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2012年5月 5日 (土)

原発ゼロをどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(60)

今日、北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村)が定期検査に入る。
いよいよ、国内の商用原発で稼働しているものがゼロという「原発ゼロ」状態になる。
大飯原発に見られるように、原発再稼働の見通しは立っていない。
「原発ゼロ」をどう考えるか?

再稼働推進派の産経新聞の「主張」を見てみよう。

 原発ゼロのまま猛暑になった場合、政府の需給検証委員会は日本全体で0・4%の電力不足になると試算している。電力会社は気温上昇などに備えて最低3%の供給力の余裕を持つべきだとされることを考えれば、事態は深刻だ。
 なかでも原発依存度が高い関電管内での電力不足は16・3%に達する。
 同委員会では連休明けに、節電などでどれだけ供給不足を補えるか結論を出すが、焼け石に水程度。関電管内では、企業など大口顧客向けの電力使用制限令発動とともに、地域や時間を決めて順番に電気を止める計画停電の検討は必至の情勢だ。

http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/120505/trd12050501100002-s.htm

原発が稼働しない限り、需要に供給が追い付かず、計画停電が現実のものになる。
私のように、東電の配電エリア内に住んでいる者は、計画停電の耐え難さは身に沁みている。
その1つの原因は、計画の主体は東電であって、受電側は計画が立てづらいということである。
配電の仕方は、もっと工夫ができるはずだ。

その以前に、需給ギャップの中身を検討すべきではないか?
そして、その前提として、関電など電力会社は、データをすべてオープンにすべきだろう。
問題となるピーク時の需給構造はどうなっているか?

たとえば、朝日新聞社と高野連が主催する「全国高等学校野球選手権大会」である。
8月の暑い盛りに、日中に甲子園球場で行われる。
白球を追う球児たちの姿は多くの国民を魅了し続けている。
私も「魔物が棲む」ともいわれる甲子園の筋書きのないドラマのファンである。

しかし、日本の電力供給は全国高等学校野球選手権大会をピークに調整を行っているといわれる。
真偽は不明であるがピーク帯であることは間違いないだろう。
もし、甲子園の熱闘がピーク電力と同期していたらどうするか?

計画停電と、甲子園をズラスことが究極の二者択一だったらどうするか?
答えは人によって異なるだろう。
二者択一の候補もまた人によって異なる。
最も好ましいのは、瞬間ごとの電力料金の調整である。
ピーク時に最高の料金になる料金体系が可能ならば、「神の見えざる手」によって需給は調整される。

現実には不可能であるが、思考実験としては可能である。
そして、思考実験により、最適化への近似解の精度を上げていくことも可能であろう。

私が疑問に思うのは、原発のコストがどう見積もられているか、である。
フクシマの事故により、今なお、故郷を放棄せざるを得ない多数の人がいる。
また、国土の少なからぬ部分が放射能で汚染されてしまっている。
除染し切れるものではないだろう。除染が可能にしても膨大な費用がかかると思われる。

特に、生態系への影響はどう見積もられているのか?
水域の汚染を通じて、生態系への影響は今後も拡大していくだろう。
これらの社会的費用を計算した上で、そのコストと犠牲にすべき利便性や楽しみが天秤にかけられるようなことを考えるべきではないのか?

おそらく、原発のコストは、現在の想定よりも遥かに高いものになるはずである。
そういうデータに基づいた議論を飛ばして、危機感を煽っても賛同を得られないことを、政府や経団連、商工会議所などの原発再稼働推進論者は知るべきである。

朝日新聞「社説」は次のように言っている。

 いま、政治への国民のいら立ちをうまくすくいとっているのは、再稼働問題で政府を批判する橋下徹大阪市長なのだろう。
 ただ、有権者が政治家個人の突破力に期待するばかりでは、行き詰まる。
 原子力をどのように減らし、新たなエネルギー社会をどう構築するか。私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない。それは、原発政策を国に「おまかせ」してきたことからの教訓でもある。
 低線量被曝の問題も同様だ。除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ。自分自身で学び、合理的だと思う考えを選びとるしかない。

https://mail.google.com/mail/u/0/?hl=ja&shva=1#inbox/1371a905ffa8db8f

「私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない」にしても、「除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ」としているのは、朝日らしい(?)腰の定まらない書き方である。
明確な線引きができなくても、どちらかを選択しなければならないケースは多い。
科学者の意見が割れているのなら、その判断の分岐ぼ構造を含め、伝えるべきだ。
「国民のいら立ちをうまくすくいとる」のも、ジャーナリズムの1つの役割だろう。

朝日新聞の池澤夏樹さんのコラム「終わりと始まり」(西日本本社版5月5日掲載)に次のような文章がある。

 
 「計画的避難区域」という場合の「計画的」とはどういうことか? 事態に押しまくられてしかたなく避難するのではなく、自分たちは状況を掌握した上でことを進めているという弁明。
  「警戒区域」だって実際には「禁止区域」、正確に言えば「高い放射線量ゆえに一般人の立ち入りが禁止される区域」だ。警戒などで済むはずがない。
 この区域の呼び名が今回変わった。
  「避難指示解除準備区域」とはよくも作文したものだ。「もうすぐ帰れますから待っていて下さいね」という猫なで声を官僚文体にするとこういうことになる。それだって年間の放射線量のリミットを20ミリシーベルトという高い値に設定した上での話だ。国民の生命の値段が安かった旧ソ連でさえ5ミリシーベルトを基準としたのに。安全ですと言われて帰る人たちの不安、それでも帰らないと決める人たちの無念の思いはどうするのだろう。

http://cub-chanchan.cocolog-nifty.com/cub/2012/05/post-81c9.html

いわゆる「霞が関文学」というレトリックの一端だろう。
計画停電という言い方にも共通するものがある。
続けて池澤さんは次のように言う。

 福島第一の事故は2万人以上が住む国土を住めない土地にしてしまった。国土は国の基本である。石原都知事は尖閣諸島を買うと勇ましいが、「帰還困難区域」の規模は領土問題の比ではない。尖閣諸島や竹島はおろか北方四島と比べてもその喪失は遥かに大きい。
 そこは絶海の無人島ではなく、たくさんの住民が暮らしていた愛しい地である。千年も前から耕して作物を育て、家畜を飼い、町や村を営んできた。それを我々は失ってしまった。今後何十年か、ひょっとしたら何百年か、住めない地域を作ったということを、国家としての日本はどう受け止めるのか。
 昔の国家主義者ならば、罪万死に値すると言っただろう。

朝日はコラムニストに頼るのではなく、「社説」で語れ。
東京(中日)新聞「社説」は次のように書いている。

 ゼロ地点に立ち止まって考えたい。震災は、原発の安全神話を粉々にした。安全神話の背後にあるのが経済成長の呪縛である。原発、あるいは原発が大量に生み出す電力が、日本経済を支えてきたのはもちろん疑いない。
 経済成長を続けるため、電力需要の伸びに合わせて、高出力の原発を増設し続けた。そうするには、原発は絶対に安全でなければならなかったのだ。その結果、原発は安全神話に包まれた。
 消費者も、そのことにうすうす気づいていたのだろう。日本は世界唯一の被爆国である。私たちの記憶には世界中の誰よりも核の恐怖が染み付いている。経済成長がもたらす物質的な豊かさは、恐怖さえ、まひさせたのかもしれない。被爆国としての倫理に勝るほど、成長の魅力は強かったのか。
 成長神話にも今は陰りが見える。目の前の転換点は、消え残る神話と呪縛を克服し、被爆国の倫理を取り戻す契機になるはずだ。経済の効率よりも、私たちは人間の命と安全を第一に考える。野放図な消費を反省し、有限なエネルギー資源をうまくいかすことができるのなら、新しい豊かな社会を築いていけるはずである。
 優しい社会をつくるため、私たち消費者もエネルギー需給の実態をよく知る必要があるだろう。暮らしを支える電力がどこでつくられ、電気のごみがどこへ葬られるかも知らないで、原発推進、反対の対立を続けていてもしかたがない。電力事業者の誠実な情報開示が必要だし、私たちの暮らしのありようももっと考えたい。

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012050402000068.html

私たちは、政権交代しても、「経済の効率」から抜け出す政権を持ち得なかった。
ドラッカーが処女作『経済人の終わり』を世に問うたのは、1939年のことである。
経済は重要である。しかし、経済は社会の部分に過ぎない。
そろそろ「物質的豊かさ」に替わる生活の豊かさを志向すべきではなかろうか。

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