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2012年3月

2012年3月31日 (土)

政治家の信義とは?/花づな列島復興のためのメモ(43)

野田政権が見切り発車的に消費税増税関連法案の閣議決定した。
年度末ぎりぎりである。
昨年11月の仏カンヌの主要20カ国・地域(G20)首脳会議で、「健全な経済成長のためには財政健全化が不可欠だ。消費税率10%引き上げを実現化するための法案を平成23年度内に提出する」と宣言したことが、国際公約になっているということだろう。
福島第一原発事故の「収束宣言」と同じ構図である。
⇒2012年3月28日 (水):冷温停止の大本営発表/原発事故の真相(22)

しかし、野党との審議以前に、与党の内部からさまざまな形で反発が出ている。
まず、連立政権を構成している国民新党である。
亀井静香代表は、消費税率引き上げは連立政権合意に反しているとして、連立解消を野田首相に伝えた。
既に連立離脱している社民党の福島党首も、連立当初の合意に反すると言っている。
連立政権合意とは以下のようである。

09年9月の民主、社民、国民新党の3党連立政権合意書は「現行の消費税5%は据え置くこととし、今回の選挙において負託された政権担当期間中において、歳出の見直し等の努力を最大限行い、税率引き上げは行わない」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120330-OYT1T00196.htm

野田政権の言い分は、消費税率の実際の引き上げは、09年総選挙の任期4年が終わった後の14年4月であるから、連立合意に反しないということのようである。
衆議院の任期中は、決めるだけで実施はしないという理屈である。
筋は通っているか?

次の総選挙では、民主党は必敗するだろう。
というのは私の感想に過ぎないとしても、次の政権の手足を縛ることになるのは間違いない。
どの党が政権を担当しても避けられない課題ともいえるが、やっぱり決めた党と実施する党が異なるのは如何なものか?

それに、連立合意は、まず第一に消費税を据え置いて歳出削減を図ることとしている。
民主党の政権公約(マニフェスト)も同趣旨である。
しかしながら、公務員改革をはじめ、歳出削減をとことんやった、と評価する国民は皆無だろう。

民主党内にも、閣議決定に対する反発がある。
小沢一郎元代表グループの牧義夫厚生労働副大臣ら政務三役4人、鈴木克昌幹事長代理ら党役職13人の計17人が辞表を提出した。
小沢氏らは法案採決で造反も辞さない構えだといわれる。

動向が注目される橋下大阪市長も、野田政権の消費税増税に反対の考えだ。

 大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長は30日、消費税増税関連法案が国会に提出されたことに関し、「地方に(消費税の)権限と責任を渡して国が身軽になる最大のチャンスを失った。非常に残念だ」と述べ、野田佳彦首相の決断に異議を唱えた。
 同時に、消費増税ではなく、地方交付税を廃止して消費税を丸ごと地方に移すなどの手法で国の財源は確保できるとの持論を展開。「国の統治機構、国のかたち、国と地方の在り方について民主党に哲学や信念がない証しだと思う」と批判した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120330/lcl12033022120004-n1.htm

私のような身障者にとって、社会保障は重要な政策である。
その安定財源として消費税増税が必要だといわれれば、反対しにくい。
しかし、肝心の社会保障の将来像がほとんど議論されていないという印象ではなかろうか。

一寸先は闇といわれる政界である。
審議はこれからのことであり、野党を含めてどう展開していくかは分からない。
それに、私は、亀井氏や小沢氏は、人間的にウマが合わないタイプのように見受けられる。

しかし、政治家の信義という観点から考えると、亀井氏や小沢氏の方がまともであるように思う。
すべての契約や約束の基盤には、信義則があると考えるべきである。
野田首相の得意なフレーズは、「政局よりも大局」である。
しかし、政権公約にしろ連立合意にしろ、信義を失ったら終わりであろう。

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2012年3月30日 (金)

AIJ投資顧問をめぐる闇(4)ケイマンによる「見えさる化」/花づな列島復興のためのメモ(42)

企業人は、「見える化」ということに心を砕いているといえよう。
「見える化」とは最初耳にしたときは奇妙な日本語のようにも思えたが、すっかり定着しているようである。
⇒2011年2月 9日 (水):ファシリテーターと理路の見える化/知的生産の方法(10)
Wikipedia では、以下のように解説されている。

見える化(みえるか)とは、広義には可視化と同義だが、狭義には可視化されづらい作業の可視化を指す経営上の手法として、一部の人が使っている言葉である。学術的な用語として確立した言葉ではない。
この語は、もともと、企業活動の漠然とした部分を数値などの客観的に判断できる指標で把握するための可視化に対して用いられた。測れる化とも言う。ただし、今日では「可視化」全般に対して使われる例もある。
(特にビジネスにおいては)作業についての情報を組織内で共有させることにより、現場の問題などの早期発見・効率化・改善に役立てることを目的とする。業種などにより適用方法は異なるが、一般的には問題・課題の認識に利用される。図・表・グラフにして可視化する場合もあれば、音・光による体感認識を用いた可視化もある。
問題の解決策を講じるために、問題点の把握を目的として見える化を行うことがある。
ITインフラの整備により、電子データ化された各種業務内容を有効活用するために、蓄積されたデータの抽出・加工によって見える化を行う場合がある。

要は、認識の適切・的確を期すために行われるといっていいだろう。
情報とは何か?

情報の定義は数多くある。
情報産業の一隅にいたとき調べたことがあるが、一端を示せばたとえば下記のようである。
☆われわれが外界に適応しようと行動し,また調節行動の結果を外界から感知する際に,われわれが外界と交換するものの内容。
ウィーナー『人間機械論』みすず書房(1954)
☆①あることがらについての知らせ。   
 ②判断を下したり行動を起こしたりするために必要な知識
『広辞苑(第4版)』岩波書店(1991)
☆人間と人間との間で伝達されるいっさいの記号系列。   
梅棹忠夫『情報産業論』「放送朝日」(1963)

私のお気に入りは、次の表現である。
☆情報とは,均一なbackgroundの中に,これと区別できる何等かの特徴をいう。ただし,均一とか区別とかは,すべてわれわれの認識の限界内での話とする。
牧島象二『Patternに憑かれて』牧島象二先生記念会(1969)

それでは、人間は、「区別できる何等かの特徴」をどうして認識するか?
いわゆる五感といわれるものである。?
五感の比率について、確定したデータとはいえないが、下記のような説がある。

人間は、五感をどれくらいの割合で利用しているのでしょう。
 視覚 87%
 聴覚  7%
 触覚  3%
 臭覚  2%
 味覚  1%
http://i.fromes.info/iroha/tclook1.html

つまり圧倒的に視覚に頼っているわけである。
可視化あるいは分かりやすく可視化することの重要性は当然ともいえる。

ところが、世の中にはわざわざ分かりにくくする工夫をする人もいる。
暗号や迷彩などがそうである。
これらは、敵対する側に真の姿を掴ませない工夫であり、生物の擬態や保護色なども同じであろう。
つまり、上記の定義によれば、「均一なbackgroundの中に,これと区別でき」ないようにしてしまう。

資金を海外の租税回避地(タックスヘイブン)と呼ばれる地域を経由させ、痕跡を消してしまうことが行われている。
なぜか?

分かっては都合が悪いからである。
典型的には何らかのブラックマネー、地下(秘密)資金等と呼ばれる類である。
資金洗浄(マネーロンダリング)である。しかし、洗浄したからといって、黒いものが白くなるわけではない。

大企業のほとんでがタックスヘイブンを利用しているとも言われもするが、実態は分からないというべきであろう。
ニコラス・シャクソン/藤井清美訳『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』朝日新聞出版(1202)という著書があるように、闇の中の世界であって、不可視なのである。
まさに可視化=「見える化」の反対である。

タックスヘイブンとして有名なのは、ケイマン諸島である。
スティーブンソンの海賊小説『宝島』のモデルともいわれる。
2
http://matsuokakatsuhiko8.blog.fc2.com/blog-date-20120302.html

「ケイマンへ資金を移動させて運用する」などというのは、それだけで何か後ろめたいことがあるのではないか、と考えるのが普通の感覚であろう。
AIJ投資顧問の企業年金消失問題で、浅川社長の国会招致のTV中継を見ていたが、予め仕組まれていた犯罪行為という心証は変わらない。
⇒2012年3月 3日 (土):AIJ投資顧問をめぐる闇/花づな列島復興のためのメモ(31)
⇒2012年3月 6日 (火):AIJ投資顧問をめぐる闇(2)/花づな列島復興のためのメモ(32)
⇒2012年3月23日 (金):AIJ投資顧問をめぐる闇(3)/花づな列島復興のためのメモ(40)

AIJ投資顧問の資金運用の姿の図解は種々あるが、下図はもっとも端的で分かりやすい。
Photo
http://www.asahi.com/business/update/0225/TKY201202250247.html

「ケイマンを使う運用会社には預けない」では何も解決しない』と説く人もいる。
確かに、「ケイマンを使う運用会社には預けない」は十分条件ではないかも知れない。
しかし、必要条件ではあるようだ。

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2012年3月29日 (木)

2号機内部の内視鏡映像/原発事故の真相(23)

福島第一原発(フクイチ)の事故がわかりにくい1つの要因は、政府・東電等の発表が曖昧でタイムリーでないことである。
事故当初から、広報の要の枝野官房長官(当時)は、弁護士という職業柄か、言質を取られるような発言を避けるようとして、かえって本質を伝えるという本来の役割を果たさなかった憾みがある。
⇒2011年3月15日 (火):地震情報と「伝える力」
⇒2011年3月20日 (日):福島第1原発事故と放射線量の用語について

枝野氏のような話法、思考法を「東大話法」というらしい。
「週刊現代4月7日号」に、『平気で人を騙す「東大の先生たち、この気持ち悪い感じ」』という東大東洋文化研究所教授・安富歩氏の記事が掲載されている。
代表例として、枝野氏や西山英彦経産相審議官(当時)が挙げられている。
わが意を得た感じである。

フクイチは、6基の装置のうち、1~4号機が損傷しているといわれる。
そのうちの2号機の発表の仕方にはかねてから不審を抱かざるを得なかった。
⇒2011年10月 2日 (日):2号機の真実は?/原発事故の真相(9)
上記記事でも触れたが、東電の社内の公式見解は、「2号機は爆発していない」である。

今西憲之+週刊朝日取材班『福島原発の真実 最高幹部の独白』朝日新聞出版(1203)は次のように記している。

 東電が社内に設置した「福島原子力事故調査委員会」(委員長=山崎雅男副社長)の中間報告書(12月2日公表)では、2号機の水素爆発はなかったことになっている。爆発音の直後に圧力抑制室の圧力がゼロになったことについては、「計器の故障の可能性が高い」としている。
 確かに2号機は外観上、問題なく見える。しかし、フクイチの現場にいた私に言わせれば、3月15日に2号機で大きな「爆発音らしき音」がしたのは間違いない。そして、私は“爆発”の圧力が外部ではなく内部にかかったと見ている。つまり、外壁が吹き飛んだ1、3号機に比べて、2号機は内部の損傷が激しいということだ。
 2号機は、原子炉建屋内で爆発かそれに匹敵するものが起きたことで、1号機、3号機、4号機よりも難題を抱えているといえる。実際、2号機はほかよりも放射線量が高く、建屋内に入ることもできない。もちろん、溶けた燃料棒がどんな状態でどこにあるのかもつかめていない。内部の損傷が激しいということは、燃料棒がかなりの範囲に飛び散っていると容易に想像できる。

p138

 資材置き場を越えて見えてきた「2号機」は一見、まったく無傷のようだった。地震などによるひび割れも見当たらない。周囲の瓦礫も、ほとんどない。
 だが、この2号機の現状そのものが原子力行政の欠陥を雄弁に語るとは、皮肉以外の何物でもない。最高幹部はこうあかした。
「実は、内部はかなりの被害です。線量も高く、作業員が、中に入ることはできない」
 ブルーやオレンジのホースが大量に散乱していた。緊急の注水に使用されたものだそうで、泥だらけだった。

p159うち

26日、2号機の格納容器内部の映像が発表された。
工業用の内視鏡を使ったもので、2回目の調査であるが、容器内の水位が底から60センチしかないことが分かった。

Ws000000格納容器内の状態については、これまで温度計や圧力計の値、それにコンピュータ解析などによって推定するしかありませんでしたが、今回、2号機について、格納容器の貫通部から内視鏡を入れて直接、内部の様子を観察することができました。
高い放射線量などによって、鮮明な映像は撮影できませんでしたが、内部の様子が分かり、見た範囲では大きな損傷は見つからないなど、東京電力は一定の収穫があったとしています。
一方で、調査で判明した格納容器内にたまった水の水位は東京電力が予想していた3メートルに比べ、大幅に低い60センチほどしかなく、容器の中の状態をいかに把握できていなかったかを露呈しました。
・・・・・・
内視鏡による調査は、2号機と同じようにメルトダウンした1号機と3号機については、放射線量の高さなどから見通しが立っていません。
・・・・・・
エネルギー総合工学研究所の内藤正則部長は「水位が60センチだったことから、格納容器の破損した部分は、60センチより下に位置していると考えられる。原子炉を冷やすために注入している水がほとんどたまっていないことから、1時間当たり数トンの水が流れ出ているとみられ、格納容器かその下部にある圧力抑制室に一定の大きさの穴か隙間が開いていると言える」と指摘しています。
・・・・・・
また格納容器内部で最大で1時間当たりおよそ73シーベルトの放射線量が測定されたことについて「放射線量が水面に近づくにつれて高くなっていることから、水の中に溶け落ちた燃料がたまっていることの証拠だ。かなり高い放射線量なので今後、内部の作業のために使う機器などの放射線対策にも手間がかかるとみられ、廃炉作業はかなりの困難が予想される」と指摘しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120327/t10014009041000.html

今まで、希望的観測ばかり聞かされてきた。
野田首相の「収束宣言」は、その最たるものといえよう。
東電自身、炉内の水の状況について、まったく見当違いであったのだ。
1回目の内視鏡による検査の状況について、今西氏らの上掲書には次のように記されている。

 東電は1月19日、初めて2号機の格納容器を内視鏡で調査し,その際に撮影した映像を公開した。東電は成果を強調した。
・・・・・・
 今回の調査で、2号機の内部が予想通り冷えていることがわかった。これは大きな成果だ。しかし同時に、予想が外れ、悲観しなければならないポイントがいくつも見えてきた。
 いちばんはっきりした問題は、内部の塗装が剥がれて錆びていることだ。ここまで劣化しているとは……。想像以上だった。

p153

1~3号機は炉心溶融事故を起こしているといわれるが、格納容器内で放射線量を直接測定したのは初めてである 

東電は27日、工業用内視鏡を格納容器の底部まで入れて8カ所で放射線量を測定した。底から約4.2メートルの場所で最高値の72.9シーベルトを記録した。
 事故後、福島第一原発で最も高い放射線量が観測されたのは、昨年8月に1、2号機の主排気筒付近の配管で観測された毎時10シーベルト超。ベントの影響で燃料の一部が漏れたためとみられるが、今回はそれをはるかに上回り、人が数分間浴びると死亡する値だ。
http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201203270702.html

格納容器内であるから当たり前かも知れないが、凄まじい線量である。
遠隔操作の機器も故障するおそれのあるという。
廃炉作業は難航することが予想される。
炉の状態や被害の全貌がわかっていない状況で、原発再稼働を急ごうとする人たちの考えが分からない。

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2012年3月28日 (水)

冷温停止の大本営発表/原発事故の真相(22)

野田首相は、昨年の12月16日に、福島原発事故について、「事故そのものは収束に至った」と宣言した。
しかし、客観的にみて、とても収束したとは言えないだろうという状態だった。
⇒2011年12月17日 (土):フクシマは「収束」したのか?/原発事故の真相(14)
⇒2012年3月14日 (水):冷温停止「状態」とは?/原発事故の真相(20)
野田首相は、なぜ「収束」に拘ったか?

今西憲之+週刊朝日取材班『福島原発の真実 最高幹部の独白』朝日新聞出版(1203)には、その答のヒントが詰まっている。
著者は、関係者以外立ち入り禁止の現場で取材を敢行した。
それによって、記者会見では決して得られない臨場感ある情報を入手した。

今後の原発あるいはエネルギー政策を考える人は必読だと思うが、そのような立場にいる人は、おそらく斜め読みもしないだろう。
私が「臨場感ある」というのは、たとえば問題となった海水注水中断問題の様子である。

 本店からの指令を受け、フクイチ対策本部の室内は、怒りが頂点に達した。
 メモには、こうある。
<おこる、こぶし>
 吉田所長の拳が震えていたのだ。
「オレたちは命かけてやってんだよ。なにが総理の判断だ」
「いまやらなきゃ、とんでもないことになるんだよ。わかっちゃいない」
「そんなことばかり、上ばかり見ているから、だから本店はダメなんだ」
 と言う幹部たちの怒声が、対策本部に響いた。
p52

もちろん、現場の声といっても、書かれたものは必ず何らかの意図が加わっている。
言い換えれば、認識の編集が行われている。
東電という会社の、本店(本社)と現場の間には明らかに乖離がある。
われわれが今までメディアを通じて接触しえた情報は、記者会見により示された見解だ。
それは、本店側の見解であり、あるいは政府の意向を踏まえたものである。
⇒2011年4月17日 (日):原発報道の大本営発表/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(9)

野田首相が「冷温停止すなわち収束」を急いだ最大の理由は、就任早々の国連演説のせいであった。
野田政権は9月2日に発足したのだが、野田首相が外交デビューの舞台に選んだのは、9月22日の国連本部での演説だった。

 野田佳彦首相は22日朝(日本時間同日夜)、ニューヨークの国連本部で開かれた原子力安全に関するハイレベル会合で演説した。首相は東京電力福島第一原発事故について「原子炉の冷温停止状態について、予定を早めて年内をめどに達成すべく全力を挙げている」と説明。来年1月中旬をめどとしてきた事故収束の達成時期を年内に前倒しする考えを表明した。
 首相は演説で「事故は着実に収束に向かっている」と強調。首相が明言したことで事実上、年内収束は国際公約となった。

http://www.asahi.com/politics/update/0922/TKY201109220660.html

事故収束の国際公約をした以上、その公約が達成されたような形を作る必要があったのだ。
しかし、この頃現場の状況は以下のようだった。

原発内は放射線量が高く、作業員が立ち入れない場所が多く残っていた。不確定要素は、何も解消されていなかった。その証拠に、東電は9月21日、フクイチの原子炉建屋やタービン建屋などに流れ込んだ地下水が約3万5千トンにのぼることを発表した。さらに大量の地下水が流れ込めば、放射能汚染水が外にあふれ出すという深刻な事態に陥る危険がある。
 つまり、野田首相がぶち上げた「年内の冷温停止」は、多くの不確定要素を無視した「希望的観測」にすぎなかった。それなのに、なぜ政府と東電は、このタイミングで希望的観測はおろか、世界へ向けて発信したのか。
 そこにあったのは、現場の作業員たちの日々の努力を無視するかのような、自己都合の“思惑”だった。

p118

そして、12月16日の「収束宣言」となる。
それは予め決まっていた予定調和としての宣言であった。
その頃の実際の状況は以下のようである。

 こんな宣言をしたからといって、フクイチが劇的に改善されたわけではない。外国メディアからは、見透かされたように「何の意味もない」と総スカンを食った。
 実際、現場に突きつけられた危機的状況は、何も変わっていなかった。この宣言後も、フクイチでは、汚染水の浄化システムの配管で水漏れが相次ぐなど不安定な状態が続いた。
・・・・・・
東電はこれまで、格納容器内の圧力値をもとに容器の底から4.5メートルに水面があると推定していた。しかし、この(内視鏡による)調査では、その地点に水面はなかった。

p132

上記は、一国の首相の宣言が、いかに空疎なものでしかなかったかを示している。
「収束宣言」など、なんの意味もないのが実態である。
事故発生当初より、大本営発表をメディアは流し続けてきた。
それは私でも、疑わざるを得ないものであったが、実態に関する報道に接し得なかった。
どうやらようやく真実の姿の一部が姿を現してきたようである。

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2012年3月27日 (火)

地名論あれこれ/花づな列島復興のためのメモ(41)

名前はもっとも端的にアイデンティティを表すものだろう。
地名は、土地のアイデンティティを表している。
三島市生まれで裾野市在住の大岡信さんに「地名論」という詩がある。

水道管はうたえよ
御茶の水は流れて
鵠沼に溜り
荻窪に落ち
奥入瀬で輝け
・・・・・・
燃えあがるカーテンの上で
煙が風に
形をあたえるように
名前は土地に
波動をあたえる
土地の名前はたぶん
光でできている
・・・・・・

波動とは何か?
光とは何か?
まあ、詩人の意図はともかく、これらの比喩が、生命的なものを表している、と大雑把には解釈していいだろう。
その地名が、どうも軽く扱われているような気がする。

1つは、いわゆる「平成の大合併」により、由緒ある地名が消え去った。
⇒2009年6月19日 (金):太宰治と三島・沼津(2)
代わりに新しい地名も誕生している。
山梨県の南アルプス市など、賛否両論あるだろうが、私はまあこれもアイデンティティの表現で、当該市民の皆さんが賛成であれば、いいだろうと思う。
⇒2007年8月19日 (日):プチ旅行①湯の宿

たとえば愛媛県の四国中央市はどうだろうか?
市の公式サイトによれば、以下のような特徴を持っている。

 Photo_2 当市は愛媛県の東端部に位置し、東は香川県に面し、南東は徳島県、更に南は四国山地を境に高知県と4県が接する地域となります。県都松山市と高松市へは約80 ㎞、高知市までは約60 ㎞、徳島市までは約100 ㎞、大阪市へ約300 ㎞、東京都まで約800 ㎞の距離にあります。
・・・・・・
 また、当市は高速道路網の整備により、三島川之江・土居・新宮の3つのインターチェンジと川之江ジャンクションを持ち、四国の「エックスハイウェイ」の中心地となっており、県の県庁所在地のいずれにも、ほぼ1時間で結ばれるという好条件にあります。

https://www.city.shikokuchuo.ehime.jp/modules/tinyd2/index.php?id=1

確かに、四国の中央とはいえるだろう。
ところが地名に造詣の深い谷川健一氏(日本地名研究所所長、南方熊楠賞受賞)は次のように批判している。

藤原正彦氏の「国家の品格」 に倣って「地名の品格」という観点から見ると、品格のない地名がおびただしい。その筆頭は四国中央市である。これは四国のどの県の県庁所在地からも車で一時間ぐらいの距離にあり、 道州制が実施された際に、州都になろうというもくろみが含まれていて、命名されたものであるという。この地域は平安時代の「和名抄(わみょうしょう)」に宇摩郡とあり、現在も宇摩郡である。公募でも それにふさわしい「宇摩市」が一番多かったと聞く。それをど のような意向がはたらいて、このような恥ずかしい地名を選んだのか。
http://www.zck.or.jp/article/tanigawa/index.html

全面的に賛成である。
もっとも、南アルプス市や伊豆の諸市町などについても谷川氏は手厳しく批判しているが。

山梨県は南アルプス市が誕生した。アルプスという外来語を地名に使用した初めての例。これでは銀行名やスナックの名前とまちがわれる。 南アルプス市に合併した六町村のうち、南アルプスの山が見え るのは、旧芦安村だけである。 静岡県には伊豆半島に、「伊豆 の国市」「伊豆市」「西伊豆町」の二市一町が出現した。「伊豆の国市」などは遊園地の名前のような市である。しかもこの三市はせまい地域にひしめきあっているのである。このような命名を誰が許したか。それを認可した行政の責任は、きびしく問われるべきである。
同上

私がもっと驚いたのは、大阪府の泉佐野市である。
財政危機状態の同市が、市の名前を売りに出したという。
いわゆるネーミングライツである。

破綻一歩手前の大阪府泉佐野市は新たな歳入確保策として、企業から広告料をもらう代わりに市の名称を企業名や商品名に変更する自治体名の命名権(ネーミングライツ)売却に乗り出すことを決めた。契約期間は1~5年で、国内外の企業を対象に6月から11月末まで募集し、広告額は企業から提案してもらう。自治体名の命名権が売却されるケースは総務省でも「聞いたことがない」(市町村体制整備課)という。名称変更は議会過半数の賛成で可能だが、市民からの反発も予想される。
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120321-OYO1T00720.htm?from=top

市民の反発は当然だろう。
谷川さんは以下のような文章で締めくくっている。

地名は日本人が過去とつながっていることを証明するもっ とも身近かな民族の遺産である。それを顧慮せず、地名を改 竄することは、歴史の改竄にほかならない。過去をおろそかに扱う国民に未来はない。過去と未来が断絶したとき日本人のアイデンティティの生まれようがない。地名は日本人の誇りであ るという自覚の上に立って、由緒のある地名を大切にしていかねばならない。 

私が言うようなことではないだろうが、由緒や伝統をもう少し大切にしたいと思う。

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2012年3月26日 (月)

目的外の結果をどう評価するか?

人間が他の動物と著しくことなっていることの1つが、目的を持って行動するということであろう。
他の動物においても、意図はあるだろうが、人間とは質的に異なるものであろう。
人間の特徴は、想像力にある。想像力こそが創造性の源泉である。
想像力は、おそらくは言語の発達と関係があるであろう。意図した行動を、組織的に、計画的に行えることは、人間の最大の特徴ではないか。

しかしながら、意図しても、往々にして意図通りにはいかないのが世の常である。
東日本大震災、ことに原発事故において、「想定外」という言葉が多く使われた。
想定外の条件が発生したということであるが、とうぜん結果も想定外である。
⇒2011年9月 1日 (木):減災と想定-民主党の危機意識は大丈夫か

想定外の条件であれば当然のこと、想定通りの条件であっても、想定外の結果が起きる可能性がある。
想定外の結果を想定するということは矛盾であるが、普通は、確率を織り込むとか、いくつかのケースに分けることで、影響の範囲を見積もる。

目的意識的な行動において、目的としない結果が生まれることは避けられない。
予期せぬ結果は、イノベーションの契機であるともいわれる。
たとえばナイロンの発明についてのエピソードなどは、イノベーションが意図せざる結果から生まれた例といえよう。

カロザースは合成ゴムの改良を試みる途上で、炭素の鎖を思い切り長く延ばすことに着目した。すると偶然にも、絹に似た繊維ができた。しかもこの繊維は、張力を加えると切れるのではなく、逆に強くなるという特質をもっていることがわかった。
カロザースの目的は合成ゴムの開発だったので、それ以上の研究はしなかったのだが、デュポン社はこの合成繊維で、丈夫で耐水性のあるウィンドブレーカーやレインコートを作り、米軍兵士の衣料を向上させた。兵隊の衣料を作るというグッドイヤーの夢が、ニューランドからカロザースを経て、ついに実現したのだ。
合成ゴムの研究から偶然に生まれたこの合成繊維こそが、ナイロンである。
http://www.smbc-consulting.co.jp/company/b-info/backnum/column/20080822_02.html

目的としない結果には、、「合成の誤謬」として知られているものも該当しよう。
たとえば、個別施設の冷房装置は、その排熱により街全体の温度環境をかえって悪化させる。
個別には合理的な行動が、集合すると全体の合理性を損なうわけである。
多くの環境問題が、「合成の誤謬」の産物である。

あるいは、副作用と呼ばれるものである。
化学実験は、環境条件を制御して目的とする結果を生じ易くして行われるが、副生成物を完全に排除することは難しい。
多くの場合、実験室とは異なり、環境条件を制御すること自体が不可能であるから、必ず目的とする結果と同時に、目的としない結果も生ずると考える必要がある。

ローマクラブの『成長の限界』は、目的としない結果が思わぬ制約条件となることを鮮やかにシミュレーションしてみせたもの、と考えることもできる。
成長が、成長を阻害する要因を作り出すのである。
生態系の遷移といわれる事象も、類似のメカニズムである。

最近、意図せざる結果の評価について考えさせられる例に出会った。
1つは、地震予測の問題である。
東大地震研による「マグニチュード(M)7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生するという試算」である。
読売新聞が、これを報じてから、地震にナーバスになっている人々は、大げさにいえばパニック的であったとい。
⇒2012年2月 6日 (月):地震の発生確率の伝え方

その後、この試算そのものがさまざまな問題を内包していることが分かった。
はっきり言えば、地震研平田教授のスタンドプレーの側面である。
⇒2012年2月10日 (金):地震の発生確率の伝え方②/東大地震研平田教授の意見
⇒2012年3月10日 (土):地震学と地震予知/花づな列島復興のためのメモ(35)

この件に関して、、「4年で70%」という表現が、「防災意識を高める」ことに貢献した、という意見がある。
果たして、防災意識を高めるために、あえてセンセーショナルな表現で訴えたということか?

もう1つは、内閣府の自殺予防キャンペーンである。
ポスターまで用意していた「あなたもGKB47宣言!」というキャッチフレーズがボツになった、という案件である。
⇒2012年2月 8日 (水):「あなたもGKB47宣言!」のから騒ぎ

自殺対策を担当する内閣府などに、「批判もあったが、マスコミに多く取り上げられ、ゲートキーパーという言葉の啓発などに結果的に役立った側面もある」ということだが、感覚を疑う。
2つの例に共通するのは、「本来の目的ではないが、他の効果はあった(のだから)ムダではなかった」という論法である。
確かに、、「防災意識を高める」ことや「自殺予防の啓発」は意義のあることである。
しかし、話題になったから、これらの効果があったとするのは余りに短絡的ではないか。
少なくとも、自画自賛的に、「効果があった」と自分で言う言葉ではないだろう。

昔リサーチの仕事をやっていた時、目的とした結果と目的としない結果を区別するために、異なる言葉を使うべきではないだろうかという議論をしたことがある。
たとえば、薬については、副作用という言葉が定着している。
しかし、制度などについては、副作用という言葉が馴染まない場合も多い。

あるいは、目的を厳密に規定した方がいい場合もある。
たとえば、公共事業や原発事故の補償は、経済的損失を補填することが目的か、従前の生活の維持が目的か?
どちらと考えるかによって、補償の範囲は異なってくる。
結果として、補償手段の評価も差違が出てくる。

その時の結論は、目的としている結果を効果といい、目的としていない結果は影響とよぼう、ということであった。
残念ながら、このような用語の使い分けが世の中でデファクト・スタンダードになってはいない。
しかし、私の中では、スッキリとした感じであった。
防災意識の向上や自殺予防の啓発などは、影響として捉えるべきであって、効果ではないことを明確にすべきであると思う。

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2012年3月25日 (日)

『検証原発事故報道』/原発事故の真相(21)

Days_japan

上記は、『検証原発事故報道-DAYS JAPAN4月号臨時増刊』の冒頭に記されている言葉である。
『DAYS JAPAN』は、広河隆一氏が発行人・編集人となっている月刊の写真誌。
クオリティは高いが、『文藝春秋』などと比べると割高な感じがするので、定期購読はしていないが、気になる特集の号は購入する。

上掲号は、以下の構成の特別号である。

第一章 運命の1週間
第二章 12人の証言

A4版で細かい字で段組されている。
224ページもあるので、永久保存して必要に応じて読むことになるだろう。
この「はじめに」は、フクシマ原発事故の報道に対して私が抱いていた思いの通りである。

圧巻は第一章である。
「東電・保安院・官邸他」、「NHK」、「民放」、「新聞」、「Twitter、ブログ」、「検証」に分けて、当時の記録をタイムスタンプ入りで整理してある。Twitterなどは、秒単位の時刻が示されている。

たとえば、「検証」の部分で気になっていたことの1つが次のように解説されている。
佐野眞一さんの『津波と原発』講談社(1106)に記されている文章が、ずっと心に引っかかっていた。

福島県警の通信部隊はその作業を終えて、間もなく、引き上げていった。
「そのとき彼らは、『国はデータを隠している。もうここにいない方がいいですよ』と言った」
――えっ、それは重大な証言だ。もう少し詳しく話してください。
「『今回の原発事故は重大で深刻だから、国は隠す。私らも撤収して帰れって命令が来たから帰りますが、ここにはいない方がいいですよ』と言って、帰っちゃったわけ」
――彼らが来たのは間違いなく十二日でしたか。
「間違いなく十二日の朝だった。そしてその日の夕方には撤収命令が出たからって、帰っちゃった」
――くどいようですが、そのとき彼らは「国は隠すから、あなたたちも撤収した方がいいですよ」と言ったんですね」
「うん、『ここはいない方がいいいですよ』と、言った」
福島第一原発の一号機で水素爆発が起きたのは、三月十二日の午後三時半過ぎだった。浪江の牧場を借りて通信機材をセットした福島県警の通信部隊は、ヘリコプターで撮影されたその爆発時の動画を通信衛星で県警本部に送った。県警本部はその動画を解析した結果、危険と判断したから、通信部隊に撤収命令を出した。
(p94)
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか

「検証」欄で、その間の様子が説明されている(pp52~54)。

 朝日新聞連載「プロメテウスの罠」は2011年10月から開始され、その第一回は「防護服の男1 頼む,逃げてくれ」(朝日新聞 前田基行記者)だった。
・・・・・・
『何? どうしたの?』みずえが尋ねた。『なんでこんな所にいるんだ! 頼む、逃げてくれ』
 
 みずえはびっくりした。『逃げろといっても……、ここは避難所ですから』
 車の2人がおりてきた。2人ともガスマスクをつけていた。『放射性物質が拡散しているんだ』。真剣な物言いで、切迫した雰囲気だ。
・・・・・・
 これは福島県の測定班だった。彼らは國に先んじて測定し、高濃度の放射性放出の事態を知った。しかし県はこれを隠し、人々を被爆させたのである。

「東電・保安院・官邸他」の欄を見てみよう(p61)。

3月13日 02:17~(VTR/12日21:00前)
枝野幸男(政府官房長官)「原子力施設は、鋼鉄製の格納容器に覆われております。そしてその外がさらにコンクリートと鉄筋の建屋で覆われています。この度の爆発はこの、建屋の壁が崩壊したものであり、中の格納容器が爆発したものではないことが確認されました」(NHK)

このような状況で、「自分の手で、自分や家族を守れ」と言われても、果たして可能だろうか?
せめて分かっている情報は、細工をしないでオープンにしてほしい(当たり前のことだけど)。

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2012年3月24日 (土)

「サトウの切り餅」と 越後製菓の特許(3)/「同じ」と「違う」(44)

「切り餅」の特許をめぐって争われていた事件で、知財高裁は佐藤食品が越後製菓の特許を侵害していると認定した。

判決によると、越後製菓は側面に切り込みを入れた切り餅を開発し、02年10月に特許出願したうえで03年から販売を開始。08年に特許登録された。これに対して佐藤食品は、03年7月に側面と上下面に切り込みを入れた切り餅の特許を出願し、同9月から、ふっくら焼けることを強調して販売した。
 佐藤食品は「02年10月に切り込みを入れた商品の販売を開始していた」と主張したが、判決はその商品には上下面しか切り込みがなかったと指摘。判決で飯村裁判長は「側面の切り込みが5品目の売り上げ増加の一因となった」として、販売への寄与を約7億3000万円と認定した。
 佐藤食品は昨年12月、「今後のリスクを回避するため」(同社)に切り込みを上下面のみとしたため「判決による製造・販売への影響はないと考える」としている。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120323ddm012040122000c.html

この訴訟については、私は越後製菓に分があるだろうと考えていたので、判決は妥当ではないかな、考えていた。
⇒2010年12月 1日 (水):「サトウの切り餅」と 越後製菓の特許/「同じ」と「違う」(24)
⇒2011年9月15日 (木):「サトウの切り餅」と 越後製菓の特許(2)/「同じ」と「違う」(30)

しかし、上記記事にもあるように、佐藤食品も特許を取得しており、そこのところをどう考えるべきか?
佐藤食品としては、特許が下りたので、と考えて事業を実施していたと想定される。
その事業が先行特許に抵触していると認定されたわけである。

2つの(原告:越後製菓、被告:佐藤食品)の特許はどういう関係にあるか?
餅へ切り込みの入れ方を、横への切り込み(四角形)と、面への切り込み(円形)とに分けて考える。
原告の特許公報には,下記のような文言がある。

本発明は、この切り込み3を単に餅の平坦上面(平坦頂面)に直線状に数本形成したり、X状や+状に交差形成したり、あるいは格子状に多数形成したりするのではなく、周方向に形成、例えば周方向に連続して形成してほぼ環状としたり、周方向に複数配置してほぼ環状に配置したり、あるいは側周表面2Aに周方向に沿って形成する

原告の特許は、周方向(横)への切り込みに限定されている(ように解釈できる)。
これに対し、被告の特許は以下のように請求している。

被告特許では、上面、下面への切り込みが必須であり、原告が除外した部分のみを権利範囲にしている。

つまり原告と被告とが権利範囲の棲み分けをしたことになる。
ベン図で表現すれば、下図のようである。
1
2
http://ipwo.kilo.jp/info/omou_mochi.htm

被告は、特許権が成立したので、その範囲で実施していたのである。
今回の判決は、以下のような点をどう解釈したのだろうか。
1.原告と被告の特許は棲み分けていないのか?
2.としたら、原告の特許がなぜ成立したのか?

それに、そもそもこれらの「技術」は特許に値するものだろうか、という問題もある。
特許の要件は以下のように要約できる。
⇒2012年2月27日 (月):ビジネスモデルとビジネスモデル特許/「同じ」と「違う」(43)
Photo
餅に刃物で切り込みを付けて焼くことは、ある意味で当たり前に行われていることと思われる。
新規性、進歩性共に疑問ではないか。

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2012年3月23日 (金)

AIJ投資顧問をめぐる闇(3)/花づな列島復興のためのメモ(40)

預かっていた厚生年金基金の大部分を、「運用」で消失したとされているAIJ投資顧問に、“やっと”強制捜査の手が入った。

 「AIJ投資顧問」(東京都中央区、浅川和彦社長)の年金消失問題で、同社が、好調な運用実績を装って顧客に契約させた疑いが強まったとして、証券取引等監視委員会は23日午前、金融商品取引法違反(契約に関する偽計)容疑で、同社や実質的に支配下にあるアイティーエム証券(同)などの強制調査を始めた。監視委は、捜査当局への告発を視野に巨額の年金資金が消えた経緯を解明する。
 AIJは、顧客から受け取った資金を運用に回さず、解約した顧客への払戻金に流用していた疑いも持たれており、捜査当局は監視委と連携し、詐欺容疑を適用できるかどうかについても検討している。
 関係者によると、AIJは、2002年に英領ケイマン諸島のファンドを使って運用を開始。ハイリスクな金融派生商品などへの投資に失敗し続けた結果、損失が常態化していたにも関わらず、顧客の勧誘では「10年間の累積で約250%の利回りを達成」などと実績を偽り、契約させていた疑いが持たれている。

年金消失のAIJ、早朝から強制調査…監視委

私は、これは「運用の失敗」というよりも計画的に仕組まれた「詐欺」であると思う。
⇒2012年3月 3日 (土):AIJ投資顧問をめぐる闇/花づな列島復興のためのメモ(31)
⇒2012年3月 6日 (火):AIJ投資顧問をめぐる闇(2)/花づな列島復興のためのメモ(32)

しかし、明白な犯罪行為が疑われるにもかかわらず、捜査があまりにも悠長であるように感じないだろうか?
しかも、強制捜査の日程が予告されている。
日程に関しては、各メディア横並びで「23日に」としていたから、当局からの情報であることは推察できた。
いわゆる意図的なリークである。

この間の事情について、次のように解説していたが、ナルホドと思った。
1.AIJ投資顧問は、3月23日までは営業停止である。
2.それが終了すると、「免許取り消し」処分となる。そうなると、金融庁の監督下ではなくなる。
3.その後、刑事事件化する。
4.本件は、「詐欺事件」や「反社会勢力の関与した事件」にはならないであろう。なぜならば、これらに該当すると、金融庁の監督責任が追及されることになる。
要は、監督責任がある官僚組織があると、その権限内(この場合は、金融商品取引法違反)に留まるということらしい。
以下のような記事もある。

同社の営業用"募集要項"に、その「詐欺的スキーム」の一端が表れていた。11年冬ごろに作成されたとみられる資料には、耳触りの良い文言が散見される。
〈高度な金融技術と豊富な経験を持ったプロフェッショナルを擁する国内独立系投資顧問会社〉
〈さまざまなテクニックを駆使し、従来の伝統的手法では実現できないキャッシュフローのパターンを創造していきます。
 資料を読んだあるベテランディーラーは、皮肉な笑みを浮かべ、こう語った。
「『デルタ・ニュートラル戦略』とか『ボラティリティ格差』とか業界用語を並べているが、中身は何もない。『とにかくうまくやります』と言っているだけで、プロなら絶対投資しない。相手が年金の"素人"だから騙せたわけだ」

プロなら絶対投資しない AIJの「詐欺的スキーム」

この「消えた年金資産」の穴埋めをどうするか?
原則論を言えば、当事者の問題のはずだ。
市場での出来事は、自己責任である。
当該年金基金の加入者に中小企業が多くても、それによって倒産に追い込まれようと、AIJ-年金基金-加入者という輪の中で閉じているべきである。
ところが、政府・民主党は、損失に関係ない年金保険料で補てんしようとしていという。

AIJ投資顧問の年金消失問題を受け、政府・民主党は16日、厚生年金基金の公的年金部分の積み立て不足について、厚生年金加入者全体の保険料で補填する検討に入った。同社に委託している同基金は一つを除き、中小の同業者らでつくる「総合型」。加入企業の連鎖倒産が懸念され、救済措置が必要と判断した。前提として基金側の自助努力を求めるほか、救済対象範囲を慎重に検討する意向だが、当該基金とは無関係のサラリーマンらの反発は必至で、導入が難航することも予想される。
AIJ損失補填に関係ない(厚生年金加入者全体の)保険料で充当するのは問題だ

今回の「事件」の構図は、 投資顧問会社がケイマン諸島へ資金を回遊させて実態を隠した詐取である。
その実態を各企業の年金担当が知らなかったのなら、怠慢であり不適格者でもある。
AIJ投資顧問の内容をネットで調べるだけでも、ずさんな内容の見当はついたはずだ。

また、社会保険庁から天下った官僚のネットワークが、各種企業年金を誘導・勧誘したことが拡大要因となっているが、社保庁の天下りを有り難がって受け入れたのだから仕方があるまい。
「甘い話」に乗ってしまったのは他人のせいにはできない。
厚生年金保険料を支払ってきた人たちが責任を負うべき根拠があるとはまったく思えない。

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2012年3月22日 (木)

岡田副総理の公務員削減論/花づな列島復興のためのメモ(39)

東京電力が値上げをするという。
しかし、相変わらずの不手際で、混乱が続いている。

 東電は1月、4月から契約電力50キロワット以上の「自由化部門」の顧客約24万件に対して平均17%の料金値上げを表明。大規模工場など大口顧客(約1万3千件)に対しては直接訪問、主に中小企業やオフィスなど小口顧客(約22万4千件)には郵送や電話などで値上げへの理解を求めていた。
 企業向けの電気料金の契約期間は原則1年間。東電が今回改善策を示した対象顧客は小口全体の75%にあたる約17万件だ。4月1日からの値上げが予定されるのは25%の約6万件。東電は2月初旬、電気料金引き上げを説明した資料を郵送し、異論がない場合は4月からすべての顧客の値上げを実施する意向だった。
 だが4月以降に契約満了を迎える顧客には、値上げ前の現行料金を継続できるにもかかわらず「積極的には説明していなかった」(東電)。理由は明確にしていない。枝野経産相は21日、東電の説明不足に「報告を聞いて開いた口がふさがらない。経営体質は変わっていない」と批判した。

東電の企業向け値上げ、混乱続く 社長が陳謝

殿様商売(=サプライサイドの論理)の典型例であろう。
東電の言い分としては、原発の稼働停止で代替火力燃料の追加費用がかかってくるということだろうが、値上げするのが当然、といった姿勢が批判されるのは当たり前だろう。
「値上げの前にやるべきことがあるはずだ」という声が聞こえてくるような気がする。

これと似たような構図なのが、野田総理の消費税率アップの問題だ。
増税論議は、「増税ありき」で突き進んでいる。国民に理解を求めるどころか、国民の疑問や懸念を置き去りにしているのではなかろうか。
と思っていたら、岡田副総理が、公務員の採用の7割減を指示したという。

 岡田克也副総理が国家公務員の2013年度の新規採用を09年度比で平均約7割減らし、計2500人程度とするよう各府省に指示したことが9日、政府関係者の話で分かった。6日の行政改革実行本部(本部長・野田佳彦首相)では「4割を超える削減」にとどめていたが、その後に総務省を通じて各府省へ上積みした具体的な削減幅を示した。
 消費税増税への理解を得る観点から、行政改革の進展を印象づける狙い。3月下旬に予定される増税関連法案の国会提出前に採用数を最終決定する段取りを描いているが、各府省の反発は必至だ。

岡田氏、公務員採用7割減を指示 各府省の反発必至

これで「痛みを負った」つもりなのであろうか?
若者の就職難が騒がれている折に、である。
減らすべきは、新規採用者ではなく、天下り予備軍であろう。
天下り根絶のためには、公務員の早期退職をやめ、定年を延長しろという議論がある。
しかし、多くの国民は、たいした仕事もしないのに、雇用を確保されている公務員に対しては批判的であるが、新規採用を7割もカットすれば、歪みが生じるのではないかと思っているだろう。

岡田副総理は、新規採用削減は「若者のため」といっている。

 岡田克也副総理は21日の参院本会議で、国家公務員新規採用の大幅抑制を各府省に指示したことについて「国家公務員削減は財政や社会保障制度の持続可能性のために必要なことで、若い世代のためにも行っている」と強調した。
 公明党の谷合正明氏が「声を出せない若い世代へのしわ寄せになるだけだ」と批判したのに対して答えた。

公務員削減「若者のため」=岡田氏

こういうのを「おためごかし」というのではなかろうか。
岡田氏は、一貫して消費増税反対を唱えている小沢一郎氏に対し、世論次第という認識を示した。

 岡田克也副総理は10日のBS朝日の番組で、民主党の小沢一郎元代表が消費税増税関連法案に反対する可能性について「世論や野党の状況いかんだ」と述べ、賛成に回ることもあり得るとの見方を示した。小沢氏は一貫して消費税増税に反対している。
 岡田氏はまた、自民党が同法案採決前の衆院解散・総選挙を求めていることに対し「自民党執行部を中心にそういう意見はあるが、自民党の中で必ずしも多数ではない」と指摘。「今解散すれば、国民の怒りは既成政党に向かう」と述べ、早期解散に否定的な考えを示した。
「小沢氏は世論次第で賛成も」 消費税法案で岡田副総理

小沢氏は、政権交代時のマニフェストを守る努力をすべきだ、と言っている。
岡田氏は原理主義者と呼ばれることに誇りを持っているらしいが、果たして原理原則を守ろうとしているのは、どっちだろう?

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2012年3月21日 (水)

高松塚・壁画発見から40年/やまとの謎(60)

有名な高松塚の彩色壁画が発見されたのは、1972年3月21日のことであった。
爾来ちょうど40年が過ぎたことになる。
現在、壁画はカビによる劣化を修復すべく、専用施設でリハビリ中であるが、古墳に戻すメドはたっていないという。
なにやら「元のようには戻りませんが・・・」といわれているわが身を思ってしまう。

私は、この日本古代史の謎を考えるときのカギと思われる古墳を見学したいと願いつつ、脳梗塞の発症と半身不随という後遺症によって、入院中は半ば諦めていた。
ところが、退院して前住地のご近所の人たちと談笑しているとき、「みんなでいけば怖くないから・・・」と泊まりがけの旅行に行くことになった。
Photo_4最初は共通の知人がいる東北へ、などと言っていた。
途中で、私が平城遷都1300年でもあるし、奈良方面はどうだろうか、言ったところ、満場一致で「そうしよう」ということになった。
車椅子の積める大型タクシーを頼んで長年の夢が実現したのである。
ケガの功名(?)。
⇒2010年10月26日 (火):聖武天皇の宝剣?/やまとの謎(3)

私は、日本古代史が靄がかかっているようにはっきりしない要因は、藤原京あるいは文武朝の実相に謎が多いから、と考えている。
文武天皇についての解説は以下のようである。

文武天皇は、名を軽皇子といい、草壁皇子の第二子。
軽皇子は七歳で父草壁皇子を失ったが、祖母の持統天皇に寵愛されて育った。
697年立太子、同年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。
権臣藤原不比等の娘宮子を夫人として首親王(聖武天皇)をもうけた。
文武朝の701年「大宝律令」が完成して翌年から施行された。
文武朝では「飛鳥浄御原律令」をまもらせ、また、田租・雑徭などの半分を3年間に渡り免除するなど、持統太上天皇や藤原不比等の支えを受けて善政をひいた。
707年25歳の若さで崩御した。
http://www.weblio.jp/content/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

この文武朝には謎が多い。
⇒2008年9月28日 (日):文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ)
高松塚の推定築造時期はまさに文武朝とオーバーラップしている。

壁画の修復作業の状況は以下のように伝えられている。

 Photo_3
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で極彩色壁画が見つかって21日で40年。「戦後最大の発見」と古代史ブームを巻き起こした国宝壁画は、文化庁の管理の不備もあり、カビなどで劣化、古代の美しさを失った。

 14日に壁画の修復施設を報道陣に公開した同庁によると、修復の進捗率は現在25%。「あの鮮やかさを再び」。施設では懸命な作業が続いている。
 湿度ほぼ100%の古墳内でカビの発生は抑えられないとして、壁画が描かれた石室の解体という「最終手段」がとられたのが2007年。バラバラになった壁画は今、古墳近くの修復施設で保管されている。
http://www.daily.co.jp/society/main/2012/03/14/0004884105.shtml

元の状態に戻すことは限りなく困難な様子が窺える。
文化庁の責任はあると思うが、役人というのは責任を取らなくてもいいようにできているらしい。
それはともかく、なるべく原状に戻して欲しいと思うのは全国民共通の願いだろう。

高松塚の壁画の意義は、日本列島において他に例のない鮮やかな彩色が施されていたこと、この古墳の被葬者が、日本という国家が形成される上で、大きな役割を果たしたと推定されることである。
築造年代と被葬者については諸説あるが、Wikipediaでは以下のように解説している。

古墳の年代
盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期(694年~710年)の間だと確定された。

被葬者
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。

天武天皇の皇子説
忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。
忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)、猪熊兼勝(現京都橘大学名誉教授)、王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いことと、人物像の服装など。
高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六(考古学者)、河上邦彦(奈良県立橿原考古学研究所副所長、現神戸女子大学教授)、豊田有恒(作家)ら。
弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。
臣下説
岡本健一(京都学園大学教授)、白石太一郎(奈良大学教授)らは石上麻呂説を主張する。この説となると高松塚古墳は奈良時代の年代となる。
朝鮮半島系王族説
百済王禅光と主張するのは千田稔(国際日本文化研究センター教授)。
堀田啓一(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。

果たして被葬者が特定される日が来るのだろうか?
墓誌が発見されない以上、決定はできないだろうが、それが古代史のロマンというものであろう。

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2012年3月20日 (火)

『方法としての吉本隆明』/やまとの謎(59)

吉本隆明氏の影響は、広くかつ深い。
たとえば、『吉本隆明論』と銘打った単行本だけでも何冊あるだろうか。
その他に、室伏志畔『方法としての吉本隆明』響文社(0805)という書籍もある。

室伏氏は、奥付によれば、「60年代の自立思潮の洗礼を受け、文芸批評から90年代より歴史学への批評的介入を敢行」とある。
室伏氏が洗礼を受けたとする「自立思潮」とは、もちろん吉本氏の展開してきた思想(=吉本思想)で代表される思想の潮流である。
室伏氏の論考の一端については触れたことがある。
⇒2007年9月22日 (土):倭国のラストプリンセス?
⇒2011年1月20日 (木):平城京モデルと白村江の戦い/やまとの謎(25)

室伏氏は、『方法としての吉本隆明』の冒頭に、次のように書いている。

 私は幾度となく時代の曲がり目毎に吉本隆明から顔を張られた思いがある。そのたびに私は身構えを改めてきた。それを私に促したのは吉本思想が常に手放すことのない時代への批評的介入の見事さにあった。想えば八〇年代の吉本思想の変容を踏まえることなしに私の九〇年代の出発はなかったし、その論理が赴いたところは、無意識に七〇年代の吉本国家論をなぞっていた。
 この吉本思想の形成がさらに掘り下げられ、その意味の深化がさらにはかられるのを望む一方、私は吉本方法論による新領域の開拓がなおざりにされていると思い、私なりに少しくそれを展開してきた。これはその吉本方法論の応用からする一報告である。

この文章を読んで、私は、企業戦略において広く用いられているフレームを連想した。
アンゾフ・モデルと呼ばれるもので、市場と製品・技術をそれぞれ新と旧で2分したマトリクスを考える。
その中で、ある市場で成功している方法・技術を他市場に応用して新規市場を創出しようということにそうとうするのではないか。

Photo
左上が現在自分たちが事業を行っている領域です。ここで売上を伸ばすことができれば、ベストです。これを市場浸透と呼びますが、一度冷え込んだ市場に火をともすわけですから、普通のやり方では無理です。マーケティング力のある企業向きです。右上の製品開発は、もしヒット商品が出せれば願ったりかなったりですが、そう簡単ではありません。研究開発力や商品企画力に優れた企業に向いています。また、左下の市場開発は既存の製品や技術を持って新市場(ほとんどの場合海外)に打って出ることです。新市場というのはその企業にとって新規であるだけで、大概の場合、既存のプレーヤーがいます。そこでの競争は非常に厳しく、自社の製品や技術に自信があり、かつ現地適応力のある企業に向いています。一方、右下の多角化は製品も顧客も何の強みがないところに出て行くことを意味しますから、よほどのことがない限り避けるべきです。
http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/a0ab/107715/

室伏氏がアンゾフモデルを意識していたかどうかは分からないが、既存の方法論(吉本氏の展開してきた思考の成果)を、他の分野(日本古代史、特に九州王朝論もしくは大和朝廷論)に応用してみたら、ということである。

具体的にはどういうことか?
室伏氏は古田武彦氏の「九州王朝論」にコミットしてきた。
⇒2008年1月 7日 (月):「九州年号」論
しかし、室伏氏は古田氏の大和朝廷論へ異論を唱える。

吉本の共同幻想論から古田史学を検証し、古田武彦が踏襲した記紀の大和朝廷を中心とした「歴史的枠組み」を動かすことにあった。戦後史学は、考古学を記紀の論証に使い、大筋それを肯定してきたのは、その指示表出と共に下ったからである。

もちろん、室伏氏の説はまったくの異端であって、アカデミズムからは無視されているといっていいだろう。

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2012年3月19日 (月)

吉本隆明の天皇(制)論/やまとの謎(58)

吉本隆明さんが取り組んできたテーマは多方面にわたっている。
特に、国家論の問題は、時間軸的にも長く対象にしてきたものである。
鷲田小彌太『増補・吉本隆明論』三一書房(9006)は以下のような構成であるが、少なくとも第三章までの中心的イシューであると言ってよい。

  第一章 敗戦期の自己意識-「近代の超克」
  第二章 戦後民主主義の批判-「擬制」の終焉
  第三章 戦後思想の達成-「自立」の思想的拠点
  第四章 戦後思想の解体と定着-世界普遍への道
  第五章 ポストモダンの思考-「超西欧的まで」
  増補  戦後思想の目録と吉本隆明-21世紀を拓く思想

特に「日本」という国家のことを想定すると、天皇(制)との係わりをどう捉えるかということが欠かせない。
以下、『増補・吉本隆明論』によりつつ、吉本隆明(以下敬称略)の天皇(制)論を見てみよう。
同書の巻末の著作年譜によれば、吉本は筑摩書房から出版された2つの「思想体系」で編集・解説を担当している。
・現代日本思想体系4『ナショナリズム』(6406)
・戦後日本思想体系5『国家の思想』(6909)

5年の間に同じ出版社が企画した2つの全集の類似の巻を担当しているということは、少なくとも1回目が好評だったことを示しているだろう。
この当時筑摩書房は『展望』という総合誌を出していた。インパクトのある評論が掲載されていた。
この雑誌に載った『自立の思想的拠点』(65年3月号)は、評論集のタイトルにも使われている。
代表的論考の1つに挙げていいだろう。

鷲田氏によれば、『ナショナリズム』と『国家の思想』の意味は同じである。
このそれぞれに吉本は『日本のナショナリズム』と『天皇および天皇制について』という解説を書いている。
ここでは後者に関する鷲田氏の解説は、以下のようである。

吉本の天皇(制)に関する主張は、次の3つの命題に要約できる。
(1)天皇(制)の本質は、宗教的権威にある。
(2)戦後、天皇(制)は、政治的・経済的にブルジョワジーの影になった。
(3)天皇(制)は、日本資本主義が倒れれば、根底からなくなる。より具体的に言えば、農耕社会がなくなれば消滅する。

吉本は、徴兵される年齢に達していずれは「死」をむかえるが、そのとき「国家(お国)」のため、というのは実体を欠いていて自分が生命と交換するのには重量不足ではないか、と考える。
「お国のため」に代わるものはなにか。
(1)<お国のため>ではなく、<天皇のため>
(2)<お国のため>ではなく、<親や兄弟姉妹や親しく善き友たちや想うひとのため>

私には、(2)は自然であるが、(1)唐突である。
それは世代の差によるものなのか、個性の差によるものなのか。
なお、ここで「天皇のため」ということには、天皇の人格の問題は含まない。言い換えれば、自然人としての天皇の属性とは関係がない。
もちろん、吉本も天皇が現人神であると信じていたわけではなく、「絶対的感情」の対象でさえありさえすればよかった。
これも分かりにくいところであるが、たとえば日本浪漫派などの立場と共通なのであろうか。

吉本が戦争期に天皇(制)によって欺かれたのはなぜか。
鷲田氏は次の文章を引用する。

 その根拠のひとつは、<天皇(制)が共同祭儀の世襲、共同祭儀の司祭としての権威をつうじて、間接的に政治的国家を統御することを本質的な方法とし、けっして直接的に政治的国家の統御にのりださなかったことの意味を巧くとらえることができなかったことである。
 また別の根拠は、<天皇(制)>の成立以前の政治的な統治形態が、歴史的に実在した時期があったことをみぬけなかったことである。わが列島の歴史時代は数千年をさかのぼることができるのに、<天皇(制)の歴史は千数百年をさかのぼることはできない。この数千年の空白の時代を掘りおこすことのなかに、<天皇(制)の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギはかくされているよいっていい。

宗教的権威が共同祭儀を世襲し、政治的権力とは相対的に独立して存在してきたこと、その世襲が万世一系であるかのように国民の多数にとって信じられたこと、に天皇(制)のカギがある、ということであろう。
千数百年という時間が、万世一系にまで拡大された。
万世一系はフィクションであるが、あたかもそうであるかのように信じるに足る期間、継続してきたのである。
象徴天皇制において、共同祭儀は同じような役割を果たしていくのだろうか。

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2012年3月18日 (日)

心にしみ通る吉本隆明の追悼文

各メディアが吉本隆明さんの追悼文を載せている。
これから発行される月刊誌や季刊誌などにも数多くの追悼文が寄せられることだろう。
それだけ、影響を受けた人が多かったということの証である。

しかし、何よりも吉本さん自身が、追悼文の名手であった。
『追悼私記』洋泉社(増補版9707)という追悼文を集めた単行本もある。
以下の紹介がAmazonに載っている。

(「BOOK」データベースより)
究極の人間論は追悼文にあり。人はなぜ追悼文を書くのか?そして、追悼文が意味をもつのはなぜなのか?「赤裸なこころばえとあざやかな人間論」と絶賛された旧版に新稿五篇を増補する。小林秀雄から美空ひばりまで、ミシェル・フーコーから埴谷雄高まで。達意の文で綴った追悼文集成の決定版。
(「MARC」データベースより)
人はなぜ追悼文を書くのか。そして、追悼文が意味をもつのはなぜなのか。小林秀雄から美空ひばりまで、ミシェル・フーコーから埴谷雄高まで、達意の文で綴った追悼文集成の決定版。

以上をみれば、吉本さんが追悼文に並々ならぬ力を入れていたのが分かろう。
以下は、特に私の心に沁みたある出版社の編集者の追悼文の一端である。

岩淵五郎が死んだ。こう書いただけで、わたしはじぶんのこれからの生が半分萎えてゆくのを感ずるが、おおくのひとびとにはどこのだれとも知らないひとりの死としてしか受けとられないにちがいない。いくらかのひとびとは、二月四日の全日空機の遭難で事故死した春秋社の編集長岩淵五郎の名を記憶しているだけだろう。しかし、かれに日常接していたひとびとは、岩淵五郎の死が、自分の生のある貴重な部分を突然奪っていってしまったという思いを疑いえないにちがいない。すくなくともわたしにとってはそうである。
・・・・・・
生きてゆくことは辛いことだなあという、何度も何度も訪れたことのある思いが、こんどは肉体までそぎとってゆくのを覚える。

「ある編集者の死」週刊読書人66年3月14日号

私はもちろん岩淵五郎という人を知らない。
しかし、この追悼文から、岩淵五郎という人は、次のような人柄ではないか、と想像する。
職業的に社会の水準を抜け出た結果を出しながら、自分のことについては控えめで、世の中で広く知られた人ではないが、周りにいる人から厚く信頼されている。
酸いも甘いもかみ分けて、若者の勇み足を温かい眼で見守っている。
要するに、現在はめっきり少なくなってしまったオトナの男。
私自身かくありたいと念じつつ、なかなかそうはいかない。
もう一つ同じ岩淵氏に対する追悼文がある。

いったい死者を悼む文章をかくのにどんな意味があるのか。ことに岩淵五郎のように自らは文章をかくことも、自分を押し出すこともしなかった存在の死をなぜどうかかねばならないのかをしらない。エンゲルスはマルクスの死にさいして、「現存する世界最大の思想家が死んだ。」とかくことができた。そして、わたしは岩淵五郎の死を<現存するもっとも優れた大衆が死んだ>とかくべきだろうか。わたしが大衆とはなにかとかんがえるとき、父や少年時の塾の教師といっしょに岩淵五郎のことを個的な原像としておもいうかべていたのはたしかである。
「ひとつの死」試行17号66年5月15日

「大衆の原像」という言葉は、吉本さんの使ったキー概念の1つである。
マス媒体に登場して、社会的な影響力を発揮している知識人を批判するとき、それに対置する存在として大衆を措定する。
「知識人VS大衆」という図式は当たり前すぎるようであるが、吉本さん以前は、知識人優位というとらえ方が一般的であった。
吉本さんはそれを逆転した。「原像」をつけるという操作はあるものの、それまでの通念と180度異なるとらえ方である。

上記の追悼文に見られるように、「大衆の原像」とは、たとえば岩淵五郎氏のような存在を抽象化したものであろう。
おようにしかし、私には岩淵氏こそ知識人のように見える。
エセ知識人と野にいる賢人という差であろうか。
分かったようで分かりにくい。
「原像」とはどういうことか?

「文藝別冊」に『吉本隆明』河出書房新社(0402)があるが、その中に評論家の呉智英氏の『「大衆の原像」異論』というインタビュー記事がある。
吉本さんが知識人批判の立脚点としているのが「大衆」であるのに対し、呉氏は、本物の知識人か否かで批判する。
呉氏自身は、ベクトルが逆向きである、としている。

しかし、本物の知識人か否かということでいえば、岩淵氏のような存在こそ本物の知識人ではないのか?
呉氏は、「大衆の原像」というのは、「民」が主であることを原理主義的に言っているのだ、と解説している。
まあ、原理主義的に、というところに否定のニュアンスがあるわけだけど、「「民」が主であること」自体は間違いではないだろうと思う。

岩淵五郎氏が亡くなった全日空羽田沖墜落事故は、1966年2月4日に起きた。
吉本さんは1924年(大正13年)11月25日の生まれだから、40歳を越えたばかりだった。
私は大学生だったが、吉本さんのこの頃書いていた文章を、ずいぶん年長の人のように感じて読んでいた。
その頃の吉本さんよりもずっと年上になってしまったわけで、馬齢を重ねてきたものだと反省する。

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2012年3月17日 (土)

論争家吉本隆明と複眼的思考/知的生産の方法(19)

亡くなった吉本隆明さんが、論壇に登場したのは、武井昭夫氏との共著『文学者の戦争責任』淡路書房(5609)であるとしていいだろう。
私はこの書を目にしていないが、Amazonの古書で\9500の値がついている。
幻の書籍である。

共著者の武井昭夫氏は、全学連の初代委員長として知られる。

層としての学生運動論を唱え、学生は労働者階級の指導を受けなくとも、階級闘争の主体たり得ると主張。その後、新日本文学会に加入し、戦争責任などで古い世代を批判する急先鋒にたつ。九州から上京して新日本文学会の事務局にいた大西巨人らとともに、新日本文学会の中心的な存在となる。戦争責任問題で、吉本隆明とともに『文学者の戦争責任』を上梓し、旧プロレタリア文学出身の作家たちを批判した。日本共産党員だったが、1958年の第7回党大会での綱領論議のころから、当時の指導部と対立を深め、1960年の安保闘争のときに、党の政策に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁たちとともに発表し、規律違反として除名されている。
Wikipedia

鷲田小彌太『増補・吉本隆明論』三一書房(9006)の「第二章」によれば、「吉本が最初にとりかかった論戦的課題は、《戦争責任》であった。この課題追究は、すでに前章でも瞥見したように、吉本の個人史的経緯によっても必然的であった。」とある。
鷲田氏が「論戦的課題」というように、吉本さんは、いわゆるポレミーク(論戦的)な人として有名である。
雑誌論文や私家版の詩集を除くと、この書の次に『芸術的抵抗と挫折』未来社(5902)と『抒情の論理』未来社(5906)が続けて出版されているが、これらを見ても、吉本さんの論争好き(?)が窺える。

松本健一氏が著者代表の『論争の同世代史』新泉社(8610)は、論争によって現代史を通観しようとするものであるが、論争家としての吉本さんの姿がよく分かる。
⇒2007年12月 9日 (日):論争と思考技術

上記の中で、最も著名であるのは、「花田-吉本論争」であろう。
この論争について、磯田光一さんは『吉本隆明論』真善美社(1971)において、次のようにいう。

……私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは『責任』『転向』『政治』『思想』というような最も根本的な概念が、二つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景が展開されていたからである。

もはや伝説的ともいえるこの論争は、私などの世代にとっては吉本さんの一方的な勝利であったと思っていた。
しかし後年、この論争をテーマにして『真昼の決闘―花田清輝・吉本隆明論争』晶文社(8605)を書いた好村富士彦氏は、「花田氏の「負けるが勝ち」という戦略が見事に成功したのだ」と総括している。
尤もこの論法を使えば、無敗ということになるが。

「花田-吉本論争」の発端は、戦争責任論を展開していた吉本さんを、花田清輝氏が「戦争中のファシストが、十分に自己批判することなしに、戦後、自由主義者に転向したもの」と規定したことである。
この発言に接して、吉本さんは「キレタ」かのように激烈な反論を加えた。
吉本さんはいわゆる戦中派であり、戦争中は軍国少年であった、と自ら語っているから、花田氏に言うことにも一理はある。

しかし、吉本さんは、花田氏の中に「戦争中は若者を積極的に戦争に駆り立て、時局が変わるとそのことへの内省もなく、すぐに新しく『善』とされる思想の軌道に乗っかることによって自分を免罪してすましている」存在の象徴を見た。
「戦争中は若者を積極的に戦争に駆り立て」られた1人である吉本さんの逆鱗に触れたのであろう。
『文学者の戦争責任』以来、吉本さんは内在的な自己批判なしに「自分を免罪してすましている」存在を主敵としていた。
花田清輝は、すでに論争家として名を成していたから、相手として不足はない。

私は、論争こそ思考技術を鍛える格好の参考書だと思う。
世の中には、学校と違い、正解のない問題ばかりである。あるいは、問いを立てることが重要である。
その意味で、吉本さんの多彩な論戦史は、思考技術の練習問題集ともいえよう。

そして、論争家としての吉本さんの強力な武器の1つが「複眼的思考」ではないかと思う。
⇒2011年12月19日 (月):長倉三郎博士と「複眼的思考」/知的生産の方法(15)
⇒2012年2月23日 (木):複眼と複眼的/「同じ」と「違う」(42)

吉本さんは、詩人・思想家として知られるが、もともと理科系の人であった。
東京工業大学を卒業している。
まあ、文科系と理科系は、アプローチの方法は異なるが、事象そのものが文科系と理科系に分かれているわけではない。
深く探求するためには専門分化せざるを得ず、研究活動が理科的分野と文科的分野に別れることは避けられないことである。
高校段階でも、普通科とは別に理数科を設置してる進学校も少なくないが、教育段階における文科系と理科系という区分に、どこまでの意味があるのだろうか疑問なしとは言えない。

社会的な問題解決のためには、多くの場合、理科的なアプローチと文科的なアプローチを総合して考えなければならないことが多い。
震災にしろ原発事故にしろ、理科的な事象が原因であるが、対策に文科的アプローチは不可欠であろう。
文科と理科の壁を越える発想が必要かつ重要であるとして「文理シナジー学会」を設立した高辻正基さんは、設立の趣旨を「文系と理系の考え方を一緒に働かせ(シナジー)、双方の考え方を必要とする諸問題に取り組もう」との述べている。

『超「20世紀論」上・下』アスキー(0009)でインタビュアーを務めた田近伸和さんは、小林秀雄が文学者として「内部の目」からしかモノを書かないという姿勢を貫いているのに対し、吉本さんの思考はもっと構造的・力学的であり、いわば外部からも人間を見据える目である、としている。
言い換えれば、吉本さんの仕事が多くの人を惹きつけてきた魅力は、「内」と「外」とを総合しうる「複眼的思考」ではないか、ということになるのではないか。

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2012年3月16日 (金)

さらば、吉本隆明/追悼(20)

吉本隆明さんが亡くなった。
1つの時代が確実に終わったという気がする。
私は吉本さんの著作から大きな影響を受けてきたが、同時に余り良い読者とはいえないとも言わざるを得ない。
主著といわれている『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論』も拾い読みしただけである。
にもかからず、ものの見方・考え方において、吉本さんの影響は多大であると自覚している。

「大衆の原像」とか「自立の思想」というようなコンセプトは魅力的だった。
毎日新聞の宍戸護という署名のある11年5月27日夕刊の記事に次のような文章があった。

「人間が自分の肉体よりもはるかに小さいもの(原子)を動力に使うことを余儀なくされてしまったといいましょうか。歴史はそう発達してしまった。時代には科学的な能力がある人、支配力がある人たちが考えた結果が多く作用している。そういう時代になったことについて、私は倫理的な善悪の理屈はつけない。核燃料が肉体には危険なことを承知で、少量でも大きなエネルギーを得られるようになった。一方、否定的な人にとっては、人間の生存を第一に考えれば、肉体を通過し健康被害を与える核燃料を使うことが、すでに人間性を逸脱しているということでしょう」
http://mainichi.jp/newsarchive/news/20110527dde012040005000c.html

私が「吉本隆明」という名前を知ったのは、1963年に大学に入学して間もなくのことである。
60年安保の熱気は既に遠く去っていたし、70年前後に全国で吹き荒れた全共闘運動は、萌芽も感じられなかった。
大学入学当初は、その後の推移を考えると信じがたいことであるが、学生運動の集会で、日本共産党系の団体と反日本共産党系(新左翼)の団体とが同じ集会に出ていたようなのどかな時代だった。
もちろん、互いにヤジの応酬などはあったが、田舎の高校の出身であったこともあり、学生運動の具体的な状況など知るよしもなかった。
なんで学生同士が争うのかなどと思ったりしていたのだから、ウブと言えばウブである。

私は原潜寄港阻止や日韓会談阻止などを掲げた集会・デモに2度ほど参加したが、街頭デモで機動隊に文字通り蹴散らかされた感じだった。
党派的な主導権争いにうんざりしてしまったことが大きいが、集会やデモはそれっきりだった。
内ゲバと称して、殺人にまで至る争いに発展したのは、その後である。

そういうことで、吉本さんが60年安保にどう係わっていたかということも、まったく知らなかった。
吉本さんの著書に初めて触れたのは、大学の中の生協書籍部ではなかったかと思うが、『抒情の論理』未来社(5906)というタイトルの本を、「抒情」と「論理」というミスマッチ感覚に惹かれであったように記憶しているが、何気なく手にしたときである。
今にして思えば、出版されてから既に4年も経っていたことになる。
すでに新左翼の人たちの間では熱心な読者がいたらしいが、田舎の高校生の読書範囲など知れたもので、私は予備知識の全くない白紙の状態で接したのだった。

そして、初めて読んだ吉本さんの本の破壊力は強烈だった。
たとえば、『前世代の詩人たち』。
高校時代に、良心的・進歩的な詩人として名前を知っていた壺井繁治や岡本潤といった人たちが、完膚無きまでに批判されていた。
それまでの知識が、根拠の薄弱な通念でしかないことを知ったのである。

以後、吉本さんの著書は少なからず読んだが、それでも氷山の一角と言わざるを得ないだろう。
また、数多くの「吉本隆明論」が出版されているが、自分のアタマ考えようと思い、ほとんど手を出さずじまいである。
私が読んだ数少ない吉本論の一冊が、鷲田小彌太『増補・吉本隆明論』三一書房(9006)である。

鷲田氏は、「あとがき」に次のように書いている。

吉本隆明から、つい最近まで、直接的に、影響らしいものは何も受けなかった、と断言してよい。60年代に、いくぶん程度以上にオーソドックスな形でマルクス主義を学んだ者の眼には、吉本は異端以外のなにものでもなかった。大学闘争はなやかかりしころ、私はその絶対否定的批判を書いてみたほどに、吉本との距離は遠かったといってよい。

私は、「オーソドックスな形でマルクス主義を学んだ」ことがないし、概して「異端」が好きというか、少なくとも偏見は持っていないつもりである。
してみると、およそ対極に位置しているように思う。それが、私に同書を読んでみる気にさせたのだろう。
大目次は以下の通りである。

  第一章 敗戦期の自己意識-「近代の超克」
  第二章 戦後民主主義の批判-「擬制」の終焉
  第三章 戦後思想の達成-「自立」の思想的拠点
  第四章 戦後思想の解体と定着-世界普遍への道
  第五章 ポストモダンの思考-「超西欧的まで」
  増補  戦後思想の目録と吉本隆明-21世紀を拓く思想

吉本さんの問題意識の変遷を時間軸に沿って整理したものと言ってよい。
各章それぞれ10年間くらいの期間に相当する、ということになるだろうか。
各紙の訃報記事は、「戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家(で詩人)」というような表現であるが、上記の目次からも、戦後思想史に占める吉本さんの位置を窺うことができる。
東日本大震災後の社会で、発言が気になる人だった。
合掌。

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2012年3月15日 (木)

河津桜異変

早咲きの桜として有名な河津桜は、河津川の土手沿いに並木が続いていて、季節には見事な景観を形成している。
Img_03242

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http://www.mapfan.com/spotdetail.cgi?SPOTCODE=S14KICA

今年は開化が異常に遅かった。
そのため恒例の「河津桜まつり」が、ピークとずれてしまった。
そこまで外れるのはやはり異変と言うべきであろう。

第22回河津桜まつりは終わりましたが、河津桜の開花が遅れたことにより、
3月11日(日)より3月18日(日)まで、河津桜“春うらら”まつりが行われています。

http://www.kawazu-onsen.com/sakura/sakura.htm

3月11日の朝、急に思い立って河津に出かけた。
震災1年の日に、鎮魂に相応しい花はやはり桜ではないかという気がしたのだった。

カワヅザクラ(河津桜)は、日本にあるサクラの一種である。オオシマザクラ (Cerasus speciosa (Koidz.) H.Ohba, 1992 ) とカンヒザクラ (Cerasus campanulata (Maxim.) A.N. Vassiljeva, 1957 )の自然交雑種であると推定されている。
・・・・・・
1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。
Wikipedia

「河津桜“春うらら”まつり」が急遽追加で実施されているとは知らないで出かけたのだったが、ラッキーだった。
この季節の車の渋滞は承知していたので、早く出発したのが正解だった。
結構な人出である。桜のトンネルを撮るのに苦労したほどである。
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河津桜は割合花の色が濃い。
ソメイヨシノのように淡い色の方が好ましいと思っていたが、菜の花の黄色とのマッチングを考えると、やはりこの色が相応しいように思える。
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河津は川端康成の『伊豆の踊子』の舞台でもあり、ミス踊子(?)が可愛らしかった。
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今年は、梅も遅かった。
去年は2月下旬に盛りを迎えていた修善寺の梅林が、3月4日時点で5分咲きという感じだった。
⇒2011年2月20日 (日):修善寺梅園と修禅寺

今年花が遅いのは、寒かったことが原因だと考えられる。
その寒さは、節電が徹底されたため、という説があるが、果たしてどうだろう。

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2012年3月14日 (水)

冷温停止「状態」とは?/原発事故の真相(20)

野田首相がフクシマ原発事故に関し、冷温停止状態に達したことから、「収束宣言」を発したのは昨年の12月16日のことだった。
⇒2011年12月17日 (土):フクシマは「収束」したのか?/原発事故の真相(14)
冷温停止状態とは次が達成されていることを意味する。
①原子炉内の温度が100度未満となっていること
②原子炉が安定的に停止していること

②には「安定的」という言葉にファジーな要素があるが、①は、以上か未満か二者択一のデジタルな基準である。
と考えていたら、こちらもかなりファジーであるようだ。
2月に温度計が上昇するという現象が起きた。

東電によると、温度計の故障は電気ケーブルが海水や高温で断線気味になったためという。
・・・・・・
冷温停止状態の確認のため、今後は、圧力容器底部の他の温度計を使うほか、格納容器内の放射性物質の濃度、放射性物質の放出量など7項目を監視する。温度が上がると圧力容器内などの水蒸気量が増えるのに伴い、空気中の放射性物質の量が増えるため、判断材料になるという。

http://www.asahi.com/national/update/0216/TKY201202160242.html

断線気味というのはどういう状態かと思うが(断線か断線でないかハッキリしろ)、それはともかく下記のように、82℃に上昇した。
82℃ならば問題ないではないかというと、さにあらず、80℃以下が運転の基準となっている。

2月に入ってから上昇傾向にあった2号機圧力容器底部の温度は11日夜から再び上昇し、14時20分には82度に達した。ただし、温度の上昇を示しているのは圧力容器底部の温度計3個のうち1個だけで、ほかの温度計は35度前後で安定しているという。東電は温度計の故障の可能性も考慮しつつ、原子炉への注水量を増やして温度を監視する。なお、再臨界を示す兆候は見られないとしている。
政府と東電が発表した「冷温停止状態」は、原子炉の温度が100度以下であることなどが条件となっており、東電では20度程度の測定誤差を考慮して運転制限の基準を80度以下に定めている。

http://www.j-cast.com/2012/02/12121896.html

結局この温度計が故障(だろう)ということになったが、3個あって「2:1」ということだとすれば(そうとしか読めない)、実に不確実な状態といわざるを得ないだろう。
だいたい「20度程度の測定誤差」を前提にせざるを得ないような状態なのか、と考えてしまう。
通常ならば考えられないことだが、放射能が強く、対処できないということだろう。
私には、「収束宣言」はフライングにしか思えない。

「文藝春秋」12年4月号に、「3・11日本人の反省」という特集があり、その中に、『原子炉内部はどうなっているのか』という水野倫之NHK解説委員の文章がある。
水野さんは以下のように書いている。

そもそも冷温停止とは、原子炉や格納容器が健全な原発が運転を止め、冷却水で冷えて放射性物質が放出される恐れがなく安全な状態を言う。今回は三基とも原子炉や格納容器に穴があき、いまだに放射性物質の放出もわずかながら続いているわけで、通常の冷温停止とはかけ離れている。

政府はなぜこのような状態をもって「収束」としたのだろうか?
「安全」をアピールすることが狙いだとすれば、むしろ逆効果ではないか。
菅内閣が、原発事故を過小に発表してきたことのツケがいま出ているように思う。
満足に温度測定もできない原子炉を、「冷温停止した」と言うのは、「状態」というレトリックを使っているとはいえ、リスキーなことと思われる。

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2012年3月13日 (火)

五木寛之と親鸞の思想/花づな列島復興のためのメモ(38)

昨日、五木寛之さんの『下山の思想』幻冬舎新書(1112)に触れたが、偶々今朝の産経新聞の「話の肖像画」という欄に、五木さんが登場している。
親鸞と現代(上)作家・五木寛之 震災で見えた「慈悲」の痕跡』という記事である。
この記事に付されている五木さんの略歴を引用しておこう。

昭和7年、福岡県生まれ。79歳。生後まもなく朝鮮半島にわたり、戦後に引き揚げた。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。昭和41年『さらばモスクワ愚連隊(ぐれんたい)』で小説現代新人賞、翌42年に『蒼(あお)ざめた馬を見よ』で直木賞。51年には『青春の門』で吉川英治文学賞受賞。ほかの著書に『戒厳令の夜』『大河の一滴』など。リチャード・バック著『かもめのジョナサン』の翻訳でも知られる。

私は、『さらばモスクワ愚連隊』(正確には、単行本の同書に収められている雑誌掲載の『GIブルース』)で衝撃を受け、『蒼ざめた馬を見よ』等の初期作品はほとんど読んでいるが、『青春の門』の時代には積極的な読者ではなくなっていた。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を
しかし、『戒厳令の夜』、『風の王国』、『さかしまに』、『旅の終わりに』などの作品集は記憶に残っている。
五木文学の魅力は、巧みなストーリー展開と共に、時代の風向きを鋭敏に捉えるアンテナであろう。
風見鶏という表現は概していい意味では使われないようであるが、エッセイ集のタイトルそのままに、まさに『風の吹くまま』という感じである。

産経新聞のインタビューは、1月に刊行された等辺小説『親鸞 激動編』(講談社)の話題からスタートする。
親鸞が生きた時代は、「王朝から武家への政権交代と度重なる災禍に見舞われた歴史の大転換期」だった。
ちなみに、親鸞の生没年は1173~ 1262年である。
昨年は没後750年ということで、西本願寺を中心に記念イベントが行われた。
⇒2011年11月30日 (水):龍谷ミュージアム/京都彼方此方(3)

五木さんが龍谷大学の聴講生(?)になったことや『百寺巡礼』など作品からして、仏教に並々ならぬ関心を抱いているだろうことは推測できた。
しかし、ここで話題にしている『親鸞 激動編』は未読だる。
読まずに言うのはおこがましいけれど、五木さんは「親鸞」のどういうところを描こうとしたのか?

親鸞は法然の弟子である。
法然は、1133年に生まれ、1212年に没した。親鸞より40歳年長ということになる。

はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、1175年(承安5年)、もっぱら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖とあおがれた。
Wikipedia

法然の誰でも死後には必ず浄土に迎えられるという教えは、当時の支配階級あるいは既存仏教と衝突するものでもあった。
法然は、顕密の修行のすべてを難行・雑行としてしりぞけ念仏を唱える易行のみが正行としたのであった。
ひたすら念仏のみを修せよという専修念仏である。
日本仏教史上初めて、一般の女性にひろく布教をおこなったのも法然であり、かれは国家権力との関係を断ちきり、個人の救済に専念する姿勢を示した(Wikipedia)。

五木さんは、関東地方などで実際に苦しみながら必死で生きている人々と接した親鸞にとっては、どこか「それでいいのか?」という思いがあったのではないか、という。
師の否定である。
親鸞の生きた時代と、現在は、日本の歴史の中でも重なる部分が多い、と五木さんはいう。
「明日がわからない」という不安な空気である。

国内で自殺者が毎年3万人を超えている。
⇒2012年2月 8日 (水):「あなたもGKB47宣言!」のから騒ぎ
原因は何か?
病気や貧困は、トリガー(引き金)ではあっても本当の原因ではない、と五木さんはいう。
年金制度の問題や地震への恐れなど、漠然とした不安が日本を覆っており、生きづらい、希望がない、ということなのだ。
⇒2012年1月 3日 (火):ぼんやりした不安の時代

親鸞は生きている間に、人間がなんとか生を投げ出さずに生きていく道がないか、と模索した人だから、現在のような不安に満ちた時代に指針となるのではないか。
東日本大震災において、互いを思いやる日本人の姿は世界を感動させた。
それは、長い歴史の中で空気のように仏教の根本の感情が、思想ではなく、遺伝子のような形で生き続けているのでは、と五木さんはいう。

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2012年3月12日 (月)

変曲点の時代?/花づな列島復興のためのメモ(37)

東北地方太平洋沖大地震は貞観以来の規模、リーマンショックは100年に1度のインパクト、貿易赤字は31年ぶりと報じられている。
こう並べてみると、現在が歴史的な大きな変動の時期にあるように思われる。

五木寛之さんの『下山の思想』幻冬舎新書(1112)がベストセラーになっている。
私は五木氏の良き読者でなくなって久しいが、初期の印象は鮮烈であった。
五木寛之さんは、下記のように、東京都知事の石原慎太郎氏と同じ日の生まれである。

石原慎太郎・・・・・・1932年〈昭和7年〉9月30日生まれ
五木寛之・・・・・・・・1932年〈昭和7年〉9月30日生まれ

石原氏が芥川賞選考委員を退任したという。
芥川賞受賞者の田中慎弥さんが「断ったりして気の弱い委員の方が倒れたりしたら、都政が混乱するので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」といって話題になった都知事閣下その人である。
年齢は関係ないというかも知れないが、やはりもっと若い感性の出番があるべきだと思うので、石原氏の退任は結構なことだろう。

その退任インタビューで意外だったのは、高橋和巳の評価である。
芥川賞選考委員を退任 石原慎太郎さん

いい作家だった」と名前を挙げるのは、密度の高い文体で、60年代に『悲の器』『邪宗門』など社会を鋭くえぐり出す作品を書いた高橋和巳。「小説は本当に下手だったけど、エネルギーがあった。それなのに若くして死んで、ショックを受けた

私の感覚では、およそ対極に位置しているような2人だが、文学者としてやはり見るべきものは見ていたのだと改めて思う。
ちなみに高橋和巳は1931年8月31日生まれだから、石原、五木両氏より1歳上である。
退任インタビューからもう1カ所引用する。

高見順さんがよく『作家にとって大事なことは時代と寝ることだ』と言ってたけど、僕なんかは時代と一緒に寝られたし、自分の青春が戦後日本の青春と重なったありがたさは感じますよ

確かに石原氏は時代と同期するという幸運にも恵まれていた。
「作家にとって大事なことは時代と寝ることだ」という言葉で、私は同日に生まれた五木さんのことを思い浮かべる。
デビュー以来、五木寛之さんは、一貫してこの言葉がふさわしい人だったのではないかと思う。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を

その五木さんの現時点の到達点が『下山の思想』ということだろう。
しかし、すでに4半世紀前に、西村吉雄『硅石器時代の技術と文明―LSIと光ファイバーがつくる"新農耕文化" 』日本経済新聞社(8508)において、著者は、「山を越えたら下りるほかはない。下りたところの高さは超えてきた峠の向こうがわと同じである。未来は過去と似てくるだろう」という認識を示していた。
⇒2012年2月28日 (火):硅石器時代とエルピーダの破綻/花づな列島復興のためのメモ(29)

下図のような素朴な図が示されている。
Photo

五木さんの言う『下山の思想』とは、西村さんとほぼ同じ認識ではないか。

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2012年3月11日 (日)

「3・11」を迎えて/花づな列島復興のためのメモ(36)

貞観(859年~877年)以来といわれる大地震の発生から1年たつ。
TVが東日本大震災の追悼式の模様を放映している。
退院したばかりの天皇陛下が美智子皇后と並んで立ち、お言葉を述べられた。
ただならぬ気配が伝わってくるように感じられる。
「かたじけなくて・・・」ということだろうか、胸に表現しがたいものがこみ上げてくる。
天皇制という制度には疑問が残るものの、国民統合の象徴として機能していることを実感する。

ところで、大地震(大津波)が、貞観という途方もない歴史の彼方に起きたことの再来といわれても、ピンとこない。
一回性の歴史に法則性があり得るだろうか?
「歴史は繰り返す」という言葉があるから、あるともいえるだろうし、1回生の事象に法則などあり得ないともいえよう。
つまり、法則性という言葉の内容如何ということになる。
古典力学のように、必然性のある予測が可能な精度の法則が歴史にあるとは思えない。
しかし、たとえば、「驕れる者は久しからず」というような格言のように、一定の蓋然性を示すことを法則性といえば、ある程度はあり得るといえるだろう。
⇒2011年10月14日 (金):栄枯盛衰の法則性?

地震の規模と発生頻度はべき分布に従うといわれている。
⇒2011年5月12日 (木):地震の発生確率の意味/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(26)
⇒2012年1月20日 (金):ブラックスワンはどこに棲んでいるのか?/原発事故の真相(16)
地震の発生確率がべき分布に従うにしても、過去に起きた地震の解析のツールとしては有効だろうが、予知のツールとして、特定の政策課題の前提として使うにはムリがあると思われる。

歴史の法則性という場合、まず思い浮かぶのは、唯物史観のようなものだろう。
歴史を以下のような「しくみ」を基礎として捉える考え方である。
Wikipedia

生産力が何らかの要因で発展すると、従来の生産関係との間に矛盾が生じ、その矛盾が突き動かす力により生産関係が変化(発展)する。これが階級闘争を生み出し歴史を突き動かす基本的な力であると考える。

言ってみれば、歴史が一定の「しくみ」に従って推移していくということである。
それは、必ずしも、進歩とか発展という言葉で表さなくてもいいのかも知れない。

もちろん唯物史観以外にも、歴史の発展法則についてはさまざなな見方が提起されている。
たとえば、梅棹忠夫氏による「文明の生態史観」や「文明の情報史観」などである。
⇒2009年4月14日 (火):文明の情報史観
私は長年情報関係の仕事に携わっていたことも1つの要因であろうか、唯物史観よりも情報史観の方に親近性を感じる。

人類史の全過程を視野に入れたこれらの「史観」は、ものごとを考えるフレームとしては魅力的であるが、余りに巨視的であって、時空のサイズが自分の人生とマッチしない。
言い換えれば、過去の歴史しか検証の材料がないので 、「永遠の仮説」的な性格にならざるを得ない。
もう少し短期の法則性はないものだろうか?

最も代表的な法則性は、繰り返し出現するということであろう。
言い換えれば、循環ということである。
馴染みのあるのは、マクロ経済における景気循環である。

資本主義経済で、経済活動が拡張する好況と収縮する不況とが交互に発生する、その周期的変動のこと。波動のタイプとして代表的なものには、在庫変動に起因する約40か月周期のキチンの波、設備投資の変化に起因する約10年周期のジュグラーの波、建設需要に起因する約20年周期のクズネッツの波、技術革新に起因する約50年周期のコンドラチエフの波がある。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/05423800/

もう少し社会一般に適用できるようなものはないか?
神田昌典『2022―これから10年、活躍できる人の条件』PHPビジネス選書(1202)に次のような法則性が載っていた。
70
通常は手にしない類のタイトルである(これから活躍ということは私には縁遠い)が、若い知人に薦められて読んだものだ。

70年サイクルが必然的なサイクルとは思えないが、70年といえばおよそ3世代である。
記憶が切実性を失う時間ともいえる。
70歳はやがてやってくる。
歴史がどのような展開をみせるのか、見届けることができれば幸いである。

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2012年3月10日 (土)

地震学と地震予知/花づな列島復興のためのメモ(35)

東日本大震災は、地震国という日本の地学的宿命を改めて認識させるものであった。
そして、地震の発生そのものは、宿命で避けられないものとしたら、何とか震災を軽減できないものかと思う。
いわゆる減災である。
減災のために最も期待されるのが「予知」ということになる。

ところが、地震学はマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖大地震の発生を予知できなかった。
また、地震発生直後の津波警報も、予想津波高を実際の高さより低く予想したため、被害を拡大させル結果となった。
警報が、「それなら安全だ」という安全情報として作用した側面があったといわれている。

地震学は、震災の軽減に役立たないのであろうか?
東大地震研が出した首都圏の地震予測は、さまざまな波紋を引き起こした。
⇒2012年2月 6日 (月):地震の発生確率の伝え方
⇒2012年2月10日 (金):地震の発生確率の伝え方②/東大地震研平田教授の意見

私は、何気なく使っている「地震の発生確率」という概念にかねてから疑問をもっている。
菅前首相は、浜岡原発の全面停止要請で、蟻地獄のような局面の打開を図った。
それは彼の残したほとんど唯一の功績といってもよいが、その根拠とした認識は適切とは言えまい。
窮余の一策がけがの功名的に作用したのである。
⇒2011年5月12日 (木):地震の発生確率の意味/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(26)

専門家には、一般の人に可能な限り、正確に分かりやすく伝えることが期待されるし、責務でもあろう。
この点において、上記の東大地震研という斯界の最高権威と思われる機関の教授という立場にある平田直氏の言説は疑問を持たざるを得ない。
また、同じ地震研の広報アウトリーチ室のサイトで、婉曲な表現ではあるが平田教授を批判していた文章があったことについては、上記で触れた。

文責:大木聖子とある文章だが、産経新聞120308の『地震学はどう変わったか』というインタビュー記事を読んで納得した。
それは『予知困難 等身大の説明大切』と題された以下のような記事である。

--東日本大震災で見えてきた問題点は
「災害情報を研究している立場から言うと、『地震予知はできない』という地震学の等身大を正しく伝えていない。例えば東海地震は予知できると多くの人が思っているし、学校の防災もその前提でやっている。・・・・・・」
--地震学と一般社会の隔たりを感じるか
「以前から地震予知への過剰な期待と誤解があると思っていたが、大震災後は特に感じる。・・・・・・例えば最近、首都直下地震が4年以内に70%の確率で起きるという話があったが、確率で出している限り予知にはならない。それなのに世間は決定論的に受け止め、『4年間は家を買わない』『地震が来る前に教えてくれるんでしょ』といった声が出ている。今回の大震災は『絶対に起きない』と言っていたことが起きてしまった。・・・・・・」
--地震研究の成果を社会にどう役立てるか
「お茶の間レベルで啓発するなら、発生確率よりも『家のこの部分を補強して』『この家具は固定を』などと言う方が効果的だ。例えば東京都文京区では地盤の状態が詳しく分かっており、震度6強だと木造や鉄筋コンクリートの建物が築何年でどのくらい被害を受けるか分かる。・・・・・・建物がどう揺れるかは建築や土木の世界で、われわれはそれを下支えしている。その意味で地震学の成果は国民に直接というよりも、建築や土木の世界を通じて役立てられるものだと思う。ある地域の地震発生確率は国が限られた予算を配分するときなどに有効だが、一方で一人一人の防災意識を弱めたり、地震予知ができるとの誤解を与えかねない」
--それでも地震予知への期待は根強い
「研究が進めば進むほど予知の難しさが分かってきた。地震の正体は岩が割れる現象だが、それは岩石の組成や地下の圧力、温度といったさまざまな条件で変わってくる。例えば1枚の葉っぱを100回落としても一度として同じ落ち方をしないように、破壊現象もすごく複雑。割りばし一本の割れ方もよく分かっていない人類が、圧力や温度などの環境も分からない地下で、いつ岩石が割れるかを予測するのは非常に難しい」

http://sankei.jp.msn.com/science/news/120308/scn12030822590004-n1.htm

地震学の現在の水準が率直に語られている。
学問も厳しい予算制約の下に遂行される。
目立った成果を上げないと「仕分け」されてしまいかねない。
そういう状況の中で、地震学者も、「役に立つ」ことをプレゼンテーションしなければ、という気になるのは自然である。
しかし、結果としてわれわれは、地震予知に過剰な期待を抱いてしまいがちになるのではないか。

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2012年3月 9日 (金)

餓死という壮絶な孤独(3)/花づな列島復興のためのメモ(34)

またしても、立川市で餓死とみられる遺体が発見された。

東京都立川市の都営アパートで死亡しているのが見つかった女性2人のうち、90代の母親とみられる女性は栄養失調により餓死した可能性が高いことが8日、警視庁立川署への取材で分かった。同署は、介護をしていた60代の娘が先に病死し、母親は食事を取れずに死亡したとみている。
90代母、60代娘死亡後に餓死か 立川2女性死亡

また、大阪市のマンションで当時3歳の長女と1歳の長男を放置して餓死させた疑いで殺人罪に問われている事件の公判の様子が報じられている。
いずれも本来起きてはいけない事件である。

「餓死」はどのような状況で起きるだろうか?
自立的に食糧を確保できない場合か、人口に対し絶対的に食糧が不足した時であろう。
現在のように飽食の時代といわれる一方で、餓死が発生するというのは、自立的に食糧を確保できない場合が多いと考えられる。
幼児や何らかの障害があるケースである。

先頃、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した憲法などに反するのではないか、として国の生活保護制度見直しによる老齢加算廃止について争われていた裁判で、最高裁の判断が示された。
いわゆる生存権訴訟であるが、餓死が起きている現実を前にしては、健康で文化的な生活という言葉が空しく響く。

「人口に対し絶対的に食糧が不足」というのは、いわゆる飢饉の時である。
いまから220~230年ほど前の天明期に歴史的な大飢饉があったことが知られている。
直接的には、浅間山の大噴火による日照不足による作柄の極端な落ち込みが原因と考えられている。
⇒2009年10月11日 (日):八ツ場ダムの深層(1)天明3年の浅間山大噴火
⇒2009年10月12日 (月):八ツ場ダムの深層(2)天明という時代相

この時代に日本人口は激減したと推測されている。

Photo
やや不確かな人口統計ですが,享保および天明の飢饉の後に100万人を超える人口純減がみられます.とくに天明の飢饉時の減少は急激で,非常に多数の餓死者などがでたことが推測されます.
http://dil.bosai.go.jp/workshop/02kouza_jirei/s22reika/f8jinko.htm

100万人という数字は想像を絶するが、地獄のような光景が見られたであろうことは容易に推測できる。
Wikipediaの解説をみよう。

東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年度から深刻な飢饉状態となった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策がとられていたこととも相まって、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。
・・・・・・
1783年6月3日、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続くと考えられる。
しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できていない。
大型のエルニーニョが1789年-1793年に発生し世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたと言われる。

このような時代が再び来るとは考えたくないが、天災と失政が同期すると何が起きるか不安である。
特に、自己責任を強調する新自由主義の思潮が強くなってきている。
確かに、自由な市場での競争が進歩の原動力であることは事実だと思うが、それが最善の結果をもたらす保証はない。

一方で協調主義が骨身に染みついているのがわが国である。
「和をもって貴し」「空気を読め」であるから、自己責任といいつつ、環境から自由ではあり得ない。
自己実現といわれるが、人間は社会的な動物であるから、他者との係わりを捨象した自己はあり得ない。
共に助け合うことと、個人の自由や価値観を大事にすることを、どこで折り合いをつけるべきだろうか。

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2012年3月 8日 (木)

埼玉県教職員組合の言語感覚

埼玉県教職員組合(埼教組)が事務局をしている講演のタイトル「さいたさいたセシウムがさいた」が、物議を醸している。
批判を受けて、組合がタイトルを削除する事態になっているが、ポスターまで用意するどこかの段階でチェックができなかったのか。
このような表現をオカシイと思わない人たちが教壇に立っているのであろうか。

Photo

演題は、講演を行う中原中也賞詩人のアーサー・ビナード氏の発案。同教組などは同氏の意向をそのままくみ、参加を呼びかけるビラを配布した。
副題は「3・11後の安心をどうつくり出すか」で、東電福島第1原発事故に伴う放射性セシウムを指しているのは明らか。数日前からインターネットの掲示板などで「被災者の気持ちを逆なでしている」「この表題をなんとも思わない教師が教壇に立っているのか」との批判が相次いでいた。
批判が殺到したことから主催者側は7日、表題の変更を決めた。ただ講演は予定通り行い、ビラの回収は物理的に「できない」としている。
セシウムをめぐっては東海テレビが昨年8月、情報番組で岩手県産米のプレゼント当選者を「セシウムさん」と表示したことが問題となったことがある。

http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/120308/edc12030800120000-s.htm

私は、表現の自由は、確保されるべきであると思っている。
どんなに差別的な言葉であっても、言葉だけ替えても何ら解決しない。
言葉の背後にある思想とか信条なども、外形的な規制はできても、内面まで規制できるモノではないだろう。

問題は、「さいたさいたセシウムがさいた」という表現が、この場合どういう効果あるいは影響を及ぼすか、ということに対する鈍感さである。
タイトルについて、埼教組の執行委員長は、「もともと詩人の方が付けたと聞いています」としているそうであるが、責任逃れの発言のように聞こえる。
誰がつけようと同じことである。
なお、埼教組は、全日本教職員組合(全教)の傘下にあり、日教組埼玉とは違う組織だということである。念のため。

私は、瞬間的に、「さいた」という言葉を「埼玉」に掛けたのではないかと思ったが、童謡「チューリップ」を元に詩の表現としたという見方もあるようだ。
中原中也賞詩人というアーサー・ビナード氏の名前ははじめて聞くが、日本語のネイティブならばおよそ考えられない表現だろう。
彼は講演の趣旨からして、善意でやっているのだろう。
だとしたら、主催者側で日本語の語感を知らせて、事前に対処すべきではないか。

 

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2012年3月 7日 (水)

与野党談合増税と復興/花づな列島復興のためのメモ(33)

野田佳彦首相と谷垣禎一自民党総裁が「極秘に」会談したという。
「極秘」のはずが、マスコミに一斉に取り上げられているから、政治家の「極秘」とは何なのかと思う。
この会談を当事者たちは否定するが、会談はあったことが前提になっている。
真相はどういうことか?

「情報源は官邸筋のリークのようです。極秘会談情報を流し、大連立を連想させることが目的でしょう。そうして噂が広まれば、消費増税に反対し、野田政権を追い詰めようとしている小沢グループの1年生や中間派の選挙基盤の弱い議員に揺さぶりをかけることができる。小沢グループが消費増税に反対しても自民党が協力すれば法案は成立するからです。財務省と藤井裕久元財務相が絵を描いたという見方もあります」(民主党関係者)
こうした奇策、情報リークは、野田がいかに追い詰められているかの裏返しでもある。野田は自民党は消費税引き上げに反対できないと踏んでいて、それが思い通りにいかないので焦りまくっている。そこでトップ会談で事態打開の大バクチに出たというのが真相だろう。

野田首相 谷垣総裁 極秘会談のおバカな真相(日刊ゲンダイ2012年3月2日掲載)

まったく何を考えていることやら。
談合で事態が打開できると考えていたら大間違いだろう。
しかも、この会談は、財務省筋が設定したという情報もある。

Tv 党首討論の4日前、先月25日に行われた野田総理大臣と自民党の谷垣総裁の極秘会談は、財務省の幹部らが仲介していたことが明らかになりました。
関係者によりますと、野田総理と谷垣総裁はともに財務大臣経験者で、消費税の増税による財政再建という方向性についてはおおむね同じ考えです。このため、消費税の増税による財政再建を目指す財務省の幹部らが間に入り、極秘会談を実現させたということです。会談では、消費税増税法案の成立を前提に総選挙を行う「話し合い解散」についても話し合われた模様です。ただ、2人とも依然として極秘会談は否定しています。

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220302032.html

消費税増税は、いずれはやらなければならない課題かもしれない。
それにしても、手順が違うのではないか。
産経新聞に「社説検証」という記事がある。
11年5月2日の記事は、「復興財源としての消費税増税」に関する各紙のスタンスの比較だった。

産経は日本経済が打撃を受けている中での増税論議は「景気に決定的な悪影響を及ぼしてしまう」(4月16日付)と警告したが、朝日、毎日、読売、日経の4紙は「増税やむなし」の立場をとった。
朝日は早々と4月2日付の社説で所得税や法人税の一時増税が必要とし「さらには震災復興を目的に現行消費税に上乗せして課税する方法も考えたい」と積極増税論を展開していた。
読売は、財政事情が悪化している現状から「野放図な国債増発に頼ることはできない」としつつ、「『復興税』という時限的な増税で財源を手当てするのはやむを得まい」との判断だ。広く薄く負担して支援するという復興税の目的を考えて「消費税を中心に検討することになる」(4月20日付)と提言する。
日経は、「将来世代も一定の恩恵を受けるインフラ整備であれば建設国債でまかなうのも許容しうる」が、赤字国債の増発は好ましくないから、「一時的な増税も選択肢に含めざるを得ない」(4月11日付)と論じた。毎日も「増税自体は避けられない」(4月21日付)との見解だった。
これに対し、産経は一貫して「増税の前にやるべきことが山積している」と主張している。東京も「増税は大震災のどさくさ紛れに持ち出すような話ではない」(4月24日付)と明確に反対した。

復興財源論議 成長で税収増やせと産経 朝毎読日「増税やむなし」

朝毎読日はこぞって消費増税「是」ということだが、多数決というわけにはいかないだろう。
そもそも、民主党のマニフェストの趣旨(コンセプト)は、消費税率の引き上げはやらない前提に立っていたのではないか?
⇒2011年2月10日 (木):マニフェストを履行するための消費税増税?

小沢元代表は、増税の抵抗勢力となっているが、本当に今の時点で消費税率を上げることが適切なのか?「増税の前にやるべきことが山積している」という産経の指摘は、現時点でも適切ではないのか?

まもなく災禍の発生から満1年になる。
メディアでは、1年を振り返る大型特集が数多い。
復興の現状についてはどうか?

Photo東日本大震災の発生と原発事故から1年となる今、福島県民は現状をどう見ているのか。朝日新聞社が福島放送と共同世論調査(電話)を行ったところ、復興への道筋が「ついていない」という人が92%に達した。事故から1年たってもなお、今後の展望を持てないでいる県民の意識が浮き彫りになった。
http://www.asahi.com/national/update/0306/TKY201203060010.html

なぜ復興に道筋がついていないと見られているのか?
次のような見方がある。

「東北にとっては1000年に一度の災害かもしれないが、東海・東南海があるかもしれないので、そういう超法規的な措置はできない」
これほどの未曾有の事態にあっても、先進事例を作りたくない、という政府の本音だった。財務省の頭も同じだった。
なぜ被災者は今も新たな人生設計ができないか

フクシマ原発から放出された大量の放射性物質が復興の妨げの大きな要因であろうことは理解できる。
不思議なのは、その張本人であるはずの東京電力で、ケジメらしいケジメが付けられていないことだ。
誰がどう考えたって、賠償や廃炉を勘定に入れれば、東京電力は債務超過ということだろう。

東京電力福島第1原発事故の賠償金支払いで政府の原子力損害賠償支援機構から東電に拠出される支援金の今後10年間の返済計画が6日、分かった。東電は2年後の平成26年3月期から約1千億円で返済を始め、34年3月期までの9年間で約1兆2500億円を返す。返済には税引き前最終利益の半分を充てる。ただ、計画は家庭向けを含む電気料金値上げと新潟県の柏崎刈羽原発の再稼働を前提にしており、実現しない場合、黒字を確保できず返済が滞り、国民負担となる恐れもある。
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120307/bsd1203070131000-n1.htm

個人的には、原発再稼働はあり得ないと考えるべきだと思う。
家庭向けの料金値上げもやむを得ないのかもしれない。
しかし、なるべく必需的な部分は押さえるような料金体系が必要だろう。
そして、「料金値上げの前にやるべきことが山積している」のではないか?

東電の負担しなければならない賠償額と廃炉コストはいくらなのか?
9年間で1兆2500億円というのは余りにも過小であろう。
1度破綻処理をして責任を明らかにしないと、料金値上げなどとても受け入れられまい。
と見てくると、消費税率と電力料金は同じ構造のように思える。

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2012年3月 6日 (火)

AIJ投資顧問をめぐる闇(2)/花づな列島復興のためのメモ(32)

AIJ投資顧問という会社が、主として国内の企業年金からの投資一任契約に基づいて預かっていた約2000億円の大部分を消失していた事件のウラ側に何があったのか?
単なる運用の失敗だけでは済まされない問題が含まれているようである
⇒2012年3月 3日 (土):AIJ投資顧問をめぐる闇/花づな列島復興のためのメモ(31)

状況的には、計画的に詐取したとしか思えない。
誰がどう関与していたか、実態の解明が待たれるが、消失した年金が返ってくる可能性はないだろう。
この事件が、例外的であることを祈る。

私が不思議に思うのは、企業年金の運用責任者はどのような評価基準でAIJ投資顧問を選択したのかということである。
同社のサイトを見る限りにおいては、大事な資産を預ける気にはならないだろう。
以下のような指摘もある。

AIJは、リーマン危機後に株価が急落した2008年が7~8%程度、東日本大震災でやはり株価が急落した2011年には5%程度と、高位安定した収益を上げていたとされるが、現在の金融理論からすれば、どうして市場が急落した時点でブレずに安定的な高収益が達成できるのかの説明がつかない。
なぜ、摩訶不思議な運用の実態についてのチェックが働かなかったのだろうか。
AIJのホームページを見ると、「会社案内」「地図」「事業内容」が記載されているだけで、それもすべての情報を合わせてA4 で1枚に満たない程度の開示でしかない。加えて、第22期事業報告書が付加されているが、スキャンした際だと思われるが、原本が斜めに傾いたままのPDFになっている。HPを見ただけでも通常の神経なら首を傾けたくなるのではないだろうか。
年金2000億円消失問題の本質は何か

企業年金側の事情としては、加入者に約束している給付を死守したいと考えるの は当然である。
AIJ投資顧問は、ファンドの私募投資信託の運用利回りについて2002年度に約35%、03~05年度に14~18%台、06年度以降には1ケタになるが5~9%になると謳っていたそうである。
低金利のご時世であるから、この利回りは魅力的である。
しかし、「うまい話には気を付けよ」というのも常識ではないか。

資金の運用を任せる側は、(1)なぜこのような高利回り運用が可能になるのか理由が理解できるか、(2)本当に高利回りが実現していることを裏付ける証拠があるか、(3)これは虚偽報告ではないのか、(4)そもそも本当にこんなに上手く運用できるなら、他人のお金を運用していることが不自然ではないか、といった疑問を抱くべきだった。
AIJ投資顧問事件、企業と個人への教訓

「運用」の実態はどうだったのか?
AIJは、平成22年の実績について、少額の資金で多額の取引ができる「デリバティブ取引」で取引高が約57兆円に達していたとする事業報告書を関東財務局に提出していたという。
金銭感覚が私などにはよく分からないが、関東財務局は提出されたものを受け取るだけだったのか?

新聞報道などによると、AIJは、実質的なグループ会社であるアイティーエム証券を通じてケイマン諸島に登記した3つの私募投信に年金資金を投資していた。
ケイマンに流れた資金は、実はそのほとんどが香港に流れていた模様であり、本当に運用が行われていたのかどうか。
運用を仮装した詐取ではないかと私は思う。
売買で反対の行動を選択していれば、AIJ投資顧問の損失を利益化できるであろう。
やましいところがなければ、ケイマンで実態を隠す必要はない。

この問題は、天下りの問題を抜きにしては考えられない。

AIJ投資顧問(東京)による企業年金資産の消失問題で、厚生労働省は5日、全国の厚生年金基金に天下りした旧社会保険庁(現・日本年金機構)など国家公務員OBの役職員が、2009年5月時点で646人に上ったことを明らかにした。当時あった614の厚年基金のうち399基金に国家公務員が天下っていた。646人の内訳は、理事など役員が466人、職員180人。厚労省は、さらに天下り職員の詳細な実態調査を進めている。
http://news.livedoor.com/lite/article_detail/6340485/

この天下り役職員のネットワークがAIJ投資顧問の営業チャネルとして機能していたのである。
「フザケルナ!」と言う以外の言葉が見つからない。

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2012年3月 5日 (月)

メルトダウンの認識と隠ぺい/原発事故の真相(19)

どうやら厚く垂れこめていたヴェールが剥がされつつあるようである。
フクシマ原発事故の発生当初、政府は「レベル4~5」の事故であると発表していた。
⇒2011年3月13日 (日):歴史的な規模の巨大地震と震災
その後、「レベル5」に引き上げられたが、海外メディアは、もっとシビヤーではないかという見方をしていた。
⇒2011年3月20日 (日):福島第1原発事故と放射線量の用語について

政府が、「レベル7=史上最悪」を認めたのは、1ヶ月後の4月12日であった。
⇒2011年4月12日 (火):福島はレベル7/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(5)
しかし、その推測は私のような素人でも疑わざるを得ないようなものだった。
⇒2011年3月15日 (火):地震情報と「伝える力」

そして、東電がメルトダウンを、しぶしぶという感じで認めたのは、さらに1ヶ月以上後の5月15日になってからであった。
⇒2011年5月16日 (月):フクシマの現状と見通しは?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(30)
政府と東電は、事故をなるべく軽微なものとして発表しようとした。
そのため、深刻な事故の情報開示は常に遅れがちであった。

政府の事故調査・検証委員会の中間報告でも、公表遅れは「国民に対する情報提供として問題がある」とされたが、「公表遅れ」というよりも、やはり「組織的な隠ぺい」と言わざるを得ないだろう。
議事録不存在問題も、「無い」のではなく、「隠している」あるいは「発表できない事情がある」という見方が有力である。

SPEEDIの適時開示をしなかったことと併せ、作為的な情報操作といわれても仕方がないであろう。
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか
⇒2011年9月21日 (水):黒塗り報告書は何を隠したのか?/原発事故の真相(8)

このような隠ぺいも限界がきたようである。
事故から1週間後には、経済産業省原子力安全・保安院のチームが、1~3号機の原子炉内の核燃料が炉心溶融したと分析していたことがわかった。

Photo原子炉格納容器内の放射線量を測る「CAMS」(格納容器雰囲気モニター)の数値。昨年3月15日には1、2号機で放射線量が急激に上昇し、格 分析したのは、保安院内にある「緊急時対応センター(ERC)」で昨年3月14日から活動を始めた「情報分析・対応評価チーム」。もともと想定されていたチームではなく、保安院企画調整課の要請で、経産省や原子力安全基盤機構などの有志約10人で急きょ結成された。従来の分析部署が緊急対応に追われるなか冷静に分析する集団が必要だという判断だった。
メンバーが注目したのは、東電から24時間態勢で送られてくる水位や圧力データ、納容器底部に燃料が溶け落ちたことをうかがわせた。ほかのデータの変化もあわせ、同18日午後2時45分の時点で、1~3号機ですでに炉心溶融が起きたと判断している文書が残されていた。

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201203030630.html

事故直後に広報を担当していた保安院の中村幸一郎審議官は、3月12日の時点で「炉心溶融の可能性」に言及していたが、その直後、広報担当から外(さ)れた。
そして、原子炉の状態については、明確な説明がなされなくなった。

本来、政府に対して批判的であるべきマスコミは、奇妙な論理により政府擁護にまわった。
たとえば、「海水注入問題 原発に政局持ち込むな」と題する5月24日付の毎日新聞社説である。
菅首相(当時)が、海水の注入を中断させたか否かという問題に関して、次のように論じた。

論戦を聞いて、二つの疑問を持った。まずは、海水注入中断問題の位置付けである。すでに1号機については地震発生翌日の3月12日朝の段階で燃料の大半が溶融したとの推測が一般的になっている。その日夜に海水注入が55分間中断したことが、事態の深刻化にとってどの程度本質的なものだったのか。
もう一つは、菅首相が日本を代表する形で、サミットの場で世界に対し今回の原発事故の原因、今後の対策をまさに発表しようとする矢先に、その信頼性をいたずらに失わせるような議論をすることが、日本の国益上いかがなものかという点だ。
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20110524k0000m070153000c.html

海水注入の中断が問われた当時、公式見解は、炉心溶融はしていない、だった。
後付けで、燃料の大半が溶融していたことが分かったからといって、その時の対応が正しかったかどうかは無関係である。
あくまでその時点で得られていた情報でどうすべきだったかを検証しないと、教訓としての意味がない。
また、信頼性を担保するのは、正確な情報を適時開示することであり、隠ぺいしていたことこそ「信頼性をいたずらに失わせる」ものであろう。

改めて炉心溶融の情報を探していたら、以下のような動画があった。
独立行政法人・原子力安全基盤機構が、事故前に、原子力防災専門官向け資料として作成していた炉心溶融のシミュレーション画像である。
Photo_3
http://youtu.be/wwYk62WpV_s

以下のようなコメントが寄せられている。

津波を予想した人、必然と捉えていた人は多くいた­のに、政府や電力会社は全くとりあおうとせず無視し続けた、その­対応にこそ原因があります。津波対策の無視は、「対策し難い事象­や余りに被害甚大な事象についてはその事象自体を “想定不適当” “絶対に起こり得ない” として無視する」という、原子力推進の悪しき慣習(鉄則)が適用­されたよい例です。
http://www.youtube.com/watch?v=wwYk62WpV_s&feature=youtu.be

上記も後付けのコメントといえばそうであるが、上記の政府やマスコミの後知恵のレトリックとは違う。

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2012年3月 4日 (日)

女性宮家創設問題とは何だろう/やまとの謎(57)

「女性宮家」創設を検討する政府の「皇室制度に関する有識者ヒアリング」が始まった。
女性宮家創設は、女性皇族が結婚後も皇室にとどまれるために、創設しようということである。
折しも明仁天皇の退院が報じられており、家族のことのように喜びを表している人々の姿がTVに映し出されている。
「象徴としての天皇」は定着しているように見える。

問題の1つは天皇が負っている行為が多くて、年齢や健康状態を考えた場合、過重ではないかということである。
それを分担するのが皇族である。
皇族は皇室典範で次のように限定されている。

第5条 皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする。

すなわち、内親王は、皇后、親王妃、王妃になる以外は、結婚を機に皇族ではなくなる。

第12条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。
現在の規定のままでは皇族が減っていくことは避けられない。
皇族が果たすことを期待されている役割を考えた場合、皇室典範の規定を変える必要はないか、変えるとしたらどう変えるか?
論点は何か?

まず第一に、皇族に期待されている役割とは何なのか?
この種のQに対してはいろいろなアンサーが考えられよう。
たとえば、日本大学教授・百地章氏は、産経新聞「正論」欄120302の『男系重視と矛盾する「女性宮家」』において次のように指摘している。

皇室にとって最も大事な祭祀(さいし)については、陛下のお考えを最大限尊重申し上げるべきである。しかし国事行為については「代行制度」があり、皇太子殿下や秋篠宮殿下にお願いすることも可能である。問題は国事行為以外の公的行為(象徴行為)であろうが、中には、国会開会式でのお言葉など極めて重要なものから、民間行事へのお出ましまである。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120302/imp12030203170001-n2.htm

一般に、天皇の公務は大きく分けて次の3種類あるとされる。
 ・
国事行為
 ・公的行為
 ・その他の行為
⇒2011年12月 5日 (月):天皇の公務について/やまとの謎(52)

しかし、問題の中心は天皇の負担軽減ということではないようである。
たとえば、産経新聞の「主張」は以下のようである。

皇族の減少を防ぐためには、旧皇族の皇籍復帰も有力な方策である。今回、野田佳彦政権がこのような意見にも配慮し、聴取項目に「皇室活動維持のため、他に方策はあるか」との質問を加えたことは評価したい。
旧皇族は終戦後の昭和22年、占領政策に伴い、皇籍離脱を余儀なくされた旧11宮家のことだ。
・・・・・・
野田首相も今国会で、男系維持の重要性を重ねて強調した。ただ当面は、女性宮家問題を皇位継承問題と切り離して早急に結論を出し、来年の通常国会への皇室典範改正案提出を目指す意向だ。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120301/imp12030103270001-n1.htm

要するに、女性宮家創設が女系天皇容認に繋がりはしないか、ということである。
男系皇統論であり、皇統は、神武以来、男系によって維持されてきた、という認識がベースになっている。
その「主張」を解説しているのが、前記の日本大学教授・百地章氏の『男系重視と矛盾する「女性宮家」』である。
百地氏の意見を要約してみよう。

しかも、政府は、「私や皇太子の意見も」と述べられた秋篠宮殿下からさえお考えを聞こうとしない。これでは、「初めに結論ありき」と言われても仕方がない。
しかも、最初に伝えた読売新聞によれば、宮内庁側は、女性宮家問題を陛下のご負担軽減だけでなく、「安定的な皇位継承」や「皇位継承者の確保」のためと説明している(平成23年11月26日付)。報道通りだと、女系推進派は「女系宮家」から「女系天皇」まで視野に入れており、「皇位継承問題とは別」という説明はまやかしとなる。となれば、「女性宮家」の創設は「男系重視」の首相答弁と明らかに矛盾する。
・・・・・・
そもそも「宮家」は皇位継承の危機に備えるものであって、室町時代以降は「伏見宮」「桂宮」「有栖川宮」、それに「閑院宮」の4宮家(世襲親王家)によって2千年に及ぶ皇統が支えられてきた。この4宮家から、3方の天皇が即位されており、戦後、GHQの圧力の下、臣籍降下させられた旧11宮家は、これらの家系に属する。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120302/imp12030203170001-n2.htm

政府の「皇室制度に関する有識者ヒアリング」の様子は以下のように伝えられている。

意見陳述したのは今谷明帝京大特任教授(日本中世史)とジャーナリストの田原総一朗氏。共に現在の皇室典範のままでは皇室が秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さま(5)だけになるとの懸念を示し、女性宮家を創設する場合の皇室の規模については「できるだけ小さい方がいい」とした。
http://www.at-s.com/news/detail/100103437.html

今後ヒアリングの対象となる「有識者」が誰なのかは分からないが、今谷氏と田原氏の意見が、政府の意向を代弁するものであろうことは容易に推測される。
それは、以下の2点に要約されるであろう。
・女性宮家は必要である。
・しかし、皇族は限定すべきである

すなわち、旧皇族の復活という産経新聞の「主張」は容れられないようである。
まあ、政府の意向は、もう少し議論の煮詰まるのを待つべきだろうが、既に結論ありきという感じは拭えない。
意見の違いは、皇位継承を男系に限るか女系を認めるかであるが、根底に天皇制というものをどう考えるかという問題がある。

私は、同じ「天皇制」という言葉でも、明治維新以前、明治維新後敗戦まで、戦後と、それぞれ意味内容が異なっていると思う。
戦後のいわゆる「象徴天皇制」は現時点では定着しているように思える。
特に、東日本大震災あるいはフクシマ原発事故のような非常事態、まさに国難のときに、国民を統合する役割を果たしたのは天皇であって、政治家ではなかったように思う。

現在の状況をみれば、天皇以外に、国民統合原理として有効なものは見出せないであろう。
しかし、果たして、次代以降も、天皇が国民統合の象徴であり得るのか?
百地教授のいうように、最も大事なのは祭祀なのか?
祭祀の意味、機能は何なのか?
それは、農耕と関係があるとすれば、国民の大部分が、農業と無縁になっても最も大事と言えるのか?
男系論者のいうように、万世一系が続いてきたのか?

私には、「天皇制」というものがよく分からない。

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2012年3月 3日 (土)

AIJ投資顧問をめぐる闇/花づな列島復興のためのメモ(31)

AIJ投資顧問という会社が、顧客の企業年金資産約2000億円の大半を消失していたことが報道されている。
同社は、委託された資産を金融派生商品(デリバティブ)に投資し、その際ハイリスク・ハイリターンの「レバレッジ取引」を繰り返していたのだという。
運用損を埋めるため、リスクの高い取引を行っては失敗し、さらに損失を膨らませるという悪循環である。

同社は、租税回避地として知られる英領ケイマン諸島のファンドに資金を集め、英領バミューダの外資系信託銀行にいったん移したうえで、さらに香港の英国系銀行など複数の金融機関に分散させ、運用していたとみられる。
AIJ投資顧問とはいかなる会社か?
同社のサイトの会社概要は以下の通りである。
Aij
http://www.aim-ij.com/index.html

また、第22期事業報告書が掲載されているが、内容はともかく、体裁がお粗末であり、私なら大事な資金を預ける気にはならない。

同社の浅川和彦社長(59)は国内の大手証券会社出身で、オリンパスの損失隠し事件で逮捕された中川昭夫容疑者(61)ら指南役とされる同じ大手証券OBと関係が深かった。オリンパス事件ではタックスヘイブン(租税回避地)の英領ケイマン諸島に「飛ばし」を行って損失を隠したが、AIJもケイマンを通じて年金資産を運用。オリンパス事件と人脈、構図が重なるAIJ問題に捜査当局は関心を寄せる。
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/120228/cpb1202282221006-n1.htm

同類が群れていたのだろう。
ケイマンは多数のペーパーカンパニーがあることで知られる。
実態を隠すのに好都合というわけだが、逆に、ケイマンと聞くだけで胡散臭い気がするのは、隠すべき資産を持たない者のひがみだろうか。

本来、「ハイリターン(高利回り)」のものは「ハイリスク」であるのが一般的だ。
したがって、ハイリターンを求めて資産運用をした結果が、目減りをしたこと自体は、自己責任の問題である。
しかし、AIJ投資顧問の場合、預り資産の大部分が消失していたとすればただ事ではない。

AIJ投資顧問は、どうやって契約を獲得してきたか?

AIJが契約していた84の年金基金のうち、中小企業が業種や地域ごとに作る「総合型」の年金基金は73あります。この総合型を中心に、旧社会保険庁や厚生労働省のOBが理事などの役職で天下りしていました。関係者によりますと、基金に天下りした幹部同士のつながりで、高い利回りをうたうAIJとの契約が広がったということです。
また、天下りした幹部のなかにAIJを事実上、紹介するまとめ役がいた可能性もあるということです。

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220302006.html

このまとめ役と見られる人物については、次のように報じられている。

旧厚生省(現厚生労働省)OBがAIJとコンサルタント契約を結び、企業年金側に「AIJは年金資産の運用委託先として有望」と仲介していたことが2日、分かった。これを機に複数の企業年金がAIJと契約していた。このOBが経営する年金コンサル会社の役員をAIJ役員が兼務していたこともあり、OBがAIJと一体となり顧客獲得の一翼を担っていた実態が浮上した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120303/crm12030302070001-n1.htm

何のことはない。
ここにむ「ムラの構図」があったのだ。

企業年金は、年金制度の中でどのような位置づけにあるのだろうか。
Photo
http://www.shiruporuto.jp/life/nenkin/kigyo/kigyo102.html

つまり、企業年金は公的な年金にプラスして受けることができる年金である。
企業が任意で入るが、多くの企業年金が予定していた給付額を支払えない可能性がある。
AIJに限らず、現下の経済情勢においては、期待収益を上げることができているのは限られているであろうからである。

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2012年3月 2日 (金)

グループ一九八四年とは?/花づな列島復興のためのメモ(30)

「グループ一九八四年」という名前の匿名の筆者が論壇に登場したのは、1975年の『文藝春秋』2月号だった。
私は、その雑誌論文を読んだ記憶はあるが、私自身若かったこともあって、自分の未来についてさほど悲観的な心境にはならなかったような気がする。
また、「共同執筆・グループ一九八四年」と書かれている以上、当然、筆者は複数人が関与しているものだと思っていた。

『文藝春秋』の最新号(1203)に、再掲されている。
きっかけは、朝日新聞の1月10日の一面で、若宮啓文主筆が注目したことによる。
朝日新聞と文藝春秋あるいはグループ1984年とは、基本的なスタンスに大きな違いがある、と思うのが私だけでなく一般的な印象ではなかろうか。
しかし、若宮主筆は、この論文に肯定的に言及しているのだ。

「朝日の右傾化がきわまった」のか、「グループ1984年の先見性があった」のか、はたまた・・・。
ところで、グループ1984年とはどのようなメンバーなのか?

『文藝春秋』の元編集長田中健五氏が、1203月号に『「グループ一九八四年」とは何者か』を書いている。
田中氏によれば、「日本共産党『民主連合政府綱領』批判」を掲載した『文藝春秋7406月号』の「編集部あとがき」に、「グループ一九八四年は、各分野の専門家二十数名からなる学者の集団」と記されている。
そして、メンバーの中心は香山健一(元学習院大学教授)であることがわかっており、他に公文俊平(元東大教授、現多摩大学情報社会学研究所所長)、佐藤誠三郎(東大名誉教授)らが関わっていたのではないかと推測している。

これらのメンバーは、いずれも中曽根首相のブレーンであり、国鉄改革や行政改革を推進した。
今日の産経新聞の「from Editor」というコラムで、編集委員大野敏明という署名で、内幕(の一部)を明らかにしている。

「グループ一九八四年」は同誌昭和49年6月号に初めて登場したが、その元の原稿を初めに読んだのは私である。それは昭和49年3月で、私が学習院大学の3年から4年になるときの春休みだった。香山教授から本人自筆の分厚い原稿を渡され、「グループ執筆という形にするから、学生数人で手分けして書き写してほしい」と頼まれたのだった。
・・・・・・
教授から原稿を渡されたのは最初の論考の一回きりだったが、全文、几帳面(きちょうめん)な教授の字であった。教授が何人かの仲間と論考の研究をしたことはあり得るだろうが、執筆が香山教授ただひとりであったことは確信をもっていえる。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/media/547880/

果たして、「グループ一九八四年」は、大野氏のいうように香山健一氏の単独原稿だったのか、田中氏の推測しているように、複数人が関わっていたのか?
まあ、どちらにしても香山氏が中心にいることに違いはない。
香山健一氏は、元全学連委員長だが、日本共産党と対立して除名され、島成郎とともに日本共産主義者同盟(ブント)を結成した。
⇒2007年10月12日 (金):ベンチャーとしてのブント
安保闘争以後は運動から退き、清水幾太郎が主宰する現代思想研究会に拠り、未来学あるいは保守系の論壇で活躍するようになった。

私は未来学関係の書もそれなりに読んだが、未来学が科学として成り立ち得るかどうかについては未だに疑問である。
しかし、昨今の軽躁な民主党の政治家を眺めていると、1970年代初めの頃の未来学派(?)の俯瞰的な議論が懐かしいような思いがする。

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2012年3月 1日 (木)

ころんじゃった/闘病記・中間報告(40)

『「白泉句集」によせて』において、四方一や(サンズイ+彌)さん(句碑建立委員会代表)は次のように書いている。

新進気鋭の俳人として、厳しい社会批評に満ちた俳句を発表したが、日中戦争も戦線の拡大、長期化の様相を呈し、軍部も焦燥感を強めていった昭和十四年には、

戦争が廊下の奥に立ってゐた

憲兵の前ですべってころんじゃった

など独走する軍部を揶揄した俳句史上に残る多くの人間味溢れる名句を詠んでいる。

⇒2007年11月16日 (金):渡辺白泉
⇒2012年1月17日 (火):渡邊白泉/私撰アンソロジー(14)

「憲兵の・・・」の句は、憲兵というものがない時代に育った私には、必ずしも十分に理解はできないが(幼時、進駐軍のMPには馴染みがある)、俳諧の本質である諧謔みを帯びた反戦句といえよう。
白泉の句は、新興俳句の砦であった「京大俳句」に掲載された。

1920年(大9)発会式に虚子も出席して三高在学生による句会が創設される。(誓子も入会)その後、京大関係の俳句会として京大俳句会の名のもとに活動するが、35年(昭10)学外にも門戸を開放し、三鬼、窓秋、白泉、石橋辰之助、三橋敏雄ら有力俳人、新鋭俳人が参加、新興俳句ー新興無季俳句運動の中核となっていく。
日中戦争が始まると、積極的に戦争に取材し、反戦、厭戦の句も作られ、意気軒昂たるものがあった。

病院船牧牛のごとき笛鳴らし      静塔
燃えてゐる女の顔に征く軍歌      波止影夫
タンク蝦蟇の如く街に火を噴きつ    仁智栄坊
我講義軍靴の音にたたかれたり    井上白文地
憲兵の前ですべってころんじやつた   白泉
・・・・・・
先ず川柳作家の戦争風刺作品が槍玉に挙げられるが、京大俳句会の俳人たちは、当局にとって怪しからぬ俳句かも知れないが、反国家的な共産主義者の片棒を担ぐようなことはしていないし、それと新興俳句を快く思っていない俳人の策動だとたかをくくっていたふしがある。

http://wind.ap.teacup.com/bunngakuhaiku/42.html

弾圧の理由など、つけようと思えばどうにでもなる。
甘く考えてはいけないことを教訓にしなければならない。

白泉句ではないが、私も散歩の途中、平坦な道で「ころんじゃった」。
ハビリを続けている者にとって、大きな脅威が2つある。
1つは再発であり、もう1つは転倒である。

発症が突然だっただけに、いつまた再発するか予測がつかない。
薬を飲んで、血圧をウオッチングして、あとは定期的な検診を受けてはいるが、万全ではないことは自分が一番よく承知している。
幸いなことに、今のところ、各種データ的には、発症前よりも健全であるが、データは一部の器官なり機能の状態を示すだけで、再発の確率がどの程度かというような定量的なレベルの話はできない。

転倒については、身近に見てもいるし、話にも聞く。
それまでのリハビリを無化しかねない。
かといって、家に閉じこもっているわけにもいかないので、可能な限り自分で注意するしかない。

リハビリ中でなくても、高齢化するに従い、足が上がりにくくなるので、転倒しやすくなる。
大腰筋などの体幹深部筋が弱くなるからである。
高齢者が転倒し、入院すると、急速に足腰が衰える。
場合によっては、そのまま寝たきりの状態になってしまう。

したがって、転倒しないように気を使う。
しかし、余り神経をそっちの方に集中させると、動き自体が不自然なことになる。
療法士(理学、作業共に)の人は、「力を抜いて」と言うが、一所懸命の動作中に、意識して力を抜くのは難しい。
後遺症のある身には、自然体自体が不自然なのである。

天気の良い日はなるべく散歩にでるようにしている。
麻痺側の右足は時々、引っかかる。
周りの人はビックリするが、右足の力が弱いこともあることが理由だと思うが、意外に転倒するところまではいかないものである。
足が引っかかる頻度は、徐々に低下してきている(と思う)。
たとえば、1年前に比べれば、瞭然だろう。

そんな状況で、油断があったのかも知れない。
幸いにして、骨折などはなく、両手に多少の擦過傷がある位で済んだ。
しかし、無意識のうちに、右半身をかばったのであろうか、左手の打撲による痛みが引かない。
通院中の病院の医師に尋ねると、2~3週間はかかるものだ、と軽く言われた。
しかし、頼みの左手が不自由なので、気分的に落ち込む。
たとえば、ペットボトルの蓋が回せない。

転倒して、渡邊白泉の代表句を思い浮かべた。

春うらら平らな道でころんじゃった

春うららは、季語として認めない結社も多いが、ここではどちらでもよい。連戦連敗の競走馬ハルウララを導き、自分の人生と重ね合わせることを意図している。白泉句の本歌取り、などと自解してみても、サマにならないなあ。

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