『新・雪国』と本歌取りの技法/知的生産の方法(16)
私などのように、非雪国の人間が雪をロマンチックだと思うのは、それが珍しいものであるからに違いない。
雪が降ると、見慣れた景色が一変する。
だから発想の転換には好適だ、という説を聞いたことがある。
馴質異化の一種だろうか?
⇒2011年1月18日 (火):馴質異化-地図の上下/知的生産の方法(7)
⇒2011年1月30日 (日):馴質異化と異質馴化/「同じ」と「違う」(27)
その雪景色が日常的なのが「雪国」である。
非日常的なときにはロマンチックに思えていたことも、日常生活になるとそうも言っていられない、というのは恋愛と結婚の関係に似ている?
「雪国」といえば、何といっても川端康成の『雪国』であろう。
ノーベル賞作家の代表作として国民必読の書となっている。
『雪国』の中でも、島村が夕暮れの汽車の中で、窓を鏡として写る葉子の姿と外を流れる景色とがオーバーラップするのを眺める場面の描写は有名である。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顛えたほどだった。
遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔をそのなかに浮べていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
笹倉明の『新・雪国』廣済堂出版(9908)は、タイトルが表しているように、『雪国』を下敷きにして、意識的にイメージを重ねて読まれることを意図した作品である。
あたかも引用した箇所のように、読者は、『雪国』と『新・雪国』とを二重写しにして読むことを想定されているわけである。
これは、「本歌取」の方法ではないだろうか。
本歌取りについては次のように説明されている。
和歌、連歌などの技巧の一つ。
すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧。
新古今集の時代に最も隆盛した。
転じて、現代でも絵画や音楽などの芸術作品で、オリジナル作品へのリスペクトから、意識的にそのモチーフを取り入れたものをこう呼ぶ。
オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかにし、その上で独自の趣向をこらしている点が、単なるコピー(パクリ)とは異なる。
『雪国』は人口に膾炙している。「オリジナルの存在と、それに対する敬意をあきらかに」する上では申し分がない。
問題は、「その上で独自の趣向をこらしている」かであるが、それに立ち入る前に、本歌取りについてもう少し見てみよう。
本歌取りについて深く考察したのは、新古今集の代表的歌人・藤原定家であるといわれる。
定家は、本歌取りの原則を以下のようにまとめている。
Wikipedia
- 本歌と句の置き所を変えないで用いる場合には2句未満とする。
- 本歌と句の置き所を変えて用いる場合には2句+3・4字までとする。
- 著名歌人の秀句と評される歌を除いて、枕詞・序詞を含む初2句を本歌をそのまま用いるのは許容される。
- 本歌とは主題を合致させない。
- 本歌として採用するのは、三代集・『伊勢物語』・『三十六人家集』から採るものとし、(定家から見て)近代詩は採用しない。
定家自身も、本歌取りを行っている。
たとえば次のようである。
京都せんべい おかき専門店小倉山荘のサイト「本歌取りのマナー」を参照した。
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪のゆふぐれ
(新古今集 冬 藤原定家朝臣)
本歌は『万葉集』にある。
苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡りに家もあらなくに
(万葉集 巻三 長忌寸奧麻呂)
定家の歌は「佐野の渡り」という一句だけを借用。
雨を雪に替え、馬の旅だとしながらも旅の途中の困難を描いているのは同じ。
場所も同じである。
しかし、喚起する情景はかなり違う。
読者は、定家の歌から奧麻呂の一首を思い出し、その素晴らしさを再発見することになる。
要するに、本歌との二重性(=本歌との「同じ」と「違う」)の微妙なさじ加減ということになる。
その微妙なさじ加減を明示化すると、定家の示した原則のようになるということだと思う。
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