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2012年3月16日 (金)

さらば、吉本隆明/追悼(20)

吉本隆明さんが亡くなった。
1つの時代が確実に終わったという気がする。
私は吉本さんの著作から大きな影響を受けてきたが、同時に余り良い読者とはいえないとも言わざるを得ない。
主著といわれている『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論』も拾い読みしただけである。
にもかからず、ものの見方・考え方において、吉本さんの影響は多大であると自覚している。

「大衆の原像」とか「自立の思想」というようなコンセプトは魅力的だった。
毎日新聞の宍戸護という署名のある11年5月27日夕刊の記事に次のような文章があった。

「人間が自分の肉体よりもはるかに小さいもの(原子)を動力に使うことを余儀なくされてしまったといいましょうか。歴史はそう発達してしまった。時代には科学的な能力がある人、支配力がある人たちが考えた結果が多く作用している。そういう時代になったことについて、私は倫理的な善悪の理屈はつけない。核燃料が肉体には危険なことを承知で、少量でも大きなエネルギーを得られるようになった。一方、否定的な人にとっては、人間の生存を第一に考えれば、肉体を通過し健康被害を与える核燃料を使うことが、すでに人間性を逸脱しているということでしょう」
http://mainichi.jp/newsarchive/news/20110527dde012040005000c.html

私が「吉本隆明」という名前を知ったのは、1963年に大学に入学して間もなくのことである。
60年安保の熱気は既に遠く去っていたし、70年前後に全国で吹き荒れた全共闘運動は、萌芽も感じられなかった。
大学入学当初は、その後の推移を考えると信じがたいことであるが、学生運動の集会で、日本共産党系の団体と反日本共産党系(新左翼)の団体とが同じ集会に出ていたようなのどかな時代だった。
もちろん、互いにヤジの応酬などはあったが、田舎の高校の出身であったこともあり、学生運動の具体的な状況など知るよしもなかった。
なんで学生同士が争うのかなどと思ったりしていたのだから、ウブと言えばウブである。

私は原潜寄港阻止や日韓会談阻止などを掲げた集会・デモに2度ほど参加したが、街頭デモで機動隊に文字通り蹴散らかされた感じだった。
党派的な主導権争いにうんざりしてしまったことが大きいが、集会やデモはそれっきりだった。
内ゲバと称して、殺人にまで至る争いに発展したのは、その後である。

そういうことで、吉本さんが60年安保にどう係わっていたかということも、まったく知らなかった。
吉本さんの著書に初めて触れたのは、大学の中の生協書籍部ではなかったかと思うが、『抒情の論理』未来社(5906)というタイトルの本を、「抒情」と「論理」というミスマッチ感覚に惹かれであったように記憶しているが、何気なく手にしたときである。
今にして思えば、出版されてから既に4年も経っていたことになる。
すでに新左翼の人たちの間では熱心な読者がいたらしいが、田舎の高校生の読書範囲など知れたもので、私は予備知識の全くない白紙の状態で接したのだった。

そして、初めて読んだ吉本さんの本の破壊力は強烈だった。
たとえば、『前世代の詩人たち』。
高校時代に、良心的・進歩的な詩人として名前を知っていた壺井繁治や岡本潤といった人たちが、完膚無きまでに批判されていた。
それまでの知識が、根拠の薄弱な通念でしかないことを知ったのである。

以後、吉本さんの著書は少なからず読んだが、それでも氷山の一角と言わざるを得ないだろう。
また、数多くの「吉本隆明論」が出版されているが、自分のアタマ考えようと思い、ほとんど手を出さずじまいである。
私が読んだ数少ない吉本論の一冊が、鷲田小彌太『増補・吉本隆明論』三一書房(9006)である。

鷲田氏は、「あとがき」に次のように書いている。

吉本隆明から、つい最近まで、直接的に、影響らしいものは何も受けなかった、と断言してよい。60年代に、いくぶん程度以上にオーソドックスな形でマルクス主義を学んだ者の眼には、吉本は異端以外のなにものでもなかった。大学闘争はなやかかりしころ、私はその絶対否定的批判を書いてみたほどに、吉本との距離は遠かったといってよい。

私は、「オーソドックスな形でマルクス主義を学んだ」ことがないし、概して「異端」が好きというか、少なくとも偏見は持っていないつもりである。
してみると、およそ対極に位置しているように思う。それが、私に同書を読んでみる気にさせたのだろう。
大目次は以下の通りである。

  第一章 敗戦期の自己意識-「近代の超克」
  第二章 戦後民主主義の批判-「擬制」の終焉
  第三章 戦後思想の達成-「自立」の思想的拠点
  第四章 戦後思想の解体と定着-世界普遍への道
  第五章 ポストモダンの思考-「超西欧的まで」
  増補  戦後思想の目録と吉本隆明-21世紀を拓く思想

吉本さんの問題意識の変遷を時間軸に沿って整理したものと言ってよい。
各章それぞれ10年間くらいの期間に相当する、ということになるだろうか。
各紙の訃報記事は、「戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家(で詩人)」というような表現であるが、上記の目次からも、戦後思想史に占める吉本さんの位置を窺うことができる。
東日本大震災後の社会で、発言が気になる人だった。
合掌。

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コメント

こんにちは。
どこかでこの日を覚悟をしていた自分がいますが、やはりいろんなことが偲ばれます。
その日は、少人数で、しんみりと吉本さんに、彼の言葉によっていろんな場面で導かれてきたことなどを思い返しながら、ありがとうございました、と呟きました。

投稿: kimion20002000 | 2012年3月20日 (火) 10時27分

kimion20002000様

コメント有り難うございます。
誰もが死ぬのであり、「死ねば死にきり、自然は水際立っている」ことは分かっていても、もう再びリアルタイムでは意見を聞くことができないのは寂しいことですね。

投稿: 夢幻亭 | 2012年3月21日 (水) 18時24分

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