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2012年1月19日 (木)

紫香楽宮の配置/やまとの謎(54)

紫香楽宮の施設配置が、左右対称だった可能性が高いことが分かった。

Photo_3滋賀県甲賀市教委は18日、同市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)で、大規模な掘立柱建物跡が見つかった、と発表した。天皇が住み、祭祀(さいし)を行った「内裏正殿」の可能性が高く、東西に2棟の正殿を持つ内裏構造だったことが判明。同様の内裏は恭仁宮跡(木津川市)しか例がなく、市教委は「内裏構造が分かったのは初めて。紫香楽宮の特性を考える上で貴重な発見」としている。
紫香楽宮跡では10年前の調査で、政治の中心区画「朝堂」北西部から大型建物跡が出土。主要建物にもかかわらず遺跡の中軸線から西に外れていたため、東からも建物が見つかる可能性が考えられていた。
今回は朝堂の北東部から、東西24・9メートル、南北14・8メートルの掘立柱建物跡が出土した。西側の建物跡と規模や構造が近いため、市教委は、一対として建築されたと判断。一般的に朝堂北側に内裏を置くことなどから、「東西に二つの建物が並立する内裏構造が解明できた」としている。
出土した建物跡について、史跡紫香楽宮跡整備活用検討委の黒崎直副委員長(富山大名誉教授)は「規模や構造から内裏正殿の可能性が高い。紫香楽宮調査の中で、朝堂跡出土などに続く重要な成果」と説明した。
東西対称の構造を持つ内裏は、過去に恭仁宮で確認され、今回が2例目。二つの宮はともに聖武天皇によって築かれ、恭仁宮は740~744年に、紫香楽宮は745年の一時期、都が置かれた。当時は藤原氏と反藤原氏の権力争いが行われ、黒崎副委員長は「恭仁宮では、こうした対立の影響で内裏を二つに分けたとの説もある。紫香楽宮でも同様の構造を持つことが分かり、より研究が進むのでは」としている。
http://kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120118000128

紫香楽宮は、現在は信楽という表記が使われている。
Photo_4
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120119-OYO1T00205.htm?from=main3

聖武天皇が盧舎那仏を建立することを発願したちで、742年に離宮として造営が始まり、745年までの短期間の宮都だった。
⇒2008年5月26日 (月):紫香楽宮跡から出土した木簡に万葉歌
聖武天皇は、彷徨5年といわれるように、短期間で宮都を転々とした。
5
⇒2008年6月27日 (金):恭仁京
聖武天皇の彷徨の行程は、曾祖父天武天皇の壬申の乱の跡を追うかのようであり、聖武天皇には、人々に天武と自分との関係をアピールすることであった、と推測されている(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903))が、もちろん真意は分からない。
栄原永遠男

大阪市立大名誉・特任教授(日本古代史)は、「2棟の正殿はこの時期特有の構造。母代わりの元正太上天皇が聖武天皇と行動を共にし、都を造っていた当時の政治的状況を示す発見だ」という。
つまり、聖武天皇と元正太上天皇が並んで住んでいたわけである。

復元イメージは以下の通りである。
Photo_7  Photo_6
http://www.asahi.com/culture/update/0118/OSK201201180091.html

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