佐高信『電力と国家』③電力の国家管理/花づな列島復興のためのメモ(18)
現在の<9+1>電力供給体制が発足したには、1951年5月1日である。
+1は沖縄電力である。他の電力会社とは網が切り離されていることと、原発を持たないことから9つの電力会社とは若干性格が異なる。
現在の体制の以前は、電力は国家管理体制にあった。
本来、電力会社は2011年は還暦を言祝ぐべき年だった。
その記念すべき年に、原発事故という取り返しのつかない事故を起こしたことは、果たして偶然のことだろうか。
景気の長期波動として知られるコンドラチェフの波は、50~60年周期といわれる。
コンドラチェフの波の要因は、資源、技術革新、マネー・サプライ、戦争や内乱といった要因が絡み合って起こるとされている。
60年という時間は1つの制度が疲労を起こす期間の目安となるのではなかろうか。
松永安左エ門が電力事業に関わった当初、電力は自由競争の時代だった。
1月6日の日本経済新聞「春秋」欄に、次のような記述がある。
「東京電灯会社の電灯は極めて廉価なり」。120年前の明治半ば、電気料金はこちらが安いと訴えるため、こんな新聞広告を出したのは東京電力の源流の企業だ。値上げを押し切ろうとしている今と違って電力業界には競争があった。
▼品川電灯、深川電灯、帝国電灯と、東京では新規参入が相次いだ。そこからここまでは当社の縄張り、というすみ分けがなかった時代だ。電力事業の元祖の東京電灯も安穏としていられなくなった。電球の取り付けを無料にしたり、フィラメントが切れたら無償で取り換えたりと、サービス向上にも知恵を絞った。
佐高信『電力と国家』集英社新書(1110)によって、電力が自由競争から国家管理になる歴史を振り返ってみよう。
日本で最初に作られた電力会社は、東京電力の前身の東京電燈である。明治16(1883)年の設立である。
エジソンが白熱電灯を実用化したのが1879年であるから、僅か4年後のことである。
日清・日露の戦争好景気により電力需要は急増し、松永が電力に関わった明治40年頃には全国で100社以上、昭和7年には800社以上が全国に乱立していた。
1929年のニューヨーク証券市場の大暴落から始まった恐慌は日本にも及び、昭和恐慌となった。
失業者が溢れ、農家では娘の身売りが相次ぎ、支配階級への不満が募っていだ。
労働運動が盛んになると共に、テロが続発した。
昭和7年2月に前蔵相・井上準之助、3月に三井財閥の団琢磨が暗殺された。
5月には5・15事件が起こり、昭和11年の2・26事件に繋がっていく。
そういう中で、軍部・官僚は、国家機関の統制を強めていく。
特に電力事業は、「エネルギーを制するものは国家を制する」とされ、国家管理は必然だったといえよう。
国家総動員法と共に公布された電力国家管理法は、国民の生活安定、国防を大義名分として、電力の国家統制を進めた。
政治的には、恐慌以来の不況対策と国防のために「一国一党の強い政治」が求められた。
政党は糾合され、大政翼賛会に一元化していく。
現在も、政治家の余りの不甲斐なさに、強力なリーダーシップをもった政治家が待望されている。
私もそういう気持ちに傾くが、常に歴史を参照する姿勢は保ちたいと思う。
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