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2012年3月21日 (水)

高松塚・壁画発見から40年/やまとの謎(60)

有名な高松塚の彩色壁画が発見されたのは、1972年3月21日のことであった。
爾来ちょうど40年が過ぎたことになる。
現在、壁画はカビによる劣化を修復すべく、専用施設でリハビリ中であるが、古墳に戻すメドはたっていないという。
なにやら「元のようには戻りませんが・・・」といわれているわが身を思ってしまう。

私は、この日本古代史の謎を考えるときのカギと思われる古墳を見学したいと願いつつ、脳梗塞の発症と半身不随という後遺症によって、入院中は半ば諦めていた。
ところが、退院して前住地のご近所の人たちと談笑しているとき、「みんなでいけば怖くないから・・・」と泊まりがけの旅行に行くことになった。
Photo_4最初は共通の知人がいる東北へ、などと言っていた。
途中で、私が平城遷都1300年でもあるし、奈良方面はどうだろうか、言ったところ、満場一致で「そうしよう」ということになった。
車椅子の積める大型タクシーを頼んで長年の夢が実現したのである。
ケガの功名(?)。
⇒2010年10月26日 (火):聖武天皇の宝剣?/やまとの謎(3)

私は、日本古代史が靄がかかっているようにはっきりしない要因は、藤原京あるいは文武朝の実相に謎が多いから、と考えている。
文武天皇についての解説は以下のようである。

文武天皇は、名を軽皇子といい、草壁皇子の第二子。
軽皇子は七歳で父草壁皇子を失ったが、祖母の持統天皇に寵愛されて育った。
697年立太子、同年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。
権臣藤原不比等の娘宮子を夫人として首親王(聖武天皇)をもうけた。
文武朝の701年「大宝律令」が完成して翌年から施行された。
文武朝では「飛鳥浄御原律令」をまもらせ、また、田租・雑徭などの半分を3年間に渡り免除するなど、持統太上天皇や藤原不比等の支えを受けて善政をひいた。
707年25歳の若さで崩御した。
http://www.weblio.jp/content/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

この文武朝には謎が多い。
⇒2008年9月28日 (日):文武朝における皇后冊立権の転換…梅原猛説(ⅷ)
高松塚の推定築造時期はまさに文武朝とオーバーラップしている。

壁画の修復作業の状況は以下のように伝えられている。

 Photo_3
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で極彩色壁画が見つかって21日で40年。「戦後最大の発見」と古代史ブームを巻き起こした国宝壁画は、文化庁の管理の不備もあり、カビなどで劣化、古代の美しさを失った。

 14日に壁画の修復施設を報道陣に公開した同庁によると、修復の進捗率は現在25%。「あの鮮やかさを再び」。施設では懸命な作業が続いている。
 湿度ほぼ100%の古墳内でカビの発生は抑えられないとして、壁画が描かれた石室の解体という「最終手段」がとられたのが2007年。バラバラになった壁画は今、古墳近くの修復施設で保管されている。
http://www.daily.co.jp/society/main/2012/03/14/0004884105.shtml

元の状態に戻すことは限りなく困難な様子が窺える。
文化庁の責任はあると思うが、役人というのは責任を取らなくてもいいようにできているらしい。
それはともかく、なるべく原状に戻して欲しいと思うのは全国民共通の願いだろう。

高松塚の壁画の意義は、日本列島において他に例のない鮮やかな彩色が施されていたこと、この古墳の被葬者が、日本という国家が形成される上で、大きな役割を果たしたと推定されることである。
築造年代と被葬者については諸説あるが、Wikipediaでは以下のように解説している。

古墳の年代
盗掘を逃れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期(694年~710年)の間だと確定された。

被葬者
被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。

天武天皇の皇子説
忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。
忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)、猪熊兼勝(現京都橘大学名誉教授)、王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いことと、人物像の服装など。
高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六(考古学者)、河上邦彦(奈良県立橿原考古学研究所副所長、現神戸女子大学教授)、豊田有恒(作家)ら。
弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。
臣下説
岡本健一(京都学園大学教授)、白石太一郎(奈良大学教授)らは石上麻呂説を主張する。この説となると高松塚古墳は奈良時代の年代となる。
朝鮮半島系王族説
百済王禅光と主張するのは千田稔(国際日本文化研究センター教授)。
堀田啓一(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。

果たして被葬者が特定される日が来るのだろうか?
墓誌が発見されない以上、決定はできないだろうが、それが古代史のロマンというものであろう。

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