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2011年12月18日 (日)

収束と終息/「同じ」と「違う」(37)

野田首相のフクシマ原発事故の「収束宣言」に違和感を覚えたことは昨日書いた。
いまこの時期に、「収束」を「宣言」すべきなのか?

状況判断としては、原子炉の「低温停止状態」が達成されているかどうかが鍵になる。
その判断は専門家によるものに基づいているのだろうが、専門家の間でも判断が分かれているようである。

1993~99年に国際原子力機関(IAEA)の事務次長を務めたスイスの原子力工学専門家、ブルーノ・ペロード氏は産経新聞の取材に、「冷温停止状態の定義があいまいだ。少なくとも核分裂連鎖反応が止まったというだけで、核分裂生成物はすぐに取り除けず、核燃料のエネルギーも残ったままだ」と解説した。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111217/amr11121721020007-n1.htm

「宣言」は、科学的というよりはむしろ政治的な判断に基づいたものであろうか?
だとしたら、どのような政治的な意図に基づき、その意図に沿う効果はあったと言えるだろうか?

「収束」という言葉については、以下のようであった。
⇒2011年12月17日 (土):フクシマは「収束」したのか?/原発事故の真相(14)

1  分裂・混乱していたものが、まとまって収まりがつくこと。また、収まりをつけること。「事態の―を図る」「争議が―する」
「収束」に類似している言葉に、「終息(熄)」がある。
「終息(熄)」とはどういう意味か?
大辞林の説明は次の通りである。

物事が終わって、やむこと。「蔓延(まんえん)していた悪疫が―する」
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/08657300/

とすれば、フクシマ原発事故が「終息(熄)」したとは言えないことは明らかである。
「収束」と「終息(熄)」は、同音類義とも言えるが、同音異義とも言えよう。
こういう場合は、もっと明晰な言葉を使った方がいいと思う。
たとえば、フクシマ原発の原子炉は、「冷温停止状態を達成し、次のステップに向かう段階になった」と言うだけではいけないか?
そうすれば、「冷温停止状態」の定義ももっと深められるのではないか。

あえて「収束」という「終息」を連想させる言葉を使うことにより、「物事が終わって、やむこと」のイメージを持たせようという政治的意図があるとすれば、意図とは逆に大きな失点だと言うべきであろう。
廃炉に向かって、非常に困難な工程が想定されていることは、細野担当相も言明しているところであるからだ。

「収束」という言葉は、数学の用法との関連で考えれば、よりイメージがはっきりすると思われる。

2 数学で、ある値に限りなく近づくこと。収斂(しゅうれん)。⇔発散
 ①ある無限数列が、ある値にいくらでも近づくこと。
 ②数列の項が、ある値に限りなく近づくこと。
 ③級数の途中までの和が、ある値にいくらでも近い値をとること。

遠い記憶に遡れば、「ε-δ」の論理に関係する。
Wikipediaでは次のように解説している。

ε-δ 論法(イプシロンデルタろんぽう、またはエプシロンデルタろんぽう)とは、解析学において、無限小無限大を用いず、有限な大きさの実数を値にとる変数 ε や δ などを用いて極限を扱う方法である。

ぞっとした記憶が甦った人も多いのではないか。
私も、大学に入って直ぐに、ε-δで躓いたクチである。
たとえば、「関数値の収束」は次のように表現される。

任意のの数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、 0 < |xa| < δ を満たす全ての実数 xに対し、 |f(x) − b| < ε が成り立つ。
この式が成り立っているとすると0< |xa| < δ の範囲で実数 x を動かしているうちは、どのように動かしても f(x) と b との差は高々 ε 程度でしかない。 xa に近付けるという極限操作を行っている最中でもそうである。 ε は任意に選べるので好きなだけ小さくとっておき、それに応じて δ をちゃんと選べば x が0< |xa| < δ を満たす限り、 f(x) は b からせいぜい ε しか離れてない範囲に留まり続けなければならないのである。

また、「級数の収束」は次のようである。

任意の正の数 ε に対し、ある適当な自然数 N が存在し、N より大きい全ての自然数nに対して|anb| < ε
が成り立つ。 という意味である。
つまり N をうまく選べば、添字 nN より大きな an は、 b から高々 ε 程度しか離れられないようにできるということである。 ε は自由に選ぶことができるので好きなだけ小さい正の実数を取ればよい。これによって anb に近付くという状況を表現できる。
このように数列の極限を扱う場合は δ ではなく N を使うため ε-δ 論法ではなく ε-N 論法と呼ばれたりもする。

つまり、数学的な「収束」には、任意のεを基準として、その範囲内に収まる、という論理がある。
原子炉の状態にそのような基準は想定できないだろう。
その意味でも、「収束」を「宣言」することは、ミスリードするものではなかろうか。、

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