フルベッキ写真と権力による情報の隠蔽/幕末維新史(1)
8月11日の夜のことであった。
加治将一『ビジュアル版 幕末 維新の暗号』祥伝社(1208)を眺めていたら、見るともなく視聴していたTVから上野彦馬という名前が聞こえてきた。
テレビ東京の「美の巨人 国宝建築②大浦天主堂」という番組であった。
世界に名を馳せる西洋建築の最高峰が長崎にあります。国宝『大浦天主堂』。正式名称は『日本二十六聖殉教者天主堂』と言います。創建されておよそ150年。現存する日本最古の木造教会です。一歩中へ入ると、まず目に飛び込んでくるのは鮮やかなステンドグラス。天井はゴシック様式特有の優美な曲線で覆われています。しかし、これほどの装飾美・建築美を生み出す技術は、当時の日本には無かったはず。
いったいどうやってこの美しい教会は建てられたのでしょうか?さらに、この教会がある奇跡を起こしたというのですが…。それはいったい?
http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/14857_201208112216.html
その大浦天主堂を、日本で最初のカメラマンといわれる上野彦馬が撮影した写真が遺されている。
上野の人物像はWikipediaによれば、以下の通りである。
天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。
個人的には、舎密学(化学)という名前が懐かしい。
工業化学系の学科に在籍していたので、友人たちと舎密塾という勉強会をやっていたことがあった。
遠い昔の記憶である。
加治将一氏の作品についてはすでに『西郷の貌』を取り上げた。
⇒2012年4月16日 (月):『西郷の貌』と万世一系のフィクション/やまとの謎(61)
文章は荒削りだが、着眼点が興味を惹く。
『ビジュアル版 幕末 維新の暗号』のAmazonの内容紹介は以下の通りである。
累計50万部を突破した“加治将一の禁断の歴史シリーズ"(既刊5作)から、『龍馬の黒幕』『幕末 維新の暗号』『西郷の貌』3作を選び出し、ビジュアル要素を1冊に凝縮。宣教師・フルベッキが明治政府に与えた影響とは? 西郷隆盛の「顔」が封印された理由は? 幕末期の古写真を中心に70点の写真が、明治維新という革命の裏面史を浮かび上がらせる。
幕末期の古写真といえば、上野彦馬は欠かせない。
上野が撮影したという説もあるフルベッキの写っている写真が作品のモチーフである。
ちなみにフルベッキとはWikipediaから引用すれば、以下のような人物である。
グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck、或いはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダの法学者・神学者、宣教師。オランダ・ザイスト市出身。ユトレヒトで工学を学んだ。日本では発音しやすいようフルベッキ(Verbeck)と名乗り、現在に至るまでこのように表記されている。両親は敬虔なルター派の信徒とされているが、正確にはオランダ系ユダヤ人であり、いわゆる改宗ユダヤ人である[要出典]。フルベッキはモラヴィア教会で洗礼を受け、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。
先日、知人が下図のような写真を額に入れて置いてあるのを見た。
A3判くらいの大きさの立派そうな額に入ったフルベッキ写真である。
ちなみに、フルベッキ写真とは以下のように解説されているものである。
「フルベッキ写真」とは、フルベッキとその子を囲んで撮影された集合写真の俗称。
この写真は古くから知られており、1895年(明治28年)には雑誌『太陽』(博文館)で佐賀の学生達の集合写真として紹介された。その後、1907年(明治40年)に発行された『開国五十年史』(大隈重信監修)にも「長崎致遠館 フルベッキ及其門弟」とのタイトルで掲載されている。
1974年(昭和49年)、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表した(2年後の1976年にはこの論文の続編を同誌に発表)。島田は彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期を1865年(慶応元年)と推定。佐賀の学生達として紹介された理由は、「敵味方に分かれた人々が写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。
この説は学会では相手にされなかったが、一時は佐賀市の大隈記念館でもその説明をとりいれた展示を行っていた。また、1985年(昭和60年)には自由民主党の二階堂進副総裁が議場に持ち込み、話題にしたこともあったという。また、2004年(平成16年)には、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞にこの写真を焼き付けた陶板の販売広告が掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙の広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。
2009年現在、朝日新聞と毎日新聞は「フルベッキ写真の陶板」広告を掲載し続けている。
この写真の話題は間歇的に復活して流行する傾向がある。ちなみに最初に島田が推定した維新前後の人物は22人であったが、流通する度に徐々に増加、現在では44人全てに維新前後の有名人物の名がつけられている。
現在でも土産物店などでこの説を取り入れた商品が販売される事がある。
また、大室寅吉という名で後の明治天皇が写っているとした説や、「明治維新は欧米の勢力(例:フリーメイソン)が糸を引いていた」説等の陰謀論、偽史の「証拠」とされた例もある。
加治氏は、上掲書の「万世一系のトリック」の項で、次のように書いている。
情報の締め出し、非公開。
福島原発事故の隠蔽工作を見るまでもなく、日本には昔から隠し癖がはびこっている。
先進国なら事実と虚構の間に争いが生じるはずだが、日本では起きない。なぜなら、困ったことに政治家、学者、メディア、基幹産業が官僚支配層にひれ伏しているからだ。そのために論争すら起こらず、ほぼ完璧に封印されてきたのである。
支配層は昔から「隠蔽」「封印」と露骨に言わない。
何と言うか?
上から目線で、「民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず」だ。
その代表が「万世一系」という物語というわけである。
明治維新を『坂の上の雲』のようなイメージで捉えるだけでは、平面的な見方ということになりそうである。
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