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2011年11月18日 (金)

諏訪大社(7)三嶋大社との関係/やまとの謎(46)

諏訪湖の湖畔で、地元の人に「富士山の向こう側からきました」と言ったら、「静岡県からですか?」という反応が返ってきた。
その時は深く考えもしなかったが、富士山に係わるレイラインの図をもう一度見ていただきたい。
⇒2011年11月12日 (土):諏訪大社(5)レイライン/やまとの謎(44)
Photo

諏訪(大社)と三島(大社)が、富士山を挟んで180度すなわち直線を成しており、しかもその直線上に「大室山」が2か所存在している。
http://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol6/
諏訪大社と三嶋(島)大社は何か関係があるのだろうか?
三島市の三嶋大社は伊豆国の一宮である。
三島市にあるから、三嶋大社だろう、と長いこと思っていた。
ところが事情はそう簡単なことではないようだ。
Wikipediaでは以下のように解説している。

創建に関しては極めて古く不明であるが、三宅島(現:富賀神社)→下田・白浜海岸(現:伊古奈比咩命神社)→大仁町(現:広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承がある。他に、伊予国大三島大山祇神社からの分社との説もある。
延喜式神名帳』には「伊豆国賀茂郡 伊豆三島神社」として記載されている。『延喜式』が書かれた平安時代初期には賀茂郡の下田・白浜海岸に正妃・伊古奈比咩命を祀る神社と並んで建っていた。白浜海岸には現在、伊古奈比咩命を主祭神とする伊古奈比咩命神社がある。
現在の三嶋大社は、平安中期以降に
田方郡の国府の近くに新宮として分祀されたものであるとされる。現在地には元々若宮八幡があったが、三島明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲ってくれ」と言い、若宮八幡がそれくらいならと了承すると、三島明神は藁の束を解いて輪にし、若宮八幡の広大な敷地を囲んで占有してしまったという伝承がある。現在、若宮八幡は三島市西若町にあるが、そのために三嶋大社に背を向けて建ったという(現在は三島大社と同じ南向きに建っている)。

もともと三宅島にあった神社が、下田→大仁町(現伊豆の国市)を経て現在地に遷ったということらしい。
三嶋(三島)神社があったから三島市になったということかも知れない。
この間の事情はまったく未知であるが、以下のような記述が目に入った。

三島神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、「三島明神は牛の背に乗って移ってこられた」と伝承されており、広瀬神社には三島明神と最も関係の深い瀬織津比売が祭られている。伊豆白浜から三島神社がこの地に移って来て鎮座されていたことは事実で、次の文献でも明らかである。
中伊豆の三島神社が文献に現われるのは『吾妻鏡』の治承四年(一一八〇)八月十七日の条であるが、それには、「北条殿が申されて云うには、今日は三神(島…引用者)明神の神事(祭り)である。郡参の輩下の向う間は、定めて衢[ちまた]に満つ。よって牛鍬大路を廻る者は通交違反者と為し、咎[とが]とされ[ママ]べく、之の間、蛭嶋[ひるがしま]をゆっくり行く可[べ]し」というおふれがあって、群衆が出るので、牛鍬大路を通らず、蛭嶋を行くようにと書かれていることである。蛭嶋とは現在の田方郡韮山町蛭ヶ小嶋のことで、ここに源頼朝は十八歳の時より流されていた。そして三十一歳の時この地で源氏再興の旗揚げをして、韮山の山木の平氏を討った頼朝は、三島明神の森に結集したわけであるが、蛭嶋と三島明神は近い距離にあったのである。ここから三島市までは一三キロあって、この当時はまだ現在の三島市には三島神社はなかったのである。
ところが三島市史は、三島神社が古来から現在の地にあったとし、反対に『延喜式』でいう加茂郡(賀茂郡…引用者)の三島神社の所在地を三島市にある三島神社の飛地と見なしている。これは正論である県史やその他の書の説に頑固に反対するものといわなければならない。
平安時代末の治承四年(一一八〇)の時点、「まだ現在の三島市には三島神社はなかった」という指摘です。『三嶋大社』巻末の年表には、文治三年(一一八七)のこととして、「頼朝、三嶋社、社殿を造営す」、翌年「頼朝、三嶋社に参詣す」とありますので、このあたりに三嶋社の現在地への遷座・遷宮を認めてよいのかもしれません。

「月の抒情、瀧の激情」:伊豆・三嶋大社へ──生きている越智氏崇敬の神

そもそも三島市の辺りの地域は古代においてはどのような位置づけだったのだろうか。
三島市のサイトには次のようにある。

西暦645年、大化の改新によって天皇を中心とした新しい国づくりが始まり、701年大宝律令の制定によって中央集権的な国家ができあがりました。
680年、伊豆は験河国から分かれて独立しました。国の中心であるいまの県庁にあたる、国府の位置については明らかではありませんが、平成元年に三嶋大社の境内から発掘された掘立柱の建物跡が注目されました。
そこは三島の中心で、田方郡内であり、中世の文献に記されているように三嶋大社の近くです。そこで「静岡県史」ではこの遺跡を伊豆国府跡の一部と推定しています。

古代政治の中心地は三島(奈良・平安時代)

上に引用した三嶋大社のWikipediaの解説を併せ考えると、以下のようになるだろう。

今の三島大社を脳裏に浮かべて判断してはいけない部分があるわけだ。今の三島大社は、平安中期以降、国府のすぐそばにわざわざ作られたモノである、というのがポイントであって、元は八幡系の神社があった。それを追い出して今の三島大社が出来たのだ。
「ネットゲリラ」: 知って驚く三嶋大社と伊豆国君沢郡の謎

八幡系を追い出して?
神社にもいろいろ系統(派閥?)があるらしい。
神社の歴史はむずかしい。

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