« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月

2011年10月31日 (月)

伊都國について/魏志倭人伝をめぐって

福岡市の元岡・桑原遺跡群で、銘文が象眼で刻まれた鉄製の大刀が出土して注目されている。
⇒2011年9月24日 (土):福岡元岡古墳出土の大刀と日本の暦/やまとの謎(38)

元岡・桑原遺跡群の位置は、魏志倭人伝に書かれている伊都國の場所である。
Photo
http://mpv21hiro.blog75.fc2.com/blog-entry-824.html
伊都國は、倭人伝に登場する国々の中でも重要な国の1つである。
『魏志倭人伝』には、次のように記されている。
東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐(『魏志』倭人伝)
原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家があり、世に王があり、みなは女王國に属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来する時、常にここにとどまる。」ということである。

伊都国は朝鮮半島中央部の西海岸にあった、帯方郡の支配を受けていたことが「魏志倭人伝」から窺える。支配と言っても、実際の統治は伊都国の王が行っていて、帯方郡からは役人が派遣され常駐していたと言われる。帯方郡は、西暦238年から中国の魏の支配下に入ったため、3世紀の半ば頃からは倭人を巡る国際関係は一変したと言う。

『魏志倭人伝』の中で王が居たと明記されている倭の国は伊都國と女王國と狗奴國で、他の国々には長官、副官等の役人名程度しか記されていない。

漢字のの字は「神の意志を伝える聖職者」、あるいは「治める人」の意を表す。都は「みやこ」の意味だが…。
Wikipedia伊都國

通説(多数説)は、末盧國=松浦半島唐津付近、伊都國=糸島半島と考える。
Photo
http://www.iokikai.or.jp/kodai.itokoku.html

もちろん伊都國の所在地についても異説がある。
⇒2009年1月 6日 (火):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑥「田川郡・京都郡」説(坂田隆)
⇒2009年1月 7日 (水):珍説・奇説の邪馬台国・補遺…⑦「宇佐移転」説(澤田洋太郎)

しかし、「週刊朝日111007」の足立倫行氏の連載「倭人伝を歩く3」の『女王国の中核は伊都国と奴国』では、2007年11月の発掘調査により、唐津市の桜馬場遺跡が末盧国の王墓と推定されたことで、末盧国=唐津市がほぼ確定したとある。
とすれば、伊都國=糸島説も確定ということになるのだろうか?

問題は次の一文である。

東南陸行五百里、伊都国に到る

坂田隆氏は、「倭人伝の行路記事で最も肝要な部分は、末盧国から伊都国への方向を述べた部分である」としている。
通説では上図に見るように、末盧国から伊都国へは、東南ではなく東北の方向である。
これをどう考えるか?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年10月30日 (日)

ホームレス歌人・公田耕一/私撰アンソロジー(10)

Photo

その人は、あたかも写楽のようだといわれる。
2008年12月8日、朝日新聞の短歌欄に突如として登場。
約9カ月の間に驚異的な入選率の歌を投稿。2009年9月7日を最後として、忽然と消えた。
本名、生没年、出生地などは不明。

確かに写楽に似ている。
東洲斎写楽。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間だけ活動した謎の浮世絵師。
独特の画風が強い印象を残すが、本名、生没年、出生地などは不明。
未だにその素性を明らかにしようと追求する人が後を絶たない。
⇒2010年12月19日 (日):江戸の仕掛け人-蔦屋重三郎

公田耕一と名乗るその人は、朝日新聞短歌欄の投稿の住所欄に、ホームレスと記載した。
ホームレス歌人・公田耕一、だが姓の正しい読み方すら分からない。
コウデン、クデン、キミタ、コウダ……、人それぞれに読む。

その年の12月は、ことさらに多くの人にとって寒々しかっただろう。
リーマンショックの直後である。
Photo
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5075.html

2008年9月15日、サブプライムローン問題等により、リーマン・ブラザーズが破綻した。
日本経済にも大きな影響を与え、日経平均株価も暴落し、バブル以降の最安値をつけた。
失業者が増大し、2008年12月31日から翌年1月5日まで、日比谷公園に開設された「年越し派遣村」が話題になった。

そんな中での、自称ホームレスである。
本当にホームレスなのか?
だとしたら、どのような経緯でホームレスになったのか?
作歌のスキルは、いつ、どこで、身に付けたのか?

作風からは相応の教養が感じられもする。
旧かなづかいを自然に使いこなしているのは、意識的に身に付けたスキルなのか、自然に身に付くような年齢の故か?
後者だとすれば私よりも年長者である。

三山喬『ホームレス歌人のいた冬』東海大学出版会(1103)のような追求の書もあるが、いまだ本人確認に成功していない。
誰かが詠んでいたように、まさに「伊達直人公田耕一そのひとを知りたくもあり知りたくもなし」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月29日 (土)

猿橋の「用」と「美」と「レジリエンス」/花づな列島復興のためのメモ(10)

民芸などで、「用」と「美」ということが言われる。
あるいは、「用の美」。
柳宗悦らによって発見された新しい美。日本民藝館のサイトから引用しよう。

下手物(げてもの)とは、ごく当たり前の安物の品を指していう言葉として、朝市に立つ商人たちが使っていたものであった。この下手物という言葉に替え、「民藝」という言葉を柳をはじめ濱田や河井たちが使い始めたのは、1925年の暮れである。「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工藝」の「藝」を指す。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのであった。
http://mingeikan.x0.com/about/yanagi-soetsu.html

それは、日常使用しているものにも美はあるのだ、ということであろう。
「用」は役に立つということである。
機能という言葉に近いが、機能美とはどう違うのか。
以下のような説明がある。

ところが、この「用の美」をいわゆる機能美として理解してしまうと間違いです。

ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。  柳宗悦『工藝の道』

と柳さんは述べています。そして「唯物的用と云うが如きは概念にすぎない」として、同時に、「「美だけ」ということが、唯心的空虚であるのと同じである」とも言っています。

用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。  柳宗悦『工藝の道』

不二とは、もとは仏教用語で、相対的でないことを指します。日常的、世間的、人間的な認識では相対立して現れる事柄が、仏教の高度な理解においては統一して捉えられることを示しています。
つまり、物心への用は、2つの異なる相ではなく、おなじ統一された用であると柳さんは言っているのです。
これが機能美でないのは明らかです。
そもそも機能は決して用ではありません。それはモノの側、システムの側の働きを示すのみであって、必ずしもそれが人の用を満たす働きになるとは限らないのは、世の中の多くの製品を思い出せばすぐにわかります。
http://gitanez.seesaa.net/article/108754313.html

いささか分かりづらい。
しかし、木の橋として有名な「猿橋」を眺めていて、「用」と「美」という言葉を思い出した。
この場合は、機能美という方が相応しいかも知れない。
Web

錦帯橋、木曽の桟(現存せず)と共に日本3奇橋と称されている猿橋は、旧甲州街道を横切る桂川の渓谷が最も幅を狭めたところに架けられていた木橋である。昭和59年に架け替えられた現橋は、鉄骨を主要構造材として用い、外側に木版を貼り付けた鉄骨木装構造であるが、見かけ上の構造形態は、1851年当時のものを極力忠実に再現したものとなっている。
猿橋が最初に架けられたのがいつごろであるかは定かでないが、聖護院道興が残した旅日記「回国雑記」で、猿橋は高くて危険なこと、架け替えの際の奇妙な仕組みに言及していることから、彼がこの地を通過した1486年には既に存在していたと言える。木橋であるが故に耐久性に欠けるのは致し方なく、これまでに幾度となく架け替えが行われ、現在に至っている。

http://www.infra.kochi-tech.ac.jp/fujisawa/jsce/saruhashi/index.html

Web_2

猿橋の魅力はその構造だ。
橋のある場所は、両岸が切り立った「地の裂け目」というようなところで、そのはるか下を桂川が流れているが、当然これでは橋げたを設けるわけにはいかない。
そこで考え出されたのがこの構造。つまり、まず岸から短い角材(はね木)を突き出す。この角材を支えにして、その上にそれより長い角材を突き出す。さらにそれを支えにして、もっと長い角材を上に突き出す・・・。これを両岸から行い、最後にその上に橋の本体を乗せる、というものだ。
ま、こう説明すれば単純なのだが、鉄骨もワイヤーもない時代、この構造を考えつき、実現させた技師の英知に思いを馳せれば、ここはやはり「名橋だ」と思うのである。
Photo_4

http://homepage2.nifty.com/yosanroom/nippontabi_saruhasi.htm

Web
一種の組物と呼んでいいのだろうが、創意工夫の具体化である。
木の橋としては蓬莱橋が長さを誇る。
⇒2011年7月17日 (日):代通寺の蓮の花と大井川の蓬莱橋
今年の台風12号、15号で橋脚の一部が流失した。
上記の説明のように、木橋は耐久性に欠けるが、それは致し方ないとして、復元しやすいことがメリットといえよう。

東日本大震災の後、「レジリエンス」という概念が注目されている。
藤井聡『列島強靱化論―日本復活5カ年計画 (文春新書)』(1105)では次のように説明している。

つまり、まとめていうなら、「天変地異を乗り越える」ために必要なのは、
①致命傷を避ける
②「傷」を小さくする
③「傷」を早く回復する
という3つの条件だ。我が国がどんな危機に対しても、この3つの条件をもつことができるなら、我が国は、極めて「強靭な国」だということができよう。
ここで、この「強靭さ」という言葉を英訳すると「レジリエンス」(resilience)という言葉になるのだが、これは「弾力性」ということを意味している。ところが、「1強靭」という言葉は、しばしば、全く「弾力性」をもたない「強固」という言葉と混同されてしまう場合もある。

「レジリエンス」を考えるには、制約条件の多い中でソリューションを考え出した古人の知恵に学ぶことが重要な気がする。
温故知新である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月28日 (金)

諏訪湖畔の美術館と万治の石仏

諏訪湖畔のナナカマドが美しく赤く色づいている。
湖畔の道はウレタン(?)で舗装されていて、ウォーキングにもジョギングにも好適だ。
111021
「週刊すわ」111021

また、湖畔近くの家屋がリンゴ園を営農していて、たわわに実った赤いリンゴが抜けるような青空に良くマッチしている。
Photo_7

湖の近くにはいくつかの美術館がある。
今日は北澤美術館とサンリツ服部美術館を訪ねた。
この2つの美術館は湖畔に並んで建っている。
Photo_8

北澤美術館は、株式会社キッツの創業者北澤利男が1982年に設立した美術館。
株式会社キッツは、東証一部上場のバルブ・システム機器等の流体制御機器の製造メーカーで、旧社名を北澤バルブというが、私などには北澤バルブの方が馴染みがある。
館のエントランス付近に、エミール・ガレの「ひとよ茸ランプ」が展示されている(下図左側)。
アール・ヌーボー期のガラス工芸のコレクションで有名だ。
Photo_5

サンリツ服部美術館は、セイコー-エプソンの元社長、服部正次・一郎父子のコレクションを中心とする。
Photo_3
何といっても、国宝の「楽焼白片身変茶碗 銘不二山」の収蔵で有名である。
本阿弥光悦の作品。
光悦茶碗中第一の名作と称される。桃山時代以来に制作された茶の湯の茶碗の中でも最も品格が高いといわれている。

両館で目の保養をした後、万治の石仏を尋ねた。
諏訪大社春宮の脇にある。
Photo_4

高さ2.7m、長さ4mの自然石(輝石安山岩)の上に、高さ63cmの仏頭がちょこんと載せられている。稚拙な感じが大きいが、それがかえって活き活きとして、一度見たら忘れることのできない異形の石仏である。
岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛した「万治の石仏」。異形と称されるのは、自然石の胴体に別の石で彫られた仏頭が載せられていることによる。石仏は、原則として一個の石から刻出されなければならないという。なぜ、このような類例のない石仏がつくられたのか。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_chubu/013_manji/013.htm

伝説によると、諏訪・高島藩主が諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納するため工事を依頼し、石工がこの地にあった巨石にノミを入れたところ、そこから血が流れ出したので、石工が驚いて石に阿弥陀如来をまつったという。
何ともユニークな石仏である。
友人は「我が家の守り神にしている」と言っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月27日 (木)

大木実『湖』/私撰アンソロジー(9)

Photo_6

諏訪湖の近くにセカンドハウスを構えた友人を訪ねた。
湖畔のレストランで美味しいフランス料理をご馳走になった。
食事をしている間に景色は夕暮から夜景に変わっていった。
対岸の灯火が美しい。
Photo
http://suwako.shinshu-a.com/ 23:00頃

私が、「詩」というジャンルに関心を持ち、自分から求めて接したのは中学生の時だったと思う。
最初は藤村や上田敏の訳詩だった。
そのうち、中原中也や立原道造の詩がいいと思うようになり、自分でも真似して作ってみたりしたが、才能の無さは直ぐに自分で分かった。

大木実は、いまやほとんど忘れられた詩人といっていいだろう。
Wikipediaで検索しても、同姓同名の俳優は載っているが、詩人の記載はない。

大木実(大正2~平成8/1913~1996)東京生まれ
大正2年、5月東京本所(墨田区)で生れる。柳島尋常小学校卒業。
7歳で母を亡くす。電気工の父の意に沿い、神田の電気学校入学、のち中退。事務員、工員などの職を転々とする。若い頃より、犀星・朔太郎・佐藤春夫など、抒情詩に親しむ。
16歳で、犀星『愛の詩集』に、衝撃を受けて詩作を開始。「牧神」「冬の日」などの同人誌に参加、作品発表。尾崎一雄の知遇を得、砂子屋書房に勤務。
昭和14年、26歳、同社より、処女詩集『場末の子』刊行。抒情的で日本的な生活や土壌、人間にねざした詩風を評価される。
昭和16年、結婚、同年海軍の兵役に従事。
昭和17年より、第二次「四季」(同人:三好達治、丸山薫、堀辰雄ら)同人となる。西洋的叙情を主流とした「四季」において、大木の作品は異彩を放ち、杉山平一とともに重要な詩人の一人とみなされる。 詩集『故郷』序に、高村光太郎が「今の世にこれほど素直な、ありのままな詩 を見るのは珍しい。しかもそれが正しい技術によってゆるみなき表現を持ち、おのずから人間生活の深い実相と感動とを人にさとらしめる」との一文を寄せる。戦前から、戦後まで、精力的に詩作をつづけ、詩集を刊行。
昭和21年、28歳で、ベトナム・サイゴンより復員。詩集『初雪』は、当初19年に刊行予定だったものが、空襲で焼け、同年刊行となる。復員後は、埼玉に居を定める。
児童出版社勤務ののち、昭和23年より昭和50年まで、大宮市役所に宮仕えをしながら、詩作をつづける。病気と貧乏とで、厳しい生活環境だった。詩作品においては、己の生活、家族のひとりひとりをうたったもの、地元の風景、などがたびたびモチーフとなる。
昭和57年、埼玉文化賞受賞。
平成4年に『柴の折戸』で第10回現代詩人賞受賞。
平成8年4月17日。享年82。生涯に遺した詩集の数、およそ20冊。

http://pippo-t.jp/newpage133.html

上に掲げた作品は、初心の頃のお気に入りで、諏訪の友人を訪ねることになった時、記憶の底から浮かんできた。
この詩人は、難しい言葉を使うことなく、詩想を見事に定着させている(と思った)。
ちなみにシュトルムの『みずうみ』は次のような物語である。

夕べの散歩から戻って来た、一人の老人が月の光に浮かんだ一人の女性の肖像画を目にして、若い日々を回想することから話が始まります。
ラインハルトとエリーザベトは仲の良い幼友達でした。ラインハルトは上の学校へ進むため、遠くの都会へと旅立って行きます。その地の学生生活が楽しく、エリーザベトへの便りも忘れています。エリザベトはラインハルトの友人でもある、資産家の息子エーリッヒからプロポーズを受け、母親の強い勧めで結婚しました。数年後、ラインハルトはエーリヒに招かれ、湖のほとりの館におもむきます。これを知らぬエリーザべトはラインハルトの出現に平静を保つのがやっとでした。ラインハルトはエーリヒの工場や農場を見物したり、館の周辺を散策したりして時をすごします。ある晩のこと民謡の収集をしているラインハルトは乞われるままに集めた民謡を披露していると、なかに「母の願いは」という詩がありました。母の希望で愛する人から去り、心ならずも嫁ぐことになった娘の心情を歌ったものです。これを読んだエリーザベトはこらえきれずに、そっとその場をはずします。後を追うようにして外に出たラインハルトの目に、湖に浮かぶ白いスイレンの花が目にとまります。この花に近づこうと泳ぐのですが、花に近づくことができず、虚しく岸に戻ります。この館に滞在するうち、エリーザベトへの愛に気づいたラインハルトは、二人だけになったおり、それとなくやり直せないものかと問うのですが、やんわりと避けられてしまいます。ラインハルトはこの時、永久にエリーザベトを失ったことを知り、翌朝エリーザベトの「もう戻ってこないのね」という言葉にうなずき、館を去って行きます。
老人が我に返ると、部屋には月の光も消え、暗くなっていました。ただ、老人の目には暗い湖上に寂しく咲く白いスイレンが映っているのでした。

http://homepage3.nifty.com/storm-japan/immensee01.html

現実の諏訪市は、セイコー-エプソンの本社ならびに主力工場のある工場都市として発展してきたが、諏訪湖や諏訪大社などを主資源とする観光都市としての顔も持っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月26日 (水)

北杜夫さんを悼む/追悼(15)

「どくとるマンボウ」 こと北杜夫さんが、24日亡くなった。

ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。
84歳だった。告別式は親族で行う。
近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれた。旧制松本高を経て東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。
60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを出版して人気を博した。
同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、毎日出版文化賞を受けた。「さびしい王様」など、大人も子供も楽しめる童話でも親しまれた。「青年茂吉」など父の生涯を追った評伝で98年、大仏次郎賞を受けた。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20111026-OYT1T00081.htm

私が『どくとるマンボウ航海記』中央公論社(1960)を読んだのは、高校3年の夏休みだった。
田舎の進学校(?)の私の高校では、当時、3年の夏休みの過ごし方にいくつかのパターンがあった。
夏休みをどう過ごすかが、大学の合否の上で決定的に重要だ、と多くの教師が煽った。事実、夏休みをどう過ごすかによって、学力に違いが出るのだろうな、と高校生なりに理解していた。

パターン1は、東京等の予備校の主催する夏期講習に参加することである。
これは、東京滞在の費用も含めて結構な額になる。
私のような母子家庭で、日本育英会から特別奨学金の貸与を受けていた者には望むべくもなかった。

パターン2は、学校の図書室で自習することである。
通常の学校生活の延長であるからやりやすい反面、メリハリがつけ難いだろうな、と思われた。
特に私のように周囲に知人がいるだけで学習モードに入りにくい者には、疑問だった。

パターン3は、自宅学習である。
夏休みの本来的な過ごし方ともいえる。
しかし勉強部屋の独立した家屋ならともかく、わが家はとても快適な環境とは言い難かったので、できれば自宅外を望んだ。

パターン4は、お寺等の一室を借りてそこで生活することである。
私は、気の合う友人と2人でこのパターンを選んだ。
当時、私の姉の勤め先の幼稚園の本業(?)がお寺で、そこの本堂を食事付きで貸してくれた。

基本的には、受験勉強をしたはずである。
当時は確か「4当5落」などと言われ、睡眠時間4時間ならば合格するが、5時間とると落ちるなどと言われた。
何時間寝たかは忘れたが、1日12時間位の学習時間はとったように思う。
しかし夏の甲子園の県予選の母校の試合などの応援にも行ったので、丸っきり受験勉強漬けというわけではなかった。

その受験勉強の息抜きに『どくとるマンボウ航海記』を読んだのだ。
面白くて、気になりながら一気に読了してしまった。
私が持参した記憶はないので、友人が持ってきたものかお寺に置いてあったものだと思う。
同書が出版された年の芥川賞を『夜と霧の隅で』により受賞して話題になっていたはずであるが、それまで触れたことがなかった。

北杜夫さんの本名の斎藤宗吉からも窺えるように、父が歌人として有名な斎藤茂吉、精力剤を売る自称「窓際OL」として、週刊誌のエッセイなどでお馴染みの斎藤由香さんは娘である。
ここにも血脈ともいうべき遺伝子の流れを感知できよう。
⇒2007年12月 7日 (金):血脈…①江国滋-香織
⇒2007年12月 8日 (土):血脈…②水上勉-窪島誠一郎

ペンネームについては以下のような説明がある。

ペンネームは文学活動を開始するにあたり、“親の七光り”と陰口を叩かれることを嫌い、茂吉の息子であることを隠す意図で用い始めた。杜夫の由来は仙台(杜の都)在住時、心酔するトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』(杜二夫)にちなんでつけたという。本人の談では、まず北の都に住んだので、「北」とつけ、「杜二夫」ではあまりに日本人離れしているので、「杜夫」にしたということである。その後順次「東」、「南」、「西」と、ペンネームを変更するつもりだったが、「北杜夫」で原稿が売れ始め、ペンネームを変更すると、出版社との契約等で支障があると判明し、そのままになったらしい。
Wikipedia

躁うつ病に罹患していたが、エッセーなどでその病状をネタにしていた。対象化することで乗り越えようという意図があったのではなかろうか。

同じときに読んだもので、もう1冊記憶に残っている本がある。
小田実『何でも見てやろう』河出書房新社(1961)である。
50年近く昔、遠い青春の1コマであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月25日 (火)

簡易上肢機能検査/闘病記・中間報告(35)

全体として右片麻痺の状況は変わらないが、特に上肢の回復は遅い。
先週、ステフ(STEF)という名前の簡易上肢機能検査を行った。
ブログ上レポート!身体障害編

Photo_2
http://www.sakaimed.co.jp/service/medical/pdf/sot3000_01.pdf

上図のような器具を使い、物をつかむ、移動させる、離すという運動をどれくらいの時間でできるかを計測する。
Photo_3
ブログ上レポート!身体障害編

半年ほど前にも試みたが、計測以前だったようだ。
大きいものをリリースすること、細かいものを掴むことができない。
今回も、特に上図の細い金属棒で苦戦した。つまみ上げて穴の位置で垂直に立てることが難しいのである。
30秒以内に終了しないと0点である。
30秒以上かかったが(1分以上であることは間違いない)、とにかく6本の金属棒を差し込むことができた。
最後の1本を指し終えたとき、OT(作業療法)のスタッフが手を叩いて祝福してくれた。

NHKスペシャルと連動して出版された市川衛『NHKスペシャル 脳がよみがえる 脳卒中・リハビリ革命』主婦と生活者(1109)に、「褒める」ことが患者の状態改善に大きな効果があると紹介されている。
わがOTチームもその辺りを心得ているようだ。

しかし結果的には、100点満点中13点だから、客観的にみれば完全に落第点である。
ちなみに健常者の場合、以下のようである。
Photo_4
http://www5.ocn.ne.jp/~tamai/a/e/a/ot5.htm

30点で日常生活を手助けを受けながら行うことができ、70点でかなりの部分を自立的に行えるということである。
13点というのは依然として廃用のレベルを脱していないことを意味するが、半年前に比べるとかなり改善していることが自覚できた。
どういう訓練が必要かという課題もある程度明確化したので、次の機会には大幅改善を期すことにしよう。

上掲書に淵脇さんという人(64歳)の例が載っている。
鹿児島大学の川平教授により劇的な改善を遂げた症例である。
淵脇さんは、入院時に10点だった。2年前に脳出血を発症したというから、私とほぼ同時期である。
川平法を受けたことにより退院前日=入院57日目、64点だった。
それにしても、左手(利き手ではない)で簡単にできることが、何と難しいことか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年10月24日 (月)

ジョブズはリンゴに顔残す?

虎は死んで皮を残す、といわれるが、アップルのS.ジョブズの残したものは簡単には言えない。
数多くの追悼文が溢れており、いかに大きな存在であったかと改めて思う。
ジョブズの功績の論評はしかるべき人に譲るとして、ここではあるしたたかな試みを紹介しよう。

アップルという社名の由来については諸説ある。

名前の由来には諸説があって代表的なものだけでも、ジョブズがビートルズを尊敬(ビートルズのレコード会社名がアップル) / 同じくジョブズがフルーツダイエットをしていた時期があって、そのころリンゴだけ食べればシャワーを浴びる必要が無いと考えていたことから / リンゴは知恵の実で良いイメージ / 電話帳の最初のほうに掲載したかった(頭がA) / 現在のコンピュータの概念を初めて提唱したアラン・チューリングが青酸カリ入りリンゴで自殺したから / ほかにも多くの仮説・俗説があるが、いずれも米Apple社の公式な説明ではないため真偽は定かではない。
Wikipediaアップル インコーポレイテッド

またロゴマークについては以下のように説明されている。

Apple が創業されたときのロゴマークは、ニュートンリンゴの木に寄りかかって本を読んでいるところをモチーフにした絵(ロン・ウェインのデザイン)であった。しかしこれでは堅苦しいと考えたスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケンナ社のアートディレクターロブ・ヤノフに新しいロゴマークのデザインを依頼する。ヤノフは、シンプルな林檎の図案の右側に一かじりを加えた。「一かじり」を意味する “a bite” とコンピュータの情報単位の “byte” をかけたのだという。最初はモノクロだったが、ジョブズが、Apple IIのカラー出力を印象づけるため、カラー化を指示し、6色の横縞が追加された。横縞のないモノクロのロゴも、マニュアル、製品包装などの白黒の印刷物に引き続き使用された。
1997年にジョブズが暫定CEOとしてAppleに復帰すると、黒のボディに白抜きの大きなアップルロゴを大胆にあしらったPowerBook G3を発表。続いて発表されたiMacでは従来のアップル製品に長らく採用されていた6色に塗りわけられたロゴは廃止され、立体的にデザインされた単色ロゴを採用し、新生アップルを人々に強く印象づけた。1999年以降は、6色ロゴは全く使われなくなり、もっぱら単色(従来から使われていたモノクロのロゴではなく、さまざまな色に塗られたもの)のロゴが使用されている。

6   Photo_2

この1かじりされたリンゴを利用して、遊びのデザインが試みられている。

Photo_6
これはMatt Johnsonという方の作品で、人のシルエットはアルフレッド・ヒッチコックなのだそうですよ
黒い部分が背景になるとりんごが見えるし、白い部分が背景になると人の横顔が見えるという人の視覚の特性を捉え、なおかつアップル社のマークもパロディーに使っているという点でとても面白い作品だと思います。

http://plussight.net/?p=1402

この顔を、ジョブズにしたものがあり、中国で早速コピー商品が出た。
Photo_7
http://rocketnews24.com/2011/10/12/140046/

なんとも恐るべき商魂ではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年10月23日 (日)

私のウォーキングコース・門池/闘病記・中間報告(34)

私のリハビリ用の散策のコースの1つに沼津市の門池公園がある。
門池は小学校の(2年生?)遠足で来た思い出の場所である。
近隣で2007年ユニバーサル技能五輪国際大会が開催されたことも関係があるのだろうが、昔に比べると格段に整備されている。
Photo_7
http://kouen.mydns.jp/kadoike.htm

門池の外周に園路・芝生広場を整備した親水公園です。
門池は大岡地区の灌漑用水池として設置され、市内唯一の湖沼として親しまれています。1周約1.3kmの遊歩道は多くの方々に散歩・ウォーキングコースとして利用されています。
随所に休憩所が設けられ、ベンチに座りながら池や富士山を眺めることができ、ゆったりとした時間を楽しむことができます。

Photo_6
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/ryokuchi/kouen/kobetu/kadoike.htm

門池の歴史は以下のようである。

黄瀬川を堰き上げた牧堰用水路(1602年(慶長7年)築造)を補助するために、1645年正保2年)、灌漑用のため池として竣成したものである。しかし同地には、それ以前にも上津池(かみついけ)という池があったという文献もあり、その成り立ちにはまだ不可解な点も多い。
1858年(安政5年)には洪水で池が埋没し、
浚渫時に安政島がつくられた。
大正期には、土砂の流入により灌漑の機能を果たさなくなっていたが、1923年(大正12年)の
関東大震災以降は黄瀬川の水量が減少し、牧堰用水の不足を補う必要が生じた。そのため、静岡県により農業用排水幹線改良事業が実施されることになり、1930年(昭和5年)竣工した。同工事起工時より、門池牧堰普通水利組合が運営管理を行うことになったが、市村合併により、1951年(昭和26年)には沼津市に移管された。
1968年(昭和43年)から行われた導水路工事等により、池の面積が縮小された。
Wikipedia門池

1周約1.3kmは健常者にとってはどうってことのない距離である。
しかし、春先までは1周歩くなどということは思いもよらないことだった。
徐々に歩ける距離が長くなって、1周を歩けるようになると、タイムが気になるところである。
9月初めの時点では、20分45秒くらいだったが、10月になってから20分を切れるようになった。
もちろん、PT(理学療法)の課題としては、速く歩くことよりも歩く姿勢(歩容)の改善がより重要なテーマである。

日没前の「かはたれ」時が好きだ。
今の季節はちょうど暑くもなく寒くもなく、陽が翳るのが早くて散歩には好適だ。
Photo_8
今年は台風の影響で地下水位が高いためか、この池も満々と水を湛えている。
今日の昼間に行ってみたら、DOG!フェスタというイベントをやっていた。
大変な賑わいで、世の中には沢山の愛犬家がいるものだと改めて思った。
Photo_9
Photo_10

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月22日 (土)

SPと同行二人? 菅前首相のお遍路

菅前首相が、念願の(?)お遍路を再開したという。

菅直人前首相(65)が四国霊場八十八カ所を巡る「お遍路」を再開した。このうち終盤の3日間、約40キロの道のりを歩いて同行し、菅さんの「胸中」に迫った。
・・・・・・
最後の夜は大興寺の近くの「民宿おおひら」で迎えた。
・・・・・・
食堂の片隅で弁当を食べていると、晩酌のビールを飲んでいた菅さんから「一杯、どうだい」と声がかかった。ここから一般のお遍路さんも交え、約3時間に及ぶ「懇談会」が始まった。
・・・・・・
ビールから日本酒に切り替える。お遍路さんから「菅さんにはもっと続けてほしかった。役人の言うことを聞かずにやっちゃうところがすごい」と水を向けられると、「こう言ってくれる人もいるのにね」とニコニコ。
・・・・・・
話題は安全神話を作りあげた「原子力ムラ」に及び、原発事故について「いま検証しているけど、残念ながら3・11以前の準備がまったくできていなかった。(外部電源喪失は)想定外なんかじゃない。昨日まで自民党がやってたからなんて、さすがに言えない。
・・・・・・
翌9日は二日酔いで予定を1時間遅らせ、午前8時に出発。午後0時15分、本山寺に着き、今回の遍路旅を区切った。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111012dde012040004000c.html

それにお遍路に出るくらいなら、奥の細道を辿る行脚をすべきではないか、という巷の声もあるようだが、お遍路に出て、懇談するのも結構だとは思う。

NHKテレビの「トラッドジャパン」の9月号にお遍路が載っている。
英語学習のテキストだ。
Photo

The pilgrims wear white robes similar to those worn by the dead. Originally, this signified their wish to be buried on the spot if they died while undertaking this arduous journey.
お遍路さんは、白装束を身にまといます。これは死者が着る衣装とされており、過酷な巡礼の途中で死んだらその場で埋めてほしいという意思表示だったと言われています。

お遍路では、菅笠に書かれているように、「同行二人」という言葉がある。

「同行二人」とはお遍路がお大師さまと二人ずれという意味です。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。
http://www.maenaem.com/henro/bas.htm

しかし、SPを引き連れて、というのは如何なものだろうか。
菅 SP引き連れお遍路再開
まさかSPの費用は自腹だとは思うが、菅氏に同行のSPは気の毒だと思う。

お遍路は俳句の季語でもある。
遍路
風天こと渥美清さんにお遍路を詠んだ句があり、収録している歳時記もある。
⇒2008年7月12日 (土):風天の詩学…①「お遍路」という季語
しかし、菅氏のお遍路には生臭さが纏わりついているようだ。

今回のSP付きのお遍路パフォーマンスは、菅のみならず民主党の多くの国会議員を巻き込む、党存亡の危機とも言える北朝鮮がらみのスキャンダルの鎮静化と不起訴を祈願することである事は間違いなさそうだ。
http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/551be4728194cfddb910eabca375ff09

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月21日 (金)

タイの洪水と苦境下の円高/花づな列島復興のためのメモ(9)

タイ各地で大きな被害をもたらしている洪水が、20日とうとうバンコク中心部にも流入し始めたと報じられている。
タイには一度だけ海岸部に行ったことがあるだけだが、基本的には平らな土地だから排水の条件は悪いだろう。
水の特性からして、土地利用と一体的な管理が必要なのはいずこも同じである。

Photo_2
タイ中部を襲っている大洪水で20日未明、バンコク都心部へつながるプラパ運河に一時的に大量の水が流れ込み、都心部に近い地域で今回の洪水で初めて深さ数十センチの冠水が発生した。上流部からの水の流入は20日夜以降本格化するとみられ、インラック首相は「バンコクでの洪水発生は避けられない」と表明した。
http://mainichi.jp/select/world/news/20111021k0000m030117000c.html

この洪水で、多くの日系企業が被災している。

タイの大洪水で、年末商戦向けのカメラの発売延期や、自動車メーカーの工場の操業再開延期など、影響が拡大してきた。
経済産業省の20日の発表によると、タイの六つの工業団地に入居する691社中、419社の日系企業に被害が出ている。タイは例年、10月末頃まで雨期が続くため、冠水した工場から水が引き、被害状況を正確に把握するには1か月以上かかる見通しだ。被災企業からの部品供給が途絶えたことで、直接は被災していない企業にも生産停止などの影響が広がっている。

http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20111021-OYT8T00364.htm

企業の海外進出は、為替レートにより影響を受ける。
日本は空前の円高といわれる状況が続いているところだ。
失われたX年から抜け出せない中で東日本大震災に襲われ、四重苦にあるといわれる日本の通貨が、相対的に価値が上昇しているというのも不思議な気がするが、事実として史上最高水準にある。
⇒2011年10月18日 (火):日本経済のクァドリレンマ/花づな列島復興のためのメモ(8)

対ドル為替レートの長期的な推移は、下図のようである。
Photo_4
円相場Wikipedia

円の対ドル・レートは、固定相場制時代の360円から76円台へと約4.7倍になった。
このため、製造業でが海外に拠点を移す動きが盛んになり、いわゆる産業の空洞化が懸念されている。
日本政策投資銀行によれば、2011年度における製造業の海外設備投資は、対前年度比54.7%増となる。
海外/国内設備投資比率は下図のように推移している。

Ws000004

自動車の場合、2002年から、国内と海外の投資はほぼ同程度の規模であった。2008、09年には、国内のほうが多くなった。それが逆転し、大きく海外に傾く形になったのである。2011年度計画では、海外投資が国内投資のほぼ2倍の水準になっている。
・・・・・・
このように、日本企業の行動は、すでに大きく変化している。そして、それに対して、経済政策が追いつかないのが現状だ。
経済政策の基本的な考えは、海外移転を「空洞化」だとして、それを阻止しようとするものだ。
・・・・・・
このような政策は、「何もしていないわけではない」という言い訳だけのために行われているとしか考えられない。本来必要なのは、現在進行している現状を冷静に見つめ、雇用創出のための有効な手立てを講じることである。そのために残された時間的余裕は、急速になくなりつつある。

http://diamond.jp/articles/print/14202

政策より素早かったはずの企業の海外投資が、タイの洪水では大きな被害を受けている。
リスクを避けた行動が別のリスクに直面しているわけである。
アユタヤ州のホンダ自動車工場で生産された自動車が水に浸かっている画像は衝撃的である。

Photo_6
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2011101943268

三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長・中谷巌氏は、円高に対して、次のようにいう。

超円高に直面して日本は何をすべきなのか。あまりにも大きなテーマであり、ここで詳論することはできないが、3点のみ指摘しておきたい。
第1は、円高を悲観するのではなく、これを積極的に活用する発想を持つことだ。
・・・・・・
たとえば、円高によって安価になった海外資産(企業)をM&Aによって積極的に取得し、日本企業が本格的なグローバル経営に乗り出すという発想である。
・・・・・・
第2は、高齢化社会先進国である日本は、医療・介護・福祉、教育・文化などの分野で最先端の商品・サービスを開発するという発想を持つことだ。
・・・・・・
第3に、既に多くの識者が強調しているところであるが、環境技術や再生エネルギー技術に磨きをかけ、日本が世界になくてはならない国になることだ。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111012/fnc11101202500000-n1.htm

おっしゃる通りだとは思うが、問題は、「ではどうするか?」ということではないか。
コンサルティングとは、一般解ではなく、特殊解の提示をすることであろう。
三菱UFJリサーチ&コンサルティングという日本を代表するコンサルティング会社の理事長にしては、実効性に乏しい発言ではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月20日 (木)

平野復興担当相の「バカな奴」発言をめぐって

平野復興担当相の発言が批判を浴びている。
「私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカな奴がいる。彼は亡くなったが、しょうがない」

これに対して、
「死んだ人間に対して、「バカな奴」とは何事か!」
「私の母は、バカだから津波で死んだのか!」
というような批判である。

まあ、確かに余り品のいい言葉とは言えないだろう。
しかも復興担当相という立場からすると、いかがなものか、という気もする。
しかし、文脈を無視して、文字面だけを捉えて批判するのはどうだろうか?

「バカな奴」という表現には、亡き友への哀惜の思いを感じとることもできるような気がする。
私も、親しい友人のことを、「バカな奴」と表現することがあるだろう。特に、思いもかけずに、つまり想定外の不慮の場合などにおいて。

東日本大震災の発災直後の頃、ACのCMとして良く流れていた金子みすゞの詩。

「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
そうして、あとでさみしくなって、
「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

「バカ」と言っても、侮蔑的に用いるとは限らないのだ。
平野氏の発言は、福島県二本松市で行われた参院民主党の研修会のあいさつ中の言葉で、大震災時に堤防の門扉を閉めに行った消防団員や、安全とされた避難所などに逃げた人が津波にさらわれ犠牲になった例を紹介した上で、同級生の話を披露したものだという。
現場に居たわけではないので感覚で言うしかないが、自民党の大島副総裁のように、鬼の首でも取ったように言うのはどうかと思う。

自民党の大島理森副総裁は18日夜、平野達男復興対策担当相が津波被害に関し「私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカなやつがいる」と発言したことについて「どういう理由にしろ亡くなった方を『バカ』という表現は、大臣として許されざる言葉だ。人を傷つけるような言葉を平気で言う、この政権に復興はできない」と厳しく批判した。
そのうえで「首相の任命責任や各大臣が適格なのか、徹底的に追及していく」と述べ、平野氏の辞任を要求するとともに、20日召集の臨時国会で野田佳彦首相の任命責任を追及する考えを示した。党本部で記者団に語った。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111018/stt11101819330013-n1.htm

自民党が批判すべきは、被災者のいわゆる「二重ローン」対策やがれき処理の遅れではないのか?
臨時国会には復興庁設置法案が提出される。

Photo_3
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20111013/223167/?ST=rebuild

政府が次期臨時国会に提出予定の復興庁設置法案によると、復興庁の本部は東京。出先機関である「復興局」を岩手、宮城、福島の被災3県に置いて現地の復興情報を収集する。
肝心の業務内容については、復興事業に関する各省庁間の調整や復興特区の認定、被災自治体への交付金の配分などに限定する。つまり、復興に関する公共事業は国土交通省、漁業関係は水産庁が中心という従来の構図は何も変わらない。
復興院に倣った当初の構想とは全く異なる、「調整機関」という位置づけにとどまるわけだ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20111013/223167/?P=2&ST=rebuild

復興庁のあり方はどうなのか?
「こんな復興庁ならいらない」という声もあるという。
揚げ足取りに近い批判から脱して、復興の本筋を論議してもらいたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月19日 (水)

純文学と大衆文学/「同じ」と「違う」(33)

純文学と大衆文学という区分けがある。
芥川賞は純文学で、直木賞は大衆文学だ、というようなことも言われる。
ある「Q&A」のサイトで、「純文学とはなにか」というQに対して、下記のようなアンサーが寄せられていた。

 辞書で「純文学」調べると
>じゅんぶんがく 3 【純文学】
(1)大衆文学・通俗文学に対して、読者に媚(こ)びず純粋な芸術をめざした文学作品。
(2)哲学・史学を含む広義の文学に対し、美的形成を主とした詩歌・小説・戯曲などの類。
 とあります。
 私も、「純文学」とは“純粋に小説としての芸術性を追求している作品”だと解釈しています。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/660343.html

つまり、純文学に対比すべきものとして、大衆文学・通俗文学がある、という説明である。
大衆文学・通俗文学は、読者に媚びるものであって純粋に芸術性を追求していないが、純文学は読者に媚びていない?
そもそも読者に媚びるとはどういうことか?
純文学は読者のことなど眼中にないのか?
鑑賞者不在の芸術などということがあり得るのか?

そもそも、純と大衆が対比的に使われていることが疑問ではないか?
純の対立概念は、不純か非純というのならば分からなくもない。
しかし、それでは「大衆≒不純」ということになってしまいそうである。

消費社会論との関係で、大衆に対置すべき概念が話題になったことがある。
電通の著名なプロデューサー・藤岡和賀夫氏が『さよなら、大衆。―感性時代をどう読むか』PHP研究所(8401)を書いて口火を切った。

“大衆”の時代―物質的な豊かさを目標に、消費者が共同歩調をとった時代は、耐久消費財の普及とともに終焉を迎えた。いまや、人々は“自分らしさ”を求め、「感性」を消費や行動の判断基準とする、“少衆”の時代に突入した。本書は、時代のブーム仕掛人として、広告業界の第一線で活躍する著者が、「少衆の時代」のマーケティングを明快に説きあかしたものである。

つまり藤岡氏は、「かたまり」としての大衆に対して、それを構成するより小さな単位に着目し、「少衆」という概念を提出した。
一方、博報堂生活総合研究所は「分衆」の誕生―ニューピープルをつかむ市場戦略とは』日本経済新聞社(8501)を出した。
同じ(ような)事象を「分衆」という言葉で表現したのである。

大量生産・大量販売・大量消費を旨とするマスマーケティングを成立させてきた主体は、同質の価値観を持つ「大衆」だった。これに対し、1980年代前半から「小衆」「分衆」といった、消費者個々の価値観に焦点を当てた概念が提唱され、90年代には「個衆」というキーワードも登場した。商品やサービスの選択肢が増え、個人の嗜好(しこう)に応じた消費が可能になってきたことや、「自分探し」「自分らしさの追及」が注目されてきたこと、さらにはケータイやインターネットといったITの発達に助けられ、個人が情報発信の拠点となってきたことが、その背景にある。ここに至って、もはや「大衆」は死語になった感すらある。
http://adv.asahi.com/modules/keyword/index.php/content0001.html

マーケティングの世界では「死語になった感すらある」といわれている「大衆」概念であるが、文学の場では健在なのだろうか。
先ごろ五木寛之さんが、夕刊紙「日刊ゲンダイ」の『流されゆく日々』という連載コラムで、『「純文学」と「大衆文学」』について書いていた(8793回(110921掲載))。
五木さんは、一般的には芥川賞を受けたものは純文学で、直木賞は大衆文学ということだろう、といいつつ、次のようにいう。

埴谷雄高は純文学で、吉川英治は大衆文学。そこには、はっきりした区別があった。井伏鱒二さんは純文学でしょう? ときかれれば、当然そうです、と答える。松本清張さんは大衆文学ですか、と質問されれば、おおむねそうでしょう、と言う。しかし、井伏鱒二は、直木賞作家である。『ジョン萬次郎漂流記』で第6回の直木賞を受けている。
一方、松本清張は芥川賞作家だ。一九五二年に『或る「小倉日記」伝』が受賞して文芸ジャーナリズムに登場した。

まあ、五木さんも書いているように、純文学の『伊豆の踊子』のように、広く国民に読まれている作品もある。
「幅広い国民」を大衆といわずして、何が大衆か。
五木さん自身、直木賞作家としてスタートした。五木さんの前後の受賞者は以下の通りである。
Ws000003
Wikipedia直木三十五賞

確かに、直木賞作家は多くの読者を得る人が多いようだ。
しかし、それは「読者に媚びた」結果であろうか?
必ずしもそうは言えないのではないか。

「大衆⇒少衆・分衆⇒個衆」というトレンドを認めるとして、個衆の時代における大衆文学をどう考えるのか?
ちなみに、2011年上半期のフィクション分野におけるベストセラーは以下のようであった。
Ws000001
http://www.honya-town.co.jp/hst/HT/best/harf.html#02

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月18日 (火)

日本経済のクァドリレンマ/花づな列島復興のためのメモ(8)

日本経済が「失われたX年」と言われて久しい。
例えばGDP成長率の推移を見ると、下図の通りである。
Photo_2
http://www.tuins.ac.jp/~ham/tymhnt/butai/keizai2/shotoku/prefincm/ch_gnp.html
⇒2011年6月 1日 (水):花づな列島の奇跡

大局的に見て、戦後復興を遂げてからの日本経済には3つのフェーズがあるといえる。
1.1956~73年:いわゆる高度成長の時期
2.1974~90年:石油危機を経て「低成長」に移行した時期
3.1991年~:バブルが崩壊し、事実上成長がストップした時期

「失われた」の起点を1991年と考えれば、まるまる20年間継続していることになる。
リーマンショックからようやく立ち直ろうとしていた矢先、東日本大震災が起きた。
今回の大震災のもたらす影響についてはさまざまな見方があるだろうが、少なくとも短期的のマクロ経済的にはマイナスであることは間違いない。
2011年度のGDP成長率はマイナスを余儀なくされるであろうと見られている。

しかし、震災からの復興を、中長期的な成長のチャンスにできないだろうか、という議論がある。
私もそうあってほしいと念じる者であるが、その可能性ははたしてあるのだろうか?

盛山和夫『経済成長は不可能なのか - 少子化と財政難を克服する条件 (中公新書)』(1106)によれば、いまの日本経済の構造は「クァドリレンマ」の状態だ、ということになる。
「クァドリレンマ」とは聞きなれない言葉だが、ジレンマ→トリレンマ→クァドリレンマである。
4つの問題を解決したいが、それは同時にはできずに、1つは必ず犠牲にせざるを得ない状況、ということである。
上掲書によれば、解決を迫る問題とは以下の4つである。
1.デフレ不況問題
2.財政難問題
3.国の債務残高問題
4.少子化問題

①財政難の克服のためには
A.税収を増やす
ⅰ)経済全体のパイをふやす=GDPの拡大⇔デフレ不況問題(が解決していないから望めない)
ⅱ)増税⇒不況を悪化させる⇒GDPを縮小させる
B.政府の歳出を削減する⇒景気悪化

②デフレ状況を克服するためには
需要の拡大が必要⇒減税か政府支出を増やす⇒財政を悪化

③国債を増発すると
財政的にはプラスだが、債務残高問題が悪化する

④債務残高を減らすためには
税収を増やすか歳出を削減する⇒①の問題

⑤少子化を食い止めるためには
A.出産と育児の費用を国が負担⇒財政難問題
B.若年層の雇用や所得の改善⇒デフレの改善が先決

復興財源をどう捻出するかが問われているが、震災の前からクァドリレンマの状況にあったのである。
それに加えての震災復興である。
自民党の従来の政策、民主党の2年間の実績では、解は見出せてはいないノダ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月17日 (月)

野菜の力(3)/闘病記・中間報告(33)

「医食同源」という言葉がある。
私はてっきり中国から渡来した言葉だと思っていたがそうではないらしい。

「意外に思われるかも知れないが「医食同源」という言葉は古代中国で生まれたものではない。1970年代に入って、栄養第一主義の欧米食文化への反省や日中国交回復を機にした中国文化の再認識の中から、中国式食養生がわが国でブームになった。このとき使われた言葉が「薬食同源」や「医食同源」で日本での造語である。
古代中国では医師を4つのランクに分けた。周王朝の制度週間を述べた《周来》によれば、最高位の医師は「食医」、すなわち王の食事の調理・管理を任されていたのであった。食医に次ぐランクは「疾医」で今の内科医系医師。次は「瘍医」で今の外科系医師。ともに食事が治療の重要な位置を占めていた。4番目のランクは獣医であった。
古代中国では「薬」としての「食」の重要性が古くから指摘されており、その意味で「医」や「薬」が食と「同源」という思想は言葉こそなくとも中国医学の根幹をなすものであったことは事実である。
花輪寿彦・北里研究所東洋医学総合研究所所長
http://www.naoru.com/isyokudougen.htm

野菜には3大栄養素といわれる、タンパク質、脂質、糖質だけでなく、ビタミンやミネラルが豊富に含まれていることはよく知られている。
ビタミンとミネラルを加えて、5大栄養素と呼ぶ。
野菜に含まれているビタミンやミネラルは、野菜自身が生きていくために最適なバランスを保っている。
いわば、ベストミックスである。
野菜を食べるということは、このベストミックスの補給を意味する。

また、植物は自分で動くことができないため、虫や紫外線などの有害物から自力で逃げることができない。
有害物から身を守る物資も常備しておく必要がある。
それがファイトケミカル(Phyto Chemical)と呼ばれる物質である。Phytoは、ギリシャ語で植物を意味する。

ファイトケミカルは、植物の葉、茎、樹皮、果皮、種子などに含まれる、色素、渋み、香りなどの成分の総称です。
石原結實の病気を治す「野菜力」』ナツメ社(0904)

Photo_3
野菜だけで十分、というわけにはいかないだろうが、野菜を無視した食生活はあり得ない。

先日「週刊文春110929」で気になる記事をみた。
『美人女医が教える40代から“脳力”を伸ばす法』である。
「美人女医」も気になるワードであるが、「脳力」は今の私にとっては切実な言葉である。
ボケの問題もあるが、片麻痺はまさに脳力の障害の結果だからだ。
何らかのヒントが得られないだろうか。

結論は、「運動と栄養と睡眠」であった。
当たり前のことではあるが。
運動をすると、筋肉から発せられた情報が脳を刺激して脳の活動が高まる。運動により、脳の海馬の新陳代謝がも高まるらしい。
1日8000歩を目標に、ということである。
身障者には高いハードルだ。

食物は抗酸化物質の摂取が重要。
トマト、アスパラ、パブリカ、ブルーベリーなどのカラフルな野菜や果物が有効とのこと。
赤ワインも抗酸化効果を持っている。ポリフェノールの一種であるレスペラトールという成分が海馬を活性化するのだという。
白ワインにはこの効果はないらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月16日 (日)

九電の「やらせメール」問題と企業の社会性

いうまでもなく、企業は社会の中で存在している。
したがって、赤字等の要因で経済的に存続しえなくなるほかに、社会的なルールを無視したら存続が許されないであろう。
特に、電力会社は基幹産業として地域独占という独特の経営形態が許されている。
一般の企業以上に社会性が強いと考えるのが当然であろう。
少なくとも、会社の外側にいる人間はそう思う。

ところが、九州電力という会社はそうは考えないらしい。
フクシマの事故で原発の稼働に対する社会の目が厳しくなっているときに、いわゆる「やらせメール」問題が発覚した。
⇒2011年7月 7日 (木):原発迷走で、閣内不一致は明らか。海江田大臣は辞任すべき(かどうか)
⇒2011年7月30日 (土):地震・津波による原発災害を予見していた高木仁三郎と市民科学者育成のための「高木学校」

Wikipediaでこの問題を振り返ってみよう。    

九州電力やらせメール事件(きゅうしゅうでんりょくやらせメールじけん)は、2011年6月、玄海原子力発電所2、3号機の運転再開に向け日本経済産業省が主催し生放送された「佐賀県民向け説明会」実施にあたり、九州電力が関係会社の社員らに運転再開を支持する文言の電子メールを投稿するよう指示していた世論偽装工作事件(サクラやらせ)である。
・・・・・・
7月27日 - 九州電力取締役会は、問題の検証と再発防止策の検討を行う第三者委員会設置を決定、同日初会合が開かれた。以下の4人で構成される。
委員長:
郷原信郎名城大学教授、コンプライアンス研究センター長、弁護士
委員:
阿部道明九州大学大学院法学研究院教授)、岡本浩一東洋英和女学院大学人間科学部教授、社会学博士)、古谷由紀子(公益社団法人日本消費生活アドバイザー・コンサルタント協会理事)。

通常、第三者委員会というものは、公正を期すために設けられたと考えられよう。
例えば、外部調査委員会・第三者委員会について、次のように説明されている。

不正・不祥事が発覚したときに、外部の調査機関を利用することや、外部有識者による不正調査委員(以下、「外部調査委員会」という。)を設置するケースが多くなりました。これは、外部調査委員会を設置することで、不正・不祥事の発覚後における会社内部の調査に透明性・客観性を担保すること、および株主代表訴訟に備えた法的な側面からのアドバイスが受けられるというメリットがあります。
Photo
http://www.kpmg.or.jp/knowledge/keyword/e_i_committee.html

ところが、九州電力は、せっかくの第三者委員会の結論を採用しないことにしたらしい。

九州電力が月内にも経済産業省に提出する「やらせメール」問題の最終報告書で、古川康・佐賀県知事の発言がやらせの発端とした第三者委員会(委員長・郷原信郎弁護士)の事実認定を採用しない方向で6日、最終調整に入った。知事発言の真意を九電側が誤解したことがやらせを引き起こしたとする従来の見解を貫き、自ら委ねた第三者委の調査結果を事実上、認めないとみられる。
第三者委は最終報告書で、6月の玄海原子力発電所の再稼働を巡る佐賀県民向け説明会でのやらせメール投稿は、九電幹部と面談した古川知事の発言が「決定的な影響を与えた」と認定した。

日本経済新聞電子版2011/10/7 2:02

一方、九州電力の第三者委員会の委員長を務めた郷原信郎弁護士は次のように語っている。

郷原氏は九電の報告書が、第三者委の調査の核心部分を「一切無視した」と断言。「都合の良いところをつまみ食いしてちりばめた報告だ」とし、「仏つくって魂入れずだ」と吐き捨てた。
真部社長が古川康知事を擁護した点については「常識外れ。経営陣のしていることはコンプライアンス上考えられない」と強調。「九電と古川知事の間には断ち切るのが容易でないつながりの深さがあった」とし、「我々は新たな事実を掘り起こし、解明した。きちんと九電が受け止めれば原発問題全体(の解決)に大きな材料となった」と悔しさをにじませた。

日本経済新聞電子版2011/10/14 22:59

九州電力の社会的評価は地に落ちた。
CSRなどという以前の問題であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月15日 (土)

五所平之助/私撰アンソロジー(8)

五所平之助といえば、一般には映画監督として知られる。
日本初のトーキー映画[マダムと女房」(1931)の他、1933年の「伊豆の踊子」、1947年の「今ひとたぴの」、1954年の「大阪の宿」、1957年の「挽歌」などの名作を残している。日本映画史に燦然と輝く監督といえよう。
「挽歌」は原田康子のベストセラーの映画化であるが、私の妹は、亡くなる前にこの本を読みさしていた。

五所平之助には、もう一つの顔があった。
「五所亭」という俳号をもつ俳人としての顔である。
作歴からいえば俳人の方が長い。

久保田万太郎の主宰した「春燈」の同人だった。
遺作となった『句集生きる』永田書房(8102)の扉に、辞世の句が飾られている。

花朧ろほとけ誘う散歩道

長く三島市に住み、水と緑に恵まれた街を愛し、多くの市民と交流したようだ。
三島市民と一緒に作った『「わが街三島」−1977年の証言』が最後の映画監督作品である。

そんな縁もあって、三島市内の菰池の一隅に句碑が建っている。
Gosyoheinosuke
http://www.winky-japan.info/mizube.html

合掌す三島ざくらの満ち咲けば

三島桜は、市内にある遺伝学研究所で生まれた。三島市の市の花である。

市の花「三島桜」は、昭和26年国立遺伝学研究所で染井吉野の起源を知るためのひとつの方法としてその実を集め、第1回目の実生実験をしました。
そして、これが成長開花した中に1本の美しい桜を生じました。
ときあたかも三島市の新庁舎が竣工したときであったので、これを記念して「三島桜」と命名しました。

Photo
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn001136.html

五所さんは、「句作のための三ヶ条」として次を挙げた。
・俳句は美しくなければならない
・俳句は見えなければならない
・俳句は平明でなければならない
まさに映画監督ならではであるが、分かり易い条件といえよう。

私は、何人かで「選句遊び」と称する遊びをしたことがある。
ある人の編んだアンソロジーを母集団として、その中から自分のお気に入りを各人が選ぶ。
その選択の異同を比べあう、という趣向である。
⇒2007年8月22日 (水):選句遊び
⇒2007年10月15日 (月):「選句遊び」余談

その時、選句という一見受け身の行為に、その人の人柄・性格・考え方などが反映することを理解した。
レベルを別にて言えば、虚子の「選は私の創作」という言葉の一端に触れた思いがしたともいえる。
⇒2007年10月16日 (火):虚子の「選句創作」論
以下、勝手にピックアップする。

Ws000001
17歳で夭折した娘に関連すると思われる句が胸を打つ。
また、伊豆・天城に対する強い愛着も窺えよう。
これは、五所さんが1933年に田中絹代主演で『伊豆の踊子』を撮ったこと、一時期現在の伊豆の国市に住んだことがあることが関係していよう。

最後の句は、伊豆の山中のリハビリ病院に入院していた時の私の実感でもある。
例年になく雪が多かったようで、4月になっても積雪があった。
そんな日は、今はリゾートの伊豆も、昔は流刑地だったことを思ったりした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月14日 (金)

栄枯盛衰の法則性?/因果関係論(11)

栄枯盛衰は世の習いだという。
すなわち、繁栄がいつまでも続くことはなく、いずれは衰え、栄えれば滅びるというのがこの世の常である。
しかし、歴史的事象は一回性でもある。一回性の出来事に法則性があり得るだろうか。

大分前のことになるが、馬野周二『栄枯盛衰の科学』 PHP研究所 (8606) という書籍を読んだことがある。
馬野氏は通産省を経て、ニューヨーク工科大学教授を務めた化学工学の研究者の履歴を持つが、1973年の石油危機後、エネルギー問題に対してマクロな視点から発言していた。
氏は、『石油危機の幻影-エネルギーをめぐる地政学』ダイヤモンド社(8002)の序章で次のように述べている。

科学は自然の因果関係に潜む法則性を、窮極的には数学論理をもって解明する思考活動であるとしてもよいが、この思考方法は社会、経済、技術事象、そして歴史にさえも有効に適用できるものと私はかねて考えてきた。一歩を進めれば、科学の対象である自然は、これらの人為をも包摂しうるものではないかとも思われる。すでに経済事象のいくつかは、後に示すように、きわめて初歩であるとしても、数学的に解析しうるパフォーマンスを示している。

すなわち、馬野氏は、歴史的事象を数学的論理で、(相当に)捉えられると考えているようだ。
事業戦略においては、製品ライフサイクル曲線という考え方が知られている。

市場で販売されている製品やサービスには、必ずライフサイクルがあります。もちろん、製品は市場に投入され、そして最終的には市場から消滅していきます。
こうした製品の一連の流れは、製品ライフサイクルとして知られています。この製品ライフサイクルは、売上高・利益、競合企業の数などの観点から見て、「導入期」、「成長期」、「成熟期」、「衰退期」の4つに分けられています。

Photo
http://caeric.com/blog/2010/03/PLC.html

まさに栄枯盛衰である。
しかし問題は、具体的な企業や財・サービスにおいて、どのような要因が作用し、各フェーズの期間がどう出現し消滅するのか、である。

携帯電話サービスなども、栄枯盛衰の激しい産業であろう。
1つは、電波の割り当ての影響である。
⇒2011年9月23日 (金):電波利権の構図はどう変わるか?
そして、新製品のインパクトである。
⇒2011年10月 6日 (木):S.ジョブズの死と「iPhone4S」の発売
⇒2011年10月 7日 (金):S.ジョブズの死と「iPhone4S」の発売(続)

日経ビジネス編集委員の小板橋太郎氏が、日経ビジネスオンライン111013日号に『ケータイ盛衰5年周期説-絶頂が慢心を招き、苦境が飛躍の芽を用意する』という記事を書いている。

各社の浮沈の歴史から目が離せないのは、絶頂の裏側には必ず陥穽が隠れているからだ。そして、どん底の淵にありながら、次の飛躍の機会をうかがう人たちがいるからだ。
・・・・・・
5年後の2011年。KDDIは純増数もMNPも最下位あたりであえいでいる。その原因は5年前に内在していた。06年と言えば、ソフトバンクがボーダフォン(旧J-フォン)を買収して携帯電話に参入し、ホワイトプランなどの割引サービスや端末に割賦支払いを導入した0円携帯といった画期的なサービスを開始した時期。当時、KDDIは新規参入者のソフトバンクを毛嫌いしていた。07年にiPhone が米国発で大ヒットし、08年にソフトバンクが初めて国内での独占販売に成功してからも、KDDIはソフトバンクの躍進を無視するがごとくスマートフォン分野に距離を置いたのだ。この対応の遅れがKDDIの長い低迷の原因になった。2010年12月、KDDIの小野寺正会長兼社長(当時)は「従来型の携帯電話に固執したきらいがある」と反省の弁を残し社長を辞した。
・・・・・・
孫正義社長はKDDIのiPhone 参入について「刺激がなければ衰退してしまう」と話した。ソフトバンクは2006年に携帯電話事業に参入して以来、初めて追われる立場になる。「日中(ちゅう)すれば即ち移り、月満つれば即ち欠く」(史記)ともいう。携帯電話業界の栄枯盛衰が5年周期で巡って来るという説が偶然か否か、もうしばらく注視していよう。

5

まさにNTTドコモ、Eアクセスを交えて、『ケータイ三国志』ならぬ4社の争いである。
果たしてこれからどう変わっていくのだろうか?

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年10月13日 (木)

節電の夏と琉球朝顔の緑のカーテン

今年の夏は、電力供給量が重要に追い付かない可能性がある、そうなると予測できない停電が発生する可能性がある、ということで、家庭用・産業用を問わず節電が行われた。
何やら節電に協力しないと非国民であるかのような雰囲気であった。

韓国では大規模な停電も起きたらしいからあながち大げさともいえないが、節電に乗じて合理化をしていたところもあったようである。
不合理を正して合理的な形にするのであれば結構であるが、「贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまでは」というスローガンを思い出させた。
節電ファッショ?
私の知り合いの女性も、職場の照明灯が強制的に外されてしまって、作業に支障をきたす、とぼやいていた。
節電を励行した結果、目が悪くなったら……

その節電の夏も何とか終わった。
家庭でも、いわゆる緑のカーテンが大流行だった。
ゴーヤを軒先に植えた家も多かったのではないだろうか。

先日訪ねた家では、朝顔を緑のカーテンにしていた。
朝顔といっても、琉球朝顔という品種である。
ゴーヤといい、琉球朝顔といい、緑のカーテンにはやはり南国植物が似合うようだ。

Photo_3
http://www.sc-engei.co.jp/plant/green/cultivate/?kid=73

一年草のアサガオと比べて格段に強健で、10数mもつるを伸ばします。開花期間は長く、霜が降りる11月まで咲き続け、10月上旬ごろに花数が最も多く、美しくなります。3〜8個の花を房状につけ、しかも夕方まで咲き続けるので、豪華です。繁殖力もきわめておう盛で、地表面付近からランナーを出し、広がっていきます。
http://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_p_detail&target_plant_code=142

その家で、「琉球朝顔という品種だよ」と教えてもらった翌朝のことである。
散歩をしていると、ある家の庭先に咲いているのを見つけた。
Photo_4

教えてもらったばかりで、今までだったら「朝顔だな」と漫然と見ていただけだろう。
植物のことだけでなく、ささいなことでも「知ること」が次の「知への欲求」を引き起こす。
それが一見パラドキシカルな「知れば知るほど、知らないことが増える」という現象である。
⇒2008年8月 8日 (金):2年目を迎えて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月12日 (水)

大学のネーミング・ストラテジー

ネーミングというのは重要だと思うが、難しい。
「名は体を表す」という言葉のように、実体を的確に表わしていることが望ましい。過剰なネーミングは、虚偽表示を疑われよう。

与える印象ということだけでなく、場合によっては、ネーミングによって、実体が影響を受ける。
CIで社名を変えて成功するのは、イメージ戦略としてだけでなく、関係者の意識に働きかける部分があるからだろう。
ネーミングについてはさまざまな視点から論じられている。
手許の書棚にも、津田幸雄『ネーミング・イン・ストラテジー』宣伝会議(9005)だとか佐々木健一『タイトルの魔力―作品・人名・商品のなまえ学 』中公新書(0111)など、ネーミングに関する書籍があった。

私もささやかな起業に立ち会う機会があり、中には社名として私の案が採用されたものもある。
現在はそれらの会社の実務に関係しているわけではないが、うまくいっていると聞くとやはり嬉しい。
もちろん起業が成功する確率は小さいから、失敗だったものもある。

人の名前も、その人の人生をなにがしかは規定するのではないか。
親になって子供に名前をつけるとき、親はさまざまな思いを込めるであろう。
かつて「悪魔」という名前を我が子につけようとして話題になったことがある。
親がどのような思いで名前を考えたのかはよくは知らない。

陸山会事件で一審有罪判決を受けた石川知裕衆議院議員に『悪党―小沢一郎に仕えて』朝日新聞出版(1107)というタイトルの本がある。
この「悪党」というネーミングが、先日放映の「たかじんのそこまで言って委員会」で取り上げられていた。
確かに、「悪」には本来、「強いもの」とか「秩序に収まらないもの」とかの意味があるようであり、話題を呼んだということを見ても、石川氏のネーミングは成功したといえよう。
しかし、現代社会において「悪魔」という名前をもった子の人生はどうだろうか?
私には、「親の権利の濫用である」としか思えない。

今日の産経新聞に千野境子特別記者が『白眉と伯楽の二重奏で』という文章を寄せていた。

京都大学の白眉プロジェクトに間もなく新たな白眉研究者20人が誕生する。平成21年から始まった同プロジェクトは、世界中から優秀な研究者を集め、将来はそれぞれの分野でリーダーにと松本紘総長が発案した。もっとも傑出した人や物を意味する中国の故事由来の「白眉」という名称も総長自らのアイデアだ。
次世代研究者支援事業というと味気ないが、白眉だと何だろう、と思わせる。実際、内向きで右肩下がりの日本に活を入れるように、野心的で気前のよい事業といえる。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/111012/edc11101202550001-n1.htm

このプロジェクトの選考委員会を伯楽会議という。
千野さんは、この伯楽会議のメンバーである。
若い研究者の生活条件が恵まれていないことが多いのは私も知っている。非常勤講師を掛け持ちでやったりしていて、十分な時間がとれないのことが往々にしてある。

もちろん、時間や金に恵まれているからといって、優れた研究ができるわけではないだろう。
S.ジョブズの「Stay hungry, Stay foolish」という言葉もある。
⇒2011年10月 7日 (金):S.ジョブズの死と「iPhone4S」の発売(続)

しかし、最低限の生活の保障があって、研究に打ち込める条件は重要だと思う。
その意味で大いに期待したいと思うが、ネーミングという点でも傑出しているといえないだろうか。
京都大学のサイトには次のようにある。

京都大学では、このたび、京都大学次世代研究者育成支援事業「白眉プロジェクト」を立ち上げました。このプロジェクトは、優秀な若手研究者を年俸制特定教員(准教授、助教)として採用し、最長5年間、自由な研究環境を与え自身の研究活動に没頭してもらうことにより、次世代を担う先見的な研究者を養成するものです。

千野さんの言っているように、「次世代研究者支援事業というと味気ないが、白眉だと何だろう、と思わせる」ところがミソだろう。
千野さんの文章をもう少し引用しよう。

さらに研究は、報告は求めるが評価はしないというのもあまり例のない大らかさというか大胆さだ。
昨今、金融界の格付け万能主義のように大学にも結果重視の評価主義が蔓延(まんえん)した。いきおい派手な成果の見える研究に日が当たり、基礎研究は軽視されがちとなる。評価せず-はそんな風潮への頂門の一針だが、研究費が浪費されるリスクと背中合わせでもある。

ひところ、「成果主義」という言葉が、産業社会を席巻したことがある。
しかし、結果として余りうまくいかなかったことは、たとえば城繁幸内側から見た富士通「成果主義」の崩壊 』光文社(0407)などの書籍が示している。
金融界の格付けや事業仕分けなどは、使い方を誤ると危険な両刃の剣だろう。
「白眉」研究者の誕生が楽しみであるが、大学の使命の1つは、そもそも「白眉」研究者のインキュベーターだったのではないか。
社会全体が世知辛くなって、このようなプロジェクトが必要になったのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月11日 (火)

金木犀の「かをり」

早朝散歩をしていると、芳香に巡り会う。
金木犀だ。
普段は気に留まらない樹木だが、今の季節は自己主張が強い。

三島市内では、三嶋大社の金木犀が有名である。

Rimg01422

かつてはずい分遠くまで香りを届けたようだ。
看板には、「風向きによっては一〇粁に及ぶという」とあるが、今はさすがにそのような勢いはない。
Rimg01442

知人の家の金木犀も今が盛りであった。
Rimg01572_2
今年は例年になく色が濃いような気がする。
気候のためか、樹齢のためか分からないが、鮮やかである。

ところで、むかし「シクラメンのかほり」という歌が流行った頃、このタイトルはおかしいのではないかということが話題になった記憶がある。

(1)「かおり(香り・薫り)」の旧かなは、「かをり」で「かほり」ではない。
(2)シクラメンはそもそも匂わない。つまりシクラメンに香りはない。

http://blog.goo.ne.jp/shugohairanai/e/bc06ee91dde2c6b5ab274898b8ffeff2

つまり、「かほり」という表記が問題にされたのだが、結果的には、以下のようなことだったらしい。

「おぐらけい」の奥さんの名前が佳穂里さんだということは、下記のページで確認しました。「シクラメンのかほり」というのは、「シクラメンのように美しい佳穂里」ということだったのですね。「御馳走様」というほかはありません。
http://www3.big.or.jp/~kan/ogura/biography.htm

シクラメンには確かに香りがないようであるが、金木犀の「かをり」はどこか懐かしさがある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月10日 (月)

辛亥革命百年と中山・孫文

一部に死亡説も流れていた江沢民前中国国家主席が、辛亥革命100周年の記念祝典に姿を現した。

北京の人民大会堂の中国の辛亥革命100年を記念する式典に、手を振りながら自ら歩いて壇上に登場。付き添いの助けを借りながらも、胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席の隣に座り、健在を示した。
江氏は7月1日の中国共産党創立90周年の式典を欠席した際は死亡説も飛び交った。中国国営新華社通信は「全くの流言にすぎない」と否定したが、複数の中国筋や外交筋は危篤に陥ったとしていた。

http://www.asahi.com/international/update/1009/TKY201110090069.html

死亡説に立っていた産経新聞は次のように弁明している。

中国内外で取材した結果、本紙は、病気療養中だった江氏が「6日夕、北京市内の病院で死去した」とする情報を有力な日中関係筋などから得ました。一方で、北京からは、江氏の入院先とされた人民解放軍総医院(301病院)に目立った変化がないなど、「死去」に否定的な情報が入ってきていました。
東京編集局で情勢を全般的に分析した結果、江氏が「死去」したと判断し、7日の号外(電子版)と大阪本社発行の夕刊で、「江沢民氏が死去」と報道しました。あわせて、関係者が「脳死」と話していることも伝えました。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/111010/chn11101001400000-n1.htm

結果的に産経新聞の報道は誤報だった。
中国の情報管制がそれなりに機能していることの傍証であろう。
ところで辛亥革命の発端となったといわれる武昌蜂起は100年前の10月10日だった。
辛亥革命は、高校の頃世界史の授業に出てきた記憶があるが、すっかり忘却の彼方である。

辛亥革命とは?
簡単におさらいをすれば

1899年に義和団が蜂起。これが北京に及んで外国の公使館の領域を侵略したため、西洋諸国は連合軍を派遣してこれを退けましたが、戦乱のため西太后たちも一時期北京から避難するほどの騒ぎになり、政体は極めて弱体化しました。更にこの義和団事件に関する西洋諸国との議定書(辛丑条約)により、清朝は莫大な補償金の支払いまで課せられます。
1905年には孫文が日本で中国革命同盟会を結成します。そして1908年には、西太后及び幽閉されていた光緒帝が相次いで病死します。そして皇統は光緒帝の甥である宣統帝(1906-1967,在位1908-1912,溥儀)に受け継がれました。
辛亥革命(第一革命)はこのような状況の中で勃発し、蜂起は全国に波及して各地で省の独立宣言が相次ぎます。そして1912年中華民国が成立して、孫文が臨時大総統に就任しました(2月に袁世凱に交替)。まだ6歳の幼帝・溥儀は訳も分からないまま退位ということになり、清朝は滅亡しました。
その後溥儀は戦乱の中やがて日本軍に満州国皇帝に祭り上げられ、戦後は戦犯としてソ連に抑留され、文革にも翻弄され、最後は一介の植木職人としてその生涯を閉じるという波乱の人生を送ったことは周知の通りです。
さて革命の方は中華民国成立の翌年1913年に第二革命によって袁世凱が孫文を排斥。孫文は日本に亡命します。

http://www.ffortune.net/social/history/china-sin/singai-kakumei.htm

1911年の干支が辛亥であった。
上記の引用に見るように、辛亥革命を主導したのが孫文であり、日本とも縁が深い人物である。
孫文が中山という号を用いたことはよく知られている。
偶々先日訪台したときのホテルが中山北路にあったのだが、この中山路は孫文に由来するといわれる。
⇒2011年9月29日 (木):おそるおそるの台湾渡航/中間報告(31)

それでは孫文の中山号の由来は何か?
中嶋峰雄氏の今日の産経新聞「正論」に以下の記述がある。

「中山」を冠した場所や建物は数多くあるが、孫文が東京・日比谷の宿屋に名を秘して泊まった際、通りがかりに見た表札の「中山」を使ったのがそのいわれである
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111010/plc11101002590001-n1.htm

ふ~ん、そうだったのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 9日 (日)

三保松原で薪能を観る

薪能というものの存在を知ったのは、立原正秋の小説『薪能』によってであった。
滅びゆくものの美しさを描いたこの小説は、まさに立原好みを尽くした設定の作品といえよう。
古都鎌倉、能、美しい人妻と4歳違いの能面打ち従弟との許されぬ愛、能楽堂での心中。
初期の代表作である。

実際に薪能を観たのは、ずっと後年になってからであった。
何時、どんな作品だったかは覚えていないが、何かのイベントの特設舞台で行われたものであった。

友人がチケットを手配してくれたので、三保の松原で、羽衣まつりのメインイベントである『三保羽衣薪能』を観た。
今年で28回というから地域にすっかり定着しているイベントである。
Photo
演目は『能・経政』『狂言・萩大名』『能・羽衣』という構成である。

特設舞台はいわゆる「羽衣の松」の近くに設えられている。
Ws000000
http://youtu.be/QKvzEL6hS2M

今年はダメージを受けた松原もあったが、三保はさしたる被害はなかったようだ。
⇒2011年10月 1日 (土):松原景観受難の年/花づな列島復興のためのメモ(7)

羽衣伝説は全国各地にあるようだが、中でも三保は代表といえよう。
特設舞台の奥には海が広がって見える。
Photo_2
http://www.at-s.com/event/detail/109446.html

夕闇が迫る頃、「火入れの儀」が行われ、篝火が点火される。
演目が進むにつれ、闇が濃さを増し、舞台が浮かび上がる。逆に、舞台奥の海の景色が次第に消えていく。
私の最も好きな時間帯-色彩が消えてモノクロに変わっていく-である。

確かに絶好のロケーションというべきであろう。
最近数多い薪能の中でも屈指の立地ではなかろうか。
この場所で、『羽衣』である。
まさに臨場感は十分すぎるくらいである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 8日 (土)

『沈黙の春』と予防の論理/花づな列島復興のためのメモ(8)/因果関係論(10)

治療より予防。
これは、何も疾病に限ったことではない。
災害も、復旧・復興よりも、予防できるものは予防に力を注ぐべきだ。

福島第一原発の事故は、改めて環境破壊が人間の存在基盤そのものを危うくするものであることを思い知らせた。
私は、レーチェル・カーソンの『沈黙の春 (新潮文庫) 』の問いかけが、この日本で、放射能汚染という形で顕在化していることに戦慄する。
なぜ、フクシマで予防の論理が有効に働かなかったのだろうか?
同書(原著の『Silent Spring』)が出版されたのは1962年だから50年-半世紀前のことである。

この書が世界に与えた影響は以下のことからも理解される。
1.ロバート・B・ダウンズ『世界を変えた本』(1978)に選ばれた
27冊のうちの1冊。他は、1プラトン、ニュートン、ダーウィン、マルクスなど。
2.「TIME」誌の『20世紀にもっとも影響力のあった100人』に選ばれた。
科学者・思想家24人のうち。女性は、レーチェル・カーソンだけ。他は、アインシュタイン、フロイト、ヴィトゲンシュタインなど。

この50年の間に、20世紀を先導した経済成長優先の思潮は、持続可能なライフスタイルの追求へと大きく変化した。
「環境と福祉」の時代への転換をいち早く主張したのが『Silent Spring』である。
私たちは、ヒロシマ、ナガサキに加え、ミナマタを体験している。
「ノーモア、ヒロシマ」「ノーモア、ミナマタ」
そして、フクシマが加わった。

フクシマとミナマタは同根ではないか。
そんな問題意識を持つ人たちがいる。

福島第一原発事故と水俣病の問題を映画とパネルディスカッションで考える「国策を問う!フクシマ・ミナマタ」が十月一日、船橋市本町一のきららホールで開かれる。企画した市民団体は「半世紀前に公害病として公式認定された水俣病と原発事故は同根ということを訴えたい」としている。
・・・・・・
今回の企画「国策を問う」について、IKI-IKI編集長の相川晴彦さん(79)は「役員の間でも、原発と水俣病という重たいテーマを二本立てにすることに異論が出たが、根源は同じだということを伝えたい」と言う。
水俣病は、原因企業に対する国などの抜本規制が遅れたことが、被害の拡大を招いたとされる。「高度経済成長のために公害を容認した、という点では原発推進と同様に国策。電力の安定供給のために(停止している原発の)再稼働もやむを得ない、という論理に重なってくる」。同会議の事務局長・藤本芳樹さん(63)はこう指摘する。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20110918/CK2011091802000044.html

水俣病は、当初「奇病」とされて、救済が遅れた。
特に、旧通産省や旧厚生省の責任は大きいのではないか。
発症のメカニズムはともかく、発症と工場廃液との間に相当因果関係があることは明らかだったように思う。
チッソに対して、「疑わしきは罰せず」という法理が適用されるはずがない。
作家の感性は、同様の事態が、新潟で起きる可能性すら予測していたのである。
⇒2009年7月 7日 (火):水俣病と水上勉『海の牙』

『沈黙の春』は次のような内容の本である。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%B2%88%E9%BB%99%E3%81%AE%E6%98%A5

剤や除草剤といった化学物質の危険性をはじめて大々的に警告したベストセラー。
現代、
科学技術の発達によって人類はさまざまな便利な農をたくさん生みだした。
そして、その農
を何の気なしにの防除や邪魔な雑草除草に大量に散布した。
その農
により、まったく関係がない花や、そして人間、ついには環境全体までもが跡形もなく破壊しつくされてしまうとも知らずに。
のさえずりも聞こえず、色鮮やかな花もなく、、川、野原から生気がすべて抜け落ちてしまったような「沈黙の春」はほかでもない人間自身の手によって起こるものなのである。
DDTや2・4-Dといった化学物質が環境に及ぼす影について、人々に啓蒙したはじめての書籍であり、化学、農学や環境科学に取り組む者にはもちろん、現代に生きる人ならば読んで損はない一冊である。

私も子供の頃、すなわち敗戦期に、頭からDDTの白い粉を掛けられた記憶がある。
DDTとは以下のような物質である。

DDTという名称は、ジクロロジフェニルトリクロロエタンの頭文字を取ったものです(ただし現在の命名ルールでは、1,1,1-トリクロロ-2,2-ビス(4-クロロフェニル)エタンという名称になります)。DDTが最初に合成されたのは1874年のことですが、スイスのミュラーによってその強力な殺虫効果が発見されたのは1939年になってからのことでした。下に示す通り5つの塩素原子(黄緑)を含んでいます。
Ddt

DDTはきわめて安価に合成でき、多くの昆虫に対してごく少量で殺虫作用を示します。それでいて人間など高等生物にはまったく無害(と思われた)なのですから、これはまさに夢のような薬剤でした。このため特に第二次世界大戦後の占領地で、蚊やシラミを駆除するために大量に用いられました(これらの虫は黄熱病、チフス、マラリアなどの病原体をばらまきます)。戦後の日本で、DDTの粉末を頭から浴びる子供の写真をご覧になったことのある方も多いことでしょう。これによって戦後につきものの伝染病の蔓延はすっかり影を潜めることとなりました。DDTの生産量は30年間に300万tに達し、発見者ミュラーは1948年のノーベル医学生理学賞に輝いたのです。
http://www.org-chem.org/yuuki/DDT/DDT.html

このDDTやPCB(カネミ油症の原因物質)が、安定性の故に生態系の中で濃縮される。
いわゆる食物連鎖である。

生物が、外界から取り込んだ物質を、環境中あるいは他の生物中の濃度よりも高い濃度で体内に蓄積することを生物濃縮という。特に生物にとって生活にそれほど必要でない元素・物質の濃縮は、生態学的に異常な状態であり、環境問題の一つといえる。
通常、生物体内に取り込まれた物質の多くは、代謝などによって再び体外に排出される。しかし、水に溶けにくい、脂質と結びつきやすいなどの性質を持つ一部の物質は、生物体内に蓄積しやすく、生物同士の食物連鎖によって生物濃縮が進行する。例えば、水域の生態系では、水中に残留している有害物質(PCB※1、DDT※2など)が、植物プランクトンや藻類から、小型の二枚貝や魚類へと、濃縮率を高めながら濃縮されている事例が報告されている。

Photo
生物濃縮では、食物連鎖の上位に位置する「高次消費者」ほど、高濃度(自然状態の数千倍から数千万倍)の濃縮が起こり、その生物の許容限度を超えた摂取量となって健康被害が発生する可能性が高くなる。実際に、生物濃縮により人間の健康被害が生じた事例としては、有機水銀中毒による水俣病などが知られている。
http://tenbou.nies.go.jp/learning/note/theme2_3.html

このような濃縮が起こることは当初は広くは知られていなかった。
しかし、生態系(より広くは環境)の異変を注意深く観察していれば、より深刻な被害が発生する前に対策をうてる場合が多い。
新潟水俣病は防げた可能性が高いのではないか。
ハインリッヒの法則を参照しても、微細な変化・変異に気付くことが重要である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 7日 (金)

S.ジョブズの死と「iPhone4S」の発売(続)

「iPhone4S」が期待された「iPhone5」でなかったことは、先ずは消費者・ユーザーの期待を裏切るものと受け止められた。
しかし、間を置かず、S.ジョブズの死が伝えられると、反応が一変したらしい。

「iPhone4S」は4日(現地時間)の発表後、世界の消費者と業界から冷ややかな反応を受けた。「iPhone4」をやや改善したレベルにすぎなかったからだ。各種インターネットサイトには「アップルに失望した」「iPhone5を楽しみにまっていたが裏切られた」「デザイン・性能など変わったところがほとんどないのに、なぜ新しいシリーズとして出てきたのか」などネットユーザーの不満が相次いだ。
しかし一日で状況は逆転した。「iPhone4S」発表翌日の5日(現地時間)、アップルのCEOだったスティーブ・ジョブズの死去が伝えられた。インターネット上にはすぐに哀悼の雰囲気が広がった。
「iPhone4」に対する不満のコメントばかりだったアップルのホームページも、ジョブズへの追悼文で塗り替えられ、ツイッターやフェイスブックにはジョブズの死を悼むコメントがあふれた。この雰囲気は「iPhone4S」の販売につながった。

http://japanese.joins.com/article/385/144385.html?servcode=300&sectcode=330

さすがに“神様”だ。
名実共にカリスマである。
「iPhone4S」というネーミングも、「4S]を「For Steve」の意味だと解するのだという。

各種のメディアには、S.ジョブズを追悼する言葉が溢れている。
Photo左表は、週刊ダイヤモンド編集部による『追悼 スティーブ・ジョブズ/革新と創造の担い手、逝く』と題する記事中のものである。

ジョブズ氏は76年に友人とともにアップルを創業(会社設立は翌年)。77年に「AppleII」を発表し、個人向けコンピュータで世界で初めて成功を収めた。その後、マウスを使った操作性やデザイン性の高さで、後のパーソナルコンピュータのひな型ともなった「マッキントッシュ」をはじめ、先進的な製品を生み出すも、期待ほどには売り上げは伸びず、業績悪化に伴う内部対立などからアップルを追われる。
追放後は、コンピュータグラフィックス制作会社のピクサーを設立し、ディズニー映画「トイ・ストーリー」を制作するなど活躍。その間、アップルは米マイクロソフトとのOS競争に敗れ、業績は悪化の一途をたどったが、96年にジョブズ氏は顧問として復帰を請われると、すぐに最高経営責任者(CEO)に返り咲いた。
それ以降、「iMac」を旗頭として、新生アップルの道を突き進んでいく。コンテンツ配信サービスの「iTunes Store」と連携し、一気にナンバーワン携帯音楽プレーヤーに上り詰めた「iPod」を皮切りに、スマートフォンというまったく新しい携帯電話の市場を創造した「iPhone」を生み出した。さらには、「iPad」を世に送り出し、携帯電話とノートパソコンのあいだにタブレット端末という市場まで創り出し、ユーザーのライフスタイルを塗り替えてしまったのだ。

まさに時代の申し子なのだろう。
現在コンピュータといえばほとんどの人がパーソナル・コンピュータ(PC)のことを考えるだろう。
しかし、ジョブズたちが「マッキントッシュ」を市場に出すまでは、一種の夢物語であった。
私の職業生活の1/3の期間においては、コンピュータとは空調の効いたコンピュータ室に鎮座する大型機であった。

PCの歴史の一端を、Wikipediaから引用する。

1981年16ビットIBM PCが登場して世界的にベストセラーとなり、IBM PCで採用されたインテルのx86系のCPUとマイクロソフトMS-DOSが主流(事実上の標準)となった。更にコンパックなどによりIBM PC互換機市場が形成され、「パーソナルコンピュータ」の名称が一般化した。表計算ソフトはLotus 1-2-3ワープロソフトWordPerfect(日本では一太郎)が普及した。
1984年に登場したMacintoshグラフィカルユーザインターフェースの概念を大きく普及させることに成功し、後のコンピュータに絶大な影響をもたらした。1985年にはMacintosh向けにMicrosoft Excelが登場し、そのインターフェースは後のWindowsアプリケーションの原型となった。
しかし日本では「日本語表示の壁」もあり各社独自の日本語仕様が続き、異なったメーカー間では
アプリケーションソフトウェア互換性はほとんど無かった。16ビット市場では1982年の日本電気のPC-9800シリーズがトップシェアを続け他には富士通FMシリーズFM TOWNSセイコーエプソンのPC-9800互換機、個人向けに絞ったシャープのX68000、PC/AT互換機ベースのAX協議会のAX、日本語表示用に高解像度を標準採用した日本IBMマルチステーション5550などが競った。

個人として初めて購入したのが、PC-9800シリーズ、職場ではじめて自分が操作するツールとして使ったのが、マルチステーション5550である。
人気のない部屋で明け方近くまでかかった仕事をセーブし忘れてしまい、パーになってしまったことなどを憶えている。
今から振り返れば、のどかな時代でもあった。

ジャーナリストの瀧口範子氏は、『「Stay hungry, Stay foolish」/ジョブズ氏がシリコンバレーに遺したもの』と題する記事で次のように言う。

考えてみると、インテルやオラクルなど世界に名を知られたシリコンバレーのテクノロジー企業は数多あれども、インターネット以外の企業でこれだけ一般消費者にコネクトしていた企業はなかっただろう。ヒューレット・パッカードは例外かもしれないが、現在ではどちらかといえばB2B系の色が強く、イメージとしてはやはり地味で真面目だ。
一方、アップルは1976年の創業当初から、まったく違った波動に“チューン”していた。アップルという社名、すっきりしたかたちの筐体デザイン、GUI(グラフィック・ユーザーインターフェイス)やマウスを用いた操作のアイデアなど、この会社はまるで突然変異体のようにこの地に出現したのだ。
・・・・・・
iPod、iPhone、iPadは、2001年から2010年のたった9年の間に世に出されたものだ。それに平行して、インターネットで音楽を販売するiTunes Storeによって、音楽業界に再編成を余儀なくさせ、App Storeで新しい産業を起こし、タッチ・スクリーンを備えたタブレット・コンピュータによって、ポストPC時代をスタートさせた。
・・・・・・
奇しくもその死は、アップルがiPhone4Sを発表した翌日のことだった。アップルの製品ロードマップは、すでに何年分も先まで描かれているはずだ。アップルの一般消費者への浸透ぶりも本物だろう。だが、彼の死がシリコンバレーを震撼させていることは間違いない。
「Stay hungry, Stay foolish.(ハングリーであり続けろ、バカであり続けろ)」と唱えたジョブズ氏の精神は、いつしかシリコンバレーの精神になった。だが、彼の死に際して、その継続がいかに困難であるかを誰もが今、実感しているはずだ。

「Stay hungry, Stay foolish」「ハングリーであれ。愚かであれ」。
イノベーションの条件であろうか。
ジョブズの本質は、ビジネスモデルや製品コンセプトといった次元を超えて、「精神」にあったということだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 6日 (木)

S.ジョブズの死と「iPhone4S」の発売/追悼(14)

米アップルの創立者、スティーブ・ジョブズ氏が10月5日、死去した。

ジョブズ氏は体調不良が原因で今年1月から休養に入り、8月にはアップルの最高経営責任者(CEO)を退任。後任として当時、最高執行責任者(COO)だったティム・クック氏が昇格して陣頭指揮に当たっていた。
既に第一線を退いていたとはいえ、アップルの精神的支柱だったジョブズ氏の死去が同社に与える影響は計り知れないものがある。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111006/223041/?ST=print

「IT革命」という言葉はすでに死語となったが、ITの世界で真に革命的な仕事をした人だろう。
危機に陥ったアップルを立て直し、時価総額ナンバー1にまで成長させた。
⇒2011年9月17日 (土):アップルとソニー/「同じ」と「違う」(31)
プレゼンテーションの天才でもあった。
合掌。

おりしもアップルが、高機能携帯電話(スマートフォン)の新型機種「iPhone(アイフォーン)4S」を14日から発売すると発表したところだ。
ジョブズの病状を窺いながら、タイミングを計っていたのだろうか。
「iPhone5」ではないかとの観測もあったが、マイナーチェンジという感じである。
それだけに、製品としては成熟したものになっているのだろう。

スマートフォンについては、Androidの機種を試しに使ってみているが、自分としては現時点では必然性を感じていない。
<ガラパゴス携帯+無線機能付き軽量PC>の組み合わせ以外のほかに、スマートフォンを使いたいというシーンが余りない。
⇒2010年12月28日 (火):スマートフォンの可能性/知的生産の方法(3)

しかし、若い知人などを見ていると、確実にスマートフォンの方向に時代は移っている。
マクロなトレンドを考えれば、知的活動において、いわゆるノマドスタイルが増えていくであろうから、高齢者にとっても他人事ではない。。
⇒2011年2月21日 (月):知的余生の方法とノマドスタイル/知的生産の方法(11)

スマートフォンとクラウドがノマドスタイルのキーになることは間違いないと思われ、その意味で、iPhone4Sの評価は興味深い。
アップルは、クラウド型のサービスも12日に開始するという。

新型機種はパソコンに代わって、クラウド接続のための中核的な端末になる。米アマゾン・ドット・コムや米グーグルなどと個人向けクラウドをめぐる競争が激しくなる。
Iphone111006
日本経済新聞111006

クラウドということでいえば、Googleが本家(?)であろう。
GoogleのAndroid端末との競争の行方はどうなるであろうか?

注目点の1つは、従来のソフトバンクモバイルだけでなく、KDDI(au)からも販売されることだろう。
スマートフォンの販売競争が一段と激しくなることが予想される。
ソフトバンクモバイルの弱点は電波の弱いところだった。電波状態の良いKDDIと併売されれば、この点で苦しいのは否めない。
価格戦略も興味を惹かれるところだ。
⇒2011年9月23日 (金):電波利権の構図はどう変わるか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 5日 (水)

後遺症を克服する意志の力/闘病記・中間報告(32)

東日本大震災後、脳卒中リスクが増大しているという日本脳卒中学会が緊急声明を発表したことを紹介した。
⇒⇒2011年9月 5日 (月):東日本大震災と脳卒中リスク/中間報告(23)

かつて死因のトップだった脳卒中は、緊急医療システムや発症後の治療薬剤の開発によって、死亡に至るケースは減ってきている。
死亡者数は減ったと言っても、発症数が極端に減ったわけではない。
私も幸いにして、致命ということにはならず済んだ。ひと昔前だったら、どうなっていたか分からないところだと思う。

問題は、後遺症である。
NHKスペシャル『脳がよみがえる~脳卒中・リハビリ革命』の反響は大きかったようである。
⇒2011年9月 7日 (水):脳卒中リハビリ最前線/中間報告(28)
9月14日のNHKの朝の番組「あさイチ」で「介護に朗報 脳卒中リハビリ革命!」として続報をやっていた。
また、市川衛というNHKのディレクターが番組を単行本化しており、私も早速Amazonで注文したが、まだ届いていない。

「あさイチ」には、鹿児島大学医学部の川平和美教授が登場していたが、鹿児島大学霧島リハビリテーションセンターは残念ながら、リハビリ患者を受け入れるキャパシティがないとのことである。
同センターのサイトには下記のメッセージが載っている。

脳卒中の後遺症への対応やリハビリテーションなどについて多くのご質問やお問い合わせを頂き、ありがとうございました。
皆様が深く悩まれている事柄であり、皆様のお問い合わせについて、個々にお答えすべきところですが、私共が対応するにはあまりに多くの問い合わせがあり、皆様お一人一人にお答えすることができません。
誠に申し訳ございませんが、現在の状況をご理解いただき、お問い合わせはお控え下さいますよう、お願い申し上げます。
鹿児島大学霧島リハビリテーションセンター長  川平和美
http://com4.kufm.kagoshima-u.ac.jp/kirishima_reha/index.html

「リベラルタイム」1110号に『「脳卒中」後遺症は早期治療と強い意志で克服』という油井富雄氏(ジャーナリスト)のレポートが載っている。
油井氏は、氏の見聞した3人の例を紹介し、適切な対処法を紹介している。

A氏とB氏は共に油井氏の知人である。
2人とも、仕事に支障がないほど回復している。
共通点は、倒れた時に周囲に人がいて、すぐに救急搬送できたことであるという。
発症から初期治療までの時間が後遺症の程度に影響する。
だから、脳卒中の可能性のあるときは、なるべく早く救急車のお世話になった方がいい。
⇒2010年4月18日 (日):中間報告(4)初動対応と救急車の是非

私は倒れた直後、自分の身に起こったことを理解できなかった。
自分の意識ははっきりしていた(つもりだ)から、発声が思うようにできないことを知ったときには動転した。
幸いにして携帯で連絡ができた娘が事態を察してくれたからこの程度(ADLはOK)で済んだが、まさに不幸中の幸いだったのだろう。

油井氏はもう1人の人物の例を紹介している。
中山忠直(1895~1957)。以下のような人物である。

石川県出身。父の中山忠也は漢方医学者。筆名は中山啓。
自然科学への造詣が深く、スケールが大きく斬新な宇宙的SF詩を発表し独自の世界を展開した。マルキシズム、極右思想等の思想遍歴を経て、皇漢医学、漢方医学、思想、画家としても作品を残している。 SF詩の代表作に「自由の廃墟」(1922)、「火星」(1924)、「地球を弔う」(1939)などがあり、漢方医の本も多数だしている。

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/N/nakayama_ta.html

中山氏は、沼津市の旧若山牧水邸を買い取り、妻、4人の子供、妻の両親と暮らしていた47歳の誕生日の直前に発症した。
救急治療もリハビリも未発達だった。
47歳から14年間、脳卒中で半身不随だったが、凛として生きた。
漢方医学の新研究-西洋医学と東洋医学の実証的比較』(文理書院)を遺して日本の漢方医学を守った。
このような先達もいるのである。
中山氏に比べれば、私などはずいぶんリハビリ環境に恵まれている。決してあきらめてはならないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 4日 (火)

避難勧告をめぐって/原発事故の真相(10)

フクシマの原発事故で、アメリカ政府が半径50マイル(約80km)にいる自国民に退避勧告を出したとき、日本政府との対応の違いに戸惑いを覚えた。
「日本政府は、重要な事実を開示していないのではないか?」という疑念が湧いてきたのを覚えている。
⇒2011年3月15日 (火):地震情報と「伝える力」

この疑念は、不幸にして的外れではなかった。
⇒2011年5月 6日 (金):政府による情報の隠蔽と「見える化」/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(22)

日米政府のやりとりの一端が明らかにされつつある。

東日本大震災で米政府が、放射能漏れ事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所から際、日本政府が日米同盟への悪影響を理由に勧告を出さないよう要請していたことが分かった。複数の日米関係筋が明らかにした。退避勧告をめぐる日米交渉の具体的な舞台裏が判明したのは初めて。米軍による“トモダチ作戦”が遂行される一方、日米双方がぎりぎりのやりとりを行っていたことが浮き彫りになった。
日米関係筋によると、米政府は原発が水素爆発や火災を起こしていた3月16日、米国民の保護が急務との判断から、在ワシントン日本大使館の藤崎一郎大使を国務省に呼び、キャンベル国務次官補が福島第1原発から半径50マイルにいる米国民に退避勧告を出す方針を伝えた。
・・・・・・
藤崎大使の打電内容を伝え聞いた首相官邸側が在京米大使館側に接触、「米政府が退避勧告を出せば米国への不信感が増大して同盟関係に悪影響が出る」などとして、退避勧告の見送りを要請したという。
これに対し、米側は「政治的影響を議論している悠長な場合ではない。自国民保護は最重要だ。日本国民の理解を得られると確信している」と伝えたという。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/111002/amr11100200590000-n1.htm

この様子は以下からも窺える。

Ws000000
3/15、アメリカは日本にいるアメリカ人に対して、原発から80キロ以上避難せよと勧告を出した。
しかしその80キロは、同盟国である日本がパニックにならないよう控えめで「楽観的な距離」だった。
「最悪の場合、日本のほとんどになるだろう」とアメリカが見ていることがわかる

http://www.youtube.com/watch?v=yPf4UaNMTUs

枝野前官房長官の説明はどうだったか?
以下はツイッターからの記録である。

3月18日の枝野幸男官房長官定例会見。
上杉隆氏
@uesugitakashi の質問に対する枝野官房長官回答。
枝野「原子力発電所からの退避指示の内容については、いくつかの国が、日本におられる自国民に対する指示等の内容と、政府が発表している内容が確かに異なっている」
「しかしながら、これは海外におられる自国民保護という観点からは、一般的に求められている水準よりも、より保守的な水準で様々なことを指示するのは、それぞれの政府の当然の対応だと思っている」
「私が同じ立場、つまり、日本の国外で同種の事態が生じて、日本国民の退避について様々な判断をするにあたっては、科学的、客観的に適切だと思われる数値を超えて、様々な指示をすることは当然、自国の政府の責任としてあり得ると思っている」
「日本政府としては、いま私どもが把握している専門家の意見を含めたデータのなかで適切と思われる退避に対する指示等を出している。その数字の違いについては、アメリカ政府の方の中からも日本政府の判断は適切であるという趣旨のご発言も出ていると承っている」
不思議発見なう。
枝野「一般的に求められている水準よりも、より保守的な水準で様々なことを指示」「科学的、客観的に適切だと思われる数値を超えて、様々な指示」。
ルース「(80km)圏外への避難勧告は、米国で同様の事態が起きた場合に準拠」。
あれれ? 以上。
http://togetter.com/li/115169

枝野前官房長官の苦しいレトリックからも、日本政府がいかにして事態を深刻なものにみせないか、ということに努力していることが理解されよう。
しかし実際は、最深刻の「レベル7」という事態になっていたのである。
⇒2011年4月12日 (火):福島はレベル7/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(5)

そして政府が情報開示を適切に行っていれば、防ぐことができた被曝もあったのではないかと考えられるのである。
⇒2011年9月11日 (日):政府による「情報の隠蔽」は犯罪ではないのか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 3日 (月)

公務員宿舎問題にみる政治家の(言葉の)軽さ

朝霞の公務員宿舎の建設問題で、当初「いまは特段変更するつもりはございません」と建設計画の見直しは行わない方針だった野田首相も、さすがに世論の激しい批判を受けて凍結を指示した。

野田佳彦首相は3日午後、埼玉県朝霞市で建設中の国家公務員朝霞宿舎について「少なくとも東日本大震災の集中復興期間(2011〜15年度)の5年間は事業を凍結するように」と安住淳財務相に指示した。震災復興のための臨時増税で国民に負担を求めようとしている中、「無駄遣い」との批判が強まっている朝霞宿舎の建設続行は困難と判断した。建設に反対する野党への配慮もあるとみられる。
http://jp.wsj.com/Japan/Politics/node_318255

しかし、今の時点で建設を進めるべきかどうかは瞬間的に判断できる問題だろう。
それを「迷走」といわれるような状態になること自体、民主党の底の浅さ、政治家の軽さを示しているとせざるを得ない。

自民党の鴨下一郎政調会長代理は2日午前、フジテレビの番組で、埼玉県朝霞市の国家公務員宿舎建設をめぐる野田政権の対応について、「前言をひるがえして(建設を)やめます、という話になったら、二転三転だ。迷走としか言いようがない」と批判した。また、「事業仕分けで凍結したんだから、『解凍』するならそれなりの大義名分が必要だ」と指摘した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011100200075

野田首相をはじめ、民主党の判断はチグハグとしか言いようがない。
担当の蓮舫大臣は次のように発言した。

蓮舫行政刷新担当相は30日午前の記者会見で、与野党から批判が出ている埼玉県朝霞市の国家公務員宿舎の建設について「行政刷新担当相の私が了としている」と述べ、建設を見直す必要はないとの認識を示した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110930/plc11093012150011-n1.htm

蓮舫大臣が「私が了としている」から、建設してもOKだというのは、あまりにも不遜というべきだろう。
問われているのは、権限の所在ではない。「了としている」という判断そのものなのである。
事業仕分けの存在意義すら危うくするものである。

それにしてもこれを事業仕分けで100%中止と断言していた責任者である蓮舫の言い訳が噴飯ものだ。
「確かにこの時期の建設再開には批判が来ても仕方が無いが、事業仕分けでは全体として15%もの削減が実行できた。全体としては正解だったと思っている。」
ナニヤラ寝ぼけた頭で聞いていると騙されそうだが、これほど異常で悪質詐欺業者のような言い訳も見苦しい。そもそも事業仕分けとは、個別事案の無駄性について討論する場であったはずが、個別具体な問題性は度外視で、全体的に15%削減だからOKとは呆れ返る。それでは不要な官舎は建設されて、スパコンやロケットなど必要な経費が削減されていても同じ15%なら、何の意味も無いどころか、帳尻合わせの為のおかしな切り詰めが横行する事になり、
タコ足食いの批判がますます正当化されるだろう。
http://bluegreen-iza.iza.ne.jp/blog/entry/2444472/

事業仕分けで、「宿舎が真に必要な公務員に限定し、原則として賃貸とすべきだ」との意見が出て、新築を凍結して、宿舎のあり方を検討することになったのは、一昨年のことである。
当時の環境と、東日本大震災の復興にこれから取り組もうとしている現時点の比較においても、限られた財源をどう使うかということに、もっと敏感になるべきではないか。
安住財務相が「周辺の宿舎の売却で差し引き10億から20億円のプラスが生まれるから、これを復興財源にあてる」と説明しても説得性はない。

新築と売却の差額の話を持ち出して、復興に貢献していると胸を張る。事業仕分けでの「原則として賃貸に」という指摘など知らん顔だ。
およそ、「民の視点」は、どこにもない。

http://www.asahi.com/paper/editorial20111002.html#Edit2

民主党の閣僚よ!
もっと重心と目線を低くせよ!
鳩山・菅と2代続けて、人心はもうウンザリしていることに、自分たちも気がついているはずではないか。
加地伸行立命館大教授の言葉を借りれば、

軽いのである、人間として。もちろん、民主党の入閣者のこと。
野田佳彦内閣が発足して8日目、早々の鉢呂吉雄経産相の失言。
死の町、そうだ。だからこそ〈それにどのように対処してゆくか〉その具体的方針を示すのが大臣の役割なのである。それを「死の町」と評するだけでは、〈槐門たりえず〉。
「槐門」とは、閣僚たりうる出自ということ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110925/stt11092502470000-n1.htm

松本前復興大臣や鉢呂前経済産業大臣は失職したが、山岡拉致担当大臣なども、自分のミッションが分かっていないのではないか?

9月22日の週刊文春や青山繁晴氏のニュース解説などによれば、山岡大臣は家族らと初めて面会した控え室で、とんでもない暴言を吐いたという。
拉致被害者の有本さんが「娘が拉致されたのは1983年です」と告げたのに答えて「それは私の初当選の年だ」と返したのだ。
周囲の家族は唖然とし、場の空気は一変したという。山岡大臣は、集会でもあいさつを終えると早々に退席した。

http://www.youtube.com/watch?v=0B-6s1JnStU

大臣になって舞い上がっている、との評もあるが、人間性の問題のように思う。
『存在の耐えられない軽さ』などという小説のタイトルを思い浮かべてしまう。

言葉は人間だけが持つ道具である。
大事に使うべきだと思うが、言葉は思考の媒体だから、結局は思考が軽いノダろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月 2日 (日)

2号機の真実は?/原発事故の真相(9)

フクシマの事故において、1~3号機で水素爆発が起きた、と今まで考えられていた。
⇒2011年6月23日 (木):西村肇さんの水素爆発に至る過程の推算/原発事故の真相(2)
それを東電自身が覆したらしい。

福島第一原子力発電所の事故を巡り、東京電力が社内に設置した「福島原子力事故調査委員会」(委員長=山崎雅男副社長)の中間報告案の詳細が明らかになった。
2号機で水素爆発があったとする従来の見解を覆し、爆発はなかったと結論付けた。事故を招いた津波について「想定できなかった」と釈明し、初期対応の遅れについても、「やむを得なかった」との見解を示すなど、自己弁護の姿勢が目立つ。東電は、社外有識者による検証委員会に報告案を諮った後、公表する方針だ。
同原発では、1号機の原子炉建屋が3月12日午後に水素爆発を起こしたのに続き、14日午前に3号機が水素爆発した。さらに15日早朝、爆発音が響き、4号機の建屋の損傷が確認された。爆発音の直後に2号機の格納容器下部の圧力抑制室の圧力が急落したため、東電は2、4号機でほぼ同時に爆発が起きたとし、政府も6月、国際原子力機関(IAEA)に同様の報告をしていた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111001-OYT1T00929.htm?from=top

フクシマについては当初から曖昧な発表が多い。
その中でも菅前首相は、2号機についての説明から、明らかに“逃げ”ていた。
この件については触れたことがある。
⇒2011年4月17日 (日):原発報道の大本営発表/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(9)

キモの部分をもう一度再現してみよう。

総理、済みません、2号機への言及がありませんけれども、2号機はもっと深刻な事態なのではないでしょうか。
(菅総理)
今、申し上げましたように、何号機ということ等について、いろんな現象がありますので、全体を見て現在対応していますので、そういった意味で一つひとつがどうだという話は、場合によってはまた別の機会に東電の方から報告をすると、こういうふうに認識しております。

http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201103/15message.html

「別の機会に東電の方から報告」というのが今回の報告案なのか?
2号機については、以下のような記事もある。

3月14日夕、福島第1原発は、予想を超える深刻なシミュレーション結果に直面した。
それは、格納容器から気体を抜いて圧力を下げる操作のベントが2号機でできないことが分かったことだ。
・・・・・・
原発事故に詳しいある原子炉専門家は、こう指摘する。

「ベントができないということになれば、格納容器の内圧が高まってしまい、どうにも制御できなくなって壊れてしまうということです。これは、本当にとんでもないことで、その内圧で原子炉そのものが爆発して核燃料が飛び散ってしまうことにもなります」

・・・・・・
2号機原子炉の爆発危機を前に、原発事故の関係者には動揺が走った。
事故対応の現場責任者だった第1原発の吉田昌郎所長は、シミュレーション結果を聞いて、黙り込んでしまう。そして、NHKの番組によると、免震棟の廊下で休む作業員に声をかけ、「皆さんがここから出るのは止めません」とまで言い切った。
結局、2011年3月14日は、東京電力の社員ら70人を残して、200人以上が原発を去った。さらに、東電の清水正孝社長は、「現場から撤退したい」と政府に5回も電話で伝えている。
これに対し、菅直人首相は翌15日早朝、東電本店に乗り込んで、「お前らふざけるな」とケンカ腰で言ったというのだ。そして、「撤退は許されない。60歳以上の人間は現場に行って、自分たちでやる覚悟を持て」とまくし立てた。一部報道では、菅首相は、撤退するなら東電の存続は認めないと激怒したとされていたが、これは本当だったようだ。官邸はこの日、東電本店に統合対策本部を設置している。
http://www.j-cast.com/2011/06/07097742.html?p=all

菅前首相が、東電の撤退を止めたということは事実だということであろう。
しかし、このような状況であったということは説明されていない。
圧力抑制室の破損についても不自然な説明であった。
枝野官房長官(当時)が圧力抑制室のことを、わざわざ伝わり難いサプレッションプールで、しかも説明抜きで用いていた。
⇒2011年3月15日 (火):地震情報と「伝える力」
2
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111001-OYT1T00929.htm?from=top

はたして2号機の真実はいかなるようだったのか?
今後のためにも、政府・東電は、正面から“逃げないで”説明をする義務があるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011年10月 1日 (土)

松原景観受難の年/花づな列島復興のためのメモ(7)

「白砂青松」という言葉がある。
日本人が好む景観の代表だろう。

白砂青松と表現される景観は、以下に示されるような各種の理由により減少している。

  • 砂防工事・ダム設置などにより河川からの土砂の流入が減少し、海岸浸食が進行した。
  • 波浪対策、また上記のような海岸浸食対策として、防潮堤の整備や消波ブロック類の設置が広範に進められた。
  • 開発にともなう海面の埋め立てや道路の敷設・拡幅など
  • マツクイムシによる松林の衰退・消滅など

また、人為的なものの場合、維持管理の放棄による荒廃と遷移の進行が考えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%A0%82%E9%9D%92%E6%9D%BE

東日本大震災では、高田松原が1本だけを残して全滅した。
⇒2011年6月 9日 (木):宮脇昭氏の講演と「ぬまづの森」の試み
上記でも紹介した「千本松原」(沼津市から富士市にかけての海岸線沿いに広がっている)が、台風15号により大きな被害を受けた。
111001
静岡新聞111001

千本松原の一部に千本浜がある。
私が子供のころは、たくさんの海の家があり、夏のシーズンには海水浴客で賑わっていた。
高校時代には、部活動で、砂浜のランニングにより足腰の鍛錬をした。
⇒2007年11月 5日 (月):私の『夏草冬涛』

私にとっては思い出深い場所であるが、現在は防潮堤が作られていて昔日の面影はない。
Photo_3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%AC%E6%B5%9C
それでも、後年、会社の親睦行事で、「地引網→バーベキュー」などを家族ぐるみで楽しんだりした。

千本浜や千本松原は、若山牧水、井上靖、明石海人(『白猫』で知られるハンセン病歌人)、大岡信、佐藤雅彦(電通出身の「だんご三兄弟」のクリエイターで知られる慶應大学教授)らの著名人に愛され、文学碑も数多く建てられている。

Photo_2
千個の海のかけらが 千本の松の間に挟まっていた 少年の日 私は毎日それを一つずつ食べて育った
井上靖文学碑

http://www.itscom.net/special/numazu/
⇒2011年6月 5日 (日):沼津における津波の歴史

台風被害を含め今年は水の害が多い。
⇒2011年9月22日 (木):台風15号と国土の条件/花づな列島復興のためのメモ(5)
景観は生態系や文明系の「見える化」ということではなかろうか。
景観を守り育てていくことは、将来世代に対する責任であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »