春を待つ心境/闘病記・中間報告(39)
今日の産経俳壇の宮坂静生氏の選の句は、入院生活を思い出させるものだった。
浜松市の宮田久常さんという方の作である。
流刑地に居るがごとくに春を待つ
<評>
シベリア大陸などの極寒の地を想像する。或いは体調を崩し春を待つ一途な思いはこんな比喩にすがりたい。春は、芽が張る、万物漲るとき、待つとは純なる思い。
私は、2年前の今頃は、伊豆山中の病院に入院中だった。
映画監督の五所平之助は、五所亭の俳号で知られる俳人でもあったが、次の句がある。
⇒2011年10月15日 (土):五所平之助/私撰アンソロジー(8)
霧湧きて伊豆に遠流の如く住む
流刑地といえば、宮坂氏もいうように、シベリアなどが先ず浮かぶ。
日本でも、明治時代に刑法が制定される前は、刑罰として流罪があった。
死刑の次に重い刑である。
日本には数多くの離島があるから、流刑地に事欠かないが、かつては伊豆も有名な流刑地であった。
流刑地といえば文化果つる地のようなイメージがある。
しかし、流罪に処せられるのは往々にして政治犯であった。
政治犯は多くの場合文化人であったから、流刑地には豊かな文化が伝えられる例が多かった。
佐渡などはその例である。
平治の乱で敗れた源義朝の子頼朝は、死罪となるところを平清盛の義母池禅尼の嘆願で助命され、伊豆国の蛭ケ小島へ流罪となった。
蛭ヶ小島は、伊豆の国市(旧韮山町)にあるが、「どこが島?」というような田園地帯である。
島は、水田の中にあった微高地を指していると考えられ、蛭が多かったことから付いた名といわれる。
現在は、頼朝と北条政子の銅像が建っている。
http://www.mapple.net/spots/G02200233101.htm
しかし、頼朝の流刑地ははっきりしていないらしい。
歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明。 発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し、当地が比定地であるかは不明。
現在、「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑が1790年に建てられた。これが「蛭島碑記」で市の指定文化財となっている。
蛭ヶ小島
私の入院していた病院は、蛭ヶ小島よりずっと山に入った場所だった。
一昨年は4月に積雪があったりして、極寒の地に近い状態だったのは事実である。
しかし、首都圏をはじめ、京阪からも見舞いに来てくれる旧友がいたのだから、流刑地などと言っては申し訳がない。
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