党側は、(1)代表選があって忙しい(2)人事が決まっていない(3)国会閉会中にやるほどではない、などの理由をつけて拒否し続けた挙句である。

18日の参院決算委員会では、枝野、蓮舫の事業仕分けのスターが登場したが、見苦しい質疑と言わざるを得ない。
枝野幸男経済産業相は、森雅子氏が、流用問題で地元・福島の企業向け立地補助金が不足していることを厳しく指摘したとき、「あのー、ミソもクソも一緒にした議論はやめていただきたい」と答弁して、議場騒然となった。
冷静さを失った答弁が、問題を自覚していることを証明しているような感じであった。

民主党委員として質問に立った蓮舫氏は、流用問題の責任を野党に転嫁した。
「もともと内閣が出した復興基本法案は対象を被災地に限定していたが、自民党さん、公明党さんからの建設的な意見も踏まえ、対象は日本全国になった」
蓮舫氏の主張するような経緯は、おそらくあったのだろう。
しかし、政府与党が、「それを言っちゃあ、おしまい」である。

復興基本法案の文言は、自公両党の要求を入れて固まったとしても、成立した予算の第一義的な責任が政府与党にあることは言うまでもない。
民主党の論客を自認する人たちは、強弁・詭弁がお好きなようだが、それではたとえその場は凌げても、なんら問題解決にはなっていないことを認識すべきだ。
⇒2011年6月17日 (金):その場しのぎと問題解決/「同じ」と違う」(27)
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
⇒2012年4月 4日 (水):「大飯原発再稼働」の政治判断?/原発事故の真相(24)

先の内閣改造で就任したばかりの田中慶秋氏の問題もある。
田中氏は18日の参院決算委員会へ、公務を理由に欠席したが、関係者は「党と官邸の意向で欠席させた」と指摘している。
田中氏は、外国人献金や過去の暴力団との交流が発覚し、本人もその事実を認めたうえで、「職務遂行に全力を尽くす」などと居直っていたが、そんなことが通用するわけがない。
⇒2012年10月14日 (日):問題山積の野田内閣は速やかに解散総選挙を行うべきだ
19日の閣議を欠席したとのことだが、もはや持ちこたえられないことは、本人も承知しているであろう。
野田首相の任命責任が問われるのは必至である。

「一葉落ちて天下の秋を知る」という言葉がある。
わずかな前兆を見て、後に起きることを予知することを意味する。
今日の民主・自民・公明の党首会談においても、野田氏は解散時期について明言を避け、物別れに終わったようだ。
野田氏には、何枚もの葉が落ちて行くのが見えないのだろうか。

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2012年10月18日 (木)

永田町に繁殖するシロアリを退治せよ/花づな列島復興のためのメモ(151)

前回参院選の「一票の格差」が違憲状態であるという判決を、最高裁大法廷が下した。
Photo_2
日本経済新聞

2009年の前回衆院選についても昨年、違憲状態とされている。
両院とも違憲状態というのは、異例の事態と言うべきだろう。

2010年7月の参院選は、政権交代した民主党に対する最初の(そして今のところ1回だけの)国政レベルでの選挙であった。
結果は、政権与党の惨敗といっていいだろう。
私は、この選挙は、民主党政権への国民の判断であり、謙虚に受け止めるべきだとしたが、その後の推移は、民主党には状況を運営のあり方にフィードバックするマネジメントの回路が不在であることを示すだけであった。
⇒2010年7月12日 (月):日本の政治はどうなるのだろうか?
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在
⇒2011年1月16日 (日):民主党は、統一地方選でどんな旗を掲げるのか?
⇒2011年6月 2日 (木):哀しき奇兵隊内閣の末路
⇒2011年6月18日 (土):菅と鳩山の理念と現実と信義/「同じ」と「違う」(28)
⇒2012年8月 6日 (月):野田内閣不信任の根拠/花づな列島復興のためのメモ(125)
そのため、内閣や党人事をいくら変えても、未だに迷走を続け、国民を裏切り続けることになっている。

民主党政権は(自民党もそうであるが)、違憲状態の最高裁の判断に積極的に応えようとしてこなかった。
明らかに不作為である。
違憲状態を解散先送りの言い訳としている節も窺える。
自分たちの議席を維持するための不作為だとしたら、野田首相の演説にある「シロアリ」そのものではないか。

野田首相は、政権交代選挙において、「シロアリ退治しないで、消費税引き上げなんですか?」と演説したが、マニフェストに明記していない消費税引き上げに「政治生命」を賭けると言った。
少なくとも、自分の政治生命について、改めて国民に信を問うのは当たり前のことではないか。

そして、最高裁から重ねて違憲状態であるとの判断が示されている以上、三権分立の原則からしても、格差是正に取り組まざるを得ないのは当然だ。
全力を上げて立法措置に取り組むべきだろう。
今までの不作為のツケが溜まっているのだから、少々無理なスケジュールを組まなければ辻褄が合わない。

昨日、鹿児島の天文館文化通り入り口の「永田シロアリ」に触れたところである。
永田シロアリは、シロアリ退治の会社である。
シャッターを閉めると、以下のようになる。
Photo
http://blog.livedoor.jp/toshi127h/archives/64746543.html

シロアリの「殺し屋」ということであるが、繁華街であるから知らないとギョッとするだろう。

日本を蝕むシロアリは、「永田町シロアリ=永田町に棲息し、繁殖するシロアリ」である(野田氏は「霞ヶ関シロアリ」を念頭においているが)。
言うまでもなく、永田町は国会議事堂を中心に首相官邸や政党本部などが集まる日本の政治の中枢である。
このシロアリの「殺し屋」は、有権者自身である。

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2012年10月17日 (水)

野田首相殿。シロアリとは、夫子たちのことではないか?

鹿児島の歓楽街、天文館文化通りの入口に、有名なビルがある。
「永田シロアリ」ビルである。
Photo
http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/5682/CUSTOM/G568261209163748.html

かつて鹿児島に仕事の縁があったころ、文化通りにあったクラブ某や奥の方にあったラーメン屋、わっぱ飯屋などによく足を運んだものだった。
最初は土地勘がないから、永田シロアリの向かい側にあった林田ホテルで待ち合わせをして、繰り出すことが多かった。
その林田ホテルは今はない。
時は移ろっているなあという実感がするが、「シロアリ」が健在であることは、今年の4月に確認した。

30年も昔のことを思い出したのは、「シロアリ」という存在の故である。
野田首相が、3年前の政権交代総選挙の時に、「マニフェストはルールがある。書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです」「シロアリ退治しないで、消費税引き上げなんですか?」と街頭で演説していたことは有名である。

野田氏の街頭演説は、下記の動画で見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo

過去の言動が自分に向ってくることをブーメラン効果という。
⇒2012年1月25日 (水):野田施政方針演説とブーメラン効果

通常の神経ならば、正視に耐えないはずである。
しかし、臆面もなくこの人は首相を続けている。
これを「したたかな政治家」などと言っていいのだろうか?

言行不一致など気にしていたら、「決定できない政治から脱却できない」とでも言いたそうである。
野党第一党の党首(当時)との約束も、相手がその座にいなくなれば、「なかった」かの如くである。
血税の増税を以て賄われる復興予算が不適切な使途に使われるのを、「来年度予算で改めるよう指示した」という。
こんな場合は、ずいぶんと鷹揚に構えているがそれでいいのか、問いたい。

復興予算の使途を審議しようとした衆院決算行政監視委員会は、民主党議員が欠席して流会になった。
なぜ、「直ちに」各大臣の責任において見直しを指示しないのか?
閣僚がどのような見識をお持ちか、後からでも検証できるではないか。
余りにも当事者意識が欠如しているのではないか。

解散を先送りして、政権与党の立場を少しでも長く享受しようということか?
審議をサボタージュする民主党議員は、そう思われても仕方がないだろう。
とすれば、「シロアリ退治しないで、消費税引き上げなんですか?」の「シロアリ」とは、夫子たちのことではないのか?

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2012年10月16日 (火)

電波三国志の新局面(続)/花づな列島復興のためのメモ(150)

ソフトバンクが、米携帯電話3位のスプリント・ネクステルを買収すると発表した。
同社は、先にイー・アクセスとの経営統合を行うと発表したばかりである。
⇒2012年10月 2日 (火):電波三国志の新局面

俄然、風雲急を告げる、といった感じである。
孫社長の目論見は、スプリントを加えることで、中国移動や米ベライゾン・ワイヤレスに次ぐ世界3位の携帯会社になることである。
Ws000001
静岡新聞121016

買収額は201億ドル(約1兆5700億円)だという。
過去にソフトバンクは、英ボーダフォンの日本法人を1兆円を大きく超える資金を投入して買収した。
2兆円の有利子負債を抱えたが、米アップルの「iPhone(アイフォーン)」人気で財務を一気に改善した実績がある。

市場の反応はどうか?
2つにわかれているようである。
ソフトバンクの株価は、買収報道が出る前の11日から15日まで(2営業日)で、2割強下落した。
時価総額も15日の終値でKDDIを下回った。
Photo
日本経済新聞121016

ソフトバンクが資金調達を新株発行で行うと株式が希釈されるだろうということと、そもそもスプリントの買収自体リスクが大きいという見方だろう。
ソフトバンクと経営統合することになったイー・アクセスの株価の推移は以下のようである。
Photo_2

イー・アクセス株式が時価の3倍で評価されたことを受けて、株価はストップ高を連発して上昇した。
上昇が一息ついたところで、スプリントの買収を検討しているという報道が流れた。
ソフトバンク株の下落に連動して、流れは反転し、ストップ安という展開になった。
ソフトバンク株式との交換比率がほぼ確定したことから、ソフトバンク株価に連動するのは必然だろう。

昨日、買収が正式に発表されると、ソフトバンクの株価は上昇に転じ、イー・アクセスも連動している。
必要資金を手元資金の他、国内メガバンクとドイツ銀行が融資するという報道もあって、株価は+に動いたのだろう。
ソフトバンクの決断が吉と出るか凶とでるかは、神のみぞ知るということだろう。
アナリストの見方も分かれている。

しかし、創業経営者でなければできない決断であることは間違いない。
政治に信頼が置けない状況である。
閉塞している日本経済のカンフル剤となることを期待しよう。

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2012年10月15日 (月)

田原総一朗氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(6)

田原総一朗といえば、当代の代表的ジャーナリストといっていいだろう。
最近はTVでも露出が少ないような気がするが、一時期は頻繁に登場していた。
Wikipediaによる紹介の一部を引用する。

1977年1月に東京12チャンネルを退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。東京12チャンネル時代の後輩には小倉智昭がいた。『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げる。
政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、テレビでは1987年より「朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」(2010年3月終了)討論コーナーの司会・出演を務める。また、ラジオでは2007年10月から「田原総一朗 オフレコ!」(2011年3月以降は週1回放送から月1回放送の「田原総一朗 オフレコ!スペシャル」)のパーソナリティを務めている。「サンデープロジェクト」終了後は、2010年4月から始まったBS朝日の「激論!クロスファイア」に出演。青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持つ。また、1989年からテレビ朝日系の選挙特別番組「選挙ステーション」第2部(討論コーナー)で司会を務めている。

田原氏は執筆活動も旺盛であるが、力の入った作品として『日本の戦争―なぜ、戦いに踏み切ったか? 』小学館(0010)がある。
「力の入った」というは、著者自身が「55年来の大きな疑問」に5年に及ぶ作業により答を出した、という作品だからである。
55年というのは、1945年の終戦-田原氏は国民学校(今の小学校)5年だった-からこの書を上梓した2000年までの期間である。
田原氏が55年間抱き続けた疑問とは、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」である。

なぜ、明治の時代から西欧を懸命に追いかけてきて、その果ての結果として、失敗するに決まっており、世界から糾弾されることも想定される「侵略」に突っ走ったのか。
真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入する時点で、少なくとも指導者たちにとっては、日米の国力の差から判断して日本が勝つ可能性がないことは自明のことであったのではないか。
それは決して今の時点で振り返っての後知恵ということではなく、開戦の意思決定をした時点において、既に「日本が負ける」と考えることの方が妥当であったはずである。

日米戦争辞せずの決定は、1941(昭和16)年9月6日の御前会議で決まった。
時の首相は近衛文麿であり、近衛自身は非戦派であったが、東条英機らの強硬論を抑え切れなかった。
昭和天皇も日米開戦には反対であったが、立憲君主としての立場から、自身の意思を貫くよりも内閣もしくは御前会議の決定を尊重するというスタイルを通してきた。
それが独裁を避けるための明治維新以来の知恵であったのであろうが、肝心なところで裏目に出たということになる。

田原氏は、日本の近代史において、人々を統合してきたスローガンを跡づけることのよって、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」を明らかにしようと試みる。
「富国強兵」「和魂洋才」「自由民権」「帝国主義」「昭和維新」「五族協和」「八紘一宇」。
結局、田原氏の辿り着いた結論は、開戦は軍部の独走ではなく、熱病に罹患したマスコミや世論および一部軍人に迎合した結果ということのようである。
たとえば、東条が1941年10月に首相になってから開戦までの50日あまりに、3000通以上の開戦を促す郵便が来た、という事実を紹介している。

当時の状況は、強引に戦争回避に動いたら、無秩序な内乱状態に陥ることが必至だった。
であれば、自分たちが主導権を持てる戦争の方がベターだ。
東条も昭和天皇も木戸幸一内大臣も、さらには統帥部もそう考えていた、というのが田原氏の結論である。

そして、やはり田原氏は、東条は何としてでも日米交渉をずるずると引き延ばすべきであった、とする。
情けない戦争は、こうして始まり、情けない結果となったのは必然的である。

しかし、熱病は何時、何を契機に発生したか?
そのカギは「維新」という言葉にあるようである。

佐々木二郎という軍人は、『一革新将校の半生と磯部浅一』という手記で、大正から昭和初年は軍の閉塞時代で、軍の発言権が強まったのは、「満州事変」によってだった、と書いている。
また北岡伸一東大教授は、軍の発言力に火が点いたのは「張作霖爆殺事件」だとする。

張作霖爆殺事件が1928(昭和3)年、満州事変の勃発が1931(昭和6)年で3年の開きがあるが、両事件は関東軍の佐官たちの謀略・暴走という点で共通性がある。
前者の首謀者が河本大作大佐、後者が石原莞爾たちである。
田原氏は、満州事変が石原らによるものであることを、疑ってはいない。

この両事件ともに、本来ならば、河本、石原らの関係者は軍紀違反の懲罰を受けるべきところであるが、処分らしいものはなかった。
代わりに前者では田中義一内閣が、後者では若槻礼次郎内閣が責任をとって崩壊している。
つまり、政治に対して軍が優勢であったということになる。

そして、佐々木二郎は、これを以て「維新」であるとする。
原敬、浜口雄幸の内閣時代は、政友会、民政党の二大政党時代で、軍部を押さえていた。
しかし、共に東京駅でテロに仆れる。
満州事変が起きたのは、浜口が狙撃された翌年である。

とすれば、「昭和維新」のスローガンが実体を持ち始めたのは、河本か石原か他の何某かは別として、満州における関東軍佐官の策謀によるところが大きいということになる。
政党が国民の信頼を失い、将校たちの唱える「昭和維新」への期待感が高まっていった。
なんとなく、現在の政治状況に通じるものがあるような気もする。

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2012年10月14日 (日)

問題山積の野田内閣は速やかに解散総選挙を行うべきだ

野田首相が、11日に自民党の安倍晋三総裁と国会内で面会し、「しかるべきときに臨時国会を開き、大いに議論したい」と述べた。
「しかるべきとき」などと言っている場合か?
国内外に課題は山積している。
民自両党の代表戦で貴重な時間を消費した後である。
可能な限り国会を開いて、審議を進めるべきであることは当然であろう。

野田首相は、自民党の谷垣前総裁と、「近いうちに解散」と約束して、消費増税の合意を取り付けた。
具体的にどのような形で約束されたかは部外者の知る由もないが、「近いうちの解散」という言葉はすでに国民の大多数の了解事項となっているはずである。

野田首相は、再選に伴い内閣改造を実施した。
この中で、法務大臣に任命された田中慶秋氏に、とんでもない報道が報道されている。

 今、ビッグニュースが飛び込んできた。本日発売の「週刊新潮」によると、今月就任したばかりの田中慶秋法務大臣は、指定暴力団稲川会系の大物組長の新年会で挨拶、神奈川県の暴力団幹部の仲人を務めるなど、数々の暴力団幹部との交際があるという。暴力団と付き合いのある人間が"法の番人"である法務省トップとはブラックユーモアを通り越し腰が抜けてしまいそうだ。
 これでは、「となりの闇社会」ではなく「民主党閣僚も闇社会」ということになる。

http://www.data-max.co.jp/2012/10/12/php_1_ms_1.html

この報道に対して、本人はどう答えたか?

 法相は12日に記者会見し、仲人は「本人の父親に頼まれ引き受けた」「後で暴力団関係者と分かった」と釈明した。「(本人と最後に会ったのは)20年近く前。それ以降の接触はあまりない」とも述べている。
 「連れられて行った会合にたまたま暴力団関係者がいた。1度だけだが、私の不徳のいたすところ」と語り、暴力団関係者の会合への出席も認めた。一方で「誤解を招いたのは率直に反省し、襟を正して職責を果たしたい」とし、辞任は否定している。

http://www.47news.jp/47topics/e/235318.php

後で分かった? 
その後の接触はあまりない?

こんな言い訳が通用すると本気で思っているのだろうか?
「誤解を招いたのは率直に反省し」と言っているが、誤解ではないと自分で認めているではないか。
法務大臣と言えば、法曹のトップである。
検察の権威が揺らいでいるときに、よりによって、であろ。

民主党の輿石東幹事長は、「政治家の出処進退は本人が判断することが大原則だ」などと、ノーテンキなことを言っている。
これで任命責任が問われないとしたら、どういう場合に任命責任が生ずると言うのか?

輿石氏は次のようにも言っている。

「内閣改造で(閣僚の)顔ぶれが変わる度にこの種の話が出で国会が混乱を起こす。本当にこういうことを繰り返していいのか」と指摘し、参院での問責決議案提出の検討を始めた野党側を牽制(けんせい)。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121014/stt12101411570004-n1.htm

閣僚の顔ぶれが変わる度にこの種の話が出るとしたら、そのこと自体を反省すべきだろう。
当然問責されるべきであって、牽制する神経が分からない。

復興に充てようという趣旨の増税だったはずの予算が、復興とは無関係の事業に充てられていることが問題になっている。
⇒2012年10月10日 (水):「霞ヶ関文学」と「東大話法」はメダルの表裏/花づな列島復興のためのメモ(149)
この問題を審議する衆院決算行政監視委員会の小委員会が、民主党委員の欠席で流会になった。

 小委の委員は14人。野党側の委員6人は出席したが、民主党の委員8人が欠席したため定足数(7人)に足らず、流会になった。
 新藤義孝小委員長(自民)は流会後の記者会見で、各省庁の答弁予定者も欠席したのは民主党側が政府側に指示したためだと指摘。民主党の山井(やまのい)和則国対委員長も政府側に欠席を指示していたことを記者団に認めた。
http://mainichi.jp/select/news/20121012k0000m010112000c.html

あろうことか、山井国対委員長は、「民主党の委員が決まらない中で一方的に強行で開会しようとした」と主張している。
民主党は与党ではないか。
委員が決まっていない、などということを理由に出来ると考えることがおかしい。
ちなみに、山井氏は松下政経塾の7期生だという。

野田内閣は支離滅裂と言わざるを得ない。
マニフェストは履行せず、マニフェストに書かれていないことに政治生命を賭けるとした野田内閣に正統性はない。
もはやこれまで、と国民の信を仰ぐのがせめてもの残された道と知るべきである。

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2012年10月13日 (土)

柳条湖事件の真相?/満州「国」論(5)

現在、満州事変(柳条湖事件)に対する見方としては、次のような捉え方が一般的であろう。
⇒2012年9月18日 (火):柳条湖事件から81年、拡大する反日デモの行方/満州「国」論(2)

一九二八年末に張学良が国民政府と合体し、中国の統一を一応完成した。日本の関東軍は危機感を深め、武力で満州を勢力下に置こうとした。そして、石原莞爾らが一九三一年九月一八日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍事行使を開始し、満州事変が始まった。

しかし、工藤美代子『絢爛たる悪運 岸信介伝』幻冬舎(1209)に次のような記述がある。

一般的に「柳条湖事件」と呼ばれているこの爆発事件の首謀者は関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、同じく関東軍作戦参謀石原莞爾中佐だとされていた。
 両者ともその事実を否定したまま故人となった。

つまり、「真犯人」の口は永久に閉ざされた、ということである。
Wikipediaの板垣征四郎、石原莞爾の項には、それぞれ次のようにある。

板垣征四郎 
関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にて死刑判決を受け処刑される。
石原莞爾
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。

いずれも、板垣、石原「主犯説」の立場記述されている。
Wikipediaは何ら真実を保証するものではないが、大勢の首肯する見解だと考えられる。
工藤氏によれば、それは当時奉天(現瀋陽)の特務機関にいた花谷正少佐(最終階級陸軍中将)の発表した「手記」を根拠にしている。
雑誌「別冊知性」(河出書房刊)に掲載された『満州事変はこうして計画された』である。

花谷の「手記」には、板垣、石原のほかに関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも謀略に荷担していたと書かれていた。
しかし、工藤氏によれば、「手記」が発表された時点で、これらの人々はすべて物故していた。
つまり裏がとれない、ということである。

この「手記」は秦郁彦氏の取材に答えたものであるが、次のような事情であった。

それ(秦氏のインタビュー時)から三年後の一九五六年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の『秘められた昭和史』を企画したとき、私は花谷談をまとめ、補充ヒヤリングと校閲を受けたのち、花谷の名前で『満州事変はこうして計画された』を発表した(『昭和史の謎を追う』上)

工藤氏は、秦氏の記述から花谷発言は信憑性に疑問があるとしている。
つまり柳条湖事件を関東軍の謀略と決めつけるのは無理があり、事件の真相はまだ闇の中にある。

果たして、どう考えるべきか?
もちろん未だ表面に出ていない事実もあろう。
しかし、工藤氏の上掲書は、岸信介に好意的な視点から書かれており、満州事変の見方についてもいささかバイアスが感じられる。
なお、秦郁彦氏について、Wikipediaは、次のように解説している。

専攻は、日本の近現代史、第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史。その他、昭和史に数多くの著作がある。緻密で客観的な実証を重んじる実証史家として知られ、史料の発掘・研究だけでなく、現地での調査と証言の収集によって検証している。著書『日中戦争史』は、この分野における古典的名著であると評価されている。
東京大学在学中に丸山真男の指導を受けてA級戦犯を含む多くの旧日本軍将校らからのヒアリングを実施、大蔵官僚時代には、財政史室長として昭和財政史の編纂に携わり、自身もアメリカの対日占領政策についての執筆を行なった。さらに、日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は現在も開戦に至る日本外交を描いた先駆的業績として高い評価を得ている。近現代史に関わる多くの事典の編纂でも知られ、東京大学出版会より刊行した事典類は実証研究に必須の資料となっている。
・・・・・・
張作霖爆殺事件に関しても一次史料に基づく先行研究に依拠して河本大作大佐を中心とする日本陸軍の犯行であることを主張し、「張作霖爆殺はコミンテルンの仕業」と主張する人間たちを事実に基づかない妄言であり歴史を捏造するものとして『文藝春秋』や産経新聞「正論」欄で批判している。

現時点では、柳条湖事件は、板垣、石原ら関東軍による謀略説の方が信憑性があるように思う。

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2012年10月12日 (金)

原爆と水爆/「同じ」と「違う」(52)

原発と原爆の異同についての私の理解は次の通りである。
・両者は、核分裂の連鎖反応を利用するという意味では「同じ」である。
・両者の「違い」は、核分裂反応の反応速度である。
・反応速度がコントロールできなくなったばあい、両者は「同じ」と考えるべきである。
⇒2011年9月20日 (火):原発と原爆/「同じ」と「違う」(32)

福島第一原発では、原因の如何は別として、原子炉のコントロールが不能になった。
したがって、福島で起きた事故は、原爆投下と「同じ」ことと考えるべきである。
事故の直接的な原因は、電源喪失であり、その原因が「想定外」の津波の発生であるにしても、原子炉の制御が不能になった段階で、原爆と同等になった。

それでは、水爆(水素爆弾)と原爆の異同は何か?
Wikipediaで水素爆弾の項を見ると、以下のように解説されている。

水素爆弾(すいそばくだん、英: hydrogen bomb、水爆)は、水素及びその放射性同位体の核融合反応を利用した核爆弾で、兵器としては核兵器の1種である。
原子爆弾を起爆装置として用い、この核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用して、水素の同位体の重水素や三重水素(トリチウム)の核融合反応を誘発し莫大なエネルギーを放出させる。高温による核融合反応(熱核反応)を起こすことから「熱核爆弾」や「熱核兵器」とも呼ばれる。一般に核出力は原爆をはるかに上回る。なお、中性子爆弾や3F爆弾も水爆の一形態である。
第二次世界大戦後から現在に至る原爆開発競争に参加した国の中でも、水素爆弾を兵器として実用化したのは国際連合の常任理事国であるアメリカ合衆国と旧ソビエト連邦(ロシア)、イギリス、中華人民共和国、フランスのみである。

つまり、原爆が核分裂反応によるエネルギーの放出を利用するのに対し、水爆は、核融合反応によるエネルギーの放出を利用する。
原爆(原子爆弾)のエネルギー源は、ウラン235やプルトニウムの核が分裂するときに生じる。
Photo
http://www.asahi-net.or.jp/~rt6k-okn/fusion.htm

それは有名なアインシュタインの次の公式で示される。
  E=mc²

この公式は、質量とエネルギーが等価であることを示している。
水素の原子は1個の陽子と1個の電子からできている。

水素のなかには、中性子が1個存在する「重水素(D)」と、2個存在する「三重水素(T)」という同位体がある。
重水素や三重水素を反応させて、ヘリウムを生成させることが可能である。Photo_2
http://www.asahi-net.or.jp/~rt6k-okn/fusion.htm

水素原子は1個の陽子しか持っていないため、核力(引力)が元素の中では最も小さく、核同士が融合し易い。
とはいえ、水素核が融合するためには、1億℃の温度または圧力を地球の大気圧の1千億倍にしなければならない。
太陽の中心部では、この高温・高圧の条件があり、核融合反応が生じている。

人為的にこの条件を作り出すために、核分裂反応から生じる高温・高圧を利用する。
核融合の平和的利用は21世紀後半になると予測されている。
Photo_3
http://www.asahi-net.or.jp/~rt6k-okn/fusion.htm

なお、福島第一で起きた水素爆発と水素爆弾は、もちろん全く別物である。

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2012年10月11日 (木)

原子力ムラの詐欺的アンケート/原発事故の真相(50)

原子力ムラというのは、よくよく詐欺的な行為がお好きなようである。
核燃料サイクルを巡って、原発環境整備事業という組織が、アンケートを実施したが、回答者が誤認するのを誘導するような質問をしていたことが報じられている。

 高レベル放射性廃棄物の最終処分場の選定を担う原子力発電環境整備機構(NUMO)が、二〇一〇年に全国規模でアンケートをした際、あたかも使用済み核燃料のほとんどが再利用でき、核のごみはわずかであるかのような説明をし、回答を求めていたことが分かった。実際に再利用できるのはわずか1%で99%はごみと化す可能性が大。誤った認識を広げる結果になっていた。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012101002000114.html

アンケートでは、最初の設問で「使用済み核燃料の95%がリサイクルできます」と説明して、あたかもリサイクルの輪が閉じているような認識を持たせている。
しかし、実際は1%が再利用可能なだけであって、明らかに、錯覚を誘導している詐欺の手口である。
刑法による詐欺罪の規定は、次のようである。

第二百四十六条  人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。
 2  前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

すなわち、「人を欺いて」ということが基本的な要件である。
NUMOのアンケートは、立派に詐欺罪の要件を満たしていることになる。

核燃料サイクルを巡って、野田政権は迷走を続けている。
⇒2012年6月11日 (月):電源構成と核燃料サイクル/花づな列島復興のためのメモ(83)
⇒2012年9月 4日 (火):核廃棄物をどうするか?/花づな列島復興のためのメモ(137)
⇒2012年9月 5日 (水):本末転倒の「廃棄物処理ができないから原発稼働」論/花づな列島復興のためのメモ(138)
⇒2012年9月15日 (土):「言うだけ」感を拭えない政府の脱原発政策/花づな列島復興のためのメモ(142)
⇒2012年9月28日 (金):論理の通らない原子力行政/花づな列島復興のためのメモ(145)

原点に立ち返り、原発が現状では稼働しえない現実を認識すべきだろう。

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2012年10月10日 (水)

「霞ヶ関文学」と「東大話法」はメダルの表裏/花づな列島復興のためのメモ(149)

わが国のプライオリティが東日本大震災からの復興に置かれるべきことに反対意見はないだろう。
そのためには増税もやむなし、というのが大方の国民の考えではないかと思われる。
昨年11月に復興財源確保法が成立して、臨時増税が決まった時も、消費増税の時のような反対の声はなかった。

しかし、復興財源が本当に復興に有効に使われているのかどうか、疑問なしとは言えないようだ。

 東日本大震災の復興予算を使って経済産業省が民間企業の設備投資に補助金を交付する「国内立地推進事業」は、補助対象510件(総額2950億円)のうち被害が著しい岩手、宮城、福島の3県での事業が約30件しか含まれていない。一方、補助金の受け手にはトヨタ自動車、キヤノン、東芝などの世界的大企業の名も。被災地からは「復興に乗じた補助金のばらまきでは」との声も聞こえる。
http://mainichi.jp/select/news/20121008k0000m010049000c.html

復興予算が必ずしも被災地のために使われないのは、「霞ヶ関文学」と称される官僚特有のレトリックによって、拡大解釈が出来るようになっているからであるといわれる。
法律や行政文書は、厳密に書かれているようで、およそ一般人の理解を超越したような解釈が可能であるようだ。
変幻自在に拡大解釈できるような文言を盛り込むテクニックが、「霞ヶ関文学」と呼ばれるものの特徴である。
⇒2011年7月11日 (月):震災復興会議の提言と「霞ヶ関文学」/花づな列島復興のためのメモ(2)
⇒2012年8月28日 (火):「脱原発」と「脱原発依存」/「同じ」と「違う」(50)

東日本大震災復興対策本部が定めた「東日本大震災からの復興基本方針」(平成23年7月29日)は、東日本大震災復興基本法の「単なる災害復旧にとどまらない活力ある日本の再生を視野に入れる」と規定された理念を具体化したものだ。
その中に、次のような文言が盛り込まれている。
「日本経済の再生なくして被災地の真の復興はない」

この文言は政治サイドの要求で入ったといわれるが、この文章により、幅広い事業が復興の名目で行われることが可能になったとされる。
核融合エネルギーの研究費に約四十二億円、調査捕鯨事業に二十三億円、東京の国立競技場の補修に三億三千万円…。
これらは、復興予算の一端である。

一方、被災した中小企業を支援する補助金の交付については、約63%が「国の予算が足りない」などの理由で申請を却下された、と報じられている。
被災地が必要としているところに資金がまわらず、復興とは距離感のある事業に使われている。
復興増税は、所得税が来年1月から25年間にわたり、納税額に2.1%を上乗せ、個人住民税が年収に関係なく一律で年間1000円が2014年6月から10年間である。
これだけ長期の増税が、復興と直接には関係しない事業に使われるとは、納税者の「想定外」ではなかろうか。

「霞ヶ関文学」の主要な書き手は、東大法学部の卒業生を中心とする中央省庁の官僚であろう。
同時に、彼らは、「東大話法」の使い手でもある。
「東大話法」について、Wikipediaでは次のように解説している。

安冨(歩・東大教授)は、福島第一原子力発電所事故をめぐって、数多くの東大卒業生や関係者が登場し、その大半が同じパターンの欺瞞的な言葉遣いをしていることに気づいた。安富は原発がこの話法によって出現し、この話法によって暴走し、この話法によって爆発したと考察し、まず「言葉を正す」ことが必要ではないかと考えた。そのためのすべての人への防護指針として提案したものである。安冨の提示した東大話法の概念は「常に自らを傍観者の立場に置き、自分の論理の欠点は巧みにごまかしつつ、論争相手の弱点を徹底的に攻撃することで、明らかに間違った主張や学説をあたかも正しいものであるかのように装い、さらにその主張を通すことを可能にしてしまう、論争の技法であると同時にそれを支える思考方法」というものである。
東大話法は自分の信念や感覚にもとづくものではなく、相手を言いくるめ自分に従わせるための、言葉を使った暴力だと説明される。この話法は東京大学の教授や卒業生だけが使う技術というわけではないが、使いこなせる能力を有する人は東大に多く集まっているのも事実だという。
学者官僚財界人、言論人にも、この話法の使い手や東大話法的思考をもつ人がいるとされる。さらに、権力の集まる場所にいる人の多くが東大話法を操っており、その技術が高い人が組織の中心的役割を担うようになる、これは国民にとって大変な不幸である、と述べている 。

福島第一原発事故が「東大話法」を浮き彫りにしたわけである。
⇒2012年9月16日 (日):「東大話法」では包み隠せない民主党政権の「三百代言」/花づな列島復興のためのメモ(143)
⇒2012年9月20日 (木):もはや嗤うしかない「革新的エネルギー・環境戦略」の「東大話法」

大震災からの復興の中で、「霞ヶ関文学」も正体を現すことになろう。
「霞ヶ関文学」と「東大話法」は同根であり、メダルの表裏であろう。

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2012年10月 9日 (火)

山中伸弥京大教授のノーベル賞受賞/花づな列島復興のためのメモ(148)

山中伸弥京大教授が、今年のノーベル医学・生理学賞を受賞した。
次の日本人ノーベル賞候補の本命とされていたとはいえ、やはり格別の賞である。
率直に喜びたい。
特に、 「3.11」により大きなダメージを被った後である。
アメリカの占領下にあった1949年に、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した時に似ているような気がする。

私は、湯川博士受賞のニュースのリアルタイムの記憶はないが、その時代の雰囲気は知っている。
無謀な戦争に敗れ、彼我の国力差、なかんずく科学技術力の格差に打ちのめされていた時である。
何しろ、ほんの数年前まで、天皇が現人神として、絶対的な権力・権威を持っていたのである。
教科書には墨が塗られ、それまでの生き方の拠り所を失って、何を立国の方針にすべきか五里霧中といった感じの時期である。
そんな中でのノーベル賞受賞のニュースが、復興中の日本にとって大きな励ましになった。

湯川博士の次の受賞者は朝永振一郎博士で、1965年のことだ。
この間、16年を要しており、湯川博士の名はノーベル賞とワンセットだった。
ちなみに、湯川博士と朝永博士は、共に理論物理学者であるが、旧制三高・京大の同期生でもあった。
2人が学んだ赤レンガの建物は、後に工学部燃料化学科の教室として使われ、日本人初の化学賞を受賞した福井謙一博士の授業が行われていた。
不思議な因縁である。

私は高校時代に、朝永振一郎博士の講演を聞いたことがある。
まだ上述のように、「ノーベル賞といえば湯川」の時代であって、専門家の間では朝永博士は有力な候補者だったのだろうが、田舎の高校生にとって、間もなくノーベル賞を受賞することになるということは想定外だった。
ただ、もの静かではあるがユーモラスな話しぶりの人柄に魅了された覚えがある。

その後、日本人の受賞者も漸増し、ノーベル賞の衝撃度は薄らいできたように感じられる。
ノーベル賞は、総合的な国力の指標ともいわれるから、ある意味で当然のことであったが、「3.11」によって科学技術による信頼性が揺らいでいたことを考えれば、タイムリーな受賞であった。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)
⇒2011年7月27日 (水):大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)

山中教授の業績はマスコミ等で紹介されているが、以下の文部科学省のサイトを越えるものではないようだ。

Photo 
 平成19年11月,京都大学の山中伸弥教授は,ヒトの皮膚細胞から神経・骨・内臓など様々な細胞・組織に分化する能力を持つ「iPS細胞(人工多能性幹細胞)」の作製に成功したと発表しました。これは,18年8月に発表されたマウスでの成功に次ぐ,世界で初めての成果です。
 私たちの体は,一個の受精卵が,神経,心筋,軟骨等の様々な組織の細胞に分化してできています。細胞が人体を構成する様々な細胞へと分化できる能力を多能性と呼びますが,一度,皮膚などの組織に分化した体細胞は,通常多能性を失いその組織以外の細胞にはなれません。しかし,山中教授らは多能性を失ったヒトの皮膚細胞に,4つの遺伝子(後に3つでも可能であることを示した)を導入して多能性を回復させることに成功しました。
 今回の研究が更に進むと,患者の細胞から,神経や筋肉など様々な組織の細胞を作製することが可能となります。得られた組織は皮膚損傷,脊(せき)髄損傷,若年型糖尿病,心筋梗塞(こうそく),白血病,骨粗鬆(しょう)症等の疾病を治療する再生医療(細胞移植療法)に用いることができます。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab200701/002/006/001.htm

生物の身体が細胞分裂により成長・発達することはよく知られている。
また、それは進化の過程をなぞるようだとも言われている。
その成長・発達の過程あるいは進化のプロセスは、非可逆的と考えられる。
しかし、山中教授は、それを振り出しに戻す(初期化)する方法に成功したということだ。

まさに凡人には考え及ばない、コペルニクス的な発想の転換である。
しかし、その影響の大きさは、上記の文科省の説明にあるように、業績発表の平成19年11月から5年足らずでのノーベル賞受賞であることからも窺い知れる。
もちろん、実用化までにはいくつもの困難な課題があるだろうが、日本復興の烽火と受け止めよう。

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2012年10月 8日 (月)

絶妙なバイプレーヤー・大滝秀治さん逝く/追悼(22)

俳優の大滝秀治さんが亡くなった。
「特捜最前線」などのTVドラマで馴染みがあるが、劇団民藝の代表を務め、舞台俳優としても精力的に活動してきた。
高倉健主演の映画『あなたへ』で、妻の遺骨を散骨する高倉健を乗せた漁船の船頭役を演じたのが最後の映画になった

 舞台や映画、ドラマなどで味わい深い演技を見せてきた俳優・大滝秀治が、10月2日に肺扁平上皮がんのため、87歳で亡くなった。今井正監督作『ここに泉あり』(55)でスクリーンデビューして以来、市川崑、伊丹十三、山田洋次、降旗康男ら、そうそうたる名監督の常連俳優として、昭和史に残る作品に数多く出演してきた。現在公開中の降旗監督作『あなたへ』でも、高倉健との共演シーンで、含蓄のある名演を見せている。
Photo
 撮影時、共演の高倉健は、大滝との共演シーンで涙を流したという。それは、大滝扮する船頭の大浦吾郎が、「久しぶりに、きれいな海ば見た」と語るシーンだ。高倉は「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かった、と思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフの中に、監督の思いも、脚本家の思いも、みんな入ってるんですよね」と語っていた。とても短いセリフだが、その時の大滝の感慨深い表情は、ドラマの余韻を増幅させる。

http://news.walkerplus.com/2012/1005/27/

この間の休日、天候が良くなかったので、近くのショッピング・モールにあるシネコンで、『あなたへ』を観てきたばかりである。
テレビのCMで、富山の北アルプスから、飛騨高山、朝来の竹田城址、大阪の道頓堀、下関と門司、終着地の平戸等々、日本の美しい風景に惹かれたからである。
あなたへ』の紹介文は以下の通りである。

亡くなった妻から届いた絵手紙。そこには今まで知らされることのなかった、"故郷の海へ散骨して欲しい"という妻の想いが記されていました。妻の真意を知るために旅を始める主人公。一期一会1200キロの旅の中に、夫婦の愛と様々な人々の人生を丁寧に綴った感動の物語。主演・高倉健、そして本作が20作目となる降旗康男監督とのタッグで贈ります。

高倉健は年齢相応に、老けたな、という感じであったが、豪華な脇役陣がそれぞれところを得ていて、美しい映像と共に見応えがあった。
大滝秀治の出番は、時間的には短いが、重要なシーンだった。
こういう話を知ったからには、このシーンをもう一度よく見てみたいような気がする。

各紙のコラムでもこぞって触れられている。

朝日新聞「天声人語」10月7日
「芝居というものは、しみこむほど稽古(けいこ)をして、にじみ出せるようにする」。亡くなった大滝秀治(ひでじ)さんの芸への姿勢は、劇団の先輩、宇野重吉さんの教えでもあった。きびしい稽古ぶりをお聞きしたことがある

毎日新聞「余録」10月6日
「つかる ひたる ふける」。俳優の大滝秀治(おおたきひでじ)さんがよく書いた言葉だ。何かといえば「役に」である。「俳優は錯覚の世界でいかに陶酔(とうすい)できるかだと思っている」。だから一番先に劇場入りし、舞台装置が心の中で動き出すのを待った

産経新聞「産経抄」10月7日
亡くなった大滝秀治さんは20代で劇団「民芸」の創立に加わった1期生である。しかし当初は「声が悪い」などの理由で、ほとんど役がつかない。無名の役者だった。永六輔氏の『藝 その世界』によれば「四十八歳までは喰えなかった」と言っていたそうだ。

東京新聞「筆洗」10月7日
時代の空気に敏感だった。八年前、東京新聞の取材に語っている。「ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争…、戦争はずっと続いてます。犠牲になる人の身になって考えてみてください。今の日本人には、その危機感がありません。戦争の悲惨さを知らない日本人の安穏さは危険です。今は昭和初期と時代の雰囲気はかなり似てますよ」

いずれも、遅咲きだったこと、真面目で研究熱心であったこと、真摯に時代と向き合って生きたこと等に触れている。
なお、豪華キャストの一環として、高倉健の妻役で元(?)童謡歌手の田中裕子が、竹田城址で行われる「天空のコンサート」で歌われた「星めぐりの歌」が印象的だった。
宮沢賢治の作詞作曲の歌である。


高倉健という俳優は、私は東映の任侠映画のイメージが強い。
Wikipediaを参照すると、東映への入社と任侠映画の主演するに至った経緯は以下の通りである。

1955稔に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する新芸プロのマネージャーになるため、喫茶店で面接テストを受けた。
その際、偶然その場にいたプロデューサーのマキノ光雄にスカウトされ、東映の第2期ニューフェイスとして入社。
演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌年『電光空手打ち』で主役デビュー。
1963年に出演した『
人生劇場 飛車角』以降、任侠映を中心に活躍。
1964年から始まる『
日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演。
『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』はカラオケなどで歌い継がれている人気曲である。
70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」である高倉演じる主人公は、学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を受けた。

ちょうど私の学生時代が、任侠映画が始まり、影響力をもった時期だったということになる。
しかし、私は任侠映画に熱狂したことはないし、高倉健主演の映画もごく限られた本数しか観ていないが、彼をめぐるエピソードは興味深いものが多い。

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2012年10月 7日 (日)

日中関係と「東京裁判」史観/満州「国」論(4)

先般亡くなった吉本隆明の代表作といわれているのが『共同幻想論』河出書房新社(1968)である。
私は工学系の学科だったためか、周りに熱心な読者は少なかったように思う。
しかし、多少でも「論壇」(この言葉も死語同然のようだが)に目配りをしていれば、同世代に大きな影響を与えたことはよく感じ取られた。
それにしても、少なくとも私にとっては、論旨を追いにくい書であった。

畢竟するところ、吉本は、国家の本質を「共同幻想」であるとした。
それでは、「共同幻想」とは何か?
それを吉本は、個人幻想、対幻想と対比して位置づけられるとしているが、その論証を、『古事記』と『遠野物語』“だけ”を論拠に行おうとしたのである。

戦中派の吉本にとって、わが身を捧げる覚悟だった国家とは? あるいは天皇制とは?
大東亜戦争は無意味な侵略戦争に過ぎなかったのか?

吉本が辿りついた結論は、国家の本質は、宗教の延長線上にある共同幻想、ということだった。
それでは、満州「国」は、果たして「国家」だったのか?

武田徹『偽満州国論』河出書房新社(9511)は、吉本国家論を参照しながら、「満州国」を題材に国家の本質を考察したものである。
「満州国」は、1932年3月1日に忽然と姿を現し、1945年8月18日に跡かたもなく消えていった。
13年5カ月ばかりのカゲロウのような存在を、はたして「国家」と呼び得るのだろうか?

「満州国」は、折に触れ論じられはするが、次第にその実体を知る人は少なくなっている。
私も、もちろん具体的な実体を知る世代ではない。
しかし、私たちの世代は、「赤い夕陽の満州」になんとなくノスタルジックな感情を呼び起こされる。
また、リサーチャー時代には、「満鉄調査部」というのは、ある意味で憧れの存在であった。

偽満州国論』の著者の武田氏は1958年生まれ。本書を上梓した時点では30歳代半ばである。
私よりずっと若い。
そのような世代にとって、「満州」はどのような角度から関心が寄せられ、どのように論じられているか?

現在、私が物心ついてから最大級に日中関係が緊迫しているように見える。
私には、中国人の反応はいかにも短絡的で、成熟していないようにも思える。
たとえば、9月9日、ロシア・ウラジオストクで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の会合前に、野田首相は胡錦濤国家主席と立ち話をした件について、田原総一朗氏は次のように解説している。

 野田首相が「日中関係については大局的観点から対応したい」と話しかけると、胡錦濤氏は「中国は(日本が)島を購入することに断固反対する」と怒りをあらわにしたとされる。
 ところが、その2日後の11日、政府は尖閣諸島の「国有化」を閣議決定した。APECでの立ち話は一体何だったのか。発言が無視された胡錦濤氏のメンツは、丸つぶれとなったのである。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20121004/325729/

いわゆる「メンツが潰された」ことが、反日の嵐となった?
それでは極道の世界と同じではないか、という見方も、二枚舌で国民の怒りを買っているのと同じ構造ではないか、という見方もできよう。
私は、先ずは真摯に向き合う態度が必要だと思うが。

少し、日中関係の近・現代史を振り返ってみたい。
満州事変にはじまる日中戦争から太平洋戦争(私は総称して「東亜・太平洋戦争」が妥当だと考える)に至る時期の日本の活動をどう評価するか?
1つの立場は、いわゆる「東京裁判」史観である。
私が義務教育を受けた頃は、ほとんどの教師がこの立場に立っていたように思う。

「東京裁判」史観とは何か?
満州事変は関東軍の謀略であり、成立した満州国は傀儡国家であった。
満州国成立後も軍部の独走により、無謀にも米英を主敵とした太平洋戦争に突入した。
日本の大陸進出は、不当な侵略であり、日本国は犯罪者として裁かれるべきである。

「東京裁判」は、戦争の勝者が敗者を裁いたものである。
勝者の立場から、敗者が断罪された。
そうした見方からすれば、「満州国」という国家はなかった。

武田氏の大学院時代、中国近代史を研究する同僚が中国東北部に旅行に行ったことがあった。
持ち帰った観光用パンフレット(日本語表記バージョン)を見ると、1つの漢字が繰り返し使用されていた。

偽国務院、偽皇居、偽法務院……

それは、満州国時代に作られ、現在(武田氏の大学院時代)も使用されている建物だった。
満州国は「なかった」のだから、それらの建物は、形は残っていても機能は「なかった」ということである。
武田氏も、基本的には「東京裁判」史観の下で育ったから、「満州国」が「なかった」ということは理解できる。
しかし、こうまで激しく「なかった」ことを主張されることには「違和感を覚えないでもない」としている。
現在の尖閣問題に対する主張の激しさも、同様に、「違和感を覚えないでもない」のではなかろうか?

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2012年10月 6日 (土)

福島県の健康(甲状腺)検査の実態/原発事故の真相(49)

福島第1原発の事故を受け、福島県が子どもの甲状腺の検査実施している。
枝野経産相は、事故発生当時の官房長官であったが、「ただちに健康に影響はない」と力説していたが、「長期的な影響」こそが心配されるべきであることは、チェルノブイリ原発事故の追跡調査でも明らかにされている。
だから、福島原発事故についても、慎重に追跡調査をするべきである。

しかし、当初の政府方針は、福島県の子どもだけ調査するというものだった。
素人的に考えても、原発事故の影響の有意性を検証するためには、比較対照する調査データが必要であろう。
福島県の子どもだけ調査しても、言い得ることは限られる。
⇒2012年9月 6日 (木):火事場泥棒的に原子力規制委の人事を行おうとする野田政権/原発事故の真相(46)
さすがに、政府も比較の対象となる県外での調査の実施を決めたという。

しかし、その調査の実施にあたってはさまざまな問題があることが報じられている。

ひとつの問題は、検査を行っている福島県立医大から受診者に送られる結果通知が不親切であることだ。結節などがあるのに2次検査は不要とされた人々への通知は、当初、見つかったのが結節なのか、のう胞なのかさえわからないものだった。
http://mainichi.jp/opinion/news/20120903k0000m070113000c.html

調査対象者は家族も含め、不安感に苛まれていることが容易に想像できる。
だから、検査結果などの情報は懇切丁寧に行うべきだろう。
専門家の言葉は、どういうわけか一般人には分かりにくい専門用語を当然の如く使う。
善意に解釈すれば、自分たちはふだん十分に馴染んでいる言葉だから、無意識に使用しているのであろう。
しかし、相手に伝わらない言葉は、発している意味がない。

企業人が自社の新規プロジェクトなどをプレゼンテーションする場合には、言葉遣いだけでなく、図表や映像なども含め極力相手が理解できるように努める。
思うに医療従事者や役人というような人たちには、相手を思いやる精神・態度が欠如していることが多いようだ。
ホスピタリティという言葉は、これらの人たちにこそ必要であるにもかかわらず、である。

以下のような報道もある。

 東京電力福島第1原発事故を受けた福島県の県民健康管理調査について専門家が意見を交わす検討委員会で、事前に見解をすり合わせる「秘密会」の存在が明らかになった。昨年5月の検討委発足に伴い約1年半にわたり開かれた秘密会は、別会場で開いて配布資料は回収し、出席者に県が口止めするほど「保秘」を徹底。
……
 約30分の秘密会が終わると、県職員は「資料は置いて三々五々(検討委の)会場に向かってください」と要請。事前の「調整」が発覚するのを懸念する様子をうかがわせた。
……
秘密会の日程調整などを取り仕切っていた福島県保健福祉部の担当者との主なやり取りは次の通り。
 −−検討委の会合ごとに秘密の準備会を開いていなかったか。
 記憶にない。
 −−昨年7月、秘密会の会場を急きょ変更し、口止めを図ったことはないか。
 ……覚えていない。
 −−検討委の約1週間前に委員を呼び出したり、検討委と別に会場を設けたりしていなかったか。
 ……確認のため時間をください。

http://mainichi.jp/select/news/20121003k0000m040155000c.html

県や委員らはこうした秘密会を「準備会」と呼んでいた。
私のリサーチャー時代の経験からしても、秘密の準備会の存在は納得できる。
もちろん、事前に情報が漏れて紛糾し、本来の目的に支障が起こる可能性があるときには、秘密の会議も必要だと思う。
しかし、原発事故の影響調査については、可能な限りオープンに論議すべきではなかろうか?
この検討委員会では、あらかじめ議事の進行自体を事務局側で用意していたという。

 東京電力福島第1原発事故を受けて福島県が実施中の県民健康管理調査について専門家が議論する検討委員会を巡り、委員が発言すべき内容などを記した議事進行表を県が事前に作成していたことが分かった。調査結果への見解における「結語」(結びの言葉)が記され、「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)再現データの質疑に終始しない」と求める記載もあった。県の担当者は毎日新聞の取材に「そうしたものを作ったかもしれない」としつつ、内容に対する明確な回答はなかった。
 検討委を巡っては、本会合の前に秘密裏に「準備会」(秘密会)を開き、調査結果に対する見解をすり合わせた上で、本会合でのやりとりを事前に打ち合わせていたことが判明している。この問題が取り上げられた3日の県議会で村田文雄副知事は「意見などをあらかじめ調整した事実はない」と答弁したが、進行表には「○○先生と要調整」(○○は委員の実名)との記載もあった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121005-00000012-mai-soci

有能な事務局というのであろうが、やはり行き過ぎであると思う。
特に、SPEEDIについては、国や県の責任が問われていることであり、馬脚を現しているというしかない。
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2012年5月29日 (火):依然として不明朗な「藪の中」/原発事故の真相(32)

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2012年10月 5日 (金)

隠されていた(?)双葉町の高線量/原発事故の真相(48)

9月21日、昨年の3月12日、福島第一原発1号機が水素爆発を起こす直前、福島県双葉町で1590マイクロシーベルト/時という高線量が観測されていたことが発表された。
なぜ、発表までに1年半の時間を要したのか?

 福島県と東京電力は21日、福島第一原発1号機が水素爆発する直前に、原発から約5・6キロ・メートル北西の同県双葉町上羽鳥で、毎時1590マイクロ・シーベルトの放射線量が計測されていたと発表した。 
 原発敷地外で記録された放射線量としては過去最大。
 原発周辺に設置された19台の放射線観測装置からメモリーカードなどを回収し、解析した。
 毎時1590マイクロ・シーベルトが観測されたのは、3月12日午後3時。観測前の同日午前は、津波で電源が喪失して、破損の危険性が高まった原子炉の圧力を下げるため蒸気を逃がす「ベント」が行われていた。同日午後3時36分には、福島第一原発1号機で水素爆発が起きている。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120921-OYT1T01229.htm

観測したのは、双葉町上羽鳥に設置されていたモニタリングポストである。
東日本大震災で通信回線が途絶したが、線量を記録したメモリーカードは昨年5月、原子力センターの職員が回収していた。

 ところが、メモリーカードは1年以上「放置」された。同センターでコンピューターを使った解析作業が本格的に始まったのは、今年7月。解析された数値が、データの公表などを担当する県災害対策本部に送られてきたのは「8月中旬−下旬ごろ」(災害対策本部担当者)だったという。
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20121003153317702

福島県原子力センターの安江高秀所長は、作業が遅れた理由を、「メモリーカードを情報解析できる専門知識を持った職員は4人いるが、核となるメンバーで現在進行形の線量の情報を把握することを優先し、事故前のデータの解析に回す余裕はなかった」という。
しかし、1号機の水素爆発に先立って放射性物質が漏れ出していたわけで、ベントによるものと考えられる。
とすれば、当然人為的な操作の結果であり、住民に一刻も早く周知しなければならないところである。
ベントが行われていた以上、高い線量を予測して解析すべきではなかったのか?

一般の人の被ばく線量限度は年間1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルトといわれているから、1590マイクロシーベルトでは40分足らずで限度に達してしまうことになる。
1年半も公表が遅れたというのは尋常ではない。
県の災害対策本部の遠藤光義主幹は「結果として公表が遅れて申し訳ない」と謝罪するが、遅れた原因は何なのか?

古川名誉教授(名古屋大・放射化学)は「国には、あまり線量のことを大げさにしたくない雰囲気があった。今回の数値は人前に出すと大騒ぎになる数値。発表を遅らせる、という最悪の判断が働いたのではないか」といぶかる。
 京都大原子炉実験所の小出裕章助教も「放射線量の観測は人命を守るためにやっている。過去の観測結果はすぐに公開するのが筋で、福島県はあまりに無能だ。国が都合の悪い情報を隠そうと県に圧力をかけた可能性も否定しきれない」と語りつつ、そう疑う根拠をこう端的に言い切った。
 「福島原発事故後の東電や行政の対応を振り返れば、情報統制のオンパレードだった。本当にひどい国だと思う」

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20121003153317702

民主党政権は、SPEEDIのデータも、パニックになる恐れがあると隠蔽していた。
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2012年2月29日 (水):民間事故調報告書/原発事故の真相(18)
⇒2012年5月29日 (火):依然として不明朗な「藪の中」/原発事故の真相(32)
この際、公表が遅延した経緯を、徹底的に検証されなければならないと思う。

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2012年10月 4日 (木)

改造野田内閣をどう評価するか?

10月1日、野田改造内閣(第三次)が発足した。
何度も書いているが、有権者との約束を破り、現在の民意からも離れている野田政権に正当性はない。
速やかに解散総選挙を実施すべきだと思うが、どうやら「近いうち」に解散するという言葉は反故にされそうな雰囲気である。

野田内閣が誕生したのは昨年9月であった。
⇒2011年9月 3日 (土):野田首相は菅前首相の献金疑惑の闇をどこまで明らかにできるか
⇒2011年9月10日 (土):「閣内てんでんこ」の野田ドジョウ政権と言葉の力
爾来、何回の閣僚・民主党役員人事を行ったのか?
口癖のように、適材適所、機能強化を言うこと自体、迷走政権の実体を示している。
演説に定評のある野田氏だが、その言葉は空転して心に響かない。
現在のように、難題がいくつもある時代に、問題の認識のセンスが欠如したリーダーは、有害無益ではないか。

改造人事で目につくのは、党役員と閣僚の相互入れ替えであろう。
前原誠司政調会長を国家戦略担当相に、樽床伸二幹事長代行を総務相に、城島光力国対委員長を財務相に起用する一方、安住淳財務相を幹事長代行に、細野豪志原発担当相を政調会長に就ける「たすき掛け人事」を行った。
党役員と閣僚の交流を図ること自体は、政策遂行力という観点から悪いことではない。
政府と与党は本来一体的であるべきだろう。
菅政権末期のように、与党が首相に引導を渡す努力をし始める事態は異常であった。
⇒2011年8月 5日 (金):与党が首相退陣の条件を整えるためにマニフェストを放棄する不可解
⇒2011年7月13日 (水):民主党有志、全国知事会、西岡参院議長の菅首相批判

私は民主党の党内事情に明るいわけではないが、今回の改造の意図は何だろうか?
野田氏が、「政治生命を賭けた消費増税」のために、自民等の谷垣総裁(当時)と交わした「近いうち」に解散するという約束を履行しようと考えた体制なのか?
あるいは、解散を可能な限り先延ばししようと考えた体制なのか?

いずれにせよ、今回の人事で弊害が生じることは目に見えている。
たとえば、環境関連の施策である。
福島第一原発事故の対応という意味でも、放射能汚染対策は重要な課題である。

環境省関連では、細野大臣と横光副大臣が共に交代した。
細野氏は、民主党代表選への出馬を、原発事故への対応を理由に見送ったはずだ。
原発事故は「収束」はしないまでも、一段落したと考えているのであろうか?
⇒2012年9月10日 (月):嘆くべきか、嗤うべきか、民自両党党首選の猿芝居
⇒2012年9月27日 (木):W党首選の結果と両党あるいは日本の将来

また、環境副大臣だった横光克彦氏は、原発事故で発生した「指定廃棄物」の最終処分場の選定を指揮してきており、栃木、茨城両県の候補地の選定に深く係わってきた。
両県とも反対運動が広がる中での責任者交代には、首を傾げざるを得ない。
選定された地元からも不満の声が聞こえるようだ。

 矢板市の反対運動組織の江部和栄副会長(68)は「党内事情による交代ではなく、留任の道はなかったのか。(横光氏が)言ってきたことに責任がなくなるのではないか」と懸念を示す。高萩市の草間吉夫市長も「唐突な感じ。伝達に来た副大臣がこの時期に代わってしまうのはいささか疑問が残る」と指摘した。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012100490071246.html

総じていえば、ガタついている党内の融和を優先したということだろう。
しかし、そんな発想の人事で国難に対処できるとは思えない。
国民が民主党に政権を託したのは、社会保障を抜本改革し、その財源は消費税でなく、税金の無駄遣いをなくして創り出すと訴えたマニフェストによってである。

もちろんいろいろな事情で、マニフェストを履行できない場合も起こりえよう。
しかし、基本的な考え・コンセプトの部分を放棄し、争った野党と野合してマニフェストに書いてないことを実現しようということは、国民を裏切ること以外の何物でもない。
菅前首相は、「選挙で選ばれた政権の任期中の独裁」と言った。
この言葉に一理があるとすれば、「マニフェストを忠実に履行している限り」という条件が必要であろう。
そうでないことがはっきりしている以上、速やかに総選挙を行うべきだ。

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2012年10月 3日 (水)

自民党総裁選の決選投票をめぐる因縁/戦後史断章(1)

自民党の総裁選は、第1回目の投票で2位だった安倍氏が、1位だった石破氏を破った。
40年ぶりの決選投票で、逆転勝利は56年ぶりのことだ。

 自民党総裁選は26日午後、東京都千代田区の党本部で投開票され、安倍晋三元首相(58)が新総裁に選出された。党員・党友による地方票(300票)で過半数を獲得した石破茂前政調会長(55)が1回目の投票でトップに立ったが、国会議員票(198票)だけによる決選投票で逆転した。決選投票は40年ぶりで、決選で逆転したのは56年ぶりとなる。
http://www.asahi.com/politics/update/0926/TKY201209260314.html

総裁選の顔ぶれ自体には、正直なところあまり興味が湧かなかった。
⇒2012年9月10日 (月):嘆くべきか、嗤うべきか、民自両党党首選の猿芝居
⇒2012年9月14日 (金):民自両党の党首選候補者/花づな列島復興のためのメモ(141)
⇒2012年9月21日 (金):野田氏のポジショニングは自民党総裁候補と無差別

しかし、56年前の総裁選の逆転劇は、戦後史の1つの画期だったように思われる。
1956年12月14日に行われた総裁選は、鳩山一郎前総裁が、モスクワでの日ソ共同宣言への署名により日ソ国交正常化を果たし、引退の意思を表明したことにより始まった。
1955年11月15日に、自由党と日本民主党の保守政党が合同して、いわゆる「保守合同」が成った。
これに先行して、左右両派に分かれていた日本社会党が再統一していたので、「55年体制」という戦後の歴史を規定する枠組みが整ったことになる。
この総裁選に、岸信介、石橋湛山、石井光次郎が立候補した。
保守合同に至るさまざまな思惑や駆け引きが背景にあったので、争いは熾烈を極めた。

1回目の投票で1位の岸が過半数を獲得できなかったため、決選投票となり、石橋が当選した。
私が小学生の時のことであるが、石橋が私の住んでいる地域の選出だったこともあり、かなり鮮明に覚えている。
当時は中選挙区制であったが、石橋は静岡県東部(静岡2区)という区割りの選挙区だった。

石橋は、戦前は『東洋経済新報』を拠点にしたジャーナリストだった。
一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えた。
岸が満州国の高級官僚だったことを考えると、「石橋VS岸」は宿命的な関係ともいえる。
鳩山引退後、アメリカ追従を主張する岸に対して、石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張した。
決選投票での逆転には石橋派参謀の石田博英の働きが大きかったといわれる。

組閣は難航した。
岸支持派との間でしこりが残り、石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われたためである。
そのため、一時的に石橋自身が全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して一人内閣として発足した。
日本を反共の砦としたいため、岸の勝利を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したらしい。
混乱は、岸を副総理で迎えることにより、なんとか収拾した。

内閣発足直後に石橋は全国の遊説行脚を敢行して、有権者の意見を積極的に聞いてまわった。
しかし帰京した直後に、脳梗塞により自宅の風呂場で倒れる。
石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣を表明した。

石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。
もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのだといわれる。
岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。

石橋の後を継いだ岸は、「60年安保」の当事者として戦後政治史に名を残す。
岸の評価はともかく、自民党新総裁の安倍氏の母方の祖父が、岸であるのは奇妙な因縁である。
私にとっては、56年前の逆転敗北を裏返したような既視感のような感覚である。
安倍氏によって、果たして政権奪回となるのであろうか?

それにしても、自民党の今回の総裁選を眺めていて、「石橋VS岸」の争いに比べると軽量級の感は否めない。
「石橋VS岸」の争いは、国家像を賭けた争いだった。

同時に、石橋の出処進退の見事さが改めて偲ばれる。
民主党が自民党を超えようとするなら、一度は引退を口にしながら、いつまでも影響力を行使しようとする鳩山由起夫氏や、延命のため詐欺師まがいの言動をする菅直人氏に引導を渡すべきであろう。

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2012年10月 2日 (火)

電波三国志の新局面

電波は有限の資源であり、その利用は許認可の対象である。
スマートフォンの普及にともない、電波の争奪戦も熾烈になってきた。
キャリアの数はイー・アクセスを含め4社だけであるから、三国志にも似た戦略的な戦いの構図にならざるを得ない。
⇒2011年9月23日 (金):電波利権の構図はどう変わるか?

iPhone5の発売と連動して、ソフトバンクが新たな戦略を仕掛けた。
イー・アクセスを完全子会社化すると発表したのである。
ソフトバンクは、ボーダフォン買収以降大型買収を控えていたが、劇的な発表であり、孫社長らしい大胆さといえよう。

 国内携帯電話会社三位のソフトバンクは一日、四位のイー・アクセス(イー・モバイル)を買収し、来年二月をめどに完全子会社化すると発表した。傘下のソフトバンクモバイルとイー社を合わせた契約数(八月末時点)は約三千四百三十四万件で、二位のKDDI(au)の約三千五百八十八万件に肉薄する。
 株式交換によって、イー社株を千八百二億円で取得する。今回の買収で国内の携帯電話会社は首位のNTTドコモを含めて三社に集約される。
 スマートフォン(多機能携帯電話)普及でデータ通信量が急増する中、携帯電話各社は通信回線拡充を進めている。ソフトバンクは光回線並み高速通信規格「LTE」サービスで先行するイー社の通信網を活用。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2012100202000120.html

カギとなったのは、「LTE」という規格への対応である。
先ごろiPhone5の発売が始まった。
私の知人にも、早速購入した人がいる。
iPhone5のウリの1つがLTEへ対応していることだ。

LTE(Long Term Evolution)とは何か?

LTEとは新しい携帯電話の通信規格のことである。現在、日本では主に第3世代(3G)の通信システムが使われているが、LTEはその次の世代の新しい通信方式だ。世界的には第4世代(4G)通信として扱われることが多い。
余談だが、厳密にはLTEは3Gと4Gの中間技術であり、3.9Gとも呼ばれている。しかし、国際電気通信連合(ITU)がLTEとWiMAXについて「4G」という名称を使うことを認めており、米国の大手キャリアや端末メーカーはLTEを「4G」としている。日本のキャリアでは、auとソフトバンクが実質LTEと同じサービスを「4G」と呼んでいる。

http://appllio.com/android-mobile-topic/20120210-1566-Summary-of-LTE

要するに、LTEになると「通信速度が速くなる」のだが、現時点ではLTEに対応しているエリアは限られている。
エリア外では自動的に3G通信に切り替わるが、エリアの拡大が重要な課題になる。
そこでソフトバンクは、イー・アクセスが3月からLTEを始めた1.7ギガヘルツ帯の周波数に目を付けたということである。

さらにソフトバンクがテザリングを実施しようとしていることも、イー・アクセスの買収を後押しした。
テザリング(tethering)とは、通信端末を内蔵したモバイルコンピューター(スマートフォンなど)を外付けモデムとして、他のコンピューター等をインタ-ネットに接続することである。
現状のネットワークでテザリングしようとすると、混雑現象によって通信障害が起きる可能性がある。

Photo_2 実はKDDIも周波数帯拡大を狙い、ソフトバンクより早い時期からイー・アクセスや、同社の筆頭株主で約3割の株式を保有する米ゴールドマン・サックスに接近していた。しかし買収金額を巡って折り合いがつかない状態が続いていたもよう。慌てたソフトバンクはその間隙を縫い「この1~2週間で巻き返した」(関係者)という。
 ソフトバンクにとってイー・アクセスをKDDIに奪われるのは死活問題だった。ソフトバンクは7月、「プラチナバンド」と呼ばれる900メガ(メガは100万)ヘルツ帯の周波数の運用を始めたが、それでもNTTドコモとKDDIに比べて電波の割り当てが少ない。KDDIがさらに電波を増やせばiPhoneの販売競争で後手に回るのは確実だった。
 一方、イー・アクセスはLTEを使ったデータ通信事業に強みを持つが「今後、インフラ投資負担に耐えられる体力が乏しい」(証券アナリスト)。ゴールドマンなどは「LTE向けに新たに周波数帯を割り当てられた6月以降、売り抜ける意向だった」(大手通信会社幹部)といわれ、ソフトバンクの提案は渡りに船だった。イー・アクセスの千本倖生会長は1日、「ほかにも提案があったがソフトバンクが最良と判断した」と語った。
 同社とソフトバンクに基地局を提供するのはスウェーデンのエリクソンと中国の華為技術(ファーウェイ)が主力。今回の買収はインフラ調達でも相乗効果が大きい。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC0100E_R01C12A0EA2000/

ソフトバンクは時価の3倍という条件を提示したとのことである。
イー・アクセスの株価は、前日の終値が19,000円だったが、この発表を受けてストップ高に張り付いたままで引けた。
果たしてイー・アクセスの株価は、どの辺りに落ち着くであろうか?
Photo_3
これでいよいよ3社のシェア争いということになる。
ユーザーとしての私は今のところ、iPhone4Sで十分である。
知人の手にしていたiPhone5は、確かに高速で反応するようであり、手に持った感じははっきりと分かるぐらい軽量であったが、あえて買い換えるほどのことはないように思えた。
しばらくは高みの見物で成り行きを見ることにしよう。

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2012年10月 1日 (月)

「満州事変」をひき起こしたのは誰か/満州「国」論(3)

歴史の因果関係は複雑である。
しかし、何が根幹で、何が枝葉であるかは、事実関係を調べることによって、自ずから明らかになる面もある。
満州事変についても、現在は石原莞爾らが柳条湖で南満州鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業とする謀略により起こしたもの、という見方が定着している。
⇒2012年9月18日 (火):柳条湖事件から81年、拡大する反日デモの行方/満州「国」論

しかし、当時の一般民衆は、情報がコントロールされていたため、中国軍が満鉄を爆破したと信じた。
歴史教育者協議会編『100問100答日本の歴史5近代』河出書房新社(9907)に、「「満州事変」をひき起こしたのは誰か」という項目がある。

「奉軍鉄線を爆破・日支両軍戦端を開く」という見出しとともに「暴戻なる支那兵が満鉄線を襲撃したので、我が守備隊は時を移さずこれに応戦した」という新聞報道(一九三一年九月一九日付)は、日本の民衆に衝撃を与え、排外感情を燃え立たせた。

暴動とも言うべき反日デモのTV映像を見ていると、日中の立場こそ逆転しているものの、情報管制下にある民衆の姿が、かつての大日本帝国の姿と重なる。
9月19日の東京新聞コラム「筆洗」は次のように記す。

かつて魚釣島に日本人が住んでいたこと、豊富な海底資源が眠る可能性を指摘されるまで、中国は領有権を主張しなかったことなどを知る中国人は少ない。反日デモが略奪や放火までエスカレートしたことも、ほとんど報じられていない▼「国恥日」と呼ばれる柳条湖事件から八十一年を迎えたきのうも、中国の百以上の都市で反日デモが繰り広げられた。禁漁期明けの漁船千隻が尖閣沖に向かったという報道もあった。破壊された日系企業の打撃は大きく、国交正常化以来、最大の危機である
http://www.tokyonp.co.jp/article/column/hissen/CK2012091902000104.html

現在の日本は、インターネットなどのオープンなメディアの効果により、比較的情報は自由に流通しているように見える。
しかし、福島第一原発事故におけるSPEEDIの予測情報を秘匿するなど、真に重要な局面で都合の悪い情報を隠すといったことが未だにまかり通っていることも事実である。
⇒2011年5月27日 (金):情報の秘匿によりパニックは回避されたのか?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(37)

満州事変当時、日本軍の行動は国民の多くから熱烈に支持された。

「向こうから仕掛けたんやよって、満州全体、いや支那全体占領したらええ」「大体支那の兵隊といえば卑怯なやり方ですからね。うんと仇討ち、賛成ですね」「これで景気がよくなれば助かります」(「神戸新聞」三一年九月二〇日付)
上掲書

年表を見てみよう。

1923 関東大震災。戒厳令発動。
1925 普通選挙法公布。治安維持法公布。
1926 日本労働組合総連合結成。昭和と改元。
1927 金融恐慌。第一次山東出兵。
1928 普通選挙実施。「3・15」事件。張作霖爆殺事件。
1929 ニューヨーク株式大暴落。世界恐慌。
1930 禁輸出解禁。昭和恐慌。
1931 柳条湖事件。

関東大震災から金融恐慌までが4年。その2年後には世界恐慌へ。そして柳条湖事件が起きたのはさらに2年後である。
めまぐるしく世相は動き、関東軍のブレーキが外れるのに時間はかからなかった。
当時の日本は、他に有効な解を構想し得なかったともいえよう。

世界恐慌の影響で、満州の主要生産物である石炭・大豆の価格が下落し、満鉄が創業以来はじめて赤字を出した。
また五四運動以来の民族運動の高まりで、満州における日本の権益が危うくなってきた。
こうした事態を、武力で解決しようと「謀略により機会を作製し」(石原莞爾)たのである。

3年前の張作霖爆破事件の失敗を踏まえ、計画(謀略)は綿密に立てられた。
張作霖事件の「失敗」とは、「国民の満州に対する関心」を喚起し得なかったことである。
そのため、国民の危機意識を高めるため、「満蒙は日本の生命線」「満蒙の危機」が繰り返し叫ばれた。

また、関東軍だけでは満州を占領できないので、朝鮮軍(林銑十郎司令官)が独断で満州へ越境した。
政府は、この朝鮮軍の行動を「出タモノハ仕方ガナキニアラズヤ」と、追認した。

1932年1月8日、昭和天皇は関東軍の行動を、「自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断迅速、寡克ク衆ヲ制シ」「朕深ク其忠烈ヲ嘉ス」と称賛した。
天皇の称賛の言葉により、満州事変は「不可侵」のものとなって、1945年までの14年間の泥沼への出発点となったのである。

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