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2012年3月18日 (日)

心にしみ通る吉本隆明の追悼文

各メディアが吉本隆明さんの追悼文を載せている。
これから発行される月刊誌や季刊誌などにも数多くの追悼文が寄せられることだろう。
それだけ、影響を受けた人が多かったということの証である。

しかし、何よりも吉本さん自身が、追悼文の名手であった。
『追悼私記』洋泉社(増補版9707)という追悼文を集めた単行本もある。
以下の紹介がAmazonに載っている。

(「BOOK」データベースより)
究極の人間論は追悼文にあり。人はなぜ追悼文を書くのか?そして、追悼文が意味をもつのはなぜなのか?「赤裸なこころばえとあざやかな人間論」と絶賛された旧版に新稿五篇を増補する。小林秀雄から美空ひばりまで、ミシェル・フーコーから埴谷雄高まで。達意の文で綴った追悼文集成の決定版。
(「MARC」データベースより)
人はなぜ追悼文を書くのか。そして、追悼文が意味をもつのはなぜなのか。小林秀雄から美空ひばりまで、ミシェル・フーコーから埴谷雄高まで、達意の文で綴った追悼文集成の決定版。

以上をみれば、吉本さんが追悼文に並々ならぬ力を入れていたのが分かろう。
以下は、特に私の心に沁みたある出版社の編集者の追悼文の一端である。

岩淵五郎が死んだ。こう書いただけで、わたしはじぶんのこれからの生が半分萎えてゆくのを感ずるが、おおくのひとびとにはどこのだれとも知らないひとりの死としてしか受けとられないにちがいない。いくらかのひとびとは、二月四日の全日空機の遭難で事故死した春秋社の編集長岩淵五郎の名を記憶しているだけだろう。しかし、かれに日常接していたひとびとは、岩淵五郎の死が、自分の生のある貴重な部分を突然奪っていってしまったという思いを疑いえないにちがいない。すくなくともわたしにとってはそうである。
・・・・・・
生きてゆくことは辛いことだなあという、何度も何度も訪れたことのある思いが、こんどは肉体までそぎとってゆくのを覚える。

「ある編集者の死」週刊読書人66年3月14日号

私はもちろん岩淵五郎という人を知らない。
しかし、この追悼文から、岩淵五郎という人は、次のような人柄ではないか、と想像する。
職業的に社会の水準を抜け出た結果を出しながら、自分のことについては控えめで、世の中で広く知られた人ではないが、周りにいる人から厚く信頼されている。
酸いも甘いもかみ分けて、若者の勇み足を温かい眼で見守っている。
要するに、現在はめっきり少なくなってしまったオトナの男。
私自身かくありたいと念じつつ、なかなかそうはいかない。
もう一つ同じ岩淵氏に対する追悼文がある。

いったい死者を悼む文章をかくのにどんな意味があるのか。ことに岩淵五郎のように自らは文章をかくことも、自分を押し出すこともしなかった存在の死をなぜどうかかねばならないのかをしらない。エンゲルスはマルクスの死にさいして、「現存する世界最大の思想家が死んだ。」とかくことができた。そして、わたしは岩淵五郎の死を<現存するもっとも優れた大衆が死んだ>とかくべきだろうか。わたしが大衆とはなにかとかんがえるとき、父や少年時の塾の教師といっしょに岩淵五郎のことを個的な原像としておもいうかべていたのはたしかである。
「ひとつの死」試行17号66年5月15日

「大衆の原像」という言葉は、吉本さんの使ったキー概念の1つである。
マス媒体に登場して、社会的な影響力を発揮している知識人を批判するとき、それに対置する存在として大衆を措定する。
「知識人VS大衆」という図式は当たり前すぎるようであるが、吉本さん以前は、知識人優位というとらえ方が一般的であった。
吉本さんはそれを逆転した。「原像」をつけるという操作はあるものの、それまでの通念と180度異なるとらえ方である。

上記の追悼文に見られるように、「大衆の原像」とは、たとえば岩淵五郎氏のような存在を抽象化したものであろう。
おようにしかし、私には岩淵氏こそ知識人のように見える。
エセ知識人と野にいる賢人という差であろうか。
分かったようで分かりにくい。
「原像」とはどういうことか?

「文藝別冊」に『吉本隆明』河出書房新社(0402)があるが、その中に評論家の呉智英氏の『「大衆の原像」異論』というインタビュー記事がある。
吉本さんが知識人批判の立脚点としているのが「大衆」であるのに対し、呉氏は、本物の知識人か否かで批判する。
呉氏自身は、ベクトルが逆向きである、としている。

しかし、本物の知識人か否かということでいえば、岩淵氏のような存在こそ本物の知識人ではないのか?
呉氏は、「大衆の原像」というのは、「民」が主であることを原理主義的に言っているのだ、と解説している。
まあ、原理主義的に、というところに否定のニュアンスがあるわけだけど、「「民」が主であること」自体は間違いではないだろうと思う。

岩淵五郎氏が亡くなった全日空羽田沖墜落事故は、1966年2月4日に起きた。
吉本さんは1924年(大正13年)11月25日の生まれだから、40歳を越えたばかりだった。
私は大学生だったが、吉本さんのこの頃書いていた文章を、ずいぶん年長の人のように感じて読んでいた。
その頃の吉本さんよりもずっと年上になってしまったわけで、馬齢を重ねてきたものだと反省する。

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