佐高信『電力と国家』⑤「浮かれ革新」と電力統制/花づな列島復興のためのメモ(20)
2・26事件の後、内閣は短命化する。
事件の収拾後岡田内閣は総辞職し、広田弘毅に組閣の大命が下った。
陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛け、3名を閣僚から外させた。
組閣に難航した広田内閣は、軍国主義路線をとったが、結局軍部と対立し1年足らずで崩壊した。
次に組閣の大命を受けた宇垣一成が陸軍の抵抗で流産し、林銑十郎が総理の座につくが4ヶ月で瓦解する。
その後、昭和12年6月に第一次近衛内閣が誕生した。
国民の圧倒的な支持を受けて近衛内閣はスタートする。
五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人では類い稀な長身で、身長は約180cmだったといわれる)に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
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ポピュリストであったと言うべきであろう。
海軍大将井上成美の近衛評は以下の通りである。
- 「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった」
- 「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種をいたのは、みな近衛公であった」
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逓信大臣永井柳太郎は、電力国営法案の制定に向けて動き出した。
永井は、官民協力の姿勢を表明し、臨時電力調査会を設けた。
委員には、東京電燈小林一三、大同電力増田次郎、日本電力池尾芳蔵、宇治川電気林安繁、東邦電力松永安左衛門が顔を揃えた。
電力業界を統制下に置きたい政府と業界側は激論を交わすが、結局まとまらないまま閉会した。
佐高は、「永井逓信相が官民協力など穏健な姿勢を表明しているが、調査会自体「結論ありき」だった」としている。
この辺りの状況が昨今と似ているのではないかと思う。
⇒2012年1月 3日 (火):ぼんやりした不安の時代
昭和13年3月、「国家総動員法」とともに、「電力国家管理法」が成立した。
奥村が「電力国策要旨」に掲げた国営電力会社は、「日本発送電株式会社(日発)」として、昭和14年4月にスタートした。
近衛内閣が誕生した日に、松永は「浮かれ革新めが!」と一言のもとに切り捨てたというエピソードを、佐高は、松永の伝記には必ず登場する、として紹介している。
「浮かれ革新」という言葉は、あたかも民主党政権のことを形容しているかのようではあなかろうか。
近衛は軍部を押さえられずに、電力の国家管理を推し進め、軍部独走を許容する結果を招いた。
政治家は結果責任を問われるものである。
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