井上靖『氷壁』/私撰アンソロジー(16)
井上靖『氷壁』の主人公・魚津恭太が北アルプスD沢で遭難し、死を覚悟して綴ったメモである。
最近は、山ガールなどがファッショナブルな出で立ちで山に行くことが流行っているようであり、それはそれで好ましい光景だとは思うが、一昔前は、登山は基本的に男の世界であり、山登りには男のロマンと呼ぶべき要素があった。
『氷壁』は、1956~57年に、朝日新聞に連載され、1958年に増村保造監督のメガホン、菅原謙二、山本富士子らのキャスティングで映画化された。
井上靖は、映画「わが母の記」の原作者でもあるが、一世を風靡した流行作家だった。
⇒2012年6月 3日 (日):『わが母の記』と沼津・伊豆
1936年に「サンデー毎日」の懸賞小説に入選して千葉亀雄賞を受賞した『流転』が翌年に映画化されるなど、映画化に適したドラマティックな作品が多いともいえる。
『氷壁』新潮文庫(6311)の解説「井上靖 人と作品」で、福田宏年氏は次のように書いている。
今ひとつ指摘しておかなければならないことは、井上靖が象徴的な意味で現代の作家だということである。井上が芥川賞を得て文壇に登場した昭和二十五年は、中間小説と新聞小説の勃興期に当る。幸か不幸か井上はそういう時期に文壇に出たのである。中間小説と新聞小説は昭和三十年頃に最盛期を迎えるが、井上もまた昭和三十年を中心とするほぼ十年間に、これが一人の人間に書き得るかと思われるほど多くの作品を発表している。
その代表的な作品が『氷壁』である。
同じく解説「『氷壁』について」の佐伯彰一氏の文章を引用しよう。
『氷壁』は、一見いかにもドラマチックな小説だ。前穂高の難所に挑む若い登山家という設定自体が、ドラマチックであるばかりでなく、友人の不慮の事故死をめぐる社会的スキャンダルとの戦い、さらには、男性同士の友情と恋愛とのからみ合い、といった工合に、さまざまな劇的な契機が、この小説の中には投げこまれている。
『氷壁』の重要な題材が、実際に起きたザイル切断による山岳事故である。
その原因解明に半生をささげた元高専教授、故・石岡繁雄さん=三重県鈴鹿市=の遺品が母校の名古屋大学図書館へ寄贈され、研究資料として活用されるという。
一九五五年一月、鈴鹿市の山岳会が北アルプス前穂高岳東壁を登はん中、ザイルが切れて石岡さんの弟=当時(19)=が転落死した。切れたナイロン製ザイルは当時、高い強度を売りにした新製品で、メーカーは公開実験で安全を強調。石岡さんは自宅裏に研究所を建てて独自に実験を重ね、欠陥を指摘した。
後にザイルはとがった岩角に弱いことが判明し、七五年に国がザイルの安全基準を設けるきっかけになった。
石岡さんが二〇〇六年に亡くなった後、次女あづみさん(60)やかつての教え子たちが資料を整理しデータベース化してきた。活用先を探すうち、名古屋大が大学ゆかりの著名人として石岡さんに関心を寄せていることを知り、寄贈を決めた。
遺品の四分の一は、事故の検証に関する資料が占める。ザイルが切れた現場の岩角を型取りして再現実験に使った石こう模型や、ザイルの切断面が映されている遺体発見時の8ミリ映像などだ。
井上が読んで感動し氷壁を執筆するきっかけになった石岡さん作成の冊子や、石岡さんの著書に添えるため井上が寄せた肉筆原稿もある。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012081302000084.html
井上さんも石岡さんも、もうこの世にはいない。
しかし、文芸作品『氷壁』は今も読み継がれ、石岡さんの研究は後輩たちの研究の道しるべになる。
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