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2012年1月

2012年1月31日 (火)

活火山・富士山周辺で起きている地震

富士山周辺が不気味だ。
先日来、富士五湖付近を震源とする地震が頻発している。
⇒2012年1月28日 (土):地震科学と生物の地震予知能力
気象庁の発表では、富士山の火山活動や東海地震との関連性はないということである。

気象庁によると、今回の震源は富士山頂から北東に約30キロ離れており、地殻変動や低周波地震など富士山の火山活動に異常はみられないという。また、東海地震の前兆をとらえる周辺のひずみ計にも異常は観測されていない。28日午前9時までに震度1以上を観測した余震は5回発生した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120128/dst12012810470008-n1.htm

今回の地震は、意外なことに、伊豆半島に原因があるらしい。
伊豆半島はプレートに乗って北上してきたといわれる。
富士山の成因については諸説あるが、現時点で有力なのが、伊豆半島が本州に衝突した際にできた、とするものである。

☆富士山の形成は…伊豆半島はフィリピン海プレートという海のプレートに載ってフィリピン沖から北上し、本州を載せているアジアプレートに衝突した。この衝突によって出来た火山が箱根や富士であり、伊豆半島の本州への衝突は今も激しく続いている。そのため、この2つのプレートの間には大きなひずみが今も蓄積され続けており、この付近(駿河湾)を震源とする巨大地震の発生も懸念されている。富士山の地下では今もマグマの生成が行われている。
Photo
http://www.kai.ed.jp/yamakai/fujisan%203.html

直近の地震活動については次のように説明されている。

Photo_3日本列島の太平洋側では、海側プレート(岩板)が陸側プレートの下へ沈み込んでいる。しかし、伊豆地方周辺の地殻構造は極めて特殊で、フィリピン海プレートの上に伊豆半島が突き出るように乗っているため簡単には沈み込めず、陸側に衝突。地盤が圧縮されて地震が起きやすい。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120130/dst12013021120014-n1.htm

つまり、富士山を生成した活動と今回の地震の要因は同じ、ということであろう。
私が学校で勉強をした頃は、「富士山は休火山」であった。ついでに言えば、箱根山が活火山、愛鷹山が死火山であった。
ところが、休火山という区分がなくなり、「富士山は活火山」に区分されている。
Wikipedia

宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。

活火山である以上、噴火の可能性はあると考えるべきであろう。
富士山は、優れた自然であるだけでなく、日本人の精神活動と深い関わりをもってきた。
世界文化遺産に登録してもらうための国の推薦が正式に決まったが、課題も多い。

登録の推薦が決まった翌日の26日、都留文科大(山梨県都留市)で、環境保全を訴えるNPO法人「グラウンドワーク三島」の事務局長でもある渡辺豊博教授の「富士山学」を聴講した。教室では、富士山周辺の異様な光景が次々とスクリーンに映し出され、気分がめいった。
森の中で層をなしているペンキ缶やドラム缶。古道を埋める建築廃材。道路に点々と捨てられた紙おむつ。餌と勘違いして黒いビニール袋をのみ込んだ白鳥……。

http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20120131ddlk22070288000c.html

富士山はいつかは噴火して現在の姿をとどめない日が来るであろう。
しかし、その時まではしっかり護っていくのが現存する日本人の責務であると思う。

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2012年1月30日 (月)

佐高信『電力と国家』⑧ファウスト的契約と新たな対立軸/花づな列島復興のためのメモ(23)

さて、松永安左エ門の執念によって、民営化電力がスタートしたのが昭和26(1951)年5月1日であった。
フクシマ原発事故は、ちょうど60年目にあたる年に起きたことになる。
60年の間にはもちろんさまざまな出来事があったが、原発のスタートに際しても電力会社と国との間に主導権争いがあった。
福島に原発を持って行ったのは、福島出身の木川田一隆だった。

木川田は当初、原発に反対だった。
その彼が豹変した心境を、佐高は次の言葉に読んでいる。

これからは、原子力こそが国家と電力会社との戦場になる。原子力という戦場での勝敗が電力会社の命運を決める。いや、電力会社の命運だけでなく、日本の命運を決めるのだ。

つまり、木川田は国家との戦争の再発を想定し、「負けられない」と考えたのだ。
原発を民間主導で行うべし、としたのが原子力委員長の正力松太郎、国家機関で行うべし、としたのが河野一郎経済企画庁長官(当時)だった。
この戦いは、日本原子力発電という会社の設立という形で決着するが、実質的には電力会社側の勝利だった。
もちろん、原発を推進する側においても、唯一の被爆国日本であることから、手放しで推進すべきだということではなかった。
たとえば、木川田のパートナー・日本原子力産業会議代表常任理事の橋本清之助は、20世紀初頭に人類が手にした3つの文明が、科学技術の成果であると同時に悪魔の申し子ではないか、と言っていたという。
橋本によれば、われわれ原子力関係者は社会と「ファウスト的契約」を結んだ。
ファウストはゲーテの小説の主人公であるが、以下のような契約を悪魔・メフィストテレスと結んだ。

メフィストフェレスが彼に近づき、奴隷として彼に仕え、「広い世界」のすべてのことを体験させようと言う。ファウストとメフィストは賭けをする。すなわち、ファウストが「瞬間」に向かって「とどまれ、おまえは美しい!」と言ったら、その時ファウストは死に、メフィストに魂をやらなければならない。こうしてファウストの人生遍歴が始まる。
http://www.shinkyo.com/concerts/i178-3.html
橋本は、社会に原子力という豊富なエネルギー源をもたらすことと引き換えに、抑制されないときには恐るべき災害を招くという潜在的副作用をもたらす道を選択したことをファウストになぞらえたのである。
そして不幸なことだけれど、その副作用が顕在化してしまったのだ。
私たちは、知っていたのだ。制御を失った原子力が恐るべき災害を招くことを。
忘れていたのではない。知らないふりをして毎日を過ごしてきたのである。

佐高は、国家との緊張関係を失った電力会社は、「企業の社会的責任」も失ったと指摘している。
確かに、地域独占、総括原価方式、発送電一体という現在の体制は、自由な競争による最適化という市場の論理とも相容れない。
原子力ムラという利権共同体では、チェック機能は働かない。

国家対電力という対立軸が失われた現在、それに替わる対立軸はあり得るのか?
佐高は、「中央」対「地方」にその可能性を見ている。
確かに最近は、知事や市長の方が期待感を抱かせるように感じられる。
しばらくは模索の時代が続くのだろうか?

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2012年1月29日 (日)

佐高信『電力と国家』⑦電力中研と産業計画会議/花づな列島復興のためのメモ(22)

ポツダム政令公布後、電力再編成を実施する機関として公益事業委員会が組織され、5名の委員が選ばれた。
委員長には松本烝治が就任し、松永も委員の1人となった。
松本は憲法草案を起草した国務大臣として知られるが、もともとは東大で商法学を講じる学者だった。

昭和26年5月1日に、電力の国家管理に終止符が打たれ、9電力体制が発足した。
公益事業委員会は、世論を敵に回して電力料金の大幅な値上げを実施した。
産業の発展、生活の高度化により電力需要は急増していくが、それを賄うためには巨額の資金を必要としたのである。
しかし、国会の反感は大きく、公益事業委員会は昭和27年8月に廃止された。

松永にとって、公益事業委員会の廃止は織り込み済みであった。
昭和26年11月に財団法人電力中央研究所を発足させていた。
電力中央研究所(電力中研)は、電力に関する技術、経済の研究を行って、電力会社の要望に応ずることであった。
Wikipediaで次のように解説されている。

戦後、高度成長期には、電源の火主水従化、火力発電用燃料の油主炭従化、火力発電における原油生焚き、原子力発電の商業化、佐久間周波数変換所の設置など、電気事業の根幹にかかわる重要事項について、独自の研究成果に基づきシンクタンクとして提言した。オイルショックから現在に至る間には、電源のベストミックスの概念、火力発電用燃料の海外炭の導入による石炭回帰、エコキュートの開発を基にしたオール電化による二酸化炭素排出削減などを提言している。

日本のシンクタンクとして草分け的な存在といって良い。
フクシマ原発事故が起きるまでは、安定な職場であったはずだ。
以下のような声も紹介しておく。
http://blogs.yahoo.co.jp/voicevoice0316/62751118.html

電力中央研究所なるお役所がある。東京都狛江市には小田急線喜多見駅近くに広大な敷地をようして、遊びの施設としか思えないものがある。
土日には敷地内のテニスコートはボールを打つ華やかな音が周りに響いている。都内にあるリゾート施設というう感じだ。
・・・・・・
私は猛烈な怒りを感じる。原発の被害を少しでも抑える研究と実際設備を指導したのか。予算339・1億円を使い役員21名、評議員30名、研究員740名、事務100名。339億円は電力研究所の自分たちの給与、遊び代ではないか。

私自身は、電力あるいはエネルギーのシンクタンクがあっていいと思うし、それなりの待遇をしなければ優秀な人材も集められないだろうと思う。
しかし、電力会社の利益ではなく、国の利益を優先して欲しいと思う。

松永は、産業計画会議という名前の私設シンクタンクも作った。
以下、Wikipedia

政・財・官・学の重鎮が委員であったため、その影響力は大きく、事実上の政府の諮問機関であった。電力中央研究所が松永のブレイン役と運営を担当した。松永の死後、後継者がいなかったことから、産業計画会議は解散となった。

産業計画会議が行った「提言」は、戦後史の上で興味深いものである。

◇産業計画会議第一次勧告(31.9.14
  「日本経済立直しのための勧告」
◇産業計画会議第二次勧告(32.1.16)
   「北海道の開発はどうあるべきか」
◇産業計画会議第三次勧告(三三・三・一九)
  「東京 - 神戸間高速自動車道路」について
◇産業計画会議第四次勧告(三三・七・三)
  「国鉄は坂本的に整備が必要である」
◇産業計画会議第五次勧告(三三・七・三)
  「水問題の危機はせまっている」
◇産業計画会議第六次勧告(三三・一〇・ニ二)
  「あやまれるエネルギー政策」
◇産業計画会議第七次勧告(三四・七・二九)
  「東京湾二億坪埋立てについて」
◇産業計画会議第八次勧告(三四・七・ニ九)
  「東京の水は利根川から - 沼田ダムの建設」
◇産業計画会議第十次勧告(三五・二・二五)
  「専売制度の廃止を勧告するー専売公社の民営、分割は議論の時代」
◇産業計画会議第十一次勧告(三五・一ニ・一五)
  「海運を全滅から救えー海運政策の提案」
◇産業計画会議第十二次勧告(三六・七・二〇)
  「東京湾に横断堤を」
◇産業計画会議第十三次勧告(三九・三・四)
  「産業計画会議の提案する新しい東京国際空港案」
◇産業計画会議第十四次勧告(四〇・二・一〇)
  「原子力政策に提言」

http://www.sesshuukai.com/HTML/OkinanoIgyou0.html

上記サイトでは、「第九次勧告」が欠落しているが、その理由は分からない。
しかし、賛否は別として、国の大局を見据えたシンクタンクといえよう。
「政局よりも大局」は野田首相の言であるが、残念ながら、民主党も自民党も、大局観に基づいて発想しているとは思えない。

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2012年1月28日 (土)

地震科学と生物の地震予知能力

今朝は続けてかなり大きな地震があった。
緊急地震警報が3回鳴った。
わが家の揺れは、下図を見ると、震度4くらいだったようだ。
地震速報によると、震源は富士五湖付近だという。
1201270743
http://tenki.jp/earthquake/detail-9740.html

このところ、地震の話題が多い。
1つは、地震科学の新しい知見だ。
⇒2012年1月21日 (土):東北太平洋沖地震とゆっくり滑り現象

さらに一昨日は、巨大地震の震源に関しての新しい知見が発表された。

M9_2北海道から茨城県沖には、注目されていなかった下北半島の沖も含め、マグニチュード(M)9級の地震を起こす震源域が三つあるとする説を北海道大の平川一臣特任教授が26日発行の雑誌「科学」で発表する。それぞれ千年程度の間隔で地震を起こしてきた可能性があるという。
日本でのM9級地震は、中央防災会議が静岡沖~九州沖、地震調査研究推進本部が東日本大震災が起きた海域周辺で想定している。
平川さんは東日本大震災後、過去の津波で運ばれた砂などの津波堆積(たいせき)物を再点検した。大震災で想定より遠くまで津波の痕跡が残ることがわかり、北海道から宮城県までのデータを整理し、超巨大津波を起こす地震の震源域を見積もった。

http://www.asahi.com/science/update/0126/TKY201201250797.html

また今朝は、紀伊半島沖に巨大な活断層が確認されたということが報じられている。

Photo_2東京大などは27日、東南海地震や南海地震などの巨大地震を起こしたとみられる長さ約200キロの大規模な海底活断層が、紀伊半島沖合の南海トラフに存在していることを確認したと発表した。一度に動けばマグニチュード(M)8級の地震を起こすとみられる。
断層の活動によりつくられた高さ数百メートルの崖も確認。調査した朴進午東京大准教授(海洋地質・地球物理学)は「断層のずれが大津波を発生させてきた可能性が高い。200キロ以上の海底活断層を考慮して、防災対策を再構築する必要がある」としている。
・・・・・・
断層の過去の活動回数や時期は不明だが、地形の特徴から東側と西側が一度に動くことが多かったらしく、1707年の宝永地震(M8・6)を起こした可能性もあるとみている。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201201280063.html

少しずつではあるが、巨大地震のメカニズムが明らかにされている。
予測の精度が高くなれば、それだけ被害を軽減させられる可能性が増すはずであり、地道な研究の進展を期待しよう。

もう1つは、科学的かどうか不明だが、生物界の異常を示す情報である。
最近、こんな情報を目にした。

本日、サメが大漁です。
異常なくらい大漁です。
43匹釣れました!

しかしっ!!!
過去三回、こんな時の数日後は………
...

09年8月11日  駿河湾沖地震  震度6弱  的中
11年3月11日  東北大震災  震度7  的中
11年7月?日  駿河湾沖地震  震度5的中

必ず大きな地震の前にはサメが大漁………

まぁ個人的経験ですけどね!

信じるか信じないかは貴方しだいです!!!
Photo
昔から「地震とナマズ」という。
たぶん、まだ人間にとっては未知で、特定の生物が感知できる変化があるのだろう。
ちなみに、サメが大漁の日は、1月18日だったようだ。
今朝の地震がサメの大漁と関係があるのかどうかは、もちろん分からない。
しかし、警戒するのに越したことはないし、生物界の異常情報をしかるべき機関で蓄積していくべきだと思う。

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2012年1月27日 (金)

佐高信『電力と国家』⑥敗戦と電力再編/花づな列島復興のためのメモ(21)

日本一の資本金を持つ国策会社として、日本発送電は昭和14年4月にスタートした。
⇒2012年1月12日 (木):佐高信『電力と国家』⑤「浮かれ革新」と電力統制/花づな列島復興のためのメモ(20)
昭和14年は雨が少なかったので、水力発電の能力が不足し、送電休止、停電が相次ぎ、阪神工業地帯の工場は休業を余儀なくされた。
所詮計画が甘かったのである。
昭和16年8月、配電統制令が公布され、配電事業の全国9社への統合、配電会社の国家管理が強行された。
これに反対する者は「非国民」と指弾された。

このような情勢の中で、「耳庵」の号を持つ茶人でもある松永安左エ門は、隠棲して暮らした。
敗戦後、強大な力を持っていたGHQが設置した「電気事業再編成審議会」の会長として、電力の鬼・松永は復活した。
松永の個人事務所は銀座にあり、ここが鬼の棲み家になったと、佐高は言っている。

GHQは戦後改革として、日本の軍国主義が復活しないために、産業の集中支配を廃し、分散化を図った。
電力事業も再編成されることになった。
電力に詳しい専門家チームが本国から招かれた。
「電気事業再編成審議会」は、この米国チーム案に対抗して日本の実情に沿った案を作るために設置されたものだった。

松永が隠棲していた間温めていた案は、日発を解体して、全国を9分割した民間の発送電併業体制を作ることだった。
GHQは、産業の独占の解体を旨としており、発送電分離併業の松永案は受け入れられなかった。
審議会は紛糾した。
松永は、政府の介入も気に入らなかった。
松永の態度は他の委員にも独善的なように見え、反発を買った。
松永の目指したのは改革ではなく、革命だった。革命は反対側から見れば反革命である。

財界も、日鉄(現新日鉄)の三鬼社長を中心に松永案に反対で、日発をダウンサイズして国営会社を残そうとした。
マスコミも日本経済新聞以外はほとんど反対意見だった。
政党もこぞって反対だった。

この論争の中で決定的に抜け落ちていたものが、国家としての戦争責任論である、と佐高は書いている。
電力国管が戦争と結びついたものであったことを考えれば、たとえば社会党が、戦争放棄を憲法で謳ったのだから、電力事業を国営化しても軍事利用の心配はない、と言っていた。
時代的制約を配慮するとしても、現時点で見れば脳天気なものだったといえよう。
四面楚歌ともいえる状況の中で、明快に民営化に賛成の立場を取ったのが、品川煉瓦社長の青木均一と京阪神急行社長の太田垣士郎だった。
2人は国会公聴会で、民営化賛成論を述べ、これを聞いていた松永の印象に残った。
後に、青木は東京電力の、太田垣は関西電力の社長になる。

松永を補佐した人間の1人が木川田一隆だった。
木川田は東京電燈に入社したての頃に、松永の率いる東邦電力傘下の東京電力と激しく争ったことがある。
⇒2012年1月 5日 (木):佐高信『電力と国家』②松永安左エ門/花づな列島復興のためのメモ(17)

GHQも最終的には松永案に同意し、昭和25年10月22日、ポツダム政令により松永の電力債編成が政府に指示された。
ポツダム政令は、占領軍司令官の大権であり、国会の審議が要らない。
国家総動員法で生まれた日発が、ポツダム政令で終焉した。
松永のリベンジである。

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2012年1月26日 (木)

介護報酬改定の狙いと効果

社会保障審議会は、25日小宮山洋子厚労相に12年度の介護報酬改定案を答申した。

ホームヘルパーらが24時間いつでも高齢者の自宅に駆けつける「定期巡回・随時対応サービス」の新設など「施設から在宅へ」の方針を強化している。ただ、4月から65歳以上の平均保険料は月5000円を超えかねず、現在7・9兆円の介護費は25年度に16・2兆円へ膨らむ見通し。厚労省は「効率化」を優先しており、負担に見合うサービスとなるかは不透明だ。

Photo
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120126ddm002010082000c.html

私はリハビリ専門病院に入院したとき、日本の近未来はこのような姿であるのだろうな、と思った。
高齢になるに従い、さまざまな障害がでてくる。
一過性のものもあるが、ほとんどは非可逆的である。
つまり、単純に言えば、社会の平均年齢が高くなればなるほど障害のある人間が増えることになる。
日本人の平均寿命が世界のトップクラスであることはよく聞くことであろうが、平均年齢はどうか?
下図のようなデータがある。

Photo_2
日本人平均年齢1980年は、32.6歳だったのが、1990年には37.4歳、2000年には40代を超え、2010年に44.7歳になり、2020年には48.2歳、2030年には51.4歳と50代を超えてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20110816/1313516088

特に注目すべきは団塊の世代であろう。
1947~1949年生まれのいわゆる第1次ベビーブーマーは、現在62~64歳である。
20年後を考えてみれば、平均年齢は50歳を超え、介護を必要とする人間が相当数になっているであろうことは容易に察せられる。

介護報酬の問題点は何か?
上記のような介護需要の増大が想定されるなかで、特に重要なことは、介護需要の抑制とケア・ワーカーの増大であろう。
今回の介護報酬は、上記記事にあるように、「施設から在宅へ」の方針を強化しているのであろう。
介護が必要になっても、住み慣れた自宅で介護サービスが受けられるのは結構なことだと思うが、それに見合う人材は確保できるのか?
重労働低賃金で離職率が高いといわれるケア・ワーカーを、量的にも質的にも増やしていかなければならない。
ケア・ワーカーの労働条件と施設の経営とは、一般的にはトレードオフである。

また、介護を必要としない人を増やすことを図らなければ、マクロな介護費用は増大する一方である。
介護予防施策に力を入れるとともに、介護が必要な状態から不要な状態へのシフト、すなわちリハビリテーションの充実が望まれる。

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2012年1月25日 (水)

野田施政方針演説とブーメラン効果

野田首相が、衆参両院本会議で就任後初の施政方針演説を行った。
全文を読んだわけではないが、自公政権時代の首相演説を引用していたことが注目されている。

「与野党が信頼関係の上に立ってよく話し合い、結論を出し、国政を動かしていくことこそ国民に対する政治の責任だ」
演説の序盤、首相は力強く宣言したが、続けて「これは4年前、当時の福田(康夫)首相がこの演壇から与野党に訴えかけられた施政方針演説の一節です」と種明かしした。
首相が「政治生命をかける」とまで言い切る社会保障と税の一体改革。その話し合いに野党も応じてほしいという誘い水に、野党・自民党の元首相の言葉を用いた。
しかし、当の福田氏は「あのころを思い出すと、(民主党は)むちゃくちゃひどかったね。話し合うどころじゃなくて、すべて拒否された。反対、反対でね」と4年前を振り返った。首相の演説は、まさに「我田引水」だ。
首相は麻生太郎元首相の「持続可能な社会保障制度を実現するには、給付に見合った負担が必要だ」という言葉も引いたが、麻生氏の反応もつれなかった。
「いいとこ取りされて残念だ。拳闘用語でクリンチというんだが、抱きつかれているような感じだな」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120125/plc12012500270000-n1.htm

民主党が政権交代を果たしてから、鳩山、菅、野田と3人目の首相である。
前の2人が特にひどかったので、「3匹目のドジョウ」にも正直余り期待していなかった。
もちろん、評価は人によりそれぞれであろうが、たとえば以下のような結果がある。

日本経済新聞 電子版(Web刊)が有料・無料登録読者に戦後の歴代首相への評価を聞いたところ、吉田茂氏、池田勇人氏、中曽根康弘氏ら、長期政権を築いて実績を積み上げた首相が上位を占めました。一方、在任期間が短く目立った実績を上げられなかった首相への評価は低くなる傾向がみられました。
現首相の菅直人氏は下から5番目、前首相の鳩山由紀夫氏は同3番目で、いずれも政権交代直前の自民党政権の首相を下回りました。

http://echinacea.tea-nifty.com/verde/2011/01/com-bfc7.html

昨年の1月時点でのアンケート結果である。
東日本大震災への対応、とりわけフクシマ原発事故への対応を、全貌ではないものの知ってしまった現在では、菅氏の評価は下がりこそすれ上がるとは思えない。
このような事情を野田首相も認識していたのであろう。政権のスタートはまことに細心のものだった。
あちらに気を遣い、こちらに気を遣い、といった様子が見て取れた。

しかし、気を遣っているばかりでは難局は突破できない。
日本は、100年に1度といわれたリーマンショックから立ち直ろうと呼吸と体勢を整えようとしていたところに、東日本大震災が起きた。
史上稀にみるほどの難局といえよう。

そこで意を決したのであろう。
副総理に岡田氏を据え、消費税増税を含む社会保障と税の一体改革に政治生命をかけると公言した。
社会保障と税の一体改革は確かに、政権を担うのがどの党であっても避けて通れない課題である。
そのため野党が政権を担っていた時の首相演説を引用して、協力を呼びかけたのであろう。
ある意味、演説上手といわれる野田首相の面目と言えるかも知れない。

しかし、与党と野党の違いは、社会保障と税の一体改革では存在しなかったのか?
政権交代は、社会保障と税の一体改革以外の分野が争点だったのか?

私は、社会保障と税の一体改革のやり方についても、違いがあったと認識している。
政権交代を果たした2009年衆院選のマニフェストでは、以下のように言っている。
2009_2
http://www.dpj.or.jp/policies/manifesto2009

自分のところに帰ってくる現象をブーメラン効果という。
菅前首相は、ブーメランの名手であった。
⇒2011年5月30日 (月):王様は裸だ、いやガレキだとの声も/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(39)
野田首相も、ブーメランの使い手なのだろうか。

平成21年の衆院選の応援演説で、首相はこう語っている。
「マニフェストは書いてあることは命がけで実行し、書いていないことはやらないのがルール。書いてあったことは何にもやらず、書いてないことは平気でやるのではマニフェストを語る資格がない」
民主党マニフェストには「消費税増税」とは書かれていない。首相が3年前に放ったブーメランが、今国会中に首相に命中するかもしれない

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120125/plc12012500270000-n3.htm

マニフェストの誤りを認めるのか否か。
それは政権交代の正当性に係わる問題である。

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2012年1月24日 (火)

議事録の不作成は故意か過失か?/原発事故の真相(17)

民主党政権がこれほどいい加減であるとは予想し得なかった。
今までも、その姿勢をずいぶん批判してきた。
特に、真摯さの欠如については、大きな問題があると思っていた。
⇒2011年1月21日 (金):政府・民主党における真摯さの欠如
⇒2011年1月27日 (木):言葉の軽さが裏付ける首相の真摯さの欠如

しかし、フクシマ原発事故対応という重大な課題に対して、総理大臣が本部長に就き、全閣僚がメンバーとなって事故当日に設置された「原子力災害対策本部」が、議事録を残していないというのだ。
除染の基本方針や避難区域、農作物の出荷制限など、原発事故をめぐる重要な決定をしてきたとされるが、その決定の経緯が記録されていないらしい。

NHKによると、会議の議題を書いた「議事次第」を作っただけ。会議でどんなやりとりがあったかが分かる「議事録」は作っていなかったという。事務局を務めていた原子力安全・保安院の担当者は、NHKの取材に「業務が忙しく議事録を作成できなかった」と釈明している。
しかし、公文書管理法は、政府の意思決定の過程を検証できるようにするために、重要な会議の記録を残すように定めている。議事録ゼロはあり得ないし、あってはならない。自分たちの失策が記録されると困るので残さなかったか、本当はあるのに誰がなにを話したかバレるとマズイので、なかったことにしたのではないか。どう考えても不自然だ。

http://gendai.net/articles/view/syakai/134750

気になることがある。

東京電力福島第1原発事故で作業員全員が退避せざるを得なくなった場合、放射性物質の断続的な大量放出が約1年続くとする「最悪シナリオ」を記した文書が昨年3月下旬、当時の菅直人首相ら一握りの政権幹部に首相執務室で示された後、「なかったこと」として封印され、昨年末まで公文書として扱われていなかったことが21日分かった。複数の政府関係者が明らかにした。
http://www.47news.jp/47topics/e/224789.php

これは明らかに、故意である。
あるいは、その時点で「最悪シナリオ」を示すと、国民がパニックを起こすと考えたのかもしれない。
しかし、そうだとしたら度し難いエリ-ト主義であろう。
国民はお上の情報を信じ、お上の指示通り動けばいい、ということか?

「公文書等の管理に関する法律」というものがある。

(目的)
第一条  この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。

よもや弁護士資格を有する枝野官房長官(当時)が、その内容をご存じないことはあるまい。
「国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務」などということは、民主党政権には頭の中に露ほどもないらしい。
公文書の管理に詳しい名古屋大特任教授の春名幹男氏は次のように言う。

議事録を作成しないという重大事を、官僚の一存で決められるとは思えません。
・・・・・・
菅総理か枝野官房長官の指示があったと考えるのが自然。恐らく、情報もなく、微妙な問題なので『フリートークでいきましょう』となったのでしょう。

http://gendai.net/articles/view/syakai/134750

菅前首相は、「辞めたからいいだろう」ということではない。
可能な限り正確に当時の意思決定過程を再現すべきである。
今のままでは、事故調査・検証委員会等も、よって立つ作業の基盤が崩れているのではないか。

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2012年1月23日 (月)

監査役と監査法人/「同じ」と「違う」(40)

オリンパスの巨額損失隠しの不祥事は、東京証券取引所が、株式の上場維持を決め、監理銘柄の指定を解除したことにより、一段落したかに見える。
東証がオリンパスに科したお咎めは、株式市場に対する投資家らの信頼を失わせた罰として、上場違約金一千万円の支払いということである。
ただ、 内部管理体制に不備があることを投資家に周知する「特設注意市場銘柄」に指定して改善を促すとしており、いわば執行猶予ともいえるが、これは罰というよりも指導ということだろう。

東証グループの自主規制法人の説明によれば、上場維持を決めた理由について、「不正は組織的に行われたが、上場廃止にするほど、うその中身は重大ではなかった」ということである。
私などは、これが上場廃止にあたらないとしたら、どういうケースが上場廃止になるのかと思う。
もっとも、説明の中で、東京地検特捜部などの捜査過程で上場維持と判断した前提を覆す事実が判明した場合は、審査をやり直すとしている。東証自身が調査能力の限界を言明しているともとれる。

オリンパスの「監査役等責任調査委員会」は、現旧監査役10人のうち5人について、不正を見逃した法的責任があるとする調査報告書を公表した。
これを踏まえてオリンパスは同日中にも、5人に計数億円程度の損害賠償を求めて東京地裁に提訴する方針を固めた。
一方、対象期間中に会計監査に携わったあずさ監査法人と新日本監査法人についてはその責任を認めず、取締役会に参加していなかった現旧執行役員24人についても責任はないとした。
監査役と監査法人の責任の差違は何か?

「監査役の職務と役割」というサイトでは以下のように説明している。

監査役の職務は、取締役の職務の執行(当然、取締役の指示で行う従業員の職務執行を含みます)を監査することですが、監査には、業務監査と会計監査とがあります。
・・・・・・
業務監査とは、取締役の職務の執行が法令・定款を遵守して行われているかどうかを監査することで、一般に適法性監査と呼ばれています。ただし、法令には善管注意義務も含まれますので、取締役の経営判断にかかわる事項についても、不当な点がないかどうかを監査(妥当性監査)することにもなります。
会計監査とは、計算書類及びその付属明細書を監査することですが、大会社(資本金 が5億円以上か、または負債が200億円以上の会社)では公認会計士または監査法人を会計監査人として選任しなければなりません。大会社では、会計監査は第1次的には会計監査人が実施し、その監査報告が取締役会と監査役に提出されます。監査役は、会計監査人の監査の方法・結果の相当性を判断します。もし相当でないと認めた場合は、自ら監査した上で、その結果について監査報告に記載します。
http://homepage2.nifty.com/houmu/page088.html

つまり、監査には業務監査と会計監査がある。
業務監査については監査役が担当し、会計監査については監査役と監査法人が共に関わる。
監査法人は、第1次的な会計監査を行い、監査役はその方法・結果の相当性を判断する、という棲み分けである。

以上のように理解した場合、当該案件はどう位置づけられるか?
山田秀雄前常勤監査役は事案の主導者だったようであるから除外するとして、責任があるとされた5人の監査役は、損失隠しに使われた過去の不正な買収案件を見過ごしたことなどが問われたのである。

「損失隠しに使われた過去の不正な買収案件を見過ごしたこと」は、業務監査のミスか会計監査のミスか?
もちろん、違法性を疑われているわけであるから、業務監査のミスという面も否定できない。
しかし、有価証券への不正な記載が問われているのであるから、会計監査のミスに焦点が絞られているのではなかろうか。
とすれば、第1次的に監査を行った監査法人が責任に責任がなくて、監査役には責任があるということ首肯し難いのではないか。

特に、監査法人が「あずさ」から「新日本」に交代している。
常識的には、不正会計処理と監査法人の交代が無関係であるとは思えない。
焦点は、不正事実の認識である。

一般に、認識がどうであったかを証明することは難しい。
しかし監査法人はプロの会計士集団である。
不正を認識し得なかったとすれば、会計士としての力量が疑われるし、認識していたとすれば、「監査役等責任調査委員会」の下した「責任なし」の結論は間違いということになる。
両監査法人は、専門職の矜恃にかけて、検察の捜査などによらず自ら説明責任を果たすべきであろう。

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2012年1月22日 (日)

野田内閣のSWOT

野田首相は内閣改造によって、政治課題推進体制を固めたといえるのだろうか?
朝日新聞の行った世論調査では、内閣支持率は29%(前回12月31%)、不支持率は47%(同43%)で、改造による政権浮揚効果は見られなかった。
Photo_2
http://www.asahi.com/special/08003/TKY201201140490.html

野田首相は、消費税増税に不退転の決意で取り組むといっているが、政権公約とのギャップについて、説得性のある説明は聞けていないような気がする。
これは私だけの印象ではなく、国民の多くがそう思っているのではなかろうか。
国民の賛否でも消費税率アップに反対とする意見が、大きく賛成意見を上回っている。
もちろん、世論に迎合して政策を判断することは如何なものかと思う。しかし現時点では、政権公約自体が世論迎合的だったのではないか、という思いが強い。総括はきっちりすべきだろう。

企業で事業の戦略を検討する場合、SWOTという概念が使われることが多い。
さまざまな要素をS(強み)・W(弱み)・O(機会)・T(脅威)の4つに分類し、マトリクス表にまとめることにより、どういう戦略が望ましいかを検討する。
Swot
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Keyword/20070317/265494/

SWOTの視点で野田内閣を見るとどんなことが言えるか?
もっとも強み(S)といい弱み(W)といってもメダルの裏表的であって、同じものが強みにも弱みにも思えるのが普通の人間だろう。
たとえば、生真面目な堅物は融通が効かないだろう。清濁併せのむのも、程度の問題であり、時と場合によって、可の場合も不可の場合もあると思う。

特に政治の場合は、人によって様々な見方があるだろうが、とりあえず頭に浮かぶのは次のようなことであろうか。
S:党内融和、気配り、ドジョウ的腰の低さ
W:突破力がひ弱、政策の官僚(財務省)依存
O:衆院での与党の圧倒的多数
T:参院での与野党逆転、党の結束

たとえば、民主党の内部の不統一ぶりを、消費税と八ッ場ダムという2つの政策軸で示すと以下のようになる。
Photo_3
朝日新聞111225

野田首相は孤立しているように見える。事実、自分のグループの「数の力」はもともと小さい。
このため(かどうかは分からないが)、首相の女房役といわれ、内閣の要ともされる官房長官の存在感が著しく希薄のように感じられる。

野田内閣はじりじりと支持率を下げており、この先反転攻勢に出ることができるだろうか?
田中秀征氏は週刊ダイヤモンド・オンライン120112号で以下のような条件を挙げている。
野田政権が反転攻勢するための「4つの方策」
①消費税増税法案提出前に解散・総選挙で民意を問え
②数値と期限を明確にした具体的な行政改革案を示せ
③選挙制度の抜本改革案を掲げて各党が民意を問え
④TPP参加は例外品目・分野を掲げて総選挙で信を問うべき

詳細は割愛するが、いずれも具体案を示して民意を問え、ということだろう。
田中氏は次のように結んでいる。

首相は年頭に「私は、大義のあることをあきらめないで、しっかりと伝えていくならば、局面は変わると確信している」と述べた。残念ながら今の首相の主張ややり方には大義がない。このままでは、局面が変わらないどころか早晩、壁に突き当たることが確実だ。

内閣改造を機に首相は慎重姿勢から攻撃的なスタンスに舵を切るようである。
必要なのは攻撃よりも、説明を尽くすという姿勢ではなかろうか。

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2012年1月21日 (土)

東北太平洋沖地震とゆっくり滑り現象

東日本大震災は、想像を絶する規模の災害となった。
特に多くの日本人は、津波のすさまじさを初めて映像的に見たのではなかろうか。
もちろん、地震の規模がマグニチュード9.0というブラックスワン的現象であったことが大規模被災の直接的な原因ではあるが、地震あるいは津波の規模の予測の精度が高ければ、被害は軽減されていたであろう。

かつて武谷三男は、科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとした。
⇒2012年1月 6日 (金):菊竹清訓と設計の論理
科学的な予測は本質論の段階に至って初めて可能になるとされたが、地震や津波の研究はまだ本質論的認識の段階ではないということだろう。

現象論か実体論かはともかく、地震発生のメカニズムについては、少しずつ解明が進んでいるようである。
東京大地震研究所の加藤愛太郎助教らが、新しい知見をまとめた米科学誌サイエンス電子版に掲載した。
マグニチュード9.0の地震発生前に、震源付近のプレート(岩板)境界で「ゆっくり滑り(スロースリップ)」といわれる現象が連続して起き、ひずみが震源に集中して本震が誘発された可能性がある、というものである。

Photo_3大地震の前に小さめの「前震」が起こることがあるが、本震発生までの推移には不明な部分も多い。加藤さんは「地震予測の精度向上には直ちにはつながらないが、M8~9級の地震で直前のスロースリップを観測で確かめたのは初めてではないか」としている。
加藤さんらは、東北地方太平洋沖地震の約1カ月前からの前震を分析。本震の震源北側の同じ領域で2月中~下旬と、M7.3の最大前震が起きた3月9日から11日までの2度にわたり、本震の震源に近づくように震源が移動しながら前震が続いていたことが確かめられた。震源の移動速度は2月が1日2~5キロで、3月は1日10キロと速くなっていた。
地震の特徴などから、前震はスロースリップに伴って起きていたことが判明。スロースリップは周辺でひずみがたまり、地震が起こりやすくなることが知られている。
加藤さんは、一連のスロースリップでM7.1の地震に相当するエネルギーが解放されたと推定。これにより震源にひずみが集中し地震を起こした可能性が高いと結論付けた。

http://www.kahoku.co.jp/news/2012/01/20120120t75001.htm

「ゆっくり滑り現象」は、近年におけるわが国の地球科学における世界的発見であるといわれる。

K48tower31_2 プレート境界の浅い部分で発生するのが「海溝型大地震」であり、その境界の延長上の深い所で発生するのが「ゆっくりすべり」である。
「ゆっくりすべり」の観測データが得られるようになった期間はまだ短く、今後データが蓄積されていくにしたがって「海溝型大地震」と「ゆっくりすべり」現象との関係が明らかになってくるであろう。
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kisho/kisho48.html

巨大地震の発生自体を防止することはできないだろうが、発生を予測できるようになり、対策に役立てることができる日が来ることを願う。

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2012年1月20日 (金)

ブラックスワンはどこに棲んでいるのか?/原発事故の真相(16)

1月16日の日経新聞に気になる記事が掲載されていた。
『原発に潜む「ブラックスワン」』というタイトルで、編集委員滝順一という署名がある。
以下のような内容から始まる。

米原子力規制委員会(NRC)が2001年の同時テロ後に発した原子力発電所の安全対策に関する文書がある。
テロ攻撃で原発が全電源喪失に陥ったり使用済み燃料プールが狙われたりする事態を想定したものである。
対策を記した文書中の「章・節」の記号から、「B5b」と関係者は略号で呼ぶ。
そのB5bを、日本原子力技術協会は知らなかった。
日本原子力技術協会は、原発のトラブル情報を共有し技術規格を作成するため電力会社やメーカーが組織した団体である。
NRCは02年に日本の原子力安全・保安院に助言を与え、B5bの内容も伝えていた。これを受け保安院は05年の法改正で核物質に関する情報漏洩の罰則を強化したが、非常用設備が攻撃され機能を失う事態をも想定した対策を電力会社に指示することはなかった。

私たちが身近に接する事象の多くは、正規分布をしている。
Photo
Wikipedia
平均値が出現頻度が最も高く、平均値から遠ざかるに従い低くなる。
たとえば、標準偏差をσとすると、平均±3σの間に99.7%が存在するので、品質管理においては、3σの外にあるものは無視する、といった扱いをする。
偏差値の概念が有効な、学力の分布や運動能力の分布などは正規分布である。

正規分布とまったく異なるが、重要な分布としてべき分布が知られている。

Photo_6これまで正規分布は統計の基礎となり、特に、経済学が数学モデルを作る時に使う確率分布には自然科学の分野で考案されたこの正規分布が多かったが、近年の経済物理学の研究から、経済現象の多くは正規分布ではなくベキ分布に従っていることが判明している。例えば、所得や純資産などの富の分布や株価などの価格の変化といった経済現象は正規分布ではなく、ベキ分布に従うことが分かっている。
ベキ分布は確率分布の一つに過ぎないが、正規分布では起こりえない事象が実際にはある程度の確率で起こってしまう(不確実性の)問題を考える上で、有効なツールと考えられている。

http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h20/01_honpen/html/08sh21310c.html

べき分布では、極めてまれだが、巨大な変動をもたらす出来事が必ず起きる。
上手の右端、いわゆる「ロングテール」の部分である。
黒い白鳥の出現確率がきわめて稀であることから、比喩的にブラックスワンと呼ばれ、過去に例がないような事象が社会に大きな衝撃を与えることを「ブラックスワン」現象と呼んでいる。
つまり、べき分布事象にはブラックスワンが棲んでいるといえる。
東日本大震災やフクシマ原発事故によって、ブラックスワンが現実の問題として注目されている。

ブラックスワン対策はどうあるべきか?
東日本大震災は1000年に1度かどうかは別として、まさにブラックスワン的であろう。
しかし、フクシマ原発事故はブラックスワンであろうか?

池田信夫氏は、発災間もない頃の

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2012年1月19日 (木)

紫香楽宮の配置/やまとの謎(54)

紫香楽宮の施設配置が、左右対称だった可能性が高いことが分かった。

Photo_3滋賀県甲賀市教委は18日、同市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)で、大規模な掘立柱建物跡が見つかった、と発表した。天皇が住み、祭祀(さいし)を行った「内裏正殿」の可能性が高く、東西に2棟の正殿を持つ内裏構造だったことが判明。同様の内裏は恭仁宮跡(木津川市)しか例がなく、市教委は「内裏構造が分かったのは初めて。紫香楽宮の特性を考える上で貴重な発見」としている。
紫香楽宮跡では10年前の調査で、政治の中心区画「朝堂」北西部から大型建物跡が出土。主要建物にもかかわらず遺跡の中軸線から西に外れていたため、東からも建物が見つかる可能性が考えられていた。
今回は朝堂の北東部から、東西24・9メートル、南北14・8メートルの掘立柱建物跡が出土した。西側の建物跡と規模や構造が近いため、市教委は、一対として建築されたと判断。一般的に朝堂北側に内裏を置くことなどから、「東西に二つの建物が並立する内裏構造が解明できた」としている。
出土した建物跡について、史跡紫香楽宮跡整備活用検討委の黒崎直副委員長(富山大名誉教授)は「規模や構造から内裏正殿の可能性が高い。紫香楽宮調査の中で、朝堂跡出土などに続く重要な成果」と説明した。
東西対称の構造を持つ内裏は、過去に恭仁宮で確認され、今回が2例目。二つの宮はともに聖武天皇によって築かれ、恭仁宮は740~744年に、紫香楽宮は745年の一時期、都が置かれた。当時は藤原氏と反藤原氏の権力争いが行われ、黒崎副委員長は「恭仁宮では、こうした対立の影響で内裏を二つに分けたとの説もある。紫香楽宮でも同様の構造を持つことが分かり、より研究が進むのでは」としている。
http://kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120118000128

紫香楽宮は、現在は信楽という表記が使われている。
Photo_4
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120119-OYO1T00205.htm?from=main3

聖武天皇が盧舎那仏を建立することを発願したちで、742年に離宮として造営が始まり、745年までの短期間の宮都だった。
⇒2008年5月26日 (月):紫香楽宮跡から出土した木簡に万葉歌
聖武天皇は、彷徨5年といわれるように、短期間で宮都を転々とした。
5
⇒2008年6月27日 (金):恭仁京
聖武天皇の彷徨の行程は、曾祖父天武天皇の壬申の乱の跡を追うかのようであり、聖武天皇には、人々に天武と自分との関係をアピールすることであった、と推測されている(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇 』角川選書(9903))が、もちろん真意は分からない。
栄原永遠男

大阪市立大名誉・特任教授(日本古代史)は、「2棟の正殿はこの時期特有の構造。母代わりの元正太上天皇が聖武天皇と行動を共にし、都を造っていた当時の政治的状況を示す発見だ」という。
つまり、聖武天皇と元正太上天皇が並んで住んでいたわけである。

復元イメージは以下の通りである。
Photo_7  Photo_6
http://www.asahi.com/culture/update/0118/OSK201201180091.html

(

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2012年1月18日 (水)

伊勢斎宮跡から最古の「いろは歌」の土器片/やまとの謎(53)

三重県明和町の斎宮跡から、最古とされる「いろは歌」が書かれた土器片が出土した。

120118_2三重県明和町の斎宮歴史博物館は十七日、同町の国史跡斎宮跡(さいくうあと)から、手習い歌の「いろは歌」が平仮名で墨書された土器の破片が出土したと発表した。土器の年代から平安時代後期(十一世紀末~十二世紀前半)のものと推定され、平仮名のいろは歌の史料としては日本最古。女官が文字を覚えるために書いたと考えられる。
見つかったのは土器の破片四個で、つなぎ合わせると縦六・七センチ、横四・三センチ、厚さ一センチ。素焼きの皿の一部となる。内面に「ぬるをわか」、外面に「つねなら」と、いろは歌の語の順に、平仮名が書かれている。
斎宮は、飛鳥時代から南北朝時代にかけての朝廷の機関。天皇の代わりに伊勢神宮に仕えるため、都から派遣された皇女「斎王(さいおう)」が過ごした。土器は、平安時代に斎王の宮殿があったとされる場所で見つかった。
素焼きの皿は当時、儀式用に大量に作られ、使用後に捨てられた皿が文字の練習にも使われた。斎王に従って都から来た女官は教養を持っており、皿のいろは歌は、地元で採用された下級の女官が文字を覚えるために書いた可能性が高い。
斎宮跡では、平仮名が書かれた土器は九世紀後半以降のもので約七十点見つかっているが、いろは歌と判別できたのは今回初めて。いろは歌は十世紀末~十一世紀中ごろに成立したとされ、万葉仮名で書かれた史料にはさらに古いものがある。
斎宮歴史博物館の新名強(しんみょうつよし)調査研究課主査は「いろは歌や平仮名の普及の過程を考える上で、全国的に貴重な史料」と評価している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012011802000032.html

「いろは歌」は日本人なら誰でも知っているだろう。
「いろは」というのは、モノゴトのはじめであり、手順である。
英語で言えば、「ABC」に相当する。
「いの一番」といえば、最初である。「犬も歩けば棒に当たる」でお馴染みの「いろは歌留多」は、広く大衆に親しまれた。
「め組の喧嘩」で知られる「め組」は、江戸の町を護る火消しで「いろは組町火消」と呼ばれた中の「め組」である。
「いろは歌」は、全ての仮名を使い、重複がない。手習い歌であり、七五調四句の今様形式になっている。
Ws000000Ws000001
Wikipedia

漢字表記から汲み取れるように、仏教的な無常観を感じる。
作者は、弘法大師・空海とする説が広く流布していたが、空海の可能性はほとんどないと考えられている。
空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもあるが、何より最大の理由は、空海の時代には存在したと考えられている上代特殊仮名遣とは、「こ」の甲乙の区別はもとより、「あ行のえ(e)」と「や行のえ(je)」の区別もなされていないことが異なっているからである。
⇒2008年2月 9日 (土):上代特殊仮名遣い
⇒2011年11月24日 (木):『古事記』偽書説/やまとの謎(48)

現存する最古の「いろは歌」は、1079年成立の『金光明最勝王経音義』とされている。
しかしそれはいわゆる万葉仮名であり、ひら仮名ではない。
Photo_5
村上通典『「いろは歌」の暗号』文藝春秋(9401)

「いろは歌」の解釈には、いわゆる暗号説もある。
代表例は、7字ごとの配列にしたときの末尾が「とかなくてしす=咎無くて死す」というものである。
Photo_6
同上

確かにそうも解釈できるが、牽強付会のような気もする。
いずれにせよ、成立過程の吟味が決め手であろうから、今回の発見によって今後どのように展開していくか楽しみである。

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2012年1月17日 (火)

渡邊白泉/私撰アンソロジー(14)

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沼津の駅北にある小さな本屋を覗いたら、『白泉句集』という書籍というよりは小冊子という感じの本が目に入った。
白泉句集編集委員会が編集し、渡邊白泉句碑建立実行委員会(代表四方一ヤ<サンズイに弥>)が発行したものである。
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渡邊白泉は、戦前新興俳句の旗手として大いに属目されたが、昭和15(1940)年、治安維持法違反の嫌疑で京都警察部の逮捕される。
⇒2007年11月16日 (金):渡辺白泉
白泉は長く沼津市立高校の教師を勤めていた。その関係で、句碑が同校内に建立されたときに編集されたのが上掲書である。

私が沼津の高校に通学していた時、まったくその存在を耳にしなかったばかりでなく、沼津で白泉のことを聞いた記憶はない。
しかし「小なべ」の愛称で生徒たちから慕われていたという。
今度同校を卒業した同級生に会ったら聞いてみたい。

白泉は、昭和44(1969)年、学校からの帰路、脳溢血で倒れそのまま逝去した。享年56歳であった。
俳人として、教師として、まだまだ活動できただろうと思うと早すぎる死だった。
こよなく酒を愛したというその生活の結果だろうか。
野には白泉のように、華々しくはないが、本物が隠れて存在している。
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2012年1月16日 (月)

不確定性原理の欠陥?

現代の工業の多くの部分が、量子力学に依存している。
エレクトロニクスは当然であろうが、私が学生時代に学んだ工業化学も今や量子化学の時代といっていいだろう。
その量子力学の基礎の基礎ともいうべきハイゼンベルクの不確定性原理に欠陥があることが実証されたという。
にわかには信じがたいニュースだ。

Photo_2電子など小さな粒子の位置や速度を同時に正しく測定することは不可能とする「ハイゼンベルクの不確定性原理」が、常には成り立たないとする実験結果を、ウィーン工科大と名古屋大の研究チームがまとめた。
80年以上前に提唱された量子物理学の基本原理を崩す成果で、ナノ科学での新たな測定技術開発の手がかりになるという。15日付の科学誌ネイチャー・フィジックス電子版に掲載される。
物が見えるのは、物に当たった光が反射して、私たちの目に届くからだ。時間をおいて2度見れば、物の動き(速度)がわかる。ただ、光は波長が短いほどエネルギーが大きいので、小さな粒子を見る場合に問題が生じる。短い波長の光を使うほど、粒子の位置は詳しく測れるが、反射した時に粒子をはね飛ばすので、元の速度は測れなくなる。
このため、位置と速度は、一方を正確に測ろうとすると、もう片方の誤差が増える。これが不確定性原理で、ドイツの物理学者ハイゼンベルクが1927年に提唱。32年にノーベル物理学賞を受賞している。
同工科大の長谷川祐司准教授らは、原子核を構成する中性子について、「スピン」という量を測定した。2種類のスピンを測ると、位置と速度の測定に相当する。その結果、二つのスピンを極めて正確に測定でき、不確定性原理を表す数式で示される誤差を下回った。
同原理の不成立を別の数式を使って主張してきた共同研究者の小澤正直・名古屋大教授は「小さい粒子でも、位置も速度も正確に測れることが実験でも実証できた。新しい測定技術や解読不可能な量子暗号の開発などへの道が開けるのではないか」と話している。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120116-OYT1T00076.htm

いささか分かりづらいが、要するに、実験と理論の両面で証明されたということだ。
私が学生の頃には、既に不動の原理として、量子力学の冒頭に君臨していた。
ハイゼンベルクは、ディラックなどと並んで、量子力学の建設者として仰ぎ見るような存在だった。

不確定性原理の修正は、どのような波及効果をもつと考えられているか?
量子の情報が正確に把握できれば、幅広い応用が期待されている。
たとえば、微細加工技術や極めて精密な測定技術などにおいて、威力を発揮すると予想されている。

この間も、光速よりも速いニュートリノが観測されたというニュースが流れた。
⇒2011年9月25日 (日):光速よりも速いニュートリノ?
われわれは、ひょっとすると、科学的認識の大変革の時代に生きているのかも知れない。
そう思うと、まんざら悪いことばかりではないような気がしてくる。

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2012年1月15日 (日)

金メダリストの奇妙な弁解

大学のセンター試験が始まった。
去年は携帯電話を使って、ネットで回答を求めるという破天荒なカンニングが話題になった。
⇒2011年3月 4日 (金):京大等の入試問題投稿事件について
直後に起きた大震災によって、すでに遠い過去のような気もする。

こういう受験生が合格し、そのまま就職すると、経産省の審議官のような人になるのであろうか。
インサイダー取引容疑の木村雅昭容疑者や女性スキャンダルが発覚した西山英彦氏が審議官の肩書きであった。
⇒2012年1月13日 (金):経済産業省審議官の法律感覚
経産省の審議官といえば、本来、法律の執行に対する知恵袋であるはずのポストであろう。
あるいは、さまざまな犯罪行為に荷担したオウム真理教の幹部に高学歴者が多かったのも、このような学生が増えているということの反映だろうか。
⇒2011年11月25日 (金):オウム真理教事件と知的基礎体力(?)

あるいは、裁判でも一般の常識からすると、首を傾げるような判例がある。
⇒2008年1月 9日 (水):非常識な判決
社会常識を裁判に反映させようということで裁判員制度が導入されたが、問題なしとはいえない。
⇒2009年6月10日 (水):刑事責任能力の判断と裁判員裁判
あるいは、裁判制度自体に限界があると考えるべきであろうか。
⇒2012年1月14日 (土):JR西日本福知山線事故判決の法理に対する疑問

私は、日本社会の触法感覚がおかしくなってきているのではないかと危惧する。
たとえば先日もオリンピックの金メダリストの起こした性犯罪事件がマスコミを賑わした。

東京地検は27日、コーチとして指導していた女子柔道部員を乱暴したとして、準強姦罪でアテネ、北京両五輪の男子柔道金メダリスト内柴正人容疑者(33)=熊本県玉名市=を起訴した。
起訴状によると9月20日未明、東京都八王子市内のホテル客室内で、酒に酔って眠り込み、抵抗できない女性部員を乱暴したとしている。
捜査関係者によると、内柴被告は客員教授を務めていた九州看護福祉大(玉名市)の柔道部の遠征先で女性部員ら数人と飲酒。酒に酔った女性部員と2人で宿泊先のホテルに戻った。「合意の上だった」と否認を続けている。
http://www.47news.jp/CN/201112/CN2011122701001417.html

よく問題になるセクハラ事件や痴漢事件などにおいては、女性の側にも問題があると思われることがある。
しかし、内柴容疑者の場合は質が違うというべきだろう。
「合意の上だった」という弁解は通用するか?

準強姦罪という容疑に限定すれば、あるいは「合意の上だった」からという言い訳はあり得るのかも知れない。
しかし、自分が指導する立場にある人間を、「酒に酔った」ところを乱暴したのである。
「合意の上だった」以上の、たとえば女性の方から誘いがあったとしても、「そんなことはやめろ」と指導するのが彼の立場・役割ではないのか?

「公知の事実に基づいて株を購入」だから、「インサイダー取引にはあたらない」という経産省元審議官と「合意の上だった」から「準強姦罪にはあたらない」という金メダリストの言い分がそっくりのような気がする。
法に触れないというのはミニマムの規範であるが、そのミニマムをクリヤーすれば、「何をやっても個人の自由だ」という風潮を非と考えるのは、私も老人になったということであろうか?

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2012年1月14日 (土)

JR西日本福知山線事故判決の法理に対する疑問

JR西日本の福知山線事故に関し、山崎前社長に対する業務上過失致死容疑に対して、神戸地裁が無罪判決を下した。

107人が死亡した2005年の尼崎JR脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本前社長、山崎正夫被告(68)の判決公判が11日、神戸地裁で開かれ、岡田信(まこと)裁判長は「事故が起きることを予測できたとはいえず、過失は認められない」として、山崎被告に無罪(求刑禁錮3年)を言い渡した。
JR史上最悪の事故をめぐり、経営幹部の過失が問われた異例の裁判だが、刑事責任は認められない結果となった。
神戸新聞

「事故が起きることを予測できたとはいえず、過失は認められない」という論理をどう理解すべきか?
素人が素直に解釈すれば、「事故が起きることを予測できた」「のにもかかわらず事故が起きた」のならば、それは「故意」というべきではないか?
重大な事故が起きた。自然災害ではない。
「故意」でもなく、「過失」でもないとすれば、事故は自然発生的に起きたのか?

そもそも、「故意」と「過失」の違いは何か?
一般には、対象となる行為が意図的なものであったか否かであろう。
⇒201010月 1日 (金):故意と過失/「同じ」と「違う」(21)

ところが、故意と過失は截然と分かれているわけではない場合がある。
たとえば、「未必の故意」とか「認識ある過失」というややこしい概念がある。
以下の説明を見よう。

「痛い目にあわせてやる!」と相手に向かって自動車で突進し、重傷を負わせたら...。
いきなり、血生ぐさい話で恐縮ですが、こんな場合、傷害罪
刑法204条)に問われることは、法律に明るくない方でもわかりますよね。
明らかに、傷害の故意がありますから。
では、狭い道路のわきを
子供が歩いているとして、「このまま走り抜けたら、ひょっとして、子供に接触するかも。」と思いつつ、道路を走り抜けたところ、子供と接触して怪我を負わせてしまったら...。
そういう場合は、業務上過失致傷罪
刑法211条前段)として、過失犯なのでは、とも思えます。
しかし、この場合にも
故意が認められ、傷害罪が成立する場合があるのです。
それが、「未必の故意」なのです。
上の事例で、「
子供に接触するかも。でも、仕方ない。」と、子供が場合によっては怪我をしてもやむをえない、と結果の発生を認めてしまうと、「未必の故意」として、故意が認定されるのです。
これに対して、「
子供に接触するかも。でも、道路の幅がこれだけあれば、まさか、そんなことはあるまい。」と思った場合はどうでしょう。
子供に接触するかも、とは思っても、そんなことはまず起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、「認識ある過失」として、故意は認定されず、過失が認定されるにすぎないのです。
同じ
過失でも、急に路地から子供が飛び出してきたため、自動車がぶつかり、怪我を負わせてしまった場合には、運転者としては、子供が飛び出してきて怪我を負わせることは思いもしていなかったのですから、結果の認識がなく、「認識のない過失」ということになります。
このように、「未必の
故意」と「認識ある過失」とは、非常に判断が微妙な隣り合った概念なのです。
http://www.hou-nattoku.com/mame/yougo/yougo12.php

意図性の程度で順番に並べれば以下のようになろうか。

故意>未必の故意>認識ある過失>認識のない過失

福知山線の事故の場合、「認識のない過失」にも相当しないということだろうか?
過失に該当するかどうかは、予見可能性の判断に係わる。
⇒2009年7月18日 (土):過失論と予見可能性
山崎前社長についても予見可能性について判断された。

判決の骨子は次の通りである。

一、本件事故まで、カーブにATS整備を義務付ける法令上の規定はなく、脱線転覆の危険のあるカーブを個別に判別したATS整備はされていない。
一、カーブの半径を半減させる工事は珍しいが、同規模以下のカーブは多数存在した。
一、ダイヤ改正は大幅な余裕を与えるもので当時、時速120キロ近い速度で走行する必要はなかった。
一、函館線事故は閑散区間の長い下りで起きた貨物列車の事故で、本件事故は想起させない。
一、周囲の進言を受けないまま現場カーブの危険性を認識するのは容易ではない。予見可能性の程度は相当低く、注意義務違反は認められない。

神戸新聞

山崎前社長「個人」は予見できなかったかも知れない。
しかし、問われているのは「個人」としての山崎ということか?
「法人」の代表者としての山崎ではないのか?
「法人」としてのJR西日本には、鉄道運行のプロとして「注意義務違反があった」と判断する方が妥当のように思える。
納得し難いものが残る判決だった。

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2012年1月13日 (金)

経済産業省審議官の法律感覚

経済産業省の元審議官が、インサイダー取引容疑で逮捕された。

経済産業省の審議官時代に、半導体大手「エルピーダメモリ」などの未公表の情報を入手したうえで株取引をしていた疑いが強まったとして、東京地検特捜部は12日、同省元審議官・木村雅昭容疑者(53)=資源エネルギー庁前次長、現大臣官房付=を金融商品取引法違反(インサイダー取引)容疑で逮捕した。
・・・・・・
木村元審議官は逮捕前の特捜部の聴取に対し、「すでに報道された公知の事実に基づいて株を購入しており、インサイダー取引にはあたらない」などと容疑を全面的に否定していた。

http://www.asahi.com/national/update/0113/TKY201201120757.html

木村氏が有罪か否かは今の時点では分からない。
とすれば、推定無罪という考え方を適用すべきであろうか?
そんなことはないだろう。厳しく断罪されるべきであると思う。

「公知の事実に基づいて株を購入」だから、「インサイダー取引にはあたらない」?
百歩譲れば、あるいは外形的にはそうも言えるかもしれない。
しかし、木村氏は当該企業に深く関わっていた人物である。

エル社はリーマン・ショックによる金融危機の影響などで業績が悪化。木村容疑者は経産省商務情報政策局担当の審議官として、エル社の再建計画に関与していた。関係者によると、木村容疑者は、いずれの株も正式発表後に売却し、計約200万円の利益を得たとされる。
木村容疑者は東大卒のキャリア官僚。19年7月から21年7月まで経産省審議官を務め、その後、資源エネルギー庁資源・燃料部長や同庁次長に就いた。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120112/crm12011214330013-n1.htm

東大(おそらくは法学部)で何を学んできたのだろうか。
エル社の再建計画とは次のようなものだった。

経営再建を目指す事業者が事業計画を作成して、国の認定を受けることで、税制面での優遇や金融支援などを受けることができる。平成21年4月の改正により、指定金融機関からの出資について損失が出た場合に政府系金融機関の日本政策金融公庫が一部補填(ほてん)をする制度が盛り込まれ、エルピーダメモリが同制度の適用第1号となった。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120113/crm12011300440003-n3.htm

お手盛りを通り越していて、何と表現すべきか適切な言葉を知らない。
普通の感覚ならば、自分が関わった案件の当該企業の株取引自体を控えるであろう。
このような人が出世街道を順調に歩む組織は腐っていると言うしかない。

かつて城山三郎氏の『官僚たちの夏』という小説を読んだことがある。
経産相の前身通商産業省の事務次官等を務めた佐橋滋氏をモデルにした小説である。
佐橋氏は、事務次官就任後も歯に衣着せぬ言動に、「佐橋大臣、三木次官」 とマスコミに揶揄されることもあった人物であるが、天下国家のために尽くすという官僚道(?)に殉じ、数多の天下り先を断って、政官界との関係は疎遠となったといわれる。

佐橋氏を見よ、というつもりはない。
ただ、数百万円のインサイダー取引で逮捕されるとは、余りにも侘びしすぎる。
経産相の審議官といえば、原発事故の説明役として一時テレビに頻繁に登場していた西山英彦という人物を思い出す人も多いだろう。
以下のようなスキャンダルで表舞台から消えていった人である。

2011年6月23日発売の週刊新潮において、経産省職員との不倫問題が大きく報じられ、この件について同日の記者会見で自分から「深く反省している」と謝罪した。また、海江田万里経産相からも厳重注意を受けた。その後、6月29日に原発事故の広報担当を更迭された。7月15日には大臣官房審議官(通商政策局担当)も外れ、官房付となった。同年9月30日には、原発事故発生後の3月から6月の間、勤務時間中に自室だった審議官室にて複数回にわたり30代の女性職員とのキスや、身体的接触を行うなどの不適切な行為があったとして停職1ヶ月の懲戒処分を受けた。
Wikipedia

審議官とはどういう役職か?

審議官しんぎかん)は、中央官庁における官職の一つ。身分国家公務員
審議官には
次官級、局長級、局次長級のものがあるが、共通することはラインから離れたスタッフ的な立場で政策を調整、取りまとめをする役目を持っていることである。いずれも指定職で民間企業では役員クラスである。
Wikipedia

大幹部というべきであろう。
こういう人たちを見ると、松永安左エ門が「人間のクズ」と呼んだのがもっとものように思える。
もちろん、官僚にもいろいろなタイプがいることは承知しているが。
法に触れるようなことをしてはいけない。小学生にも分かる理屈だ。
しかし、法に触れない範囲であれば何をしても構わないのか?
そここそが、人間としての評価が問われる部分ではなかろうか。

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2012年1月12日 (木)

佐高信『電力と国家』⑤「浮かれ革新」と電力統制/花づな列島復興のためのメモ(20)

2・26事件の後、内閣は短命化する。
事件の収拾後岡田内閣は総辞職し、広田弘毅に組閣の大命が下った。
陸軍は入閣予定者の吉田茂ら5名に不満があるとして広田に圧力を掛け、3名を閣僚から外させた。

組閣に難航した広田内閣は、軍国主義路線をとったが、結局軍部と対立し1年足らずで崩壊した。
次に組閣の大命を受けた宇垣一成が陸軍の抵抗で流産し、林銑十郎が総理の座につくが4ヶ月で瓦解する。
その後、昭和12年6月に第一次近衛内閣が誕生した。
国民の圧倒的な支持を受けて近衛内閣はスタートする。

五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人では類い稀な長身で、身長は約180cmだったといわれる)に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
Wikipedia

ポピュリストであったと言うべきであろう。
海軍大将井上成美の近衛評は以下の通りである。

  • 「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった」
  • 「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種をいたのは、みな近衛公であった」
    Wikipedia

逓信大臣永井柳太郎は、電力国営法案の制定に向けて動き出した。
永井は、官民協力の姿勢を表明し、臨時電力調査会を設けた。
委員には、東京電燈小林一三、大同電力増田次郎、日本電力池尾芳蔵、宇治川電気林安繁、東邦電力松永安左衛門が顔を揃えた。
電力業界を統制下に置きたい政府と業界側は激論を交わすが、結局まとまらないまま閉会した。
佐高は、「永井逓信相が官民協力など穏健な姿勢を表明しているが、調査会自体「結論ありき」だった」としている。
この辺りの状況が昨今と似ているのではないかと思う。
⇒2012年1月 3日 (火):ぼんやりした不安の時代

昭和13年3月、「国家総動員法」とともに、「電力国家管理法」が成立した。
奥村が「電力国策要旨」に掲げた国営電力会社は、「日本発送電株式会社(日発)」として、昭和14年4月にスタートした。

近衛内閣が誕生した日に、松永は「浮かれ革新めが!」と一言のもとに切り捨てたというエピソードを、佐高は、松永の伝記には必ず登場する、として紹介している。
「浮かれ革新」という言葉は、あたかも民主党政権のことを形容しているかのようではあなかろうか。
近衛は軍部を押さえられずに、電力の国家管理を推し進め、軍部独走を許容する結果を招いた。
政治家は結果責任を問われるものである。

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2012年1月11日 (水)

佐高信『電力と国家』④革新官僚と電力国策/花づな列島復興のためのメモ(19)

昭和恐慌から始まった深刻な不況、失業者の増大、政財界の腐敗といった現象に、官僚たちは自由主義経済の限界を感じていた。
国家を統制するためには、自由を規制することが必要だ。
こうした風潮の中で、電力国営化を推し進めたのは近衛文麿内閣であった。
商工省の岸信介、椎名悦三郎、大蔵省の迫水久常などである。

実務的には、逓信省の奥村喜和男、大和田悌二らの革新官僚と呼ばれるメンバーである。
昭和11年に発行された奥村喜和男(内閣調査官)の著した『電力国策の全貌』は国民生活、産業発展、国防の3つの視点で考えると、電力は国家管理の方がよし、と主張するものであった。

電力国営案の構成要素は次の通りである。
思想
 国家は管理へ、資本家は所有へ
目的
 低廉なる電力を豊富に
主義
 発送電経営を公益的に

そして、電力国営の利点として次を挙げている。
1.国家の意思通りに発送電事業を管理し得ること
2.発送電設備の全国統一聯系を構成し得ること
3.民間資金の豊富且つ自由なる調達を図り得ること
4.発送電に関して他の利水、土地利用その他との利害関係を調整し得ること

奥村案は、ナチスドイツの動力経済法にならうものだった。
その要諦は、「資本公有の長所と商業的経営方法の長所とを併有させる」ことにあった。
奥村案は調査局長官吉田茂から、高橋是清蔵相の伝えられ、高橋も乗り気だったが、2・26事件(昭和11年)によって、奥村と高橋が会う機会は失われることになった。
佐高は、「奥村の案を具体的に知れば、高橋は強く反対しただろう」と推測する。
高橋が軍部と距離を置こうとしていたが、奥村案は、軍部を膨張させ、国家財政を破綻させるものであったからだ。

高橋亡き後、奥村は昭和11年12月に「電力国策要旨」を書き上げ、陸軍の鈴木貞一大佐に届けた。
日本国内の発送電設備をすべて特殊株式会社の所有にし、運営は政府が行うとするものであった。
鈴木大佐は、奥村案を高く評価した。

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2012年1月10日 (火)

佐高信『電力と国家』③電力の国家管理/花づな列島復興のためのメモ(18)

現在の<9+1>電力供給体制が発足したには、1951年5月1日である。
+1は沖縄電力である。他の電力会社とは網が切り離されていることと、原発を持たないことから9つの電力会社とは若干性格が異なる。
現在の体制の以前は、電力は国家管理体制にあった。

本来、電力会社は2011年は還暦を言祝ぐべき年だった。
その記念すべき年に、原発事故という取り返しのつかない事故を起こしたことは、果たして偶然のことだろうか。
景気の長期波動として知られるコンドラチェフの波は、50~60年周期といわれる。
コンドラチェフの波の要因は、資源、技術革新、マネー・サプライ、戦争や内乱といった要因が絡み合って起こるとされている。
60年という時間は1つの制度が疲労を起こす期間の目安となるのではなかろうか。

松永安左エ門が電力事業に関わった当初、電力は自由競争の時代だった。
1月6日の日本経済新聞「春秋」欄に、次のような記述がある。

「東京電灯会社の電灯は極めて廉価なり」。120年前の明治半ば、電気料金はこちらが安いと訴えるため、こんな新聞広告を出したのは東京電力の源流の企業だ。値上げを押し切ろうとしている今と違って電力業界には競争があった。
▼品川電灯、深川電灯、帝国電灯と、東京では新規参入が相次いだ。そこからここまでは当社の縄張り、というすみ分けがなかった時代だ。電力事業の元祖の東京電灯も安穏としていられなくなった。電球の取り付けを無料にしたり、フィラメントが切れたら無償で取り換えたりと、サービス向上にも知恵を絞った。

佐高信『電力と国家』集英社新書(1110)によって、電力が自由競争から国家管理になる歴史を振り返ってみよう。
日本で最初に作られた電力会社は、東京電力の前身の東京電燈である。明治16(1883)年の設立である。
エジソンが白熱電灯を実用化したのが1879年であるから、僅か4年後のことである。
日清・日露の戦争好景気により電力需要は急増し、松永が電力に関わった明治40年頃には全国で100社以上、昭和7年には800社以上が全国に乱立していた。

1929年のニューヨーク証券市場の大暴落から始まった恐慌は日本にも及び、昭和恐慌となった。
失業者が溢れ、農家では娘の身売りが相次ぎ、支配階級への不満が募っていだ。
労働運動が盛んになると共に、テロが続発した。
昭和7年2月に前蔵相・井上準之助、3月に三井財閥の団琢磨が暗殺された。
5月には5・15事件が起こり、昭和11年の2・26事件に繋がっていく。

そういう中で、軍部・官僚は、国家機関の統制を強めていく。
特に電力事業は、「エネルギーを制するものは国家を制する」とされ、国家管理は必然だったといえよう。
国家総動員法と共に公布された電力国家管理法は、国民の生活安定、国防を大義名分として、電力の国家統制を進めた。

政治的には、恐慌以来の不況対策と国防のために「一国一党の強い政治」が求められた。
政党は糾合され、大政翼賛会に一元化していく。
現在も、政治家の余りの不甲斐なさに、強力なリーダーシップをもった政治家が待望されている。
私もそういう気持ちに傾くが、常に歴史を参照する姿勢は保ちたいと思う。

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2012年1月 9日 (月)

草原の王朝「契丹」展@静岡県立美術館

かつて北アジアに、契丹という国があった。
いまからおよそ1000年前、唐王朝が滅亡し中華世界が混沌を続けるころである。
巧みな騎馬戦術と唐を継承する高い工芸技術によって国力を増大させ、200年の長きにわたって栄華を極めた。

契丹(きったん、キタン、キタイ、英語: Khitan/Khitaiピンイン: Qìdān)は、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号をと号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。
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Wikipedia

その契丹文化の粋を集めた、美しい宝飾品、ガラス細工、陶磁器などの文化財の展覧会を静岡県立美術館で見てきた。
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高校の世界史では、「遼」の名前は覚えているが、余り馴染みがない。
隣の西夏についても同様であるが、学生の頃、西田龍雄京都大学教授による西夏文字の解読の業績について聞いたことがあり、いろんな研究分野があるものだと感じ入った記憶がある。
いずれにしろ、ロマンを誘う国々である。

展覧会では、契丹王朝を生きた3人のプリンセスにちなんだ貴重品が展示された。
トルキ山古墓の「トルキ山のプリンセス」
契丹第5代皇帝を祖父に持つ「陳国公主(ちんこくこうしゅ)」
そして第6代皇帝の第2夫人「章聖皇太后(しょうせいこうたいごう)」
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これらのプリンセスにゆかりのある「一級文物(国宝に相当)」。

圧巻は彩色木棺であろう。

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2003年にトルキ山古墓から出土した木製の棺と棺台である。
大輪の牡丹、鳳凰、護衛の契丹人、金銅製の風鐸や獅子など、華美な装飾がふんだんに施されている。
修復処理は必要だったらしいが、1000年近くの時が経過したとは感じられないものだ。

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2012年1月 8日 (日)

二谷英明と日活アクション映画

俳優の二谷英明さんが亡くなった。

日活アクション映画でヒーローのライバルや相棒などを演じ、テレビドラマでも活躍した俳優の二谷英明(にたに・ひであき)さんが7日、肺炎のため亡くなった。81歳。
京都府生まれ。長崎放送アナウンサーを経て1956年、日活第3期ニューフェースとして「沖縄の民」でデビュー。翌年「浮草の宿」では主役に抜てきされた。その後は「赤い波止場」「やくざの詩」など石原裕次郎、小林旭の主演映画では相手役として出演し、存在感を発揮した。
71年、日活を退社してテレビに活動の主軸を移した。「特捜最前線」では警視正役の渋い演技が評判を集めた。また、妻の女優、白川由美さんと共にJRのCM「フルムーン夫婦グリーンパス」に出演。おしどり夫婦としても知られた。長女は元女優で、「家庭教師のトライ」などを展開するトライグループ社長の二谷友里恵さん。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120108k0000m040110000c.html

上記記事にあるように、1971年以降はTV俳優としての活動が主だったようで、若い人にはそういう記憶が強いだろうが、私の世代にとっては、何といっても日活のアクション映画である。
特に、日活全盛期における裕次郎の敵役・ダンプガイとしての活躍が印象に残る。

私が初めて見たのは、1957年の『俺は待ってるぜ』ではないかと思う。
田舎町の映画館には封切り後半年くらい経ってから上映されていたように記憶している。いずれにしろ中学生の頃のことだ。
トイレ臭のする椅子の綻びた映画館で、東映時代劇に熱中したあと、日活アクション映画にはまった。
最後に映画館で見たのは1964年の『赤いハンカチ』であるから、日活アクション映画を見たのは6~7年くらいの期間である。
受験生時代は控えたように記憶しているから、実質5年に満たない。
二谷さんは、敵役ではあったが、主役に匹敵するような存在感があった。

履歴を見ると、1930年1月生まれで、同志社大学を中退して長崎放送で司会や英語放送のアナウンサーを務めた。
この年代の大学進学者といえば相当のインテリである。
事実、次のような証言がある。

発展途上国に学校を建設するNPOを二谷さんとともに設立した脚本家の小山内美江子さんは、「ボランティアで一緒に訪れたカンボジアで、二谷さんが流ちょうな英語で話す姿が印象深かったです。療養中は、やつれた姿を人に見せたくなかったのか、見舞客には誰とも会わないでいました。俳優としてだけでなく私生活でもおしゃれで、格好よいスターの生き方を通した人でした」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120108/t10015125551000.html

映画で演じた役柄とは大分異なっている。
平成15(2003)年に脳梗塞で倒れた。
華々しかった活動であるが、発症後は、上記のように表の活動を休止し、福祉施設などで療養していたという。
合掌。

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2012年1月 7日 (土)

「一富士二鷹三茄子」の沼津語源説

最近は夢を見ることが少なくなった。
あるいは、夢は見ているのだが、覚えていないということだろうか。
従って、初夢も自分の認識としてはまだ見ていない。

初夢について、Wikipediaでは次のように解説している。

室町時代ごろから、良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされている。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをする。
初夢に見ると縁起が良いものを表す
ことわざに「富士(いちふじ)、二(にたか)、三茄子(さんなすび)」というものがある。 江戸時代に最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた(富士信仰も参照)。

この「一富士二鷹三茄子」について、沼津のローカル紙「沼津朝日」の1月6日号に、「沼津に語源がある」という解説が載っていた。
120106

解説によれば、沼津語源説は以下のようである。

初夢にみると縁起の良いと言われている「一富士・二鷹・三茄子」の語源については諸説あるが、『甲子夜話』によれば、徳川家康が、自分の住んだ駿河国の高いものを順にあげた。鷹は鳥ではなく、富士山の近くにある愛鷹山(あしたかやま)のこと、茄子は初物(はつもの・その年の最初の収穫品)の値段の高さをいう、と書いてある。
大正7年に刊行された『楊原村沿革誌』によれば(楊原村は現在の沼津市香貫地域)、特殊農産物に「楊原胡瓜と香貫茄子」と書かれている。これらの胡瓜・茄子は初物として世上に賞翫されていたとある。つまり沼津の茄子の評価の高さが『甲子夜話』の記述に一致する。

そこで、NPO法人沼津観光協会では、「開運沼津」ののぼりとシールを作ってアピールすることにした。
沼津観光協会のサイトに紹介がある。
Photo
http://numazu-mirai.blogspot.com/

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2012年1月 6日 (金)

菊竹清訓氏と設計の論理/追悼(19)

建築家の菊竹清訓氏が亡くなった。

日本を代表する建築家で、建築運動「メタボリズム」をリードした菊竹清訓(きくたけ・きよのり)さんが昨年12月26日、心不全のため死去していたことが5日、分かった。83歳だった。葬儀は親族で済ませた。後日お別れの会を開く予定。
福岡県久留米市出身。早稲田大理工学部建築学科在学中から競技設計(コンペ)に入選するなどして頭角を現し、卒業後は竹中工務店などを経て、昭和28年に独立。33年完成の自邸「スカイハウス」(東京)で注目を集めた。その後、建築家の故黒川紀章氏や建築評論家の川添登氏らとともに新しい建築運動「メタボリズム(新陳代謝)」を提唱。「建築及び都市は、新陳代謝を通じて成長する有機体でなければならない」などと説いた。38年完成の「出雲大社庁の舎」(島根県)では芸術選奨文部大臣賞、日本建築学会賞を受賞し、高い評価を得た。
代表作に、大阪万博エキスポタワー(昭和45年)、沖縄国際海洋博アクアポリス(同50年)、銀座テアトルビル(同62年)、江戸東京博物館(平成5年)、ホテル・ソフィテル東京(同6年)、九州国立博物館(同17年)など。平成17年の愛知万博では総合プロデューサーを務めた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120105-00000527-san-soci

菊竹氏は上記記事にあるように、実作と理論の両面で活躍した。
特に、設計の方法論として提唱した「か・かた・かたち」の三段階論は、建築というジャンルを超えて影響を及ぼしたといえよう。
Photo
http://www.kikutake.co.jp/TOP/top.html

菊竹氏の三段階論は、武谷三男により提唱された科学的認識の三段階論の応用編である。
理論物理学、特に素粒子論はわが国が世界に誇る学問分野であろう。
敗戦後いち早くノーベル賞を受賞して国民に希望の光をもたらした湯川秀樹博士以来、朝永振一郎、小柴昌俊、南部陽一郎、小林誠、益川敏英などの多数のノーベル賞学者を輩出してきた。
その素粒子論研究の初期段階において、方法論的に方向付けをしたのが武谷三段階論であった。
すなわち、科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するが、現象論と本質論の間に実体論を置いたことが湯川博士の中間子論の形成に寄与したと評される。

武谷三段階論を基礎に、設計の論理の構築を試みたのが、菊竹氏の「か・かた・かたち」三段階論である。
菊竹三段階論は、メタボリズム・グループの方法論として、建築・都市計画の分野に大きな影響力を持った。
その概要は、『代謝建築論』彰国社(1969)によれば、以下の通りである。

人間は<かたち>を感覚で捉えることができる。
しかし、<かたち>をより深く知るためには、感覚を裏付ける知識による理解が必要である。理解はさらに<かたち>についての興味を通じて、その本質的な意味を考えるというところに拡大深化するであろう。
菊竹氏は、日本語の「かたち=かた+ち」、「かた=か+た」という語源的検討や、建築において、目的とか建築種別を越えて「かた」と呼ぶべき空間構造があるあるという認識を踏まえて、設計の論理を提唱したのである。

設計には認識と実践の2つのプロセスがあって、この2つが複雑にからみあって成り立っている。これを単純化すれば、認識のプロセスは、
<かたち> → <かた> → <か>
の三段階ですすみ、実践のプロセスは逆に、
<か> → <かた> → <かたち>
の三段階ですすむ。

感覚/現象/形態  … <かたち>/KATACHI
↓     ↑
理解/実体/技術   … <かた> /KATA
↓     ↑
思考/本質/構想    … <か>  /KA

私は秘かにビジネススキルの方法論でもあると思っている。
たとえば、<か>はビジネスコンセプト、<かたち>はビジネスの具現化に相当すると考えることができる。
とすれば、<かた>は何か? 
ビジネスモデル?
やはり、この中間段階をどう理解するかがキーのようである。

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2012年1月 5日 (木)

佐高信『電力と国家』②松永安左エ門/花づな列島復興のためのメモ(17)

佐高信『電力と国家』集英社新書(1110)は、本来公益としてあるべき電力が、私益追求の道具になっていることを追及した書と言えよう。
もちろん電力会社は一般の利益追求の私企業と異なり、公益企業として、さまざまな制約と保護を受けている。
公益企業とはいかなるものか?

公益企業は、社会のインフラを担うもので、そのエリアでのインフラ提供を前提として、寡占状態を認められています。しかし、その料金設定は寡占状態を利用して高く設定することは許可されず、国が認可するシステムとなっています。
但し、その地域では独占状態にあるため、その企業運営が効率的に行われていない傾向にあり、料金の低下のため、自由化の傾向にあります。
電力分野は大分自由化が進みましたが、昨今の原油高騰で、新規参入発電事業者は青息吐息で事業撤退したところも顕れています。
公益企業は事業撤退が認められませんので、どんなに苦しくても企業運営を継続せざるをえず、そのために寡占価格ではあっても国は認めざるをえない、との関係も成立しています。
http://okwave.jp/qa/q4139812.html

電力は現在、事実上地域独占であり、自由競争ではない。
すなわち、需要者に選択の自由はない。
電力会社には独占価格が認められる代わりに、供給義務が定められている。
⇒2011年5月 8日 (日):日本のエネルギー政策をどうする?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(24)
電力会社にはとりわけ社会的責任が要求されているのである。
⇒2011年10月16日 (日):九電の「やらせメール」問題と企業の社会性

電力供給の歴史を振り返ってみると、ずっと民営で行われていたわけではない。
電力の歴史を考えるとき、「電力の鬼」と呼ばれた男の存在を抜きには考えられない。松永安左エ門である。
Wikipediaにより、略歴を抜粋しよう。

1875年明治8年)、長崎県壱岐で生まれた。幼名は亀之助。壱岐中学時代、福澤諭吉の『学問のすすめ』に感激し、1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾に入学。在学中に福澤桃介と知り合う。
1909年(明治42年)、福岡の市電を運営する福博電気軌道株式会社の設立に参加、翌年には九州電気を設立(後に他数社と合併し、九州電灯鉄道)。
1922年(大正11年)に九州電灯鉄道と関西電気が合併して東邦電力になると副社長になった(後に社長)。東邦電力は九州、近畿、中部に及ぶ勢力を持った。さらに東京進出を図り設立された、同社の子会社・東京電力は、東京電燈と覇権を争った。
1927年昭和2年)、東京電燈と東京電力は合併し、東京電燈株の交付を受けた大株主という立場の松永は同社の取締役に就任した。その影響力はもとより、この頃「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張したことなどもあって、「電力王」といわれた。
戦争の激化に伴い、
国家総動員法と合わせて電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立され、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これに伴う東邦電力の解散(1942年)を期に松永は引退し、以後は所沢柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごした。
第二次世界大戦後、所沢から小田原に移り、所蔵していた美術品と柳瀬荘を東京国立博物館に寄贈した。占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、電気事業再編成審議会会長に選出された。日本発送電側は独占体制を守ろうと画策したが、反対の声を押し切り9電力会社への事業再編(九電力体制)を実現した。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになった。

まことにスケールの大きい人物だったことが窺われる。
電力料金の値上げについては以下のような紹介がある。

電気は、これから社会で、ますます重要な役割を果たさなければならない。それに伴って、電力需要は大きく伸びるであろう。
・・・・・・
戦後の疲弊から立ち上がったばかりのわが国の電気事業の基盤は、まだまだ脆弱である。これを固めるには、まず、安定した収入を確保しなければならない。それには電気料金を適正なものに設定する必要がある。
一方、電気は、わが国の産業の基幹エネルギーである。電気料金は、そのまま生産コストに撥ね返ってくる。適正な電気料金の設定には、大幅な値上げが必要である。その実施は、各界の大きな反発を買い、四面楚歌を招くことは必定である。
新電力会社発足と同時に、安左エ門は、各電力の首脳を集めて、適正原価に基づく採算可能な電気料金の算出を厳命した。その結果出てきたのが、平均67%の値上げ率であった。安左エ門が委員長代理を勤める公益委は、この計算を基に、電気料金算定基準案をGHQに提出した。
それを知った世論は、予測通り沸騰した。安左エ門への批判、中傷が新聞に載らない日はなかった。労働側からも経営側からも「松永を切れ」という声は高まり、総評を中心とする各労働組合63団体は、電気料金値上げ反対大会を開いて「松永公益委員長代理辞任勧告」を満場一致で承認した。公益委には、電力料金値上げ反対の投書が殺到し、中には「安左エ門を殺す」という脅迫状も混ざっていた。産業界、労働界だけでなく、政府の首脳からも反対の火の手が挙がっていた。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/yasuzaemon2.html

なにやら消費税のことを連想させるが、松永のような「鬼」はどこにいるのだろうか。

松永は、電力中央研究所というシンクタンクを創設し、私設のシンクタンクとして産業計画会議を主宰した。
産業計画会議は、東名・名神高速道路や幻の多目的ダムといわれる岩本ダム(沼田ダム)を提唱した。
実現すれば日本最大のダムになったが、水没面積および水没戸数が余りにも大き過ぎた。
構想だけで終わったが、実現していれば首都圏の水問題(=治水、利水、水環境)を一挙に解決していた可能性がある。

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2012年1月 4日 (水)

佐高信『電力と国家』①電力系統/花づな列島の復興のためのメモ(16)

電力なしに、われわれの生活は成り立たない。
それは文明の進歩の果実なのであって、フクシマ原発の事故があったからといって、あるいは政府・東京電力の事故対応が不満であっても、電力の重要性に変わりはない。
レーニンが電力の重要性について言っていたはずであるが、ここでは以下を引用する。

たしか、レーニンだったと思いますが、「社会主義とは鉄道と電力である」みたいな名言を残しましたよね。
レーニンは「社会主義」と言ったけど、これは近代国家としての生産力の基本要件が鉄道すなわち、安価で合理的で効率のよい公共交通インフラと電力すなわち安価で合理的で効率のよいエネルギーインフラである、と喝破したわけで、効率の良い近代国家を建設することこそが社会主義国家建設の、いちばん基本的な物質的条件である、という意味でしょ。
http://www.asyura2.com/11/senkyo115/msg/737.html

近代化の道はいろいろあり得るとしても、生産力の増強が必要条件であると思う。
蒸気機関の発明が産業革命をもたらしたように、電力による照明やモーターやさまざまな生活・生産用具の発展が今日の生活水準をもたらした。
われわれの生活の隅隅にまで電力は欠くべからざる役割を果たしている。

であるからこそ、電力の供給体制、すなわち発電と送電の仕組みは、国家にとって基本的な条件である。
Wikipediaの電力系統の説明を見よう。

電力系統(でんりょくけいとう)とは、電力を需要家の受電設備に供給するための、発電変電送電配電を統合したシステムである。
日本では、10の電力会社がそれぞれ電力系統をもち、沖縄電力を除いた9電力会社の電力系統は近隣のいずれかの電力系統と接続されている。日本の商用電力のほとんどはこの巨大な電力系統に接続されている。50Hzと60Hzをつなぐ東京電力中部電力接続など、いくつかの接続は直流を介しており、相互影響が少ないが、ある電力系統が不安定になることは、接続された他の電力系統に影響を与えうる。大陸では国境を越えた電力系統の接続も行われている。

つまり、レーニンは「鉄道と電力」と括ったが、わが国ではその発展の体制に違いがある。
鉄道(や通信事業など)のサービスが直接的な管理下でサービスが供給されてきた(日本国有鉄道や日本電信電話公社、郵便局)のに対し、電力は民営で行われてきた。
国鉄民営化は1987年、郵政民営化は2007年のことである。

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2012年1月 3日 (火)

ぼんやりした不安の時代

今年は元旦が日曜日だったので、明日から仕事が始まる人も多いだろう。
年始の恒例行事の箱根駅伝は、東洋大学が昨年の雪辱を果たした。
新・山の神こと柏原君を中心にレベルの高いまとまりを見せ、他校につけいるスキを見せなかった。

平和な年明けのようにも思える一方で、大晦日の夜も更けてから、オウム真理教の一連の事件で指名手配されていた平田容疑者が警察に出頭してきた。
その意図は不明だが、なにやら不穏な雰囲気もある新年でもある。

芥川龍之介が、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と説明して(『或旧友へ送る手記』)服毒自殺を遂げたのは、昭和2(1927)年7月のことであった。
関東大震災の1923年9月から4年後のことになるが、それ以後日本は昭和前期のファッシズムの時代へ雪崩を打って突入していく。
⇒2009年1月20日 (火):張作霖爆殺事件と芥川龍之介の予感
芥川がどこまでを予見していたかは別として、「ぼんやりした不安」は、時を措かず明確な形で顕在化していったわけである。

現在もひょっとして似たような時代状況にあるのではないか?
昨年の東日本大震災は、根本要因は自然現象であるが、災害という現象は、社会的な状況によって規定される。
自公政権の積年の失政に国民の多数が「NO」を突きつけて、鳴り物入りで発足した民主党政権が、全く期待を裏切るものでしかないことがはっきりした。
「将来に対する不安」を抱いている人は少なくないのではないか?

芥川の自殺は、多くの知識人に衝撃を与え、論評の対象となった。
中でも、宮本顕治の『「敗北」の文学』(例えば、新日本文庫、1975)はその代表であろう。
『「敗北」の文学』は、昭和4年総合雑誌「改造」が行った懸賞募集に応募したもので、第一席に選ばれた。
この時、小林秀雄も『様々なる意匠』によってこの懸賞に応募したが、宮本に席を譲ったのである。
⇒2007年12月25日 (火):当麻寺…②小林秀雄

宮本は後に日本共産党の最高指導者の地位に就くが、当時は弱冠21歳の東京大学の現役の学生であった。
この論文の中で、宮本は、芥川の自殺をプチブル・インテリの限界を示すものであり、「(我々は)芥川の階級的土壌を踏み越えていかなければならない」と結んでいる。
さすがに時代のスィートスポットを射ているとは思うが、社会主義国家の行く末を見てしまったわれわれは、どのような道を構想するのか?

タイトルが示すように、宮本は、芥川の自殺を「敗北」と断じたわけである。
そのことは芥川自身によっても自覚されていたとみるべきであろう。
芥川は、『或旧友へ送る手記』の中で、「ぼんやりした不安」の解剖を、「僕の『阿呆の一生』の中に大体は尽してゐるつもりである」としているが、その『或阿呆の一生』の最後の項には、「敗北」のタイトルが付されているのである。

『或阿呆の一生』の冒頭の項は「時代」と題されている。
芥川は、明治25年3月1日生まれであるから、大正改元の時に20歳(第一高等学校在学)、昭和改元の時に34歳であった。
改元は、「時代」を意識させる契機となるであろう。
「時代」の項には、有名な「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という句がある。
この言葉を文字通り受け止めれば、芥川の芸術至上主義の心情を示すものとして捉えられよう。

しかし吉本隆明は違う視点で捉えている。
吉本は、『芥川竜之介の死』と題して、芥川の死に対する様々な論者の見方をレビューした後で、芥川の不安は、下町の中産下層の出自とインテリゲンチャとしてそこから抜け出そうと葛藤した結果としての、神経的な不安だとした(『藝術的抵抗と挫折』未来社(1963)所収、初出1959年)。
吉本は芥川の澄江堂遺文の中の「汝と住むべくは下町の」という言葉こそが芥川のホンネであり、「人生は一行のボードレエルにも若かない」という言葉は、「ボオドレエルの百行は人生の一こまにも若かない」であったはずだ、とする。
芥川の「不安」は、時代の動きと同期したものであったということである。

大阪維新の会のリーダー橋下徹の手法・姿勢を、ファシズムに掛けて、「ハシズム」と言うらしい。
大阪の有権者は彼(ら)を圧勝させたが、確かに政策の中身に立ち入るとそのように感じられるものもある。
自民、民主の2大政党への批判の要素も大きいであろうが、昭和前期の歴史を繰り返さないために、じっくりと考えたい。

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2012年1月 2日 (月)

新春のウィンナ・ワルツ

新春に相応しい音楽と言えばウィンナ・ワルツであろう。
私は夏のウィーンは訪れたことがあるが、新春のウィーンは知らない。
ウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」を聴きに、一度新春のウィーンに行ってみたいと思っていたが、どうやら叶わぬ夢ということになりそうである。

ウィーンフィルの「ニューイヤー・コンサート」の指揮をするのは指揮者にとっても最高位の栄誉だろう。
カラヤンが1987年に指揮して以後、年ごとに指揮者が変わる体制がとられている。
東日本大震災直後に来日して慈善公演をしたズービン・メータは、リッカルド・ムーティと並んで最多の4回指揮台に立っている。
わが小沢征爾も2002年にタクトを振った。

年末の『第九』と同じように、日本のオーケストラも、新春コンサートでウィンナ・ワルツを演奏することが多いようだ。
「MOSTLY CLASSIC」(産経新聞社)の2112年2月号は、ワルツ王・シュトラウスの特集である。

ワルツの3大名曲として「ワルツ・美しき青きドナウ」「オペレッタ・こうもり」「オペラ・ばらの騎士」が解説されている。
ワルツは、オーストリア第2の国歌といわれるらしい。
しかし、18世紀後半にウィーンで流行し始めた頃は、エロティック過ぎるとして、宮廷舞踏会では踊るのを禁止されたらしい。
人気の高まりに抗しきれず、1781年宮廷舞踏会で解禁となった。

「美しき青きドナウ」が作曲されたのは1867年、ワルツは解禁から1世紀近くの間に洗練された音楽となった。、前年の1866年には普墺戦争が起きており、オーストリア帝国は新興プロイセンに大敗する。
沈鬱な気分が国を覆っていた。
しかし、「国破れて山河あり」。母なる大河・ドナウは悠然と流れている。
当初は合唱付きで演奏されていたが、今日では合唱抜きで演奏されることが一般的だ。

付録にCDが付いている。
収録されているのは、「美しき青きドナウ」他のウィンナ・ワルツの名曲集だ。
演奏は、ウィーン・ヴィルトオーゼン。ウィーンフィルやウィーン国立大学で教鞭をとる名手から成るアンサンブルである。
CDを聴いて、ウィーンのニューイヤー・コンサートの気分を想像することにしよう。

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2012年1月 1日 (日)

新しき年の初めに

新年、おめでとうございます。

昨年は多事多難の年でした。
「3・11」は、多くの人の生活を変えてしまいました。
1万6千人近くの人が亡くなり、3千5百人近くの人が行方不明のままです。
未だ避難生活を余儀なくされたまま年をこすことになった人も33万5千人と推定されています。
まさに未曾有の国難と言っていいでしょう。

民主党に政権が移ってから3人の首相が誕生しましたが、有権者との契約ともいうべきマニフェストはいっこうに
進展しそうにありません。
昨年末に北朝鮮の金正日総書記が亡くなりましたが、今年は世界のリーダーたちがこぞって交代する可能性があります。
わが国でも、意外と早い時期に総選挙となるかも知れません。

『万葉集』の編者といわれる大伴家持は、掉尾に自らの歌を置きました。

新しき年の初めの初春の今日ふる雪のいや重け吉事

759(天平宝字3)年正月、因幡国の役所で詠んだ歌といわれています。
数年前に大伴氏は奈良麻呂の変に加担したとして、一族の何人もが罪に問われました。
⇒2008年6月 8日 (日):大伴家持とその時代

この歌を最後にして家持の作歌の記録は残っていないようです。
正月の大雪は豊年の瑞兆とされていました。
静かに降り積もる今日の雪のように吉事が続いて欲しい。

新しき年の初めに願うことは、時空を超えて変わらないようです。
三嶋大社は、午後になっても初詣に訪れる人で溢れていました。Img_0043w

今年もよろしくお願いします。

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