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2012年3月 9日 (金)

餓死という壮絶な孤独(3)/花づな列島復興のためのメモ(34)

またしても、立川市で餓死とみられる遺体が発見された。

東京都立川市の都営アパートで死亡しているのが見つかった女性2人のうち、90代の母親とみられる女性は栄養失調により餓死した可能性が高いことが8日、警視庁立川署への取材で分かった。同署は、介護をしていた60代の娘が先に病死し、母親は食事を取れずに死亡したとみている。
90代母、60代娘死亡後に餓死か 立川2女性死亡

また、大阪市のマンションで当時3歳の長女と1歳の長男を放置して餓死させた疑いで殺人罪に問われている事件の公判の様子が報じられている。
いずれも本来起きてはいけない事件である。

「餓死」はどのような状況で起きるだろうか?
自立的に食糧を確保できない場合か、人口に対し絶対的に食糧が不足した時であろう。
現在のように飽食の時代といわれる一方で、餓死が発生するというのは、自立的に食糧を確保できない場合が多いと考えられる。
幼児や何らかの障害があるケースである。

先頃、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した憲法などに反するのではないか、として国の生活保護制度見直しによる老齢加算廃止について争われていた裁判で、最高裁の判断が示された。
いわゆる生存権訴訟であるが、餓死が起きている現実を前にしては、健康で文化的な生活という言葉が空しく響く。

「人口に対し絶対的に食糧が不足」というのは、いわゆる飢饉の時である。
いまから220~230年ほど前の天明期に歴史的な大飢饉があったことが知られている。
直接的には、浅間山の大噴火による日照不足による作柄の極端な落ち込みが原因と考えられている。
⇒2009年10月11日 (日):八ツ場ダムの深層(1)天明3年の浅間山大噴火
⇒2009年10月12日 (月):八ツ場ダムの深層(2)天明という時代相

この時代に日本人口は激減したと推測されている。

Photo
やや不確かな人口統計ですが,享保および天明の飢饉の後に100万人を超える人口純減がみられます.とくに天明の飢饉時の減少は急激で,非常に多数の餓死者などがでたことが推測されます.
http://dil.bosai.go.jp/workshop/02kouza_jirei/s22reika/f8jinko.htm

100万人という数字は想像を絶するが、地獄のような光景が見られたであろうことは容易に推測できる。
Wikipediaの解説をみよう。

東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年度から深刻な飢饉状態となった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策がとられていたこととも相まって、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。
・・・・・・
1783年6月3日、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続くと考えられる。
しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できていない。
大型のエルニーニョが1789年-1793年に発生し世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたと言われる。

このような時代が再び来るとは考えたくないが、天災と失政が同期すると何が起きるか不安である。
特に、自己責任を強調する新自由主義の思潮が強くなってきている。
確かに、自由な市場での競争が進歩の原動力であることは事実だと思うが、それが最善の結果をもたらす保証はない。

一方で協調主義が骨身に染みついているのがわが国である。
「和をもって貴し」「空気を読め」であるから、自己責任といいつつ、環境から自由ではあり得ない。
自己実現といわれるが、人間は社会的な動物であるから、他者との係わりを捨象した自己はあり得ない。
共に助け合うことと、個人の自由や価値観を大事にすることを、どこで折り合いをつけるべきだろうか。

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