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2012年5月

2012年5月31日 (木)

野田首相に理はあるか/花づな列島復興のためのメモ(75)

今朝の日本経済新聞の1面は以下のようであった。
1205312
つまり野田首相は、重大な判断を2つしたことが報じられている。
1つは、小沢元代表との会談を踏まえ、消費増税のために自民と連携を模索することであり、もう1つは、大飯原発再稼働を近日中に決定することである。
この2つの判断は、理に適ったものであろうか?

私は2つ共に、まったく理がないものと考える。

消費増税のために自民と連携?
小沢元代表との会談に、首相は「乾坤一擲」という表現で臨んだ。
元代表とはいえ、自分と同じ政党の人間に会って話をするのに、「乾坤一擲」とはずいぶん大げさではないかと思う。
しかし、それは「政治生命を賭ける」と言ってもいる消費税のことがテーマだとすれば、まあ決意表明と考えよう。

しかし、会談後にNHKテレビで小沢氏も言っていたように、その前にやるべきことがある、というのが多くの国民の意見ではないか。
もちろん、政治家は自分の信念に忠実に、国民の反対が強いことも実施しなければならないこともあろう。
野田首相は、政権交代の総選挙の時からそういう持論であったのだろうか?

だとすれば、マニフェストに反対の意見だったということで8ある。
一部に、決定(法案成立)と実施(施行)は別だから(マニフェスト違反にならない)という詭弁を唱える向きもあるようだが、本気でそう主張するのだろうか?

前原政調会長などは、党で決定したことだから(党員ならば従え)、と言っているが、それならマニフェストはどうなのか?
産経新聞「主張」は、「野田首相 公約撤回なぜ打ち出さぬ」として、次のように言う。

 よりよい社会保障と税の一体改革を実現するには、首相は自民党との法案修正協議の進展に全力を挙げるほかない。前提となるのは、民主党マニフェスト(政権公約)の抜本的な見直しだ。
 その点、会談で首相の姿勢は曖昧だった。政策転換を明確に打ち出して協議への道を切り開くしかないのに、「乾坤一擲(けんこんいってき)」の必死さはうかがえなかった。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120531/plc12053103130006-n1.htm

党として、見解が変わったというのなら、改めて総選挙をするのがスジではないか。

もう1つの大飯原発の再稼働問題についてはどうか?
国会事故調で、菅前首相の事情聴取が終わったばかりである。
しかし、事故の真相がクリヤになったとはとても言えない状況である。
⇒2012年5月29日 (火):依然として不明朗な「藪の中」/原発事故の真相(32)

国会事故調も政府事故調も最終報告が済んでいない。
今、再稼働に踏み切るということは、福島の事故の教訓は、とりあえず無視することと同義である。
大飯原発再稼働に際して、枝野経産相は、「安全基準におおむね適合している」という言い方をした。
安全基準そのものがお手盛りであることへの批判は置いておくとしても、安全性の問題は、「おおむね」では困る。
枝野氏は、福島の事故対応をめぐっても、未だ総括が済んでいない。

関西広域連合も再稼働容認と報道されているが、それだから「GO」というわけにはいかない。
野田首相は、「私の責任で判断」というが、野田首相の政治生命では償いきれない問題である。

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2012年5月30日 (水)

東電の儲けの方程式/花づな列島復興のためのメモ(74)

一般企業は、「儲け」を出すために、四苦八苦している。
単純化すれば、「儲け」は以下の式で示される。

儲け(利益)=売上げ-費用

すなわち、「儲け」を伸ばすためには、売上げを増やすか、費用を削減することが必要である。
しかし、企業活動は真空の中で行われているわけではない。
競争的環境の中で、売上げを伸ばすのも、費用を削減するのも、相手のある話となり、自社よりも有利な条件のところがあれば、自社以外に移ってしまう。

ところが、電力会社は地域的な独占という形で事業を展開しているため、競争的環境を免れている。
その代わりに、売上げの元になる料金は、勝手には決められない。
しかし、基本的に、価格(料金)は以下の式を元に決められている。

価格=費用+利益

つまり、常に、費用に利益の額を上乗せしたものとして、われわれの支払う料金は決められるのである。
たとえば、人件費はどこの企業でも頭の痛い問題であろう。
優秀な人材を確保しようと思えば、なるべく給与・賞与は厚くしたい。
しかし、厚くすればするほど利益を圧迫する。
このトレードオフのどこで着地させるか、悩みの種であるのが当たり前である。

実質的に破綻している東電はどうか?
今まで人も羨む高給を手にしていたことはよく知られている。
しかし、破綻してしまったので、今までのようにはいかないだろう。
普通の感覚であればそう考える。

しかし、東電は、今夏の賞与を支給しないだけで、冬からは復活するのだという。
現下の経済情勢で、賞与が出ない(出せない)企業がどれくらいあるのか、想像力すら欠如しているのだろう。

人件費を冗費とはいわないが、独占企業の場合は、いくら冗費と思われるものでも、削減しようという自律的な努力が働かない仕組みになっているのだ。
しかも、その構造をなかなか開示しない。
総括原価主義という形で、一般に開示されている資料だけでは、原価の構成が分らないのだ。
しかし、その一端が垣間見えた。

東京電力の利益の構造が、23日に開かれた経済産業省の電気料金審査専門委員会で明らかにされた。
まったく声なき声のサイレント・マジョリティも、声を上げて意思表示をすべきではないだろうか。

東京電力は販売電力量4割の家庭向けからなんと利益の9割を上げていた。
・・・・・・
家庭向けから利益の大半を確保するのは東電に限らない。2006~10年の全国10電力会社の平均でも、販売量4割の家庭向けから利益の7割を稼いでいる。
家庭向けの電気料金は、コストに一定の利益を上乗せする総括原価方式で決まるため安定的利益が見込める。一方、企業向け電力は自由化されており、新電電の参入で価格競争も進んでいる。こうした電気料金設定の仕組みの違いが背景にあるとはいえ、取りやすいところから取るという構図になっていることは否定できない。
・・・・・・
委員会では東電の高コスト体質が取り上げられたが、それに関する説明で高津は「安定供給を最重要視して、品質、安全リスクを冒してまでコスト削減に取り組む意識が弱かった」と、まるでコスト削減のためには品質や安全を犠牲にしてもいいのかと居直ったような発言をして、委員の怒りを買っていた。

http://www.j-cast.com/tv/s/2012/05/24133117.html?p=all

政権交代によって、政-官-財の利権トライアングルの構造が変わると期待したのは、まったくの幻想であった。
民主党政権もまた、その構造の維持に腐心しているのだ。
しかし、永劫にそのような構造は持続できるはずがない。

私は、原発事故を体験した現在こそ、CSR(企業の社会的責任)を真剣に考える好機だと考えた。
⇒2012年5月18日 (金):東京電力は誰のものか?/原発事故の真相(29)
しかし、当の東電にはそういう問題意識がないらしい。

家庭向けの電力供給事業は地域独占であって、競争にさらされていない。
それが企業の存立基盤である「顧客」をないがしろにしている根本ではないか。
サイレント・マジョリティから甘い汁を吸って、強者が分け合うという構造は、税の問題にも共通するのではないか。
社会科学者の時評』というサイトでは、『地域独占企業:電力会社の横暴』の「むすび」の言葉である。

 東電が取引先全般にとって〈おいしい相手〉であった理由が,そこにあった。また,そうした取引経済関係を逆用して東電という超大企業も,日本の産業社会全体を縦・横断的に支配する実力を温存させてきた。いわゆる〈原子力村〉を維持する経費がその〈総括原価方式〉からであれば,たやすく捻出されたわけである。
 電力を生産するための燃料コストが高くなれば,そのまますぐに「総括原価方式」を介して「電気料金」に上乗せすればいい,しかも,この総括原価方式はじかに販売価格に反映させられる。これでは,電力会社においては「原価削減への必死の努力」が生まれる余地もない。
 電力会社は,そういった〈コスト・マインド〉とは無縁であるかのような経営体質を固着させてきた。営利事業の特性面から観察すれば,極度に弛緩した経営姿勢=「費用削減努力の伴わなずとも簡単に利潤が獲得できる」企業体制をもって,日常管理すべてが処理されうる企業体質であった。
 しかも,電力会社が,産業企業用電力は相対的に格安に提供しているのに対して,個人家庭用電力の価格はずいぶん高く設定しており,しかもこちらから,電力会社の「利益の絶対金額:9割」も上げている。となれば,これはまさしく,支配体制=エスタブリッシュメント側の利害一辺倒,利害の不当な重視であって,国民・市民・住民の生活は平然と軽視する経営方針である。
 東電は,福島第1原発事故を起こした企業責任など,いまではどこ吹く風といった風情はないか? この電力会社の幹部は,電気料金値上げの申請について「電気事業法にもとづく事業者の義務というか権利だ」と堂々といってのけていた。民間営利企業で収益獲得=利益計上に苦労している経営者にとって,まことにうらやましい地域独占企業の立場であった。

http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=4340999

国家は究極の独占である。
徴税しやすいところから徴税するというのは、「トーゴーサン=10:5:3」という言葉でよく知られている。
すなわち、税の捕捉割合が、サラリーマン10割、自営業者5割、農林水産業者3割である、ということだ。
「トーゴーサン」が正しいかどうかは別として、口先だけ「身を切る改革」を唱えているが、一向に実体的に進める雰囲気の感じられない国会や行政の改革に比べ、消費税増税だけが突出して表面に出てきているのではないか。

原発再稼働問題も同様である。
安全基準も真剣に議論せず、福島原発事故の調査さえ終了していない段階で、今夏の需給だけで大飯原発再稼働を急ごうとする野田政権は、経済的な評価基準という論理だけで突破しようと考えているようだ。
しかし、被害の全容が分からないで、どうして経済性の評価ができるのか?

いま、政-官-財の利権トライアングルの構造の一端が明らかになった。
私たちは、選挙という意思表示の手段しかないのかも知れないが、もはやサイレントでい続ける訳にはいかない。

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2012年5月29日 (火)

依然として不明朗な「藪の中」/原発事故の真相(32)

国会事故調査委員会における菅前総理の説明は納得的であったか?
残念ながら「No!」といわざるを得ないだろう。
今日の東京新聞社説は、次のように疑問を表明している。

 原発事故で官邸の対応が後手後手に回ったのはなぜか。国会の事故調査委員会で、菅直人前首相らの説明には納得がいかない。非常時に何があったか、「藪(やぶ)の中」で終わらせぬ真相解明が必要だ。
 「総理に十分な説明ができない原子力安全・保安院が問題だ」と菅氏は強調した。原子炉への海水注入をめぐる混乱も、東京電力側の人物の問題だと批判した。一方、自分の言動については、反省の言葉はさっぱりない…。これが菅氏の姿勢だった。
 だが、原発の炉心溶融(メルトダウン)についてはどうか。東電が事実を認めたのは二カ月も遅れた。過酷事故を示す最も重要な情報だ。枝野幸男前官房長官は「炉心が溶けていることは大前提だった」と述べた。
 確かに水素爆発の翌日に、メルトダウンの可能性を記者会見で触れたが、「メルトダウンに至る状況が続いているわけではない」とも当時は語っていた。政権中枢は事実を把握しながら、あいまいな公表を続けてきたことにならないか。重大な背信行為である。
 放射能の拡散予測システム(SPEEDI)についてもそうだ。担当者が試算をしたのに、長く公表されなかった。枝野氏は「公表しろと指示した」と言うが、なぜ実行されなかったのか。速やかに緊急事態宣言を出さなかった点も、菅氏は「支障はなかった」と言う。菅氏や枝野氏の発言は、どこか言い逃れに聞こえる。
・・・・・・
 東電が事故直後に職員の「全員撤退」を政府に打診した点は、言い分が全く食い違う。
 菅氏や枝野氏が「打診があった」と言うのに、東電側は「事実はない」と主張する。撤退していれば、想像を超える爆発が起きた可能性もある。
 民間事故調などと異なり、国会事故調は国政調査権を持つ。その強い権限をフルに活用して、六月中にまとめる報告に向け、徹底的に検証してほしい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012052902000107.html

私は、菅氏や枝野氏の発言に、大きな違和感を覚える。
肝心な点は曖昧にして、何とか時間切れを狙っているように思える。
とても真摯な態度とはいえないだろう。

東電の「全面撤退」問題のように、事故から1年2カ月経つというのに、未だ「藪の中」状態である。
国政調査権があるのなら、関係者に記録を提出させるなど、その権限を有効に使って、真相に迫って欲しい。
メルトダウンの事実やSPEEDIの開示の問題など、一般国民の目から見ると、意図的に情報隠蔽を図ったようにしか見えない。
⇒2011年5月 6日 (金):政府による情報の隠蔽と「見える化」/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(22)
⇒2011年5月26日 (木):情報を隠蔽していた(ウソをついていた)のは誰か?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(36)
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか

菅氏はまた、批判を浴びている事故翌朝の現地視察についても、次のように強弁している。

総理自ら視察することについて、菅氏の最も身近にいた枝野氏は反対したといいます。
 「政治的批判は免れませんと。そういう観点からはお勧めできませんという趣旨のことは、総理には進言いたしました」(当時 官房長官 枝野幸男 経産相、27日)
 しかし、菅氏は、現地を視察したことでメリットがあったと強調しました。
 「現場の皆さんの考え方、見方を知るうえでは極めて大きなこと。顔と名前が一致したことは極めて大きなことだった」(菅直人 前首相)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20120528-00000047-jnn-pol

私も一般的には、現場で実情を確認することは重要であると思う。
しかし、それも時と場合によりけりである。
委員の1人が、現場の吉田所長などの状況を、「墜落しかかっている飛行機のコックピット」に喩えていた。
そういう状況で、パイロットの「顔と名前が一致」することと、パイロットの作業が阻害されることの軽重は、いうまでもない。
⇒2011年3月14日 (月):現認する情報と俯瞰する情報

菅氏は、東電に乗り込ん際の叱責を、「夫婦ケンカの時よりも小さい声のつもり」などと寒い表現で笑いを取ろうとしたりもした。
福島の人間ならずとも怒りがこみ上げてくる。
もう一度お遍路の旅に出て、じっくりと反省すべきではないか。

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2012年5月28日 (月)

国会事故調への期待/原発事故の真相(31)

国会事故調(東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)が重要な局面を迎えている。
海江田万里経産相(当時、以下同じ)、枝野幸男官房長官に続き、菅直人総理を参考人として質疑が行われた。
質疑の様子はUSTREAMで中継されていたが、現時点では詳細を把握できていない。

しかし、事故当時の政府首脳が、どう思考し、どう行動したか検証されるはずである。
福島原発事故は、世界史的な事故であり、事件である。
政府事故調、民間事故調と合わせ、国会事故調が補完し合って後世に伝えるべき記録が作成されることになろう。
国会事故調の目的は、同サイトによれば以下の通りである。
Photo_3
http://www.naiic.jp/

今の時点で、1つの焦点となっているのは、東京電力が現場を放棄して撤退したい意向を申し出たか否かである。
この件に関して、関係者の言い分は、大きくあるいは微妙に異なっている。
枝野氏は、27日の委員会に参考人として出席し、以下のように発言した。

東京電力が福島第一からの「全員撤退」を政府に打診したとされる問題について、清水正孝社長(当時)との電話の内容から「部分的に残す趣旨でなかったのは明確」だと述べた。当時の海江田万里経産相らも同様に説明する一方、東電の勝俣恒久会長らは一部退避だったとしており、官邸と東電の見解の対立があらためて浮かんだ。
 枝野氏によると、3号機で水素爆発があった後の昨年三月十五日未明、清水氏から枝野氏に電話がかかった。枝野氏が「そんなこと(全員撤退)をしたらどんどん事態が悪化して、止めようがなくなる」と言うと、清水氏は口ごもり、反論できなかったという。
 枝野氏はこのやりとりから、清水氏が全員撤退を訴えたことは明らかだと話した。

Photo_2
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012052890070002.html

この他に、SPEEDIの公表遅れが問題視されているが、枝野氏は次のように発言している。

政府の情報発信が十分ではなかったことは認めた。だが、住民への避難指示に関する政府側と専門家の協議内容など核心部分では「記憶にない」と発言したり、釈明が前面に出たりした。調査委員会の委員からは枝野氏への不信をあからさまにする発言も飛び出すなど、改めて官邸の対応に問題があったことを浮き彫りにした。
・・・・・・
 聴取で焦点となったのは、避難指示が拡大されていった点と、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の公表が遅れた点などだ。
 特に、枝野氏が避難指示を発表する際「念のため」という言葉を連発したことについて、被災者代表の委員は「大臣の言葉で右に行き左に行きだった」と述べ「念のために」の避難が今も続いていることへの不満をぶちまけた。枝野氏は謝罪する一方で「ベストを尽くしたつもりだ。今戻ってもあまり違った対応にはならないと思う」と強弁した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/print/120527/plc12052722010010-c.htm

さすがに弁護士である。
ここでも「東大話法」が駆使されているようである。
⇒2012年3月29日 (木):2号機内部の内視鏡映像/原発事故の真相(23)

国会事故調の委員長は黒川清氏である。
「AERA」120604日号に、同氏の紹介記事が載っている。
同記事によれば、日本学術会議の会長として、諸改革を実行した硬骨漢である。
「藪の中」のような事故の原因をできる限り明らかにして貰いたい。

それにしても、国会事故調は6月に最終報告を出す予定だという。
原発再稼働を議論するのはそれからでも遅くはない。

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2012年5月27日 (日)

原子力ムラの懲りない人たち/原発事故の真相(30)

原子力委員会の事務局(内閣府)が、電力会社など原発推進の側だけを集めた非公式な会合を20回以上も重ね、核燃料サイクル政策の見直しを議論する小委員会の審議前に情報を流していたという。
フクシマ原発事故という世界史的な事故が起きても、原子力ムラの論理も倫理も、何も変わっていないのだろうか。

 原子力委員会の事務局(内閣府)が、電力会社など原発推進の側だけを集めた非公式な会合を20回以上も重ね、核燃料サイクル政策の見直しを議論する小委員会の審議前に情報を流していた。
 会合に小委員会から出席していたのは座長だけ。報告書案も事業者に有利になるよう書き換えられていた。
 原子力委員会への信用を根本から揺さぶる事態である。偏向したやり方が発覚した以上、組織は白紙から見直すべきだ。これまでの議論も不正な点がないか検証する必要がある。
 原子力委員会は、国の原子力政策の基本を決める役割を担ってきた。親委員会のもとに、いくつかの小委員会や専門部会が置かれている。原子力を推進する最高機関である。

http://www.asahi.com/paper/editorial20120525.html#Edit1

これに対し、当の原子力委員会の見解は次の通りである。

 核燃料サイクル政策の在り方を検討していた内閣府原子力委員会が電気事業連合会など推進側だけの「勉強会」で報告書原案を事前配布した問題で、同委は25日臨時会合を開き、「事業者の意見を反映し、報告書を書き換えた事実はないが、外部の事業者や関係者への配布が疑念を招き、反省する」との見解を取りまとめた。
 原子力委の近藤駿介委員長は会合後、同委事務局に電力会社から4人が出向していることについて「早期に対応する」とし、見直す考えを示した。
http://jp.wsj.com/Japan/Economy/node_449026

「報告書を書き換えた事実はないが」というが、あったら立派な犯罪であろう。
しかし、たとえ事実がないとしても、決して許される行為ではないことは明らかである。
「外部の事業者や関係者への配布が疑念を招き」ということこそが、現下の焦点となっていることに無頓着、というよりも、通常人の感覚を失っているとしか思えない。

もちろん、電力会社でなければ分からないデータ等もあるだろうけれども、賛否が対立している問題について、一方の側だけで20~30回の勉強会を持つというのは、フェアな態度ではないだろう。
まして、委員会事務局に電力会社から4人出向していることについては見直すのは当然であるが、そういった風土・土壌が問われなければならないだろう。

原子力委員会は、国の原子力政策の基本を決める機関である。
原発事故を受けて、どう改革するのか?
密室の中で、国策が決められていくことに、多くの国民が  不信感を抱いている。
大飯原発再稼働への動きも、このような図式の延長線上のこととして理解できよう。
透明性の確保が必須であるが、果たしてムラの論理と倫理と心情に浸かっている人間に、それが可能であろうか。

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2012年5月26日 (土)

霧島リハセンターを退院/闘病記・中間報告(51)

鹿児島大学病院霧島リハビリセンターでの訓練は昨日までで終了し、今日の午前中退院した。
懐かしいわが家に帰ったのは、19時過ぎであった。
4月19日に入院してから約5週間、長いといえば長い期間であったが、過ぎてしまえばアッという間の出来事だったような気がする。

妻も、最初の1週間と最後の2週間は、近くのビジネスホテルに宿泊して、川平法の基礎的な施術法を学んだ。
入院中に結婚記念日を迎えたので、妻も感慨一入だったようである。
結婚以来、2人で共通の目的でこれだけの期間、共同作業(といっても、患者と施術者という立場の違いはあるが)を行ったのは初めてのことである。

効果はどうか?
私には、連続した時間なので、正直なところ大きな変化は感じにくい。
5週間、朝から夕まで真面目に取り組んでも、目に見えるような目覚ましい結果は自覚できない。

石川啄木の『一握の砂』の中に次の歌がる。

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

この歌の本歌取り、というかパロディで心境を詠めば、以下のようになろうか。

リハすれど
リハすれど猶わが半身楽にならざり
ぢっと手を見る

しかし、全体に麻痺の状態は改善されていると思う。
昨日、終わりだからということでSTEFによる評価をお願いしてやってもらった。
昨年の10月が13点、4月20日の入院時検査で25点、2週間後も25点、4週間後が32点だった。
昨日は35点だった。期待はもう少し高い所にあったが、5週間で10ポイントアップなので、まあまあか。

もちろん、STEFは機能検査の一部であって、実用的な手の動きの評価とは別ではあるが。
あと2週間、合計2カ月やればまた違うのではないか。
事実、霧島リハセンターでも、今までは再入院コースの一般病棟は2カ月でやっていたが、去年の9月4日のNHKスペシャル「脳がよみがえる~脳卒中・リハビリ革命~」の放映以来、問い合わせ、入院申し込みが殺到し、なるべく多くの人に対応するため、5週間に短縮したのだそうだ。
もっとも集中力を途切れさせないのは5週間程度が限界かも知れない。

もちろん、同番組に登場していた人のように、誰もが劇的に麻痺が治るとは限らない。
というよりも、例外的に著しい効果があったので番組に出たと考えるべきであろう。
じっさい、私と入院時期が重なった人の感想もさまざまである。

入院4日で、今まで動かなかった足が動くようになったという人がいる。
一方で、回復期として入院して6カ月になろうとする人が、はかばかしい回復がみられないのにもう退院しなければならない、といった人もいる。
私のように、一般的な回復期を過ぎた人とも何人か話をしたが、各人各様といった感じである。
症状、リハビリの効果は、当然人により異なる。

しかし、5週間のインテンシブな訓練は、やっただけの効果はあるだろう。
とはいえ、入院中の訓練だけでは限界がある。
退院後いかに継続して訓練できるかが課題である。

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2012年5月25日 (金)

維新連合成否のカギ握るブレーンの力/花づな列島復興のためのメモ(73)

石原東京都知事が、「東京維新の会」を立ち上げるらしい。
東京都庁で5月18日に行った記者会見で表明した。

「既存の議員を集めて第3極を作るのは全然興味がない。小沢一郎(民主党元代表)と俺が手を組むことは全くない」と言い切った後で、「東京と大阪が連携して新しい人材を政界に送り込む。向こうが『大阪維新の会』なら『東京維新の会』。全体で連携することで『日本維新の会』を作っていきたい」とぶち上げた。
   これを受けて、さっそく橋下徹・大阪維新の会代表(大阪市長)が「すごいことになりそうですね。ワクワクします」とエールを送った。

http://www.j-cast.com/tv/s/2012/05/21132677.html?p=all

民主、自民の2大政党がまったく信を失った現在、多くの人の関心は「大阪維新の会」や同会代表の橋下氏に集まっている。
⇒2012年3月31日 (土):政治家の信義とは?/花づな列島復興のためのメモ(43)
⇒2012年4月15日 (日):理解と同意/「同じ」と「違う」(46)

石原氏や橋下氏の人気の要因は、即決する判断力や行動力であろう。
ポピュリズムの危うさを指摘する声なもあるが、私は両氏に共通するブレーンをうまく集め、そのブレーンの力を最大限活用とする姿勢を評価したい。
たとえば、東京都副知事の猪瀬直樹氏である。

猪瀬氏は1946年生まれ。略歴は、Wikipediaによれば以下にようである。

信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校、信州大学人文学部経済学科卒業。経済学士。1969年、在学中に、信州大学全共闘議長をつとめた。その後出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。政治学修士。
1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係(プリンスホテル参照)を絡めながら書した『ミカドの肖像』で、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、『日本国の研究』で、文藝春秋読者賞を受賞。
2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。
2007年、地方分権改革推進委員会委員と東京都副知事に就任。

私は、『昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)』(1006)や『ミカドの肖像 (小学館文庫)』(0503)等を読み、緻密で幅広い調査力と読み手を引き込む文章力に惹かれた。
同学年の佐野眞一氏(1947年1月生まれ)と似たタイプという印象を持った。
団塊の世代のトップランナーである。

猪瀬氏の新刊『決断する力 (PHPビジネス新書)』(1203)は、Amazonで以下のように紹介されている。

ソーシャルネットワークを使った情報収集・発信、即断即決→事後承認、見えない恐怖を可視化する、先を見通してリスクの芽を摘む、昨日を基準に今日を生きない…。大震災後、東京都を陣頭指揮するリーダーが、首都直下型地震対策として自ら実践しているノウハウを、ビジネスマン向けにアレンジして紹介。大震災後、東京都を陣頭指揮する副知事の思考と行動20ヵ条。

同書を読めば、ツイッターなどのソーシャルネットワークの威力を実感できる。
時代は確実に変わりつつあるのだ。
「大阪維新の会」にも隠れたブレーンがいるらしい。
浅田均という。

 年金制度のリセット、参議院廃止、首相公選など、大阪維新の会がまとめた〝船中八策〟には、刺激的な政策が並んだ。その起草者であり、来月開講する〝維新政治塾〟の運営をも担う男。それが、元・自民党府議団幹事長で維新の会政調会長、大阪府議会議長の浅田均氏である。
 '50年生まれの61歳。京都大学哲学科からスタンフォード大学大学院へ進み、NHK局員を経てOECD(経済協力開発機構)という華々しい経歴は伊達ではないようだ。維新の会所属の府議会議員・森和臣氏は、彼の活躍ぶりをこう語る。
「発信力の橋下さん、野性的な行動力の松井さん、そして頭脳の浅田さん、この3人で維新は動いてる。浅田さんが東京で評価されてるのは、彼が各党をまわり、先々で維新の会の方針を的確に説明しているからでしょう」
 政策を語らせれば理路整然。素人が多い維新の会の中では、見た目も政治家らしい落ち着きがある。いきおい、永田町の玄人たちには受けがいい。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31914

私は浅田氏のことは知らなかった。
東西の維新の会が危うさを秘めつつ、政界を刷新する起爆剤になり得るとすれば、両者の連合が成立したときであり、そのためにはこのようなブレーンたちの力がカギとなると思う。

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2012年5月24日 (木)

「3・11」後社会のパラダイム/花づな列島復興のためのメモ(72)

「3・11」すなわち大地震による大津波と福島第一原発の事故は、われわれの生き方、文明のあり方に大きな転換を迫るものであった。
としたら、「3・11」後の社会は、従来の考え方とは別の新しい考え方によって考えることが必要であろう。
いわゆるパラダイムの転換である。

パラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」をさします。このような規範的考え方は、時代の変遷につれて革命的・非連続的な変化を起こす事があり(=天動説から地動説への変化など)、この変化をパラダイムシフトと呼びます。シフト前後の考え方に対して、優劣などの価値判断を行わない概念である点に注意してください。
ところでパラダイムと呼ばれる「物の見方や捉え方」には、いくつかの特徴があります。第 1 にパラダイムは、ある時代や分野において「多くの人に共有されて、支配的な規範として機能」します。また第 2 に、異なるパラダイムの間では「互いの考え方が相容れない」場合もあります。そして第 3 に、パラダイムは時に「革命的で非連続的な交代」を遂げることがあります。以上のような特徴を持つ「物の見方や捉え方」を表現する場合に、パラダイムの語が好んで用いられるようです。

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/015paradigm.html

いま焦点となっているのは、エネルギー政策である。
私自身、「3・11」に遭遇して、連想したのは、先ず小松左京の『日本沈没』光文社文庫(9504)であり、次いで映画『ゴジラ』であった。
後者については最初意識していなかったが、予想外に深い含意によって結びついていることを、武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ)』(1105)で知った。
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器/『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

武田さんの映画『ゴジラ』の解読をおさらいしよう。
古生物学者・山根博士は、放射線を浴びても死なないゴジラを研究するべきだとする意見である。
しかし、ゴジラが現実に人々の暮らしを破壊する現実の前に、ゴジラを撃退すべしという意見が圧倒的になる。
芹沢博士の開発したオキシジェン・デストロイヤーは、名前の通り酸素を破壊する物質であり、最終兵器になり得る可能性を持っている。
芹沢博士は苦悩の末、「技術は一度誰かがつかえば、必ず悪用される」として自ら命を断って悪用の可能性を封じる。
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)

武田さんは、映画『ゴジラ』は、被爆の事実を曖昧にしてアメリカの傘の中に入る選択をした日本に一石を投じたものであるが、ゴジラ映画がエンターテイメント化していくのと同期するように、日本人は核エネルギーに対するアレルギーを薄めて行ったのではないか、と問う。
その結果が、地震の巣のような列島に世界有数の原発を抱える原発大国の姿である。
しかし、「3・11」によって、戦後日本の辿ってきたエネルギー政策が厳しく問い直されることになった。
というよりも、エネルギー政策を超えて、社会の価値観、たとえば幸福感を再考しなければならないであろう。

幸か不幸か、「原発ゼロ」の夏を迎えようとしている。
これに対するスタンスは、はっきり分かれている。
産経新聞は、5月19日付の「主張」で次のように政府に原発再稼働を迫る。

 これで本当に夏が乗り切れるのか。政府がまとめた今夏の電力需給対策はあまりに不安要素が多く責任ある対応策とは言い難い。
 特に関西電力管内では原発の再稼働なしに猛暑を迎えた場合、14・9%の電力不足に陥る。これを15%以上の自主的な節電と他電力からの融通で乗り切り、強制使用制限の発動は見送るという。
・・・・・・
 何よりも電力不足の解消と安定供給の確保には、停止中の原発の再稼働が不可欠だ。政府は福井県の大飯原発3、4号機の再稼働への同意を地元に要請し、野田佳彦首相は17日、「最後は私のリーダーシップで意思決定する。判断の時期は近い」と断言した。
 その言葉通り、野田首相は原発の安全性などに全責任を持ち、早期運転再開を主導しなければならない。それが今夏の電力危機を乗り切る最低条件だ。
・・・・・・
 仮に原発再稼働なしに夏を乗り切れても、節電頼みの慢性的な電力不足が続くことを忘れてはならない。安価で安定した電力供給体制は再構築できず、産業空洞化は一層加速する。東電以外の電力料金引き上げも避けられまい。
 電力不足は国力の疲弊という負の連鎖を招き、国の土台を傾ける。政府は肝に銘じるべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/120519/plc12051903220004-s.htm

地方紙の多くは、原発再稼働には慎重である。
5月21日付の信濃毎日新聞社説は、次のように政府の姿勢に疑問を呈している。

 安全性についてさまざまな問題点が指摘されているうえ、滋賀県や大阪市などが疑問を呈している。そうしたなかで、なぜ近い時期に最終的な判断ができるのか、疑問と言わざるを得ない。
 今夏の電力不足を理由に再稼働を急いでいるとすれば、福島第1原発事故の教訓が生かされない恐れがある。

http://www.shinmai.co.jp/news/20120521/KT120519ETI090002000.html

また、5月20日付の南日本新聞社説は、政府の無作為を咎め、政府の目論んでいるような原発再稼働の実現可能性は小さいだろうと読む。

 昨年夏、東京電力管内で実施された計画停電でも分かるように、電力不足が決定的になれば、家庭生活や企業活動に支障をきたしかねない。東京での失敗を反面教師とし、実施に追い込まれても悪影響を最小限にとどめたい。
 その際、万全を期さなければならないのは、医療機関などで手術や治療行為に重大な影響が出ないよう配慮することだ。鉄道など公共交通機関、生産拠点への影響もできる限り抑える必要がある。
 早くから電力危機が叫ばれていたにもかかわらず、利用者に負担を強いることで急場をしのごうとする政府の対応は怠慢というほかない。原発抜きで電力確保に全力を尽くそうとしない電力会社の責任も免れない。
 こうした政府と電力会社の姿勢には、「原発再稼働」ありきの思惑が見て取れる。再稼働さえすれば電力不足は解消するとの安易な考えで、電力供給の計画を立てたとしたのなら、誤算というほかない。ともに反省すべきだ。
 現時点では原発再稼働が見込める可能性は極めて低い。
・・・・・・
 こう言い切れるのは、再稼働の前提条件となる安全性の確保が見通せないからだ。安全審査を担う原子力規制庁の設置が先送りされて、いつになるかめどすら立たない。こんな状況では、再稼働を見込んだ電力需給策を認めるわけにはいくまい。
 家庭や企業など利用者に求められるのは、節電意識を高め、省エネ対策に取り組む心構えである。利用者の努力によって、この夏の電力危機を乗り切ることができれば「脱原発社会」実現の期待も高まる。原発依存から抜け出す最大の契機にしなければならない。

http://373news.com/_column/syasetu.php?ym=201205&storyid=40576

どちらの意見が、「社会の木鐸」に相応しいであろうか?
ジャーナリズムの世界でも、中央から地方への流れが次第に大きくなってきているような気がする。

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2012年5月23日 (水)

節電の夏とグリーンデバイス/花づな列島復興のためのメモ(71)

去年の夏は、福島原発事故の影響で、国民の間で広く節電対策がとられた。
ゴーヤや朝顔で緑のカーテンを設えた家屋も数多かった。
⇒2011年10月13日 (木):節電の夏と琉球朝顔の緑のカーテン

今年は「原発ゼロ」ということもあって、需給は一層厳しくなるものと予想されている。
このため、政府は節電の要請に必死だ。

 野田政権が今年夏の電力需給対策をまとめた。すべての原発が再稼働していないことを前提に、7月2日から9月28日にかけて全国的な節電を要請。電力が最も足りなくなる見込みの関西電力管内は15%の節電を求める方針だ。想定外の電力不足を避けるため、携帯電話の緊急速報メールなどで電気機器の使用停止も呼びかける。
http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY201205180001.html

需給バランスといっても、問題になるのは総量ではなくて、需要のピーク時である。
何を節電し、何の供給は生かすべきか?
一律何%節電とか、一斉に計画停電というのではいかにも無策であろう。
同じ電力でも、必需的な電力も奢侈的な電力もある。
いかにして必需的な電力を供給するか、そのために奢侈的な電力消費を抑制するかに知恵を絞るべきだろう。

政府・民主党は、「原発ゼロ」をあってはならない異常事態と考えているようだ。
⇒2012年5月 5日 (土):原発ゼロをどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(60)
しかし、他方では「脱原発依存」も唱えている。
もちろん、短期的な目標と長期的な目標は異なってもいいだろう。
しかし、短期と長期の関係は分かりやすく説明すべきだ。

そもそも、政府が示したように、 原発が運転開始40年で原則廃炉とする方針とすれば、稼働中の原発も逐次廃炉になっていく。
今の情勢で、原発の新規建設に同意する自治体はないであろうから、40年以内には「原発ゼロ」の時期が来ることになる。
原発の「寿命」については、例外的に60年まで認める考えも出されたが、もはや原発は基幹エネルギー源としては考えられないのではないか。
とすれば、いまの「原発ゼロ」の状態を、未来に向かう一里塚と考えるべきではないのか。
⇒2012年5月13日 (日):原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

しかし、いずれにせよ節電は重要になる。
どうせ節電するなら、知恵のない節電よりも賢い節電で行きたい。
知恵のない節電の典型例は、計画停電による強制的な節電である。

賢い節電に関連する用語として、グリーンデバイスがある。

 グリーンデバイスとは創エネ、蓄エネ、省エネに役立つデバイス・技術の総称だ。太陽電池やリチウムイオン二次電池、パワー半導体、発光ダイオード(LED)照明をはじめ、白物家電の運転を監視・制御するセンサーや液晶パネル向けバックライトの効率を向上する集積回路(IC)などその領域は幅広い。
http://www.nikkan.co.jp/adv/gyoukai/2010/100329a.html

先日、静岡のローカル局で、グリーンデバイスに関連する新技術開発に成功した企業が紹介された。
グリーンデバイスの代表例であるLED照明は高い成長性が予測されている。
Led_2

LED照明の明るさを増すのには、高出力化が必要であるが、高出力にすると発熱のため、劣化が促進され、LED照明の大きな利点である長寿命が損なわれる。
Led

寿命が長いことは、特に街路灯やトンネル内の照明など、メンテナンス費用が高い用途では大きなメリットである。
高出力と長寿命という、一般には相反する要求をどう解決するか?
そのkeyは、熱拡散という概念である。
熱は温度差に比例して逃げる。
しかし、LED照明では、高温にならないで熱がどんどん逃げて欲しい。

熱拡散率の高い材料が求められるというわけである。
Led_3
⇒2009年8月26日 (水):熱と温度 その3.熱伝導率と熱拡散率/「同じ」と「違う」(5)
⇒2009年8月27日 (木):熱と温度 その4.熱伝導率と熱拡散率(続)/「同じ」と「違う」(6)

開発に成功した新素材は、ALC400というアルミニウムとグラファイトの複合材であり、開発した企業は、株式会社エー・エム・テクノロジーという。
グリーンデバイス関連市場は、高い成長性が期待される分野である。
メリハリのある成長政策の目玉になるのではないか。

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2012年5月22日 (火)

東京スカイツリーの開業/花づな列島復興のためのメモ(70)

今朝は気持ちよく晴れた。
昨日がこういう天気だったらと思うが、こればかりはどうにもならない。

東京スカイツリーが開業した。
高さ634mで、自立式電波塔では世界一である。
Photo_2
http://syatyounosyakkin.blog90.fc2.com/blog-entry-483.html

東京タワーの約2倍である。
展望台は、350mと450mにある。
東京タワーは、『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代のシンボルとなった。
ランドマークとして機能することはもちろんだが、単なるランドマークに留まらない役割を担うことになろう。

私も、上図の塔の中で、トロントのCNタワー、東京タワー、エッフェル塔には上ったことがある。
不思議なもので、高い所に上ってみたくなるのが人情であろう。
スカイツリーにも開業の賑わいが一段落したら、行ってみたいと思っている。

スカイツリーには先端的な建築技術が結集している。

Photo_6 22日に開業する「東京スカイツリー」は、足元からてっぺんまで日本企業の最新技術に支えられている。地震にも風にも強く、ながめも快適で、夜のライトアップもみせる。企業は、ここで得た技術を生かした新ビジネスの獲得にも期待を膨らませている。
 ツリーに使われた技術の中でも、重要度が高く、世界初なのが、塔のど真ん中にある「心柱(しんばしら)」をつかった制振システムだ。日建設計と大林組がつくった。鉄筋コンクリート製の高さ375メートルが、ツリー本体とは分離した形で立つことで、地震などの際に本体とは違う動きをして、ツリー全体の揺れを抑える。

http://www.asahi.com/national/update/0521/TKY201205210600.html

また、南日本新聞の5月20日のコラム「南風録」に スカイツリーのデザインと構造について紹介があった。

 いにしえの高層建築、五重塔は地震に強い。空襲で炎上した東京・浅草寺の五重塔も、その前の関東大震災にはびくともしなかった。300年近くたっても強度を保てたのは、塔の中心を走る「心柱」のおかげである。
 「ボルトもクレーンもない時代に建てられたのに、倒れたことがない。千年以上前から伝わる日本人の知恵と技術の結晶」。彫刻家の澄川喜一さんが小紙インタビューで語っていた。澄川さんがデザインを監修した東京スカイツリーが22日開業する。
 スカイツリーの中心には、心柱にならって1本の巨大な柱が立つ。その柱を複雑に組み合わせた鉄骨で囲み、634メートルの高さまで積み上げた。新旧の技術力を結集、3万7000個もの鉄骨でできた建物の耐震性は、東日本大震災で実証済みだ。

五重塔の心柱との共通性については良く知られている。
⇒2011年5月24日 (火):五重塔の柔構造と震災復興構想/やまとの謎(31)

毎日新聞5月20日の「社説」は、以下のように論じている。

 まず、空に伸びる大樹をイメージした形が目をひく。地上では三角形の平面が、上に行くにつれ円形に変化する。日本刀の「そり」や寺社の柱のふくらみである「むくり」など、日本の伝統的なデザインが取り入れられている。見る角度によって微妙に姿が変化するのが楽しい。機能美の東京タワー(東京都港区)とはまた違った味わいだ。
 塔の建つ場所に注目したい。建築評論家の馬場璋造(しょうぞう)さんは「都市というのは東西南北、各方向で引っ張り合っている」と指摘する。そして、片方にだけ引っ張られると都市全体が単調になり、活力が失われていくというのだ。逆に多方向に引っ張られると都市が活性化し、多彩な表情を見せるという。それは人々の多様な楽しみや夢につながる。
 住宅が広がり、都庁が新宿に移転し、東京は、西へ引っ張られることが多かった。東部の下町は関東大震災や東京大空襲の被害を受け、古い家並みを失い、庶民の街として近代化を支えてきた。墨田区出身の王貞治さんは故郷について「近年、閉塞(へいそく)感があった」と話している。
 スカイツリーは東京の重心を少し東へ動かすだろう。そこは北関東や東北地方にも通じている。東日本大震災の被災地にも、プラスの効果をもたらすことが期待される。
 権力が位置する場所の塔は周囲を見下ろし、圧迫感を放つ。下町の塔は、土地のエネルギーが立ち現れたような土着性を感じさせる。
・・・・・・
 地上450メートルにあるスカイツリーの「天望回廊」から眺めた風景は格別だ。すべての高層ビルが足元に見える。隅田川や荒川が街に活力を注ぎ込むように感じられる。海と山々に囲まれた関東平野の広さもよくわかる。この地方の歴史や未来に思いをはせる人もいるだろう。それは都市や社会のあり方を考えるきっかけにもなるのではないだろうか。

スカイツリーも、「用と美」の典型例だろう。
⇒2011年10月29日 (土):猿橋の「用」と「美」と「レジリエンス」/花づな列島復興のためのメモ(10)
下町の塔がどのような影響を及ぼすか。
いまこの国には閉塞感が漂っている。
スカイツリーは、「3・11」後社会の新しいパラダイムを象徴するランドマークになるような予感がする。

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2012年5月21日 (月)

後期高齢者医療制度の存続/花づな列島復興のためのメモ(69)

今朝の霧島は、あいにくの曇天であった。
さして厚い雲というわけではないが、次から次に雲が湧いてきて、とても日食観測ができるような天候ではなかった。
まあ無理だろうと思いつつ念のため玄関から外に出てみた。
当直の女の先生としばらく未練がましく粘ってみたが、一向に変わる気配がないので諦めて部屋に戻ってTVに映し出される太陽の様子を眺めた。
結局、暗くなる気配すら感じられなかった。

民主党政権がマニフェストを守らないのにはもはや当たり前の感覚、ある種の「慣れ」が生まれつつある。
しかし、本当にそんなことでいいのだろうか?
別に、青臭く「違反」を咎めようというのではないが、政権交代というエポックの意味がまったく失われているのは確かだろう。
詐欺の被害にあうのは、被害者の注意が足りない、とこの場合にも言えるのかどうか?
国家運営の根本に係わる詐欺が許されていたら、この国は無法に陥ることになろう。
メルトダウンしたのは、原子炉だけでなく統治機構もまた、という気がする。

そんなわけで、いまさらマニフェストとの整合性を問題にするのもどうかな、という気もするが、自分の問題でもある後期高齢者医療制度がどうなるかはレビューしておきたい問題である。
私は、学校を卒業後、一貫して「勤め人」だったから、社会保険は「仕組み」として加入していた。
定常的な勤務を終えた後も、任意継続という形で健康保険に加入していた。

運が良かったというべきか悪かったというべきか、脳梗塞に罹ったのは任意継続に移行した年である。
入院生活、外来リハビリ等において、健康保険の有難さを実感した。
現役の「勤め人」のときには、負担している保険料に対して、受益は微々たるものであったが、どこかでバランスがとれるようにできているのだろう。

介護保険については、要支援2の認定を受けている。
バスボード(入浴補助具)の購入などには使ったが、介護サービスは未だ利用していない。
妻などのサポートで、介護サービスを利用しなくても、日常的な生活に支障はない。

今国会の焦点である社会保障改革の一環として、「後期高齢者医療制度」が話題になっている。
後期高齢者とは75歳以上の人を呼ぶが、私の周りでは、75歳を超えても「後期」どころか「高齢者」と呼ぶのも躊躇われるような人が多い。
それはともかくとして、政府・民主党の「改革案」は次のように報じられている。

Photo_2 政府・民主党が今国会提出を目指す「後期高齢者医療制度見直し法案」(仮称)の全容が17日、明らかになった。
 75歳以上を対象にした「後期高齢者医療制度」の制度名について、「後期」という単語を外して「高齢者医療制度」に改め、75歳以上のサラリーマン約33万人を現行制度から勤務先の健康保険に移すことが柱だ。結果的に自民、公明両党の主張に配慮した内容となった。ただ、消費税増税を柱とする社会保障と税の一体改革をめぐる与野党協議で自公両党が歩み寄るかどうかは不透明だ。
 法案は、自公政権時代にスタートした現行制度の一部修正にとどまり、民主党が2009年の衆院選政権公約(マニフェスト)で掲げた「後期高齢者医療制度の廃止」は事実上の棚上げとなった。
 法案では、後期高齢者医療制度の運営主体である市町村の負担を軽減するため、都道府県も新たに運営に加われるようにする。後期高齢者医療制度は当面、実質的に存続となる。
 ただ、法施行から5年後をメドに、年齢区分を全廃し、高齢者も現役世代と同じ国民健康保険や被用者保険に加入するとしており、最終的には、制度を「解体」する方針を維持している。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120517-OYT1T01481.htm

確かに、「後期」という名称が適切とはいえない人が多いのは事実だが、「後期」という単語を外して「高齢者医療制度」に改め」というのは、いかにも姑息である印象を受ける。
「民主党の政権政策Manifesto2009」には、「年金・医療」について、「後期高齢者医療制度は廃止し、医師の数を1.5倍にします。」と明記している。

この制度は、国の医療制度改革の一環として、第3次小泉改造内閣が提出し成立した。
当初から名称をめぐってさまざまな話題になった。
名称はどうでもいいとは言わないが、まず問われるべきは、中身であろう。

制度は、日本国内に住む75歳以上の後期高齢者全員と、前期高齢者(65~74歳)で障害のある者を対象とする、他の健康保険とは独立した医療保険制度である。
私は、健康保険と連続性のある制度だと思い込んでいたがそうではなかった。

狙いはいくつかあるだろうが、「この制度は、医療費が際限なく上がっていく痛みを後期高齢者が自ら自分の感覚で感じ取っていただくものだ」と厚労省の担当者が石川県で講演し際に話したというあたりにホンネが見える。
つまり、弱者も「応分の」負担をしろということだ。
問題は、「応分の」ということに明確な基準がないことだ。
ということは、相対的に弱者の負担がキツクなることは目に見えている。
後期高齢者を別の保険に切り離して、必要な医療が受けられなくなるということでは、今まで日本経済を支えてきた世代の人々が、高齢期になったら国から見捨てられたように感じることは必定だろう。

政府・民主党は、「民主党の政権政策Manifesto2009」の精神、実行可能性等をじっくり検証すべきではないか。

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2012年5月20日 (日)

入院生活とICT/知的生産の方法(20)

約2年前の入院生活と比べ、今回の入院の最大の相違点は、計画性の有無である。
前回は、突然の発症で、家を出た状態のままの入院であった。
当然、何の準備もない。
⇒2010年3月6日:闘病記・中間報告

今回は、計画的な入院である。
⇒2012年4月18日 (水):川平法に期待して再入院/闘病記・中間報告(41)
準備もそれなりにできた。
とりわけ、パソコン、スマートフォンなどのICTの機器類を持参できたのは大きい。

世紀の変わり目の頃、「IT革命」という言葉が流行した。
IT=Information Technologyすなわち情報技術である。
これに対し、ICTは何か?

ICTとは、情報・通信に関連する技術一般の総称である。従来ひんぱんに用いられてきた「IT」とほぼ同様の意味で用いられるもので、「IT」に替わる表現として日本でも定着しつつある。
ICT(Information and Communication Technology)は、多くの場合「情報通信技術」と和訳される。IT(Information Technology)の「情報」に加えて「コミュニケーション」(共同)性が具体的に表現されている点に特徴がある。ICTとは、ネットワーク通信による情報・知識の共有が念頭に置かれた表現であるといえる。
情報の共有化という点において、ICTはITに比べても一層ユビキタス社会に合致した表現であるといえる。日本でも、2000年頃に盛んに提唱された「e-Japan構想」では「IT」が盛んに用いられたが、2005年を始点とする「u-Japan構想」ではもっぱら「ICT」が用いられている。総務省の「IT政策大綱」も、2005年までにはすでに「ICT政策大綱」に改称されている。
すでに海外では、ITよりもICTのほうがよく通る名称として通用するようになっている。インターネットにおいて「URL」(Uniform Resource Locator)が「URI」(Uniform Resource Identifier)という表現へ移行しつつあるように、「IT」も徐々に「ICT」へ移行していると見られる。
http://www.sophia-it.com/content/ICT

ITにプラスして、Cが入った意味は大きい。
通信の発達により、遠隔地のバリアは大幅に低くなった。
霧島温泉郷といえば、歩いて行ける範囲の小売の店は、コンビニが1軒と土産物屋があるだけである。
とうぜん、書店などあるはずもない。
しかも、滞在場所が病院では、Amazonなどを利用してよいものかどうかも分からない。

しかし、情報の入手という点では余り欠乏感はない。
朝から夕方までのリハビリ訓練でかなり疲労しているということもあるが、どうやら欲望というのは、日常的に接するから肥大化してゆくものらしい。
書物の類も、書店で容易に接するから欲しくなる、というメカニズムが働くようだ。

私は前回退院したあと、かなりの期待をもってスマートフォン(Xperia)を購入した。
しかし、期待は十分には満たせなかった。
⇒2010年12月28日 (火):スマートフォンの可能性/知的生産の方法(3)

その根本要因は、入力のしづらさにあると考えた。
そこで、次にタブレット型端末を試してみた。
⇒2011年2月22日 (火):タブレット端末とスマートフォン/知的生産の方法(12)
これで満足できるはずであったが、やはり入力に難があった。

結果的に、小型のノートパソコンで、通信機能(WiFi、WiMAX)が付いているものに落ち着いた。
1kgちょっとなので、リュック型のカバンであれば、身障者でも持ち運びに大きな負担とはならない。
その上、AU(KDDI)がiPhoneを扱うことになったので、AUの携帯電話をiPhoneにチェンジした。

小型パソコンとiPhoneを携えて、霧島にやってきた。
iPhoneはXperiaと比べてspec的に格段に違うとは言い切れないのだろうが、実際の使用感はずいぶん違うように感じる。
もちろん、私の状態そのものが1年前とは異なるのだが。

iPhoneはいまや入院生活の必需品である。
音楽プレーヤーとして、あるいはカメラとして、そしてもちろん電話として、十分な機能を持っている。
そして、入力以外のたとえば検索等は、ある部分で(たとえば起動の早さなど)パソコンを凌駕している。
私は、ネット情報の多くをiPhoneから入手し、そのままEvernoteにストックしている。
重要なことは、これらの端末機器の利便性向上と同時に、いわゆるクラウドサービスが利用しやすくなったことだろう。
若者のように使いこなせるというわけではないが、EvernoteやDropboxなどは便利に使っている。

残念ながら、ノマドというライフスタイルではない。
⇒2011年2月21日 (月):知的余生の方法とノマドスタイル/知的生産の方法(11)
しかし、霧島という遠隔地でも、仲間とのコミュニケーションはさほど不自由さは感じない。
ICTのお陰で、このブログも途切れず書き続けていられるといえよう。

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2012年5月19日 (土)

安眠のコスト/闘病記・中間報告(50)

健康生活の要諦は、
・栄養(飲食)
・運動
・睡眠
であることはよく承知している。
リハビリ病院で入院生活を送ると、栄養(飲食)と運動は、メニュー通り守っていれば問題はない。

残りは睡眠だけである。
私は、発症後、音に敏感になった。過敏というべきかも知れない。
予期していない時に聞こえる小さな物音にも、ビクッと身体全体が反応してしまうのだ。

先日、神経生理の先生にそういう話をしたところ、計測してみましょうということになった。
神経生理では、麻痺の状態を調べるのに、指にパルスを与え、それが脊髄(?)から戻ってくる微弱波形を増幅して、麻痺の程度を計測する(ようだ)。
麻痺が強いと、帰ってくる信号の波形の山が高い(らしい)。
それと同様の方法で、音に対する敏感性を測定した。

結果は、やはり少し敏感になっているようだ、とのこと。
もっとも、「予期せぬ音」というのが「ビクッ」の条件だから、「計測します」ということ自体、その条件から外れているともいえるわけで、データ採取は難しいだろうと推測がつく。
本来の対象である麻痺の程度は、入院時→2週間後→4週間後と順調に軽減していることが、波形からも明らかに確かめられた。

音に対する感覚が異常になっているためだろうが、睡眠が浅い。
ごく小さな物音でも目が覚めてしまう。

病室は、4人部屋を基準とし、2人部屋、個室と分かれている。
飛行機でいえば、エコノミー、ビジネス、ファーストといった感じである。
ビジネスクラスやファーストクラスには、差額料金が必要であることも一緒である。

私は、急性期、回復期を通じ、4人部屋で過ごし、別段不満はなかった。
むしろ、患者同士のコミュニケーションという意味で、個室に引き籠るのはいかがなものかとも考えていた。
したがって、今回も、差額ベッドを利用する気は最初からなかった。

ところが、先日の突然の発熱で、2人部屋の1人使用を体験することになった。
⇒2012年5月 3日 (木):発熱?/闘病記・中間報告(48)
発熱は一晩でおさまったが、念のため、金、土、日と合計4泊する結果となった。

そのとき、明らかに睡眠の深さが違うと感じた。
考えてみれば当然である。
夜間における病院の音の発生源は、基本的に人である。
自分の出す音には驚かない。

4人:2人:1人は、他人の人数として数えれば、3人:1人:0人である。
自分の発する音以外をノイズと考えれば、この比で音の問題が発生する。
これは全員同一の音源として考えた場合だが、特にノイジーな人がいる場合には、この比以上の差になる。

2人部屋での快適性を体験したら、コスト・パフォーマンス的にこちらの方がいいように思えた。
そこで、看護師に、2人部屋が空いているかどうか確認したら、あいにく予約で塞がっているという。
念のため個室についても聞いてみたが、やはり満室だということだ。
空いたら移動させて欲しいと申し込んでおいたが、今現在、音沙汰がないので、空きがないらしい。
多分、退院まで、今の部屋で過ごすことになると思われる。

病室の選択は難しい。
回復期の病院では、病因、病状はそれぞれであったが、ごく一部の例外を除き、共に楽しく入院生活を送ることができた。
一部の例外というのは、次のようなことである。

消灯時間を過ぎてもTVをイヤフォンなしで視聴しているようだった。
(昼間といえどもイヤフォン使用がルールである)
看護師に注意して貰おうと思ったところ、本人は既に眠りこけていた。
睡眠薬を所望したのが、効きすぎたらしい。
マンガチックな話だが、実話である。

周囲に無神経な人がたまにいる。
運悪くそういうノイジーな人と同室になったら、部屋を替わるなどの対策が必要になる。
もはや安全はタダではない。
⇒2012年5月 6日 (日):「水と安全」のコスト/花づな列島復興のためのメモ(61)
安全と同様、安眠にもそれなりのコストを負担しなければならない、ということだろう。

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2012年5月18日 (金)

東京電力は誰のものか?/原発事故の真相(29)

5月9日、政府は東京電力の再建に向けた「総合特別事業計画」を認定した。
東電は、1兆円の公的資金投入によって、事実上国有化される。
これから、政府主導で経営の見直しが図られることになる。

  再建計画では人件費などの経費を10年間で総額3兆3650億円削減するほか、家庭向け電気料金を12年7月から平均で10.28%値上げすることなどが柱になっている。13年度以降に柏崎刈羽原発(新潟県)を順々に再稼動させる方針も盛り込んでいるが、計画通り実現不透明だ。
http://www.j-cast.com/2012/05/10131633.html

事実関係は上記のようであるが、この「総合特別事業計画」によって、あるいは政府主導の形で、山積する難題を解決していけるのだろうか?
東京新聞の5月10日付社説は「東電再生計画 目に余る国の責任逃れ」と手厳しい。

 枝野幸男経済産業相が東京電力再生に向けた総合特別事業計画を認定した。原発は国策なのに政府の責任は素通りだ。東電悪者論を振りかざすだけでは新たなエネルギー政策の展望は開けない。
 東電の西沢俊夫社長は公的資金注入などを列挙した総合計画について「国の支援をいただかないと立て直しができない」と語った。計画の本質を言い表している。
 東電には損害賠償など福島第一原発事故の処理に兆円単位の費用が重くのしかかるので、国に頼らざるを得ない。
 政府は六月の株主総会後に一兆円出資し、議決権の過半を取得して経営陣の人事権を支配する方針だ。事実上の東電国有化である。
 その伏線は早々と事故から二カ月後の昨年五月に張られた。政府への東電の支援要請に対し、当時の菅政権が「支援組織を設け、何度でも資金支援をして東電を債務超過にはさせない」と応じ、原子力損害賠償支援機構を創設した。
・・・・・・
 計画は表向き、支援機構と東電との共同策定だが、現実には政府が経産省幹部を送り込んだ支援機構の主導で進められた。原発政策は国策として政府と電力業界の二人三脚で進めてきたのに、政府は東電を牛耳り、まるで裁判官のような振る舞いを続けている。
 原発運転の直接の当事者である東電は責任を免れないが、安全神話を言い広めた政府も同罪ではないのか。大津波の危険性を認識していながら、海岸近くに原子炉冷却用の予備電源設置を認めたのは経産省の原子力安全・保安院だ。
・・・・・・
 福島第一の事故の検証は国会などでなお進行中で、新たな安全基準づくりも道半ばにある。全国で五十基ある原発は、地元自治体などの反対で今や一基も動いていない。西沢氏の後任、広瀬直己次期社長の「原子力は国のエネルギー政策の大きな土台だ」との発言は無神経にすぎないか。
 野田政権は原発依存度引き下げをどう具体化していくのか。発送電分離を含むエネルギー政策をどう築く
のか。その道筋や時期に深く踏み込まず、国民に値上げを強いるのでは納得できない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012051002000115.html

基本的には東京新聞社説のとおりであるが、もう少し別の角度から考えてみたい。
そもそも、東電は誰のものなのだろうか?
ライブドア(ホリエモン)の野放図な資本市場至上主義的な経営をきっかけとして、企業は誰のものか、ということが真剣に問い直されることとなった。

企業の代表的な形態である株式会社においては、会社の最上位の意思決定機関は株主総会である。
社長などの経営者、より一般的にいえば、取締役は、株主総会で選任される。
ということを考えると、会社は株主のもの、といえそうである。
いわゆるシェアホルダー第一主義であり、ホリエモンらの基本的考えもその線であったといえよう。

しかし、企業を構成しているのは株主だけではない。
というよりも、上場企業においては、株主は一時的に株を所有するだけであって、むしろ会社の本質とは無関係ともいえる。
会社の利害関係者には、株主(シェアホルダー)だけでなく、金融機関、従業員、顧客、官公庁等規制機関、地域住民などがある。
これらを総合して、ステークホルダーという。
会社は、ステークホルダー全員のものとして考える必要がある。
これが、現在一般に受け入れられている考え方である。

それでは、東電の場合はどうか?
公的資金投入により、事実上国有化される。
しかし、株主としての国のものではないと考えるべきだろう。
まして、原発政策に責任を負う自民党や、原発事故対応の検証も終わっていない民主党政府のものではない。

そもそも公的資金の原資は税金ではないのか。
とすれば、第一に国民の、次いで電力のユーザーの意見が尊重されるべきであろう。
いまこそ、企業の社会的責任を本気で問わなければならない。

経済同友会が、2003年に、『「市場の進化」と社会責任経営-企業の信頼構築と持続的な価値創造に向けて』と題する「第15回企業白書」を出した。
経済同友会といえば、経営者が個人の資格で参加するという点で、経団連等の経済団体とは異なる特徴を持っていることで知られる。
レポートの具体的な内容は上記を参照していただきたいが、小林陽太郎代表幹事による「まえがき」に、CSRについての認識がある。

 CSRをわが国の状況下で捉え直すと、日本企業には二つの変革が求められる。
第1に、市場機能の活用を通じて、その収益力と競争力を高め、より効果的な経済的価値創造を行うことにより、低迷する経済を活性化させることである。
 第2に、企業が上記を行うにあたってすべてのステークホルダーに対する義務を履行するという理念を固め、それを実現するためのガバナンスを確立していくことである。

経済同友会は、15年間にわたり代表幹事を務めた東京電力の木川田一隆氏によって存在感を高めた。
今こそ、小林陽太郎氏の上記言葉や木川田氏の精神を踏まえるときではなかろうか。

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2012年5月17日 (木)

いま消費増税をすべきなのか?/花づな列島復興のためのメモ(68)

経済政策には、全員一致した解というものはないのだろう。
野田首相が「政治生命を賭ける」という決意を示している消費税増税についても、賛否両論あって、私のような素人にはどちらが正しいのか分からない。
今日から、衆院の社会保障と税の一体改革特別委員会が実質審議に入った。

 首相は法案について6月21日までの会期内成立に政治生命を懸けるとしており、民主党は6月上旬の採決を目指す。だが自民、公明両党は参院で問責決議を受けた田中直紀防衛相と前田武志国土交通相の早期更迭を求めて対決姿勢を強めており、首相は2閣僚をめぐり厳しい判断を迫られる。
 首相は特別委で、社会保障の現状を「最大の課題で待ったなしだ。2014年には団塊の世代が全て年金受給段階に入ることを念頭に対応しなければならない」と説明、「社会保障の充実、安定化を早くやらなければならない」と述べた。欧州債務危機についても「対岸の火事ではない」と指摘し、財政健全化の重要性を訴えた。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205170115.html

庶民感覚でいえば、「社会保障と税の一体改革」とはいうものの、力点は消費増税に置かれていて、社会保障改革の全体像が良く分からない。
もっと重視すべきは、2009年総選挙との整合性である。
議論は1年前からどれだけ深化したのか?
⇒2011年2月10日 (木):マニフェストを履行するための消費税増税?

消費増税については、国民新党代表だった亀井静香氏が「連立政権合意に反している」として反対の姿勢を明らかにし、それが原因で国民新党の多数派から党を追われることになった。
民主党元代表の小沢一郎氏も、国民との約束違反ということで反対の構えだ。
⇒2012年3月31日 (土):政治家の信義とは?/花づな列島復興のためのメモ(43)

その小沢氏は、冤罪とも言うべき裁判が続行されることになり、政治的な発言力を大幅に制約されている。
⇒2012年5月11日 (金):小沢裁判控訴の狙いは?/花づな列島復興のためのメモ(64)
⇒2012年5月14日 (月):虚偽報告書による権力の組織犯罪/花づな列島復興のためのメモ(67)
うがった見方をすれば、外堀は着々と埋められているということだろう。

しかし、本当に、いま政治生命を賭けて取り組むべきは、消費増税か?
田中秀征氏は、「消費税増税に6つの異議あり」として以下を挙げている。

(1)日本経済、現状の景気は、5%の消費税率アップに耐えられない。
(2)行政改革、「税金の無駄使いの排除」が後回しにされている。
(3)何のための増税なのかが明確でない。
(4)今回の消費税増税は明らかに民主党の公約違反。しかも最重要公約の違反である。
(5)先に総選挙で民意を問うべきではないか。
(6)なぜ大震災対応に総力で取り組まなければならない今、消費税増税を最優先の課題としているのか。

私には、田中氏の意見がもっともなように思える。
特に、終わりの部分の以下の言葉を、野田首相はよく考えてみるべきだろう。

 この際、政治生命を賭けるべきは消費税増税ではない。大震災と原発事故への対応である。
 復旧、復興、被災者への支援の迅速化。原発災害の拡大阻止。新しい原発の安全基準、エネルギー基本計画の策定。この夏の電力需給はどうなるか。
 復興庁の行政も軌道に乗らないし、規制庁は発足すらしていない。このような事態は昨年から懸念されていたことだ。
 こんな国家的危機の真っ只中にあって、政権が消費税増税に血眼になることが許されるのか。諸外国の人たちからすると理解に苦しむだろうし、何よりも後世の人たちからは強い怒りを買うことになる。
 野田首相は、自己実現、功名心、政局などの余計なことを度外視して、歴史の大局に立つべきである。

山崎元氏も「それでも、消費税率を「今」上げることに反対する理由」として、以下の5項を挙げている。

反対理由1:増税は緊急性が薄い
反対理由2:デフレ対策を優先すべき
反対理由3:手順が悪い
反対理由4:徴税の改善が先ではないか
反対理由5:約束は、約束だ

山崎氏も多くの国民の疑問点を掬い上げている。
山崎氏は以下のように結んでいる。

 筆者の反対論拠のうち、「反対理由1:増税は緊急性が薄い」と、この「反対理由5:約束は、約束だ」だけで、今国会での消費税率引き上げ法案に反対する十分な根拠だ。
 政治の議論としては、本来これが常識だろう。これを脇に置いて、経済的な得失から消費税を論じている時点で、我が国は政治的に病んでいる。国民もメディア含めて、我が国の政治が劣化している証拠である。

喫緊の日本の課題は何なのか?
2009年政権交代のマニフェストを反故にしてもいいのか?
われわれも、妙にオトナになって、「理解ある態度」をとるべきではないだろう。

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2012年5月16日 (水)

元首と象徴/「同じ」と「違う」(48)

日本国憲法において、天皇は次のように規定されている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
つまり、天皇は、国の象徴かつ国民統合の象徴である、というのが法制上の位置づけである。
この規定自体、意味が捉えがたいものである。
⇒2011年4月 1日 (金):「天皇」という制度/やまとの謎(29)
それはそれとして、一般に、日本の元首は天皇、というように考えられているのではなかろうか。
記憶が定かではないが、小学校か中学校でそんなふうに教わった気がする。

それでは「象徴」と「元首」は「同じ」であろうか?
一般的な語義としては、「象徴」は抽象的な概念を具体的なもので表現することをいう。
たとえば、ハトが平和を象徴する如くである。
しかし、元首は自然人であるからもともと具体的な存在である。
「象徴」と「元首」が同一とは考えにくい。
それでは、日本において特殊的に、「象徴」という言葉で「元首」を意味させるということだろうか?

そもそも、元首とは何か?
Wikipediaの解説は以下の通りである。

元首の概念は国家有機体説に発し、独立の生命体として国家をとらえた場合の頭に相当する部分であることに由来する。社会契約説の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ。大日本帝国憲法は、国家有機体説の国家観に立脚していた。現在の日本国憲法は社会契約説の国家観に基づく。
君主制の国家では皇帝・国王などの君主、共和制の国家では大統領が元首とされることが通例である。社会主義国では大統領の他、中華人民共和国の国家主席やキューバの国家評議会議長、かつてのソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツの国家評議会議長なども元首に該当する。
日本の天皇は大日本帝国憲法下においては明確に元首であったが、現行憲法である日本国憲法下においては「象徴」とのみ定められており、天皇が元首にあたるかは憲法学における解釈上の定義によるとされ、日本政府の公式見解ではほぼ元首として差し支えが無いとされるが、憲法学上では有力な反論がある。

大日本帝国憲法では第4条で天皇を元首と規定していが、現行の法体系には天皇を元首とする規定はない。
ただし、元首の案件とされる国事行為については、憲法第4条に規定されている。

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

⇒2011年12月 5日 (月):天皇の公務について/やまとの謎(52)

国家の根本である元首について、日本国憲法の規定は中途半端である。
各種の改憲論が出されている。
⇒2012年5月 4日 (金):憲法改正論議の方向性/花づな列島復興のためのメモ(59)
上記でも触れた東浩紀氏は「天皇は元首」と明示したそうだが、次のような批判がある。

 驚くのは「試案では日本という国を尊重しろと書き、天皇は元首として位置づけました」と語っているところだ。国民が国家権力を縛るために定めるのが憲法だということを東が承知していないはずがない。「国を尊重しない自由」「天皇の言うことを聞かない自由」を保障してこそ憲法と言えるのに、「国を尊重しろ」「天皇は元首」ではまるでその逆だ。
http://blog.livedoor.jp/nkmrrj04fr/archives/52138185.html

大日本帝国憲法の反省を踏まえれば、上記の批判も当然のように思えるが、現在われわれが一般的に抱いている感覚は、「日本国の元首は天皇」であろう。
結局以下のようなところに落ち着くのかも知れない。

 また天皇に関する規定が明治憲法同様 第1章に位置づけられていること 英文憲法の第1章のタイトルが“THE EMPEROR ”(これは「君臨すれども統治せず」という今日のヨーロッパ型皇帝の意味であろう) とつけられていること,さらに現行憲法において天皇が身分上国民かはっきり区別されていることを考え併せ,天皇が現行憲法上紛れもなく君主であり 元首以外の何者でもないことが裏付けられる。
さらに現実に天皇がわが国内外において元首として遇せられていることをみても 現行憲法下の天皇が「君主」であり「元首」であるとみるのはごく自然である。実際、外国人の目から見て,猫の目のように変わる内閣総理大臣を形式的とはいえ任命する世襲・終身の憲法上の安定した機関すなわち天皇が存するかぎり,それを元首扱いするのは当然であるといえよう。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak1/120611.htm

もっと天皇制の由来や機能を知らなければ答の出しようがない問題である。
社会契約説に基づく国家観のもとでは元首という概念に無理があるともいわれる。
改憲論議の1つの焦点である。

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2012年5月15日 (火)

金銭で評価し得ない被害の補償/原発事故の真相(28)/因果関係論(12)

原発事故の被害は、総計いくらか?
計算しようにも計算できないだろう。
被害には、金銭で評価できるものと、金銭では評価できないもしくは難しいものがある。

「この世にただ1つしかないもの」については金銭評価が難しい。
人の命や生態系などだ。
そして、人の命と生態系が密接な関連を持っていることを、われわれは水俣病などの例で学んだ(はずである)。
ところが、経済界のみならず政府・民主党まで、電力不足による経済的損失の回避を優先させようという姿勢だ。
⇒2012年5月13日 (日):原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

たとえば、飯館村の被った損害である。
110723日放映のNHKスペシャル『飯舘村~人間と放射能の記録~』の紹介記事。

福島県飯舘村は人口約6000人。山あいの土地で農業や畜産業を営みながら人々は静に生活していた。ところが、東京電力福島第一原発の事故で暮らしは一変した。飯舘村は原発から30㎞以上離れていたため、当初は避難区域などに指定されず、住民は村に残った。しかし実際には、村の土壌は高濃度の放射能に汚染されており、人々は被曝することになった。さらに4月末には国によって計画的避難区域に指定された。村人たちは仕事と暮らしをすべて手放すという悲壮な決断を迫られたのだ。
 農作物の出荷停止。汚染状況の判明。村民に広がる被曝の恐れ。「自然と共存した村作り」を目指してきた菅野典雄村長も、村民の命や健康を守るため決意が揺らぐ。村を出るか、それとも残るか、村民は村の消滅のという極限の状況下で、何を考え、どう行動するのか。番組では震災発生から4か月間、飯舘村を定点観測し、「見えない敵」放射能との闘いを強いられた人々の姿を記録した。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/110723.html

しかも、政府がSPEEDIのデータを的確に運用していれば、被害は軽減された可能性が高いのだ。
Speedi
http://www.imart.co.jp/genpatu-jikogennin-bousisaku-p1.html
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)

この飯館村の被害は、どのように算定されるのか?
被害者が特定できない被害の補償はどう行われるのだろうか?

あるいは、原発事故が要因となって、命を亡くした人はどう償われるのか?

 東京電力福島第1原発事故による避難生活のストレスで自殺したとして、亡くなった福島県川俣町山木屋の渡辺はま子さん=当時(58)=の遺族が東電に約7千万円の損害賠償を求めて福島地裁に提訴することが9日、分かった。原告側が明らかにした。
 原告側を担当する福島原発被害弁護団によると、渡辺さんは原発事故で自宅が計画的避難区域に指定され、福島市などに避難。川俣町の自宅に一時帰宅した翌日の昨年7月1日、ガソリンをかぶって火を付けて焼身自殺した。遺書はなかった。
 原告側は、渡辺さんが原発事故で家族と離れての避難生活を強いられ、ストレスがたまって慢性的睡眠不足に陥り、うつ病になって自殺したと主張している。
 弁護団は「原発事故被害のなかで、自殺は極めて過酷。悲劇を二度と起こしてはならないという遺族の思いから東電の法的、社会的責任を問う」としている。
 東電は「当社事故で皆様に大変なご迷惑をおかけして改めておわび申し上げたい。訴訟については承知しておらずコメントは差し控えたい」としている。
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/120509/trl12050911460006-s.htm

この記事のように、自殺した人の原発事故との因果関係は、立証が難しいだろうと推測される。
自殺はあくまで主体的な意思によるものである。
しかし、そうせざるを得ない状況に追い込んだ原因は厳然としてある。
その原因と自殺という結果の結び付きは必ずしも必然とはいえないが、因果関係が立証されないからといって、補償されない、あるいは十分な補償がなされない、といったことはあってはならない。

因果関係が特定しにくいという面は、いわゆる過労自殺やいじめによる自殺と類似している。
⇒2010年9月13日 (月):山田潤治氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(4)
⇒2010年9月14日 (火):宮本光晴氏の読み/江藤淳の『遺書』再読(5)
⇒2010年11月10日 (水):いじめと自殺の因果関係
あるいは、自殺まで至らぬても、それまでの病状が避難生活等で悪化することは多いだろうと思われる。
その被害の全貌も不明のままで、当然補償が済んでいない段階での再稼働は、許されないだろう。

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2012年5月14日 (月)

虚偽報告書による権力の組織犯罪/花づな列島復興のためのメモ(67)

小沢裁判は一審無罪となったが、指定弁護士が控訴をして裁判は継続することになった。
⇒2012年5月11日 (金):小沢裁判控訴の狙いは?/花づな列島復興のためのメモ(64)

裁判は検察審査会の2度の議決によるものであるが、検察庁が検察審査会に提出した捜査報告書に虚偽記載があるという。
以下は、「週刊朝日」(5/4・11合併号)の『小沢一郎を陥れた検察の「謀略」』という記事である。

本誌は、検察が検察審査会に提出した「捜査報告書」の全貌をついに掴んだ。そこには検審という民意すら悪用する「暴走検察」の真実があった。」”
と、6通の捜査報告書の矛盾・悪意の内容を指摘しています。
6通の捜査報告書とは、10年4月30日から5月19日にかけて作成された。検審が1度目の「起訴相当」議決(4月27日)を出した直後から、それを受けて検察が小沢氏の3回目の事情聴取(5月15日)を実施し、改めて不起訴処分(5月21日)とした間のもので、
(1)【検察審査会議決の考え方についての検討結果】(4月30日付)
(2)【想定弁解の検討結果について】(5月16日付)
(3)田代報告書(5月17日付)
(4)【小沢供述の不合理・不自然性について】(5月19日付)
(5)【4億円の出所に関する捜査の状況について】(5月19日付)
(6)【再捜査の結果を踏まえた証拠の評価等について】(5月19日付)
で、(1)(2)(3)(5)は、当時、陸山会事件の主任を務めた東京地検特捜部の木村匡良検事が作成し、それを踏まえて、特捜部副部長の斎藤隆博検事が(6)を作成と。
記事では、各報告書の問題を指摘し、最後に、
”「何よりも問題なのは、これらの報告書が検審の判断に大きな影響を与えたであろうことだ。実際、検審の起訴議決書の内容は、斎藤副部長による報告書(6)の文言と酷似しているのだ」”
と記述・・・

http://spaem77gmwova915jiysge83sih.blogspot.jp/2012/05/blog-post_3289.html

小沢氏が説明責任を果たしていない、という声が強いが、説明責任を果たすべきは検察の方であろう。
虚偽記載については、以下のように組織ぐるみという報道がなされている。

 小沢一郎民主党元代表(69)の捜査を担当した元東京地検特捜部の田代政弘検事(45)=現法務総合研究所=が元秘書の再聴取で虚偽の捜査報告書を作成した問題で、同検事が検察当局に「再聴取の際、(元代表の関与を認めた)捜査段階の供述を維持させるよう上司から指示された」と話していることが11日、関係者への取材で分かった。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205110146.html

まさに「正義の砦」による組織犯罪である。
指示した上司とは誰か?
誰がその「指示」に関与しているのか?
この際徹底的な説明がなければ、検察は国民の信を失ったままになろう。

司法は、立法、行政と三権を構成する統治機構の基本である。
三権共に国民が信頼しない状態とは、まさに制御不能なメルトダウンである。
以下、郷原信郎氏のサイトより。

報告書:https://docs.google.com/open?id=0ByWdni-HzzdgV0RMV0o5WWNiTlk 
上記の報告書を読んでもらえば分かると思うが、私は日頃陸山会事件の実態を知っているつもりであるのに、小沢氏は石川氏、池田氏と共謀していると、これでもかこれでもかと繰り返し書かれると、思わず「そうかもしれない」という不思議な感覚になる。特に小沢氏が深く関与した、またそれを示す証拠となる部分に下線が引かれている。昨日も書いたが、これでは検察審査員全員が小沢氏は真っ黒で、強制起訴議決となるのは当然の結果ということがわかる。検察が検察審査会で、被告人側の弁護士もいない中、一方的に捜査報告書を捏造すれば、誰でも強制起訴されてしまう。
・・・・・・
田代報告書については、法務大臣、検事総長宛の要請書提出後の記者会見の際にも、岩上さんのインタビューの際にも言ったように、「記憶の混同」などというレベルではなく全部が嘘です。
記載された取調べ状況は、録音記録とは全く違う。
http://sun.ap.teacup.com/souun/7409.html

恐るべし権力犯罪。
まさに『真昼の暗黒』ではないだろうか。
⇒2012年2月22日 (水):小沢強制起訴裁判で墓穴を掘るのは誰か?

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2012年5月13日 (日)

原発ゼロをどう考えるか?②/花づな列島復興のためのメモ(66)

商用原発稼働ゼロが現実のものになった。
この状態をどう考えるか?
立場は鋭角的に2つに分かれている。

1つは、異常事態だから、可及的速やかに正常な状態に戻すべきだ、とするものである。
たとえば、産経新聞の「主張」である。

 だが、社会機能は何とか維持されている。そこから生まれる誤解が危うい。「原発ゼロでもやっていける」との誤った認識が定着しかねない。その背中合わせに、天然ガスなど火力発電用燃料の輸入増で年間3兆~4兆円の国富が流出し、突然の大停電という危機があることを忘れてはならない。
 脱原発の流れの一環として、既存の原発の建て替えなどが今後、認められなくなる事態もあってはならないことだ。
・・・・・・
 信頼性の高い原発と運転技術の提供は、世界のエネルギー安全保障への貢献にもつながる。国際社会が寄せる期待も大きい。
 国のエネルギー政策を短期的、短絡的な判断に委ねてきた民主党政権の対応は極めて危うい。地球の人口は急増中である。主要国のエネルギー政策の動向の把握も含めた戦略的な視点も必要だ。
・・・・・・
 資源小国にとって、原発ゼロは自らの息の根を止める行為に等しい。日本の国力回復が不可能になる「ポイント・オブ・ノーリターン」は目前だ。原発の再稼働で破局突入を回避したい。

【主張】「原発ゼロ」 異常事態から即時脱却を 安全技術の継承は生命線だ

もう1つは、原発ゼロの現状を恒久的な原発ゼロへの出発点とすべきだ、とするものである。
たとえば、内田樹氏の、「「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う」とする発言がある。

原発の再稼働の賛否については、文字通り「国論を二分する」ような議論がゆきかっている。
再稼働賛成派の論拠はおもに経済的なものである。
盛夏における電力の不足、電気料金の値上がり、電力コストの上昇による工業製品の国際競争力の相対的低下、より安い電力を求めての生産拠点の海外流出と産業の空洞化などなど。
・・・・・・
でも、すこし長期的に考えると、原発は国益にマイナスである。
すでに私たちは国土の一部を半永久的に失った。
福島の事故の終熄までにどれほどの国民が苦しみに耐えなければならないのか、どれほど国費を投じなければならないのか、まだわからない。
一説には200兆円という。
使用済み核燃料の処理費用も天文学的な額にのぼる。
これらは「原発のつくりだす電力料金」に加算されるべきものであり、それを考えると、原発は「長期的にはきわめて費用対効果の悪いテクノロジー」だということになる。
だから、原発を「損得」で考える場合に「支払期限」をどこに設定するかで、結論が変わってくる。
・・・・・・
コスト削減を最優先して国内の雇用確保をないがしろにするのは国民経済的視点からは「いささか問題」ではないかという反省はここにはまったくない。
国民経済というのは「日本列島に住む1億3000万人の同胞をどうやって養うか」という経世済民の工夫のことである。
それを考えるのが統治者の仕事である。
・・・・・・
「国論を二分する」ようなイシューについては、誰が考えても、「ゆっくり議論して合意形成を待つ」というのが筋である。
だが、国論を二分する一方の主張が「ゆっくり議論している暇なんかない」という短期的な損得勘定を自説の正しさのよりどころにしている。
つまり、まことに不思議なことなのだれけれど、原発再稼働をめぐる議論はコンテンツの正否をめぐる議論というより今ではむしろ、「じっくり話し合おう」という立場と「話をしている暇なんかない」という立場の、つまり「アジェンダをめぐる対立」と化しているのである。
http://blog.tatsuru.com/

この2つの立場は相容れるものではないだろう。
安全性の議論を、短期の需給の問題と対比できるのか?

今の段階で、短期的な需給ギャップを問題にして、再稼働を急ぐのか否か。
恐るべきことに、産業界のみならず、政府もいつの間にやら安全性よりも短期的な需給が大事だとしていることである。
エコノミックアニマル以外の何物でもないだろう。

この2つの立場は、二者択一である。
言い換えれば、戦略的矛盾である。
政府の「脱原発依存」はマニフェストと同じで、その場しのぎと言わざるを得ない。

段階的「原発依存」脱出論?
何時までに、原発ゼロを目指すのか、その手順を含めて工程表が明らかにされない限り、原発再稼働の口実になるだけではなかろうか?
私は、後者の、つまり「「原発ゼロ元年」を言祝ぎたいと思う」立場に同調する。

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2012年5月12日 (土)

活断層との共生/花づな列島復興のためのメモ(65)

日本列島が花づな列島という美しい名前で呼ばれることを知ったのは、小針寛司『花づな列島の奇跡-日本経済の半世紀』日経事業出版社(9611)によってである。
⇒2011年6月 1日 (水):花づな列島の奇跡
花づな列島は、増田悦佐『奇跡の日本史―「花づな列島」の恵みを言祝ぐ 』PHP研究所(1012)という著書もあるように、多くの「恵み」を私たちにもたらした。
私は、この美しい国に生まれたことを素直に喜びたい。

多くの「恵み」の一方で、数多くの自然災害も宿命のようにあった。
地震、台風、津波、竜巻、土砂災害、猛暑・・・。
毎年、何らかの心が痛むようなニュースがある。
特に昨年は東日本大震災という未曾有の大災害が起きた。
自然災害の原因である自然現象の発生そのものは、現在の科学技術では防ぎようがない。
だとしたら、上手に共生していくことを考えるしかない。
⇒2012年5月 8日 (火):火山活動との共生/花づな列島復興のためのメモ(62)

最近、活断層のニュースが多く聞かれる。
⇒2012年4月28日 (土):活断層の上の原発/花づな列島復興のためのメモ(57)
未発見のものも含めれば、日本中いたるところ活断層だらけである。
先日も私の故郷であり現住地でもある富士山麓に活断層があることが報じられた。

Photo 富士山(3776メートル)の直下に活断層が存在する可能性が高いことが文部科学省の調査で9日、分かった。地震の揺れで「山体崩壊」と呼ばれる巨大な山崩れが発生、東山麓の静岡県御殿場市などで大規模災害の恐れがある。約2900年前に起きた山体崩壊と泥流の引き金だった可能性もあり、調査チームが地元自治体に説明を始めた。
 文科省が実施した3年間の調査で判明した。チームの佐藤比呂志・東大地震研究所教授は9日、結果を静岡県に伝えた。千葉市で20日から始まる日本地球惑星科学連合大会で発表する。
 調査報告書などによると、富士山の東山麓で人工地震波などを使って地下構造を探査し、御殿場市付近で地下に隠れている断層を発見した。数十万年前以降の火山噴出物の地層を動かした形跡があり、活断層の可能性が高いと
分析した。北東-南西方向に伸びる長さ約30キロの逆断層で北西に傾斜しており、下端は富士山直下の深さ十数キロと推定。マグニチュード(M)7級の地震を起こすとみられ、揺れで東斜面が崩壊し、大量の土砂が雪崩のように下る「岩屑(がんせつ)雪崩」や泥流が発生する恐れがあり「甚大な被害を周辺地域に引き起こす危険性がある」と結論付けた。http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120510/dst12051011290006-n1.htm

地元自治体等では大騒ぎらしいが(遠く離れた霧島にも漏れ伝わってくる)、活断層が見つかったからといって、今までの生活をどうしようもないだろう。
最悪の事態を想定して、減災を図るしかない。
静岡県で問題になるのは、浜岡原発である。
菅元首相の要請により、中部電力は運転を「停止」した。
しかし、あくまで現在は一時的な「停止」に過ぎない。
5月4日付河北新報社説は次のように主張する。

 だが、活断層が存在する可能性など危険性を指摘する一部研究者の声は、国策推進の大義名分の前にかき消されてきた。福島第1原発事故で安全神話が崩壊し、事の重大性への認識がようやく高まってきたと言える。
 立地場所としての適性が強く疑われている原発の一つが中部電力浜岡原発(静岡県)だ。東海沖から四国沖の海底に延びる「南海トラフ」沿いの巨大地震発生が懸念される中、想定震源域の真上に建つ。「国内で最も危険な原発」との指摘もある。
 内閣府の有識者検討会が巨大地震が起きた場合の想定最大津波高を21メートルとしたのに対し、中部電はその高さの津波が来ても燃料損傷は防げると主張。経済産業省原子力安全・保安院も先月末、これを認めた。だが、厳密な根拠は示されていない。
 しかも、原子炉が安定した冷却状態にあることを前提にした評価だ。稼働中ならどうなるのかは分からない。巨大地震の直接的な被害についても全く考慮されていない。
 中部電は再稼働をにらんだ対策を急いでいる。しかし、立地の特殊性や危険性を考えれば、再稼働を選択する余地は乏しいのではないか。廃炉を見据えた対応こそ検討されるべきだ。
・・・・・・
 浜岡原発は東京と名古屋の中間に位置する。過酷事故が起きた場合の影響は福島を大きく上回るだろう。
地元自治体などには再稼働しなかった場合の地域経済への打撃を懸念する声があるが、地元の意向を判断の基準にするレベルを超えている。
 津波、地震対策が急務なのは当然だ。だが、停止状態での安全を確保し、廃炉を着実に進めるための対応と割り切ることこそ求められるのではないか。

活断層を消すことはできない。
できるだけ、カタストロフィーに至らないことを考えるべきだ。
政府は、「廃炉」の要請をこそすべきだろう。

5月8日付南日本新聞社説は以下のように主張している。

 多くの原発で敷地が選定されたのは60年代にさかのぼる。過去の安全審査を知る関係者からは「活断層と地震の問題は、ほとんど注意されていなかった」との証言もある。各地の原発で、建設場所選定や1号機建設の時代にさかのぼって、最新の知識で安全性を検証し直す必要がある。
 東日本大震災後、保安院は日本各地で断層の力のバランスが崩れたとして、従来考慮してこなかった活断層の連動も想定するよう電力各社に指示している。原発の安全を考えれば当然の判断だろう。
 再調査で断層の危険性が確認されれば、敦賀原発の設置許可は取り消され廃炉となる可能性も否定できない。原発政策の方向性とも合わせ、国は重大な決断を迫られる事態になるかもしれない。再調査の結果を注目したい。

花づな列島に原発は必要か?
リスクとメリットを冷静に比較すべきだ。
私たちはフクシマの事故により、美しい国土を半永久的に失ったことを見つめなければならない。

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2012年5月11日 (金)

小沢裁判控訴の狙いは?/花づな列島復興のためのメモ(64)

政治資金規正法違反罪で強制起訴され、東京地裁で無罪となった小沢一郎民主党元代表の裁判で、検察官役の指定弁護士が東京高裁に控訴した。
いわゆる世論には、判決に納得がいかないとして、この控訴を当然とみる雰囲気もある。
しかし、私は、この裁判が司法権のあり方に係わるものとして批判してきた。

小沢氏の政治姿勢や好き嫌いのような問題とは別に次元で、そもそも裁判が行われること自体疑問であった。
⇒2012年2月18日 (土):小沢裁判に対する疑問
したがって、一審無罪判決は、この裁判を終結させるいいチャンスだった。
にもかかわらず、なぜ指定弁護士は控訴したのか?

 主任格の大室俊三弁護士ら3人は東京・霞が関の司法記者クラブで会見し「判決には看過しがたい事実誤認があり、十分に修正(覆すことが)可能であると判断した」と説明した。判決の一番の問題点として「(元秘書と小沢氏との)共謀が認められないのはおかしい」と指摘。「既存の証拠でも原判決の誤りは十分指摘できる」と述べた上で、小沢氏や元秘書らの証人尋問申請や補充捜査を行う可能性もあり得ることに言及した。
 政治的な圧力については否定したが、無罪判決を受けた人を被告の立場に長くとどめることについては「その点の配慮から慎重に判断したが、控訴の結論に至った」などと職責の苦悩も口にした。
 小沢氏の弁護団も東京地裁で記者会見し、主任弁護人の弘中惇一郎弁護士は「あれだけ審理して無罪になった人の裁判を続けるのは人権面とともに、普通の弁護士の感覚から違和感がある。(小沢氏の)立場や政治的影響を全く無視した判断であれば問題だ」と強く批判。

http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20120510_3

検察官役とはいえ、弁護士である。
検察庁が「全面戦争」といわれるほどの力を注いで諦めた起訴を、弁護士が控訴するという図式はどこか不思議である。
まるで、「有罪判決が出るまで頑張るぞ」と言っているような感じである。
弁護士としては、冤罪事件について、「無罪判決が出るまで頑張るぞ」というのなら理解できるが。

「政治的な圧力については否定したが」というのが気になるところである。
周知のように、小沢氏は消費税増税に批判的姿勢を明らかにしている。
かつての主張との整合性を云々する人もいるが、今の情勢で増税すべきか否かが問われているのである。
デフレ脱出が優先する立場からは、増税反対は理解できる。
いずれかの時点では、当然増税もあり得るだろう。

田中秀征氏は次のように見る。

 この控訴に対しては、追加される新しい証拠の有無、一審判決の重み、そして検察審査会の議決による強制起訴の妥当性などについてかなりの異論がある。私も控訴を断念するのが妥当だと考えていた。
 指定弁護士は政治的影響については考慮していないという趣旨の発言をしているが、この控訴方針から、政治的臭いを感じる人は少なくないだろう。
・・・・・・
小沢グループが本会議採決で反対の意向を固め、それが法案否決につながる見通しになれば、(1)消費税増税法案が否決されて野田佳彦首相が退陣するか、それとも(2)自民党と連携して衆議院を通すか、のいずれかになるだろう。自民党と連携する場合、自民党からも造反者が出る可能性が大きい。しかし、その場合は、自民党の条件である解散・総選挙を呑まなければならないだろう。
 大連立で消費税増税に走り、自民、民主両党が談合して解散・総選挙を断行すれば、それこそ両党は自分たちの墓穴を掘ることになる。

http://diamond.jp/articles/print/18273

この裁判は、結局「両党は自分たちの墓穴を掘ることになる。」という結論になるのだろうか?
⇒2012年2月22日 (水):小沢強制起訴裁判で墓穴を掘るのは誰か?

原発再稼働問題で鋭く対立的な見解を示した産経新聞と東京新聞が、この問題でも対蹠的な意見であった。
⇒2012年4月28日 (土):活断層の上の原発/花づな列島復興のためのメモ(57)

産経新聞「主張」 は次のように述べる。

 指定弁護士3人全員の一致した結論だった。「弁護士が有罪を求めて控訴してもいいのか」と逡巡(しゅんじゅん)しながら、なお、1審判決には「見過ごせない事実誤認がある」と踏み切った重い判断だ。小沢元代表も民主党も、控訴の事実を厳しく受け止めなくてはならない。

控訴の事実を重く受け止めよ、ということであるが、強制起訴の裁判で一審無罪という判決が出たことこそ重く受け止めるべきだろう。
このことを鮮明に主張しているのが、東京新聞「社説」である。

 一審無罪の小沢一郎民主党元代表を検察官役の指定弁護士が控訴するのは疑問だ。そもそも検察が起訴を断念した事件だ。一審無罪なら、その判断を尊重するよう検察審査会制度の改正を求めたい。
 新しい検察審制度で、小沢元代表が強制起訴されたのは、市民が「白か黒かを法廷で決着させたい」という結果だった。政治資金規正法違反の罪に問われたものの、一審判決は「故意や共謀は認められない」と判断している。
 つまり、「白」という決着はすでについているわけだ。検察が起訴する場合でも、一審が無罪なら、基本的に控訴すべきではないという考え方が法曹界にある。国家権力が強大な捜査権限をフルに用いて、有罪を証明できないならば、それ以上の権力行使は抑制するべきだという思想からだ。
 とくに小沢元代表の場合は、特捜検察が一人の政治家を長期間にわたり追い回し、起訴できなかった異様な事件である。ゼネコンからの巨額な闇献金を疑ったためだが、不発に終わった。見立て捜査そのものに政治的意図があったと勘繰られてもやむを得ない。
・・・・・・
 指定弁護士の独断で、小沢元代表をいつまでも刑事被告人の扱いにしてよいのか。「看過できない事実誤認」を理由とするが、検察審に提出された検察の捜査報告書などは虚偽の事実が記載されたものだ。どんな具体的な材料で一審判決を覆そうというのか。
 むしろ、「白か黒か」を判定した一審判決を尊重し、それを歯止めとする明文規定を設けるべきだ。最高裁も二月に、控訴審は一審の事実認定によほどの不合理がない限り、一審を尊重すべきだとする判断を示している。むろん被告が一審有罪の場合は、控訴するのは当然の権利だ。
 検察による不起訴、強制起訴による裁判で無罪なのに、「黒」だと際限なく後追いを続ける制度には手直しが急務である。

私はあくまでこの裁判は、小沢氏の政策や政治姿勢とは切り離して、司法権の問題として考えるべきだと考えてきた。
しかし、今回の控訴で、田中秀征氏のいう「政治的臭い」を意識せざるを得ない。
控訴により利益を享受するのは誰か?
小沢氏無罪では都合が悪い、影響力のある政治勢力があるということだろう。
私には、指定弁護士の権利の濫用のように思える。

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2012年5月10日 (木)

野田総理は問責閣僚をどうするのか/花づな列島復興のためのメモ(63)

消費税増税を柱とする社会保障と税の一体改革に政治生命を賭ける、と野田総理は意気込んでいる。
関連法案は、8日、ようやく審議入りしたが、果たして見通しはどうか?

成立には自民、公明両党の協力が不可欠だが、両党は問責2閣僚の更迭などを求めている。
自公が求める田中直紀防衛相、前田国交相の更迭について、野田総理は、同意しなかった。
もちろん、自らの任命責任が問われることであるから、簡単に同意はできまい。
しかし、問責が決議されたことの重み、そして中身をどう考えるのか、政治生命を賭ける前に明確にすべきではないか。

もちろん、民主党の中の意見も一枚岩というわけではないようだ。

藤村修官房長官は7日の記者会見で、前原誠司民主党政調会長が参院で問責決議を受けた2閣僚の交代が望ましいとの認識を示したことについて「1人の党幹部の発言という意味では承知しているが、執行部(全体の判断)ではないと思う」と述べた。
http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/120507/stt12050714590002-s.htm

前原氏の言い分が通るかといえば、相変わらず「言うだけ番長」のようだ。
岡田副総理は、交代不要論である。

 スリランカ訪問中の岡田克也副総理は4日夜(日本時間5日未明)、問責決議された前田武志国土交通相と田中直紀防衛相について「しっかり仕事をしている。いま辞めさせる問題があったとは考えていない」と述べ、野党の更迭要求に応じない姿勢を示した。同行記者団に語った。
 岡田氏は「国会会期の真ん中で問責を出したことは今までない」と野党を批判し、「国民の立場に立ってしっかり審議していただきたい」と述べた。

http://www.asahi.com/politics/update/0505/TKY201205050275.html

奇妙な論理というべきである。
「国会会期の真ん中で問責を出したこと」が問題か?
問題は、2人が大臣としての適格性があるかどうか、である。
「しっかり仕事をしている」とは、とても思えない。

田中氏は、繰り返される珍答弁によりその能力が疑問であることは、TV映像等を通じ、お茶の間にも広まっている。
明らかに「不適材」であろう。
前田氏は、公職選挙法違反の可能性がきわめて高い。
そういう人を、大臣にしたままで、野田総理は良しとするのだろうか?

野田総理は党内基盤が弱いとされる。
そこで、輿石幹事長の意向が大きな意味を持つ。

 民主党の輿石東幹事長は20日午前、田中直紀防衛相と前田武志国土交通相に対する問責決議可決を受け「残念だが、これを機会に参院のあり方、問責決議とは一体どういうものかが問い直される」と国会内で記者団に語った。
 田中、前田両氏の交代については「毛頭ない」と否定。自民党が国会審議を拒否しても審議を進める方針については「変えない」と述べた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120420/plc12042012120018-n1.htm

輿石氏は、民主党の参院のドンと言われてもいる。
田中、前田両氏は、参議院の所属であって、2人の問責更迭は、自身の問題でもある。
しかし、2人の適格性ではなく、「参院のあり方、問責決議とは一体どういうものか」を問題にするのでは、逆立ちしているのではないか?

 とはいえ、このまま膠着(こうちゃく)状態が続けば、消費税増税関連法案の今国会成立は絶望的となる。それだけに首相が自公の要求を丸のみし、法案成立後の「話し合い解散」を再び模索する可能性は十分ある。衆院本会議での「政治生命を懸けると言った言葉に掛け値はない」との言葉にはそんな悲壮な決意がにじむ。
・・・・・・
 そんな小沢氏に歩調を合わせるのが輿石東幹事長だ。8日の地方議員との会合で「首相が『不退転の決意で挑戦する』と訴えても実感がわかないのも事実だ」と言い放った。これでは「政権延命のためには消費税増税をあきらめるしかない」と言ったに等しい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120509-00000086-san-pol

野田総理は、本当に政治生命を賭ける気があるのだろうか?
幹事長が、「首相が『不退転の決意で挑戦する』と訴えても実感がわかないのも事実だ」と言い放ったのなら、先ず幹事長更迭をすべきところだろうが、とてもそんな展開は予想できない。

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2012年5月 9日 (水)

リハビリの弁証法/闘病記・中間報告(49)

学生時代に読んだエンゲルス『自然弁証法』に、有名な唯物弁証法の定式化が示されている。

エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。
1.「量から質への転化、ないしその逆の転化」
2.「対立物の相互浸透(統一)」
3.「否定の否定」
これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。3.はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする。
Wikipedia弁証法

鹿児島大学病院霧島リハビリセンターに入院し、促通反復療法(川平法)を受術していて、この三原則を思い出した。
リハビリテーションの行為は、この唯物弁証法の三原則がそのまま当てはまるのではないか。

先ず、ヘーゲルのアウフヘーベンについて一般的な解説をみよう。
ヘーゲルの弁証法は、テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)を統合して、ジンテーゼ(合)を得る、という図式で表現される。
この(合)を得るプロセスが、アウフヘーベンである。
Photo_3
http://www.jagrons.com/archives/2009/08/post_646.html

これを踏まえて、「否定の否定」はどう説明されているか?

たとえば、花はやがて枯れて種が残り、その種が成長してまた花を咲かせます。
(花→種、種→花)=(A→B、B→A’)
花がまた花になるのなら、一旦、種になるのはどういう意味があるのでしょうか。
種になる前の花と、種からでた花は同じように見えて、違っているところがあります。
数が増えています。
物事の発展過程が、このように、進むべき方向に対して、一時期、逆に進む形をとるのです

http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/bensyo4.htm

分かったような、分からないような説明である。
しかし、リハビリに当てはめれば明快である。

先ず、後遺症としての「麻痺」という現象が、健常な状態に対する否定である。
それを否定する営みがリハビリである。
すなわち、否定の否定。
リハビリという行為そのものが「否定の否定」である。

これでは単純過ぎる?
次のようにも考えられる。
片麻痺者が、何とかして健常者に近い運動をしようと頑張ると、緊張が高まって、かえって運動が阻害される。
麻痺した者なら直ぐ分かることだが、意識して力を入れることはできても、力を抜くことは難しい。
この意識しすると緊張が高まること(否定)を如何に回避するか(否定)。

あるいは、脳血管障害等により、脳の指令回路(運動の指示)に欠損が生じる。
=否定
それに対し、新たな指令回路を形成する。
=否定の否定

「対立物の相互浸透(統一)」は、アウフヘーベンのプロセスで起こるのではなかろうか。
その結果として、「否定の否定」がなされる。
麻痺の契機と麻痺解消の契機が統一されたものが治療中の状態である。
麻痺の契機は、脳機能の一部の損傷。
それを代償する機能の獲得を目指すのがリハビリ。
これらが統一されて新たな脳機能が生成する。

「量から質への転化、ないしその逆の転化」こそ川平法の真骨頂であろう。
何回も何回も繰り返し反復する。
反復の上に反復を繰り返すことにより、頑強に動くことを拒絶していた手指が新たな動きを獲得する。

私の場合、中指と薬指が難物である。
いま、辛うじて動きの芽が出てきたような感じがする段階である。
退院まであと2週間余り。
もちろん、限られた期間での成果には限界があるだろう。
しかし、その限界になるべく近づきたい。

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2012年5月 8日 (火)

火山活動との共生/花づな列島復興のためのメモ(62)

私は、富士山麓で生まれ育った。
もちろん、富士山は固有名詞であるが、普通名詞として使われもする。
左右対称形の姿の良い山を指して、「○○富士」と称する。
⇒2009年8月 3日 (月):固有名詞としての富士山と普通名詞としての富士山

多くの場合、その地域を代表する名山である。
いわゆる「郷土富士」である。
鹿児島にも富士山がある。
薩摩半島の南端に位置する開聞岳である。
Photo
枕崎方面から望む開聞岳Wikipedia

見事な円錐形の山容であり、薩摩富士の別名に相応しい。
しかし、鹿児島といえば、なんといっても桜島だろう。

N桜島(さくらじま)は、鹿児島県の錦江湾(正式には鹿児島湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km²の火山島。かつては文字通り島であったが1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなった。
御岳(おんたけ、別称:桜島北岳と呼ばれる、約2万6千年前に鹿児島湾内の海底火山として活動を開始した活火山によって形成された、地質学的には比較的新しい火山である。その山としての新しさ、有史以来頻繁に繰り返してきた噴火の記録、現在もなお活発な活動を続けている事実の全てが、学術的にも観光資源としてもたいへん重宝されており、日本国内のみならず、世界的に有名な活火山となっている。海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの一つとされる。
2007年に日本の地質百選に選定された。

Wikipedia

桜島の噴火による降灰はすさまじい。
特に夏場は鹿児島市方向に風が吹く。
私も30年ほど前、仕事の関係で頻繁に鹿児島を訪れていた時、はげしい降灰に見舞われたことがある。
最初は物珍しさもあったが、それが生活に大変な負担を強いるものであることも知った。

灰は小さな隙間からも入り込んでくる。
したがって、家屋は可能な限り密閉が必要である。
エアコンや乾燥機の普及率が日本一高いと聞いた。
健康にもよくないだろうが、鹿児島の人たちの桜島に寄せる愛着は高い。

わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山

幕末攘夷派の志士平野國臣の歌である。
火山と共生しつつ生きている心意気である。
桜島は、今年はひときわ噴火活動が活発らしい。

 桜島(鹿児島市)の昭和火口で7日午後0時45分、今年500回目の爆発的噴火(爆発)があった。鹿児島地方気象台によると、観測を始めた1955年以降で最速。同気象台の松末伸一調査官は「地殻変動や地震活動に大きな変化はなく、大規模噴火の兆候はない」としている。
 桜島では噴火警戒レベル「3」(入山規制)が継続中で、昭和火口と南岳山頂火口からそれぞれ2キロ以内が立ち入り禁止になっている。鹿児島地方気象台は噴石や降灰、豪雨時の土石流などに注意を呼びかけている。

http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20120508k0000m040035000c

日本列島全体の火山活動が活性化しているのではないだろうか?
そういえば、新燃岳は霧島リハからは直ぐである。
Photo_2 
googleマップ

地震との関係は?
新燃岳の噴火が大きなニュースになったのは東北地方太平洋沖大地震の直前であった。

私たちの生活は、地学的な活動と密接に関連している。
ゆとり教育の反省が云々されている。
私は、高校で地学を学んでいない。地学的な分野については、中学までで終わりである。
東日本大震災などのように地学と社会の係わりは大きい。
もっと地学教育を充実させるべきではないだろうか?

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2012年5月 7日 (月)

『古事記』の冒頭とビッグバン/やまとの謎(64)

宇宙の始まりは、ビッグバンという言葉で語られている。
ビッグバンとは、以下のようなものである。

宇宙は一点から始まった。その始まりは、いまから140億年くらい前に起きたビッグバン(大爆発、big  bang)といわれている。そして宇宙は現在に至るまで膨張を続けている。初め、超高温・超高密度だった宇宙(火の玉宇宙)は膨張したため、今日の冷えて空疎な空間になってしまった。このビッグバンによって、“空間”ができたばかりか、“時間“もここから始まったと考えられている。このビッグバン・モデルは1948年、アメリカのG.ガモフ(ロシア→アメリカ、1904年~1968年)によって提唱された。
http://www.s-yamaga.jp/nanimono/uchu/bigbang-1.htm

時間の始まり、と言われても私にはピンと来ない。
つい、「その前はどうだったのか?」と訊きたくなる。
それを問うこと自体が無意味だということであろうが、素人には釈然としない。

『古事記』には、数多くの謎がある。
誰が、どのような意図のもとに構想したか?
『日本書紀』との関係は?
⇒2011年11月23日 (水):『古事記』と『日本書紀』/「同じ」と「違う」(36)
⇒2011年11月24日 (木):『古事記』偽書説/やまとの謎(48)

『古事記』は次のような描写から始まる。

そもそも、元始の混沌はすでに凝り固まったものの、気配も現象も未だ現れず、名もなく動きもなく、誰もその形を知りませんでした。しかしながら、天地が初めて分かれると、三神(天之御中主〔アメノミナカヌシ〕神、高御産巣日〔タカミムスヒ〕神、神産巣日〔カムムスヒ〕神)が創造の初めとなり、陰陽が分かれると、二霊(伊邪那岐〔イザナキ〕命、伊邪那美〔イザナミ〕命)が万物の親となりました。そして(伊邪那岐〔イザナキ〕命が)黄泉國〔よみのくに〕に出入りし、目を洗うと日月(天照〔アマテラス〕大御神、月讀〔ツクヨミ〕命)が現れ、海水に浮かんだり沈んだりして身を漱ぐと神々が現れました。このように、元始以前のことは定かではありませんが、言い伝えによって、神が国土を娠み島を生んだ時のことを知ることができ、また、元始は遥か太古のことですが、古の賢人たちのおかげで、神が生まれ人が育った世のことを知ることができます。
http://j-myth.info/kojiki/kojiki01.html

ビッグバンを連想させるものではなかろうか?
もちろん、太安万侶らが、ビッグバンのような現象を想定していたとは思えない。
しかし、世界の始まりに対する想像力が、「混沌とした状態」を考えさせたのであろう。

『古事記』のWikipediaの解説は以下のようである。

古事記(こじき、ふることふみ)は、その序によれば712年(和銅5年)太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ、太安万侶(おおのやすまろ))によって献上された、現代確認できる日本最古の歴史書である。上・中・下の全3巻に分かれる。原本は存在していないが、後世の写本の古事記の序文に書かれた和銅年及び月日によって、年代が確認されている。
『古事記』に登場する神々は多くの神社で祭神としてまつられ、今日に至るまで日本の宗教文化と精神文化に多大な影響を与えている。

今年は、太安万侶の献上から1300年にあたる節目の年である。
『古事記』と『日本書紀』という2つの正史が、それほど時間が違わない時期に編纂されたことは大きな謎であり、その理由について、諸説ある。
⇒2008年5月13日 (火):二冊の正史

『古事記』は決して読みやすい書物とはいえないが、Wikipediaにあるように、日本文化のさまざまな面に影響力を持ってきた。
『古事記』には『日本書紀』にはない序文が付されている。
この序文には、『古事記』本文の大まかな流れや『古事記』編纂の経緯が記されている。

天皇の仰せられますには、「私の聞き及んでいるところでは、諸家が先祖から伝え持っている帝紀と本辞とは、今ではもはや真実と違って、虚偽を加えているものも多いという。
今においてその誤りを正さなかったならば、幾年も経たないうちに、言い伝えの本旨が滅びてしまうだろう。それは帝紀と本辞とが、国家の行政の根本であり、天子の事業の基礎であるからだ。そこで帝紀と旧辞とが、真実のままであるかどうかを調ベ、偽りの部分を取り除いた上、これを記述して後世に伝えようと思う。」このように仰せになりました。
この時たまたま、姓は稗田( ひえだ)、名は阿礼(アレ)という舎人がありました。年は28、生れつきはなはだ聡明であり、どのような文章でも1度目で見れば暗誦することが出来、1度耳で聞いたことは、心に刻んで忘れません。そこで天皇はアレに御命令になり、帝皇の 日継及び先代の旧辞を、読み習わしめたまいました。しかしながら天皇の御世が変って、この御事業はいまだ実現するに至らなかったのであります。

 (『古事記』〈日本の古典1〉福永武彦訳 河出書房新社)

『古事記』編纂の経緯を自ら明かしているわけだが、実は、この序文が疑われているのである。

さて、どういうわけか、天武天皇が稗田阿礼に「帝紀」などの暗誦を命じたことや元明天皇が太安万侶にその文字化を命じたことについては、『古事記』序文以外になんの記録もない。
さらに、714年(和銅7)に紀清人と三宅藤麻呂に国史を撰ばせたことと、720年(養老4)に『日本書紀』が完成したことが『続日本紀』に記されているにもかかわらず、712年(和銅5)の『古事記』撰上に関する記録はどこにもない。
それどころか、多くの史料を活用している『日本書紀』が、8年前に成立しているはずの『古事記』を完全に無視している。
この不自然さを何とか合理的に説明しようとして、『古事記』偽書説が唱えられることになる。

http://www.geocities.jp/yasuko8787/z038.htm

果たして『古事記』編纂の実相は?

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2012年5月 6日 (日)

「水と安全」のコスト/花づな列島復興のためのメモ(61)

GWも今日で終りである。
といっても、リハビリ入院中の身には実質的には関係がない。
ただ、療法士、看護師等々、リハ病院の運営に携わるスタッフの皆さんは、連休といっても大型とはいえない勤務体制だ。
なるべく訓練を中断しないようにという配慮に深く感謝したい。

病院を初め、世の中には、年中無休の業務がいろいろある。
特に、夜間の業務では、人の確保が大きな問題になる。
人は、普通、夜働くようにはできていないからだ。

私も若いころ、製造業に在職したことがあった。
私自身は経験していないが、3交代のシフト勤務で連続運転に対応していた。
十分であったかどうかは別として、シフト勤務者の健康管理は会社にとっても重要な課題であった。

群馬県藤岡市の関越自動車道で46人が死傷した高速ツアーバス事故は、事故を伝える写真が衝撃的であると共に、その原因について、いろいろ考えさせられた。
事故の背景に、顧客の時間・金銭の節約ニーズがあるだろう。
デフレ環境下では、少しでも廉価な手段を選択するのは自然である。

特に、ネット情報等により、価格・料金の比較が容易になった。
私も、去年の夏、白馬までバスで行った。
自分が運転することができない現在、発着地が鉄道より自由なバスツアーは魅力的である。
妻だけの運転でも、列車の旅でも、多分行けないだろう。

かなり格安の価格であった。
結果的には、満足したのだが、事故が起きなかったのは幸運と考えるべきなのだろうか?
⇒2011年8月22日 (月):白馬バスツアーで実践的リハビリ
⇒2011年8月23日 (火):白馬村の美術館と安曇野の自然
バスツアーは、今後の有力な旅行手段と考えているので、今回の事故はショックである。
まあ、深夜バスを利用することはないだろうけど。

国交省の規制は有効に作用していないと言えそうだ。

1日のワンマン運転の上限を670キロとする国土交通省の指針を事故後に知り、「机上の空論」と感じた。総務省によると、約9割の運転手が睡魔に襲われたり居眠りしたりした経験があるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120502-00000092-mai-soci

今回のバス事故には、一般論以外にも特殊な背景があるようだ。

 群馬県藤岡市の関越自動車道で46人が死傷した高速ツアーバス事故で、事故を起こした千葉県印西市のバス会社「陸援隊」=針生裕美秀(はりう・ゆみひで)社長(55)=の事業用バス19台のうち、複数台が自動車運転過失致死傷容疑で逮捕された河野化山(こうの・かざん)容疑者(43)所有のバスだったことが分かった。関係者の話で河野容疑者はインバウンドと呼ばれる中国人観光客向けバスツアーを個人で営業していたことも判明。国土交通省は針生社長が河野容疑者に道路運送法が禁じている「名義貸し」をしていた疑いがあるとみて調査している。
・・・・・・
これまでの群馬県警の調べなどで、河野容疑者は元中国国籍で94年に日本国籍を取得したとされ、バスを5台以上所有していたとしても、日本語の筆記試験をパスすることなどが難しいため、陸援隊の名義を借りていたとみられる

http://mainichi.jp/select/news/20120505k0000e040169000c2.html

どうやら、起こるべくして起きた事故ともいえそうであるが、何らかの対策を講じる余地はないのだろうか?
業界に通有の構造的な問題と、「陸援隊」に固有の問題とに分け、事故の原因を徹底的に究明しなければならないだろう。
その上で、国は安全基準を再考すべきだ。
安全性も究極的にはコストの問題に還元されるのであろうが、最低限の安全性は担保されなければならない。

かつて、「日本人は水と安全はタダだと思っている」と指摘した人がいる。
1970年のベストセラー、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』の中の言葉である。
しかし、今や水も安全も、応分のコストを負担すべき時代である。

この国の政府は、原発について 、余りに安易に安全基準を決めたが、真のコストさえ不明のままである。
⇒2012年5月 5日 (土):原発ゼロをどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(60)
バスツアーなどは、他に代替的な手段が選べること、事故の起きた場合の波及する範囲の大きさなど、原発とは異なる。
しかし、安全はタダでは入手できないことをわれわれも認識すべきだろう。

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2012年5月 5日 (土)

原発ゼロをどう考えるか?/花づな列島復興のためのメモ(60)

今日、北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村)が定期検査に入る。
いよいよ、国内の商用原発で稼働しているものがゼロという「原発ゼロ」状態になる。
大飯原発に見られるように、原発再稼働の見通しは立っていない。
「原発ゼロ」をどう考えるか?

再稼働推進派の産経新聞の「主張」を見てみよう。

 原発ゼロのまま猛暑になった場合、政府の需給検証委員会は日本全体で0・4%の電力不足になると試算している。電力会社は気温上昇などに備えて最低3%の供給力の余裕を持つべきだとされることを考えれば、事態は深刻だ。
 なかでも原発依存度が高い関電管内での電力不足は16・3%に達する。
 同委員会では連休明けに、節電などでどれだけ供給不足を補えるか結論を出すが、焼け石に水程度。関電管内では、企業など大口顧客向けの電力使用制限令発動とともに、地域や時間を決めて順番に電気を止める計画停電の検討は必至の情勢だ。

http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/120505/trd12050501100002-s.htm

原発が稼働しない限り、需要に供給が追い付かず、計画停電が現実のものになる。
私のように、東電の配電エリア内に住んでいる者は、計画停電の耐え難さは身に沁みている。
その1つの原因は、計画の主体は東電であって、受電側は計画が立てづらいということである。
配電の仕方は、もっと工夫ができるはずだ。

その以前に、需給ギャップの中身を検討すべきではないか?
そして、その前提として、関電など電力会社は、データをすべてオープンにすべきだろう。
問題となるピーク時の需給構造はどうなっているか?

たとえば、朝日新聞社と高野連が主催する「全国高等学校野球選手権大会」である。
8月の暑い盛りに、日中に甲子園球場で行われる。
白球を追う球児たちの姿は多くの国民を魅了し続けている。
私も「魔物が棲む」ともいわれる甲子園の筋書きのないドラマのファンである。

しかし、日本の電力供給は全国高等学校野球選手権大会をピークに調整を行っているといわれる。
真偽は不明であるがピーク帯であることは間違いないだろう。
もし、甲子園の熱闘がピーク電力と同期していたらどうするか?

計画停電と、甲子園をズラスことが究極の二者択一だったらどうするか?
答えは人によって異なるだろう。
二者択一の候補もまた人によって異なる。
最も好ましいのは、瞬間ごとの電力料金の調整である。
ピーク時に最高の料金になる料金体系が可能ならば、「神の見えざる手」によって需給は調整される。

現実には不可能であるが、思考実験としては可能である。
そして、思考実験により、最適化への近似解の精度を上げていくことも可能であろう。

私が疑問に思うのは、原発のコストがどう見積もられているか、である。
フクシマの事故により、今なお、故郷を放棄せざるを得ない多数の人がいる。
また、国土の少なからぬ部分が放射能で汚染されてしまっている。
除染し切れるものではないだろう。除染が可能にしても膨大な費用がかかると思われる。

特に、生態系への影響はどう見積もられているのか?
水域の汚染を通じて、生態系への影響は今後も拡大していくだろう。
これらの社会的費用を計算した上で、そのコストと犠牲にすべき利便性や楽しみが天秤にかけられるようなことを考えるべきではないのか?

おそらく、原発のコストは、現在の想定よりも遥かに高いものになるはずである。
そういうデータに基づいた議論を飛ばして、危機感を煽っても賛同を得られないことを、政府や経団連、商工会議所などの原発再稼働推進論者は知るべきである。

朝日新聞「社説」は次のように言っている。

 いま、政治への国民のいら立ちをうまくすくいとっているのは、再稼働問題で政府を批判する橋下徹大阪市長なのだろう。
 ただ、有権者が政治家個人の突破力に期待するばかりでは、行き詰まる。
 原子力をどのように減らし、新たなエネルギー社会をどう構築するか。私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない。それは、原発政策を国に「おまかせ」してきたことからの教訓でもある。
 低線量被曝の問題も同様だ。除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ。自分自身で学び、合理的だと思う考えを選びとるしかない。

https://mail.google.com/mail/u/0/?hl=ja&shva=1#inbox/1371a905ffa8db8f

「私たち自らが考え、合意形成をはからなければならない」にしても、「除染や食品安全の基準では、放射線の影響をめぐって科学者のあいだでも意見が割れている。正しい答えのない問題だ」としているのは、朝日らしい(?)腰の定まらない書き方である。
明確な線引きができなくても、どちらかを選択しなければならないケースは多い。
科学者の意見が割れているのなら、その判断の分岐ぼ構造を含め、伝えるべきだ。
「国民のいら立ちをうまくすくいとる」のも、ジャーナリズムの1つの役割だろう。

朝日新聞の池澤夏樹さんのコラム「終わりと始まり」(西日本本社版5月5日掲載)に次のような文章がある。

 
 「計画的避難区域」という場合の「計画的」とはどういうことか? 事態に押しまくられてしかたなく避難するのではなく、自分たちは状況を掌握した上でことを進めているという弁明。
  「警戒区域」だって実際には「禁止区域」、正確に言えば「高い放射線量ゆえに一般人の立ち入りが禁止される区域」だ。警戒などで済むはずがない。
 この区域の呼び名が今回変わった。
  「避難指示解除準備区域」とはよくも作文したものだ。「もうすぐ帰れますから待っていて下さいね」という猫なで声を官僚文体にするとこういうことになる。それだって年間の放射線量のリミットを20ミリシーベルトという高い値に設定した上での話だ。国民の生命の値段が安かった旧ソ連でさえ5ミリシーベルトを基準としたのに。安全ですと言われて帰る人たちの不安、それでも帰らないと決める人たちの無念の思いはどうするのだろう。

http://cub-chanchan.cocolog-nifty.com/cub/2012/05/post-81c9.html

いわゆる「霞が関文学」というレトリックの一端だろう。
計画停電という言い方にも共通するものがある。
続けて池澤さんは次のように言う。

 福島第一の事故は2万人以上が住む国土を住めない土地にしてしまった。国土は国の基本である。石原都知事は尖閣諸島を買うと勇ましいが、「帰還困難区域」の規模は領土問題の比ではない。尖閣諸島や竹島はおろか北方四島と比べてもその喪失は遥かに大きい。
 そこは絶海の無人島ではなく、たくさんの住民が暮らしていた愛しい地である。千年も前から耕して作物を育て、家畜を飼い、町や村を営んできた。それを我々は失ってしまった。今後何十年か、ひょっとしたら何百年か、住めない地域を作ったということを、国家としての日本はどう受け止めるのか。
 昔の国家主義者ならば、罪万死に値すると言っただろう。

朝日はコラムニストに頼るのではなく、「社説」で語れ。
東京(中日)新聞「社説」は次のように書いている。

 ゼロ地点に立ち止まって考えたい。震災は、原発の安全神話を粉々にした。安全神話の背後にあるのが経済成長の呪縛である。原発、あるいは原発が大量に生み出す電力が、日本経済を支えてきたのはもちろん疑いない。
 経済成長を続けるため、電力需要の伸びに合わせて、高出力の原発を増設し続けた。そうするには、原発は絶対に安全でなければならなかったのだ。その結果、原発は安全神話に包まれた。
 消費者も、そのことにうすうす気づいていたのだろう。日本は世界唯一の被爆国である。私たちの記憶には世界中の誰よりも核の恐怖が染み付いている。経済成長がもたらす物質的な豊かさは、恐怖さえ、まひさせたのかもしれない。被爆国としての倫理に勝るほど、成長の魅力は強かったのか。
 成長神話にも今は陰りが見える。目の前の転換点は、消え残る神話と呪縛を克服し、被爆国の倫理を取り戻す契機になるはずだ。経済の効率よりも、私たちは人間の命と安全を第一に考える。野放図な消費を反省し、有限なエネルギー資源をうまくいかすことができるのなら、新しい豊かな社会を築いていけるはずである。
 優しい社会をつくるため、私たち消費者もエネルギー需給の実態をよく知る必要があるだろう。暮らしを支える電力がどこでつくられ、電気のごみがどこへ葬られるかも知らないで、原発推進、反対の対立を続けていてもしかたがない。電力事業者の誠実な情報開示が必要だし、私たちの暮らしのありようももっと考えたい。

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012050402000068.html

私たちは、政権交代しても、「経済の効率」から抜け出す政権を持ち得なかった。
ドラッカーが処女作『経済人の終わり』を世に問うたのは、1939年のことである。
経済は重要である。しかし、経済は社会の部分に過ぎない。
そろそろ「物質的豊かさ」に替わる生活の豊かさを志向すべきではなかろうか。

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2012年5月 4日 (金)

憲法改正論議の方向性/花づな列島復興のためのメモ(59)

若いころは、よく熱を出したが、ここ10年ぐらいの間、発熱の記憶はない。
昨日の突然の発熱にはビックリした。
しかし、一晩冷却剤を使って休んだら、今朝は平熱に戻っていた。
頑張り過ぎてオーバーヒートしてしまったらしい。
自主トレは控えめにし、療法士の指導によるトレーニングは通常通りやった。

昨日は憲法記念日だった。施行65年を迎えた日本国憲法について、改正論議が賑やかになっている。
issueは何か。
産経新聞の「主張」を見てみよう。

 憲法改正の動きが広がりを見せつつある。自民党が憲法改正草案をまとめたのに加え、みんなの党やたちあがれ日本も改正の考え方や大綱案を発表した。
 占領下で日本無力化を目的に米国から強制された格好の現行憲法では、もはや日本が立ちゆかなくなるとの危機感が共有されてきたためだ。
 憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。なようである。

http://sankei.jp.msn.com/smp/politics/news/120503/plc12050303230005-s.htm

小見出しは次の2つである。

≪自衛権の制限は問題だ≫
≪審査会は改正の論議を≫

小見出しでおおよその推測はできよう。
産経新聞の「主張」に表われていように、憲法改正論議の中心的論点は第9条にある。
しかし、時代の推移と共に論点も次第に多様化してきている。

当初は第9条が大きな争点であった憲法改正論議は、その後の情報化社会の到来や国民のプライバシーに関する意識変革と相まって、多様な論点での議論が求められはじめ、また護憲を党是に掲げている社会党に替わって1996年に民主党が野党第一党となった事などから、政治の場で憲法を議題にする事をことさらに問題視すべきでないといった認識も広まり、2004年には自民党だけでなく、公明党、民主党などの各党憲法調査会が結成され、改憲論議が広く交わされる事となった。
Wikipedia憲法改正論議

私は、第9条をissueとする限り、護憲派である。
第9条が持っている価値観は、今も大きな価値を持っていると考える。
しかし、マクロな時代認識において、現在が転換点であるという意識は強いし、特に「3・11」後ということを考えると、「新憲法」を視野に入れて論ずる時期にあると思う。

そんなことを考えていたところ、5月1日の朝日新聞に、東浩紀さんのインタビュー記事が載っていた。
東さんは1999年に、『郵便的不安たち』を朝日新聞社から刊行して注目を浴びた評論家である。
1971年5月9日生まれとあるから、もうすぐ41歳である。

東北地方太平洋沖地震にショックを受け、大きな思想の転換をしている。震災前の全作品が黒歴史だと話し、哲学的なことを語っていた時期が恥ずかしいと語っている。
Wikipedia東浩紀

東さんは、なぜいま憲法改正なのかを問われ、「3・11」後の政府の失政を目の当たりにして「もやは政権を代えている場合ではない。もっと基層の部分を変えなければならないことが明らかになった」と語っている。
政権交代によって、期待したような変化は何も起こらなかったという私の立場からは、理解できるような気がする。
しかし、基層はそんなに直ぐには変わらない。
変わりにくいから基層なのであって、表層が変化してそれがジワジワと基層に及ぶと考えるべきではないか?

東さんは、典型的なプチブル急進主義のように見える。
ネット上に以下のようなコメントがあった。

 東は「憲法を日本というコンピューターを使うためのOS(基本ソフト)」にたとえ、「だったら自衛隊がもう少しサクサク動く、国がうまく回るOSに入れ替えたほうがいいんじゃないか」と言う。だが、わが憲法の最大の取り柄は自衛隊がサクサク動かないようにしている9条の非戦・非武装の条項にある。東のコンピューターを真似た思考方法が気楽な結論を導いているように見える。
 驚くのは「試案では日本という国を尊重しろと書き、天皇は元首として位置づけました」と語っているところだ。国民が国家権力を縛るために定めるのが憲法だということを東が承知していないはずがない。「国を尊重しない自由」「天皇の言うことを聞かない自由」を保障してこそ憲法と言えるのに、「国を尊重しろ」「天皇は元首」ではまるでその逆だ。
 憲法改正試案をつくる過程で感じたことを東は「憲法を変えるのはやっぱり気持ちがいいものですね。それは間違いない。新しい国のかたちをここに定義するんだみたいな、このワクワク感」と、もう自分が憲法改正を成し遂げつつあるかのように語っている。気持ちはとてもよくわかる。物事を変えることは何ものにも代えがたい快感を伴うものだからだ。ただ、確かなことは、国民は東の試案のような憲法を決して望まないだろうということだ。

東浩紀の奇妙な憲法改正試案

日本国憲法では、第9条以外にも、天皇制の規定が大きな問題である。
私には、天皇制というものがよく分からないという思いが強いが、現代という到達点において、天皇制はいかなる意味を持っているのであろうか?

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2012年5月 3日 (木)

発熱?/闘病記・中間報告(48)

今日も元気にリハを続け、入浴の時間なので終わりに、というところで寒気がして震えが止まらない。
病室に横になっても依然寒気がするので、ナースコールをした。
体温を測ってみると、かなり熱い。
そういう訳で、今日は日記は以上である。
私の自覚では、ちょうど疲れが溜まる頃と、一種のカルチャーショックによるものだろう。
多分、一晩休めば回復すると思う。

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2012年5月 2日 (水)

硅石器時代の産業の軸は?/花づな列島復興のためのメモ(58)

5月1日の日経新聞の社説は、『「産業の軸」をもう一度立て直そう』と題されている。
その趣旨は、以下のようである。

 日本の産業の軸が大きく揺らいでいる。日本の技術力の象徴だった電機産業は、2012年3月期にパナソニック、ソニー、シャープの家電大手3社が合計で約1兆6800億円の巨額の最終赤字を計上する見通しだ。
 円高や震災による生産の混乱など外部要因が足を引っ張っただけではない。得意だったはずの技術開発でも、次世代テレビの本命とされる有機ELパネルの開発などで韓国勢に大きく出遅れ、海外との実力差は広がりつつある。
・・・・・・
 クルマと電機。日本の「2本柱」ともいえる2つの産業の足場が揺らぐ中で、どんな企業、どんな産業が21世紀の日本の駆動力になるのだろうか。若干の期待も込めながら、次の主役候補の顔ぶれを予想してみたい。
・・・・・・
 自らが持つ強い技術、強い製品に磨きをかけて、世界市場で主導権を握る。過当競争の市場では内外企業との再編を模索し、事業基盤を立て直す。それが勝ち残りの要件であり、時間を浪費すれば再生のチャンスは遠のくだろう。
・・・・・・
 もう一つ期待したいのは、サービスやIT(情報技術)など新たな分野から、新たな成長プレーヤーが登場することだ。例えば「ユニクロ」ブランドを展開するファーストリテイリングはアジアを中心に1日1店舗弱、年間200~300店舗の出店攻勢をかける。
・・・・・・
 スマートフォン(高機能携帯電話)向けのソフトでは、NHNジャパン(東京・品川)の開発した無料通話ソフト「LINE」は今年中に利用者が世界で1億人を突破する見通しだ。スマホ時代の到来で、ゲームなどの関連サービス市場も活気づく。「日本はベンチャー不毛の地」という常識がひっくり返るかもしれない。

硅石器時代という時代認識があることは以前にも書いた。
⇒2009年5月21日 (木):実質GDPの大幅減と文明史の転換
⇒2012年2月28日 (火):硅石器時代とエルピーダの破綻/花づな列島復興のためのメモ(29)
⇒2012年3月12日 (月):変曲点の時代?/花づな列島復興のためのメモ(37)
上記で言いたかったことは、従来の発想では「産業の軸」は再構築が難しいのではないか、ということである。

エネルギー・資源多消費型の産業は、近代化=工業社会のものである。
脱工業化・脱近代化に進むと見られる硅石器時代は、当然指導原理が異なるものとなろう。
提唱者の西村吉雄さんは、農業社会に「似てくる」という。
しかし、単に近代以前に回帰するものではないことは明らかである。
民主党政権にはもはや期待はしていないが、政局ではなく大局、と言うなら、今後の「産業の軸」の議論のたたき台くらいは提起すべきだろう。

こういう時代に、原子力発電をどう位置づけるか?
4月30日付の東京新聞社説は、「それでも原子力か」というタイトルである。

 どうしても原子力か、という問いがかつて発せられていました。ある物理学者の問いです。今もなお、それでも原子力か、とやはり問わねばなりません。
 手元に一冊の本がある。
 武谷三男(たけたにみつお)編「原子力発電」(岩波新書)で、一九七六(昭和五十一)年第一刷発行。日本の商業用原子炉が本格稼働し始めたころで、経済的な軽水炉時代の幕開けといわれたものです。
・・・・・・
 本は原子炉の仕組みに始まり、続けて、その無数の配管が高温高圧の蒸気に耐えられず肉厚が薄くなることや、腐食、疲労の危険性を指摘します。
 人間のミスも取り上げている。例えば試運転中の玄海原発1号機で放射能レベルが上がった。調べたら、炉内に鋼鉄製巻き尺の置き忘れがあり、それが蒸気発生器の細管を傷付けていた。だがそれはむしろ幸運な方で、もし炉心側に飛び込んでいたら大事故になっただろう、と述べている。
・・・・・・
 原発の立地集中化についても当時から心配していました。日本では人口密度が高く適地がなかなか見つからない。とはいえ、日本ほどの集中例は少なく、地域住民にとってこれほどひどいことはない、とも述べています。
・・・・・・
 さらに大物の学者が原子力推進計画に乗って、政府から多額の研究費を得ようとしたという、学者の弱みも明かしています。
 四十年近くも前の、今と何と似ていることでしょう。何だ変わっていないじゃないかというのが大方の実感ではないでしょうか。
 それらを列挙したうえで、武谷は「どうしても原子力か」という力を込めた問いを発しています。

「昔も今も変わらない」のではなく、「今こそ」「それでも原子力か」が問われなければならない。
武谷三男さんは、もちろん第一級の理論物理学者だったが、新たな技術論の提唱者であり、論争の仕掛人でもあった。
私の記憶では、唯物論研究会からの流れで日本共産党などの正統左翼は、武谷技術論には反対で、新左翼系に支持者が多かった。
菅元首相や仙谷政調会長代行らは、昔、武谷さんの著書に触れなかったのだろうか?
政治家の密談で、原発再稼働の安全基準や再稼働の是非をきめるべきではないことは明らかであろう。

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2012年5月 1日 (火)

個体識別/「同じ」と「違う」(47)

早いもので、霧島にきてから12日が過ぎた。
鹿児島といえば西郷さんだ。鹿児島空港にも、鹿児島市内にも、たくさんの銅像がある。
いかにも西郷さん(鹿児島風に発音すると、セゴドン)らしいと思うが、どうやらそれは作られたイメージであるようだ。
⇒2012年4月16日 (月):『西郷の貌』と万世一系のフィクション/やまとの謎(61)

この「らしさ」とはどういうことか?
われわれは、西郷さんなら、西郷さんという個体を、たとえば大久保利通や勝海舟と識別できるのは、その風貌についてのイメージが確立しているからだろう。

川平和美教授は、1990年に京都大学霊長類研究所に国内留学して、サルを対象に脳の可塑性を研究したことが、川平法l着想の大きな契機になった。
京都大学の霊長類グループは、サルの個体識別によって、社会構造や個体の行動の差異を明らかにしたことは有名である。
その世界に誇るサル学において、宮崎県串間市の幸島は貴重なフィールドだった。
幸島で重要な役割を果たした女性が4月7日に亡くなった。

野生ザルの生態を宮崎県串間市の幸島(こうじま)で観察し続けた三戸サツヱ(みと・さつえ)さんが7日午後1時35分、老衰のため宮崎市のケアハウスで死去した。97歳。広島市出身。
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日本統治下だった朝鮮半島などで小学校教諭を務め、敗戦後は串間市で教諭の傍ら自宅対岸の幸島でサルを観察。1953年、子ザルが芋を海水で洗って食べ始め、群れに広がる様子を確認。京都大の研究者によって国際学会で発表され「文化を持つサル」として世界の研究者を驚かせた。
70-84年、京都大霊長類研究所の幸島野外観察施設(現・野生動物研究センター幸島観察所)研究員や非常勤講師。48年からつけ始めたサルの系図は受け継がれ、サル研究の財産となっている。吉川英治文化賞(74年)や西日本文化賞(同)を受賞。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/296065

個体識別とは、サルの一匹一匹を見分けることである。
普通、われわれは、人間の顔すなわち人相については、敏感に違いを感知することができる。
西郷と大久保の貌、すなわち人相を「分ける」ことは容易である。

ところが、サルの貌(猿相)は識別しづらい。
動物園に行っても、どのサルも同じように見えてしまう。
この違いは何か?

個体の差異という意味では、人間もサルも同じはずである。
違うとすれば、馴染みの程度や関心の大きさであろう。
たとえば、人間でも外国人の顔となると、日本人の人相よりも見分けが難しいようである。

しかし、外国人でも自分がよく知っているジャンルの人と、不案内なジャンルの人では違いがある。
ゴルフの好きな人にとっては、ジャック・ニクラウスとアーノルド・パーマ-の識別は容易であるが、ピエール・カルダンとカルバン・クラインを識別するのは難しいだろう。
だから外国人だから、ということではなく、馴染みや関心の程度であって、日本人でも同じことである。

私は、AKB48のメンバーの中で、前田敦子嬢をやっと見分けられるようになった。
ブームとなった『もしドラ』のお陰である。
⇒2011年6月13日 (月):『もしドラ』ブームとAKB48総選挙
⇒2011年6月20日 (月):そうだったのか! 『もしドラ』とAKB48
せっかく覚えたのであるが、彼女はAKB48を卒業ということらしい。

それはともかく、「分けられる」ということは「分かる」ことの条件である。
あるいは逆に、「分ける」ためには「分かる」ことが必要なのかも知れない。
古代天皇陵の比定が混乱しているのも、分からないから比定できないのである。
しかし、宮内庁は分かろうとする努力を封殺してしまっている。

あるモノをそのモノだとする「同定=アイデンティファイ」は創造的思考の原点である。
⇒2011年1月30日 (日):馴質異化と異質馴化/「同じ」と「違う」(27)
しかし、鳩山由紀夫元首相は、「同定」が難しい人だ。
ひと頃、永田町界隈で次のようなジョークが流行った。

「日本に正体不明の鳥がいる」。「ハト」ジョークは冒頭、謎かけめいた問いかけで始まり、こう続く。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも、鳥自身は「ハト」だと言い張っているようだ。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/352926/

本人は、相変わらず意気軒昂のご様子である。
民主党も、外交問題担当の最高顧問などに遇するから、本人もその気になる。
民主党としては、2階に上げたつもりだったのだろうが。
もうそろそろ、“公約”通り、引退したら如何かと思う。

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