谷崎潤一郎『陰翳礼讃』/私撰アンソロジー(11)
今年の「節電の夏」は、照明というもののあり方を再考させたように思う。
商業施設やオフィスなどの多くが、照明を落としていた。
街灯なども暗くしているところがあったが、防犯上どうなのだろうか?
高出力の照明用LED等も開発されており、街灯用にも試験済みだと聞いている。
街灯や信号灯などは、取り替えに要するコストが大きい。
寿命の長いLEDランプは、これらの用途にこそ先ずは使われるべきだろう。
それにしても計画停電実施中は落ち着かない日々だった。
久しぶりにローソクの用意などもした。
「明るさ」は文明の象徴でもあるだろう。
というような夏だったからであろうか、NHKテレビの「トラッドジャパン」の9月号のテーマの1つに「日本のあかり」が取り上げられている。
The hallmark of traditinal Japanese lamps is that they illuminate the room ever softtly.
日本の伝統的なあかり、それは空間をほのかに照らすことに特徴がある。
上の写真のようなモノクロームの美は、日本人の多くが共有するところだろう。
イタリア人の色彩感覚も見事なものだとは思うが、生活するとなると和風が好ましい。
蛍光灯は明るいけれど陰影という点では物足りない。
お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった イカでいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり 灯りゃいい
……
矢代亜紀の唄う『舟歌』(作詞:阿久悠、作曲:浜圭介)であるが、「灯りはぼんやり 灯りゃいい」という感覚は、原子力エネルギーの利用の増大と共に失せていったのだろうか?
日本の原子力の利用は、サンフランシスコ講和から動き出すから、まさに戦後体制と表裏一体であった。
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器//『ゴジラ』の問いかけるもの(3)
とすれば、、「灯りはぼんやり 灯りゃいい」というのはノスタルジーに過ぎないのか?
日本人の「和のあかり」に対する嗜好については、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』が有名だ。
初出は、「経済往来」昭和8年12月号・9年1月号である。
月刊「カーサ ブルータス」1109号で、「今年の夏の必読書!」として特集されている。
現代美術作家・杉本博司氏は、特集の中で次のように言っている。
僕は時々、「暗さ」がドライビング・フォースとなって、この文明を育てたのではないかと考えることがあります。電気のない時代は、暗くなったらもうやることがないわけですから、哲学について思いを巡らせたり、暗い空を脳髄のスクリーンとして、未知の観念を映し出していた。そうした思索の時間として存在していたはずの夜を、人工光が殺してしまいました。以来、人間の想像力が減衰し続けた結果、「想定外」の原発事故に至ったのです。
松明の明かりの下で演じられる薪能なども、明るさと暗さのコントラストによって、観客の想像力を刺激するもののようだ。
⇒2011年10月 9日 (日):三保松原で薪能を観る
照明はエネルギー問題であると同時に、人間の想像力の鍛え方の問題でもあるようだ。
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