メモを取れないハンディ/闘病記・中間報告(52)
三嶋大社で「古典講座」というのをやっている。
東洋大学の菊地義裕教授が、万葉集を題材に、日本文化の伝統について講義している。
http://www.mishimataisha.or.jp/classic/
⇒2009年7月20日 (月):カタリの諸相
受講料も手ごろなので発症前から受講していたが、病気で中断を余儀なくされていた。
今年度から再受講しようと思っていたのが、再入院と重なり6月からの受講となった。
昨日は今年度の4回目、私としては2回目の講座だった。
講義を聴いていると、メモを取れないことの不便さを痛感する。
左手は何とか読めるくらいまでは訓練したが、速度が実用的なレベルではない。
右手は、自助具を付けて、やっとスプーンが持てるようになったところで、字を書くには程遠い。
私は、かつてメモ魔というほどではないが、比較的メモをよく取っていた方だと思う。
しかし、せっかく取ったメモも、自分が議事録を作成するとき以外は、あまり見直すことはなかった。
メモを取る労力はムダだったのだろうか?
メモは何のために取るか?
メモ(メモランダム)は、日本語で言えば、「覚え書き」とか「備忘録」である。
つまり、「覚え」のために、あるいは忘れないために(忘れたときに備えて)書く。
メモは普通手書きである。
私は右半身不随になって、気楽に手書きのメモを取れなくなった。
そして、メモがモノを考える上で、非常に大きな役割をしていることを再認識した。
アタマの中をメモ的に「見える化」することで、考えが前に進む。
アタマの中だけの作業だと、循環してしまいがちである。
つまり、メモを気楽に取れないということは、考える上での大きなハンディキャップである。
7月5日の東京新聞のコラム「筆洗」が、メモの重要性に触れていた。
はっといいアイデアが浮かんでも、それを書き留めなかったため、思い出せないという苦い経験を持つ人は多いはずだ。一瞬のひらめきは、消えてしまうのもあっという間である▼ノーベル化学賞受賞者の福井謙一さんは枕元だけではなく、テレビを見る時も、散歩の時も鉛筆とメモ帳を用意していたという。「メモをしないでも覚えているような思いつきに、大したものはないようである。メモをしないと、すぐに忘れてしまうような着想こそ貴重なのである」(『学問の創造』)▼自宅や職場のあちこちに付箋やメモ帳を置き、つまらないアイデアでも、すぐにメモしようと身構えるわが身だ。ノーベル賞学者が地道な努力を重ねていたことを知り、なぜか安心してしまった
もちろんノーベル賞学者とわが身を比ぶべくもないが、コラム氏のように、「すぐにメモしよう」と思っても、それができないことが残念だ。
スマートフォンのメモ機能である程度は代替できるが、左手だけの入力速度には限界がある。
人間の手は、実に器用なものだと思う。
今までほとんど意識することなく、字を書いたり、箸を持ったりしている。
しかしこれらの作業は、かなり微細な制御を必要としている。
左手については、発症直後から機能向上訓練を始めた。
生存のためには先ず食が条件であるから、箸を使えることが重要になる。
もちろん、スプーンなどで代替できる部分はあるが、やはり日本人としては、箸で食事をしたい。
最初は、左手で箸を使うのは非常に難しいことだった。
2本の箸をバネで繋いだ「バネ箸」で、小さく千切ったスポンジから始めた。
次第に豆状のものなどを摘む訓練などに取り組むようになったが、体験上大きな効果があったのは、字を書く訓練だった。
右手で字を書いていた人間にとって、左手で字を書くのは容易ではない。
小学生のように、書き取り帳を埋めていった。
書き取り帳が何冊かになった頃、何とか読める字が書けるようになった。
利き手の交換ということになるが、書く速度が問題である。
会議などでメモを取るには、一定のスピードが必要である。
もたもたしていると、話題が変わってしまう。
回復期の病院を退院後、字を書くことの作業のほとんどは、パソコンで行うようになった。
この文章ももちろんパソコン入力である。
逆に言うと、せっかく練習した左手で字を書く機会は、病院の受付ぐらいしかない。
右手の機能回復には、発症後継続して取り組んできた。
2年半以上経過して、やっと手指はゆっくりと動くようになってきた。
しかし、実用になるためには、速度、持続力、保持力等の点で、まだまだほど遠い状況である。
右手の機能回復を願いつつ、思うに任せない「手をじっと見る」日々である。
⇒2012年5月26日 (土):霧島リハセンターを退院/闘病記・中間報告(51)
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コメント
こんにちは。
人間の機能は本当に微細に出来ているか、機能回復というのは時間と忍耐のいることですね。
パソコン入力と言うことですが、キーボードをたたいたり、検索したり、編集引用したり、という作業に関して、通常のキーボード機能でやっておられるのですか?
右指、左指の機能障害は、入力においてはどのようにリカバーされているのでしょう。
投稿: kimion20002000 | 2012年7月28日 (土) 02時23分
kimion20002000様
コメント有り難うございます。
特に、手指はきわめて微細な動きができるようになっていることには、あらためて感心するばかりです。
回復期の入院の時以来、せめて右手でマウスくらい操作できるようにと、作業療法士と話をしてきましたが、未だにできません。
キーボードは一般のものを使っていますが、現在右手は、シフトキーを押すくらいの役割をやっとできるようになった段階です。道は遠いですが、歩き続けるしかありません。
投稿: 夢幻亭 | 2012年7月28日 (土) 23時54分