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2012年2月 9日 (木)

『雪国』と『新・雪国』/「同じ」と「違う」(41)

豪雪による被害の報道が続いている。
『雪国』は次のフレーズで始まる。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

国境の長いトンネルというのは清水トンネル。列車が停車する信号所は、現在駅に昇格していて土樽駅となっている。
上越新幹線が開通したのを機に、駅舎も一新した。
『雪国』の頃の様子を窺うべくもないが、構内に日本酒ミュージアムがあって、利き酒コーナーがある。
つかの間の旅情を味わったことがあるが、もうそんなこともあり得ないのか?

さて、『新・雪国』は次のように展開していく。

Photo_5主人公の芝野は、50歳にして経営していた会社を倒産させてしまい、妻子とも別れてあてのない逃避の旅に出かける。
旅先は国境の彼方と定めてみても、何も急ぐ必要はなかった。
ふと学生の頃読んだ『雪国』を思い浮かべ、新幹線を高崎で降り在来線に乗り換える。越後湯沢で下車すると、たまたま入った駅前の蕎麦屋で一人の女客と出会い、川端康成が常宿にしていたという旅館を教えてもらって、そこに逗留することになる。
女は、湯沢で「最後の駒子」といわれている芸者・萌子である。もうすぐ25歳、
芝野とは父娘ほど歳の差があるが、ご多分にもれず重い過去を背負っている。
芝野と萌子の年齢差をバランスさせるのは過去の重さなのか、それとも単なる男女の相性なのか。
萌子の言葉を借りれば、「私たち、ひょっとすると似てるかもしれない」。そして「時間じゃないわ、男と女は」というように急速に親しくなって……。
(写真は、『雪国』の宿・高半のサイト)

それでは、話がうますぎると思うかも知れないが、まあ大人のメルヘンと思って読めばいいだろう。
現実には起こるはずのないような偶然も、すばる文学賞、サントリーミステリー大賞、直木賞等の受賞歴を持つ作家ならではの話の運びの巧みさの中で、不自然さは感じられない。
相当にきわどい描写もあるが、『雪国』と同様に読後感はむしろ清冽である。
何よりも、川端に比べればはるかに文脈を辿りやすい文章だから、素直にストーリーを追うことができる。
芝野は、萌子と充足の一時を過ごしたあと、温泉に身を浸して目を閉じて思いに耽る。

人はいずれ死ぬ。例外なくいつかは死んでいくとすれば、一生の長短はその中身とくらべればあまり意味がない。大事なのは中身と、そして終わるときだ。それが最もむずかしい。死ぬと決めても、いかにして、という問題がある。それを解決できさえすれば、いつでもよろこんで死んでいける、と芝野は思った。みずから死を選ぶこと自体についてはさしたる抵抗はない。ちゃんと始末をつけることができるなら、それに越したことはないと思うけれど、遅かれ早かれいずれ滅びる命を潮どきとみさだめて、実行にうつすことができる人間はそうざらにはいない。狂気の果てに命を断つ者はいくらでもいるが、終わるべきときを自覚して、この世に別れを告げることができる者はやはり少数にかぎられるだろう。その一人になれるのかどうか、みずからに問いかけて答えを保留する。

タイトルが気になって立ち寄った書店で何気なく購入したものだが、当時、人の生死に関してナーバスになっていたこともあり、たとえば上の一節などが胸に浸みて感じられた。
当時、私自身が八方塞がりともいうべき状況であった。
「ゲートキーパー」などという言葉も知らなかったし、たとえ知っていても、他人に相談して解決できるものとも思えなかった。

あの当代きっての知性の持ち主と畏敬していた江藤淳が自ら命を絶ったことも大きな衝撃であった。
もちろん、その時点では、自分もまた江藤と同じように脳梗塞に罹患して、「心身の不自由が進み」といった状況に陥るとは、全くの「想定外」ではあったが。
⇒2010年9月 6日 (月):江藤淳の『遺書』再読
江藤の死が1999年7月21日、『新・雪国』の発行日が8月15日になっている。
正確な購入の日時は分からないが、江藤の死からさほど時を置かない時点であったことは間違いない。

上記のようなストーリーの『新・雪国』が、「その上で独自の趣向をこらしている」という本歌取りの条件を満たしていることについては、まったく問題とする余地はない。
『雪国』とは、「雪国」という舞台設定が「同じ」であるだけで、テーマも表現もまったく「違う」。
笹倉明氏自身愛着のある作品のはずで、自分の手で映画化までしているくらいである。

まあ、私が言ってもあまり説得力がないだろうから、文庫版(廣済堂文庫、0112)の田辺聖子さんによる解説を引用しよう。

この作品は、『新・雪国』というタイトルになっているが、川端康成の『雪国』とは全く別種の作品である。文学的完成度がたかく、現代の小説として緊迫性に富む。
私は快い昂ぶりのうちに、本書を読み終え、清冽な感動を与えられた。現代小説で読後感があたたかくも、さわやか、というふうなのは珍しい。それこそ、オトナの小説であろう。

読み巧者でもあるお聖さんの解説は的確である。

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