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2011年9月24日 (土)

福岡元岡古墳出土の大刀と日本の暦/やまとの謎(38)

九州大学総合移転に伴う福岡市西区の元岡・桑原遺跡群第55次発掘調査で、わが国での暦使用を示す最古の文字資料とみられる銘文が入った大刀が出土した。

福岡市教委は21日、西区の元岡・桑原遺跡群の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で西暦570年に製造したことを示すとみられる「庚寅(こういん)」など19文字の銘文が象眼という技法で刻まれた鉄製の大刀が出土したと発表した。暦使用の日本最古の実例とされ、6世紀半ばに朝鮮半島から暦が伝来したとする「日本書紀」の記述を裏付ける貴重な発見とみられる。
古墳から銘文が入った刀剣が出土したのは全国7例目で、干支(かんし)や年次と月日を組み合わせて表記された刀剣が発見されたのは初めて。

Photo
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/264501

日本の暦は次のように変遷してきたといわれる。
Ws000010

元嘉暦(げんかれき)
元は中国六朝時代に作成された旧い暦。日本と国交のあった百済の国暦となっていたため日本に導入された。
持統四年(AD 690)に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが暦法の公的採用の勅令と考えられる。もっとも実施には時間がかかり勅令後の二年後の持統六年(AD 692)。
「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるが、平朔の元嘉暦と定朔の儀鳳暦との併用は困難だろうから、AD692~696の5年間が元嘉暦、その後が儀鳳暦使用と考えられるようになった(根本元圭「皇和通暦」)。

http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0060.htm

上表にみるように、最古の暦は「元嘉暦」で、持統4(690)年に公的採用の勅令が出て、その2年後の持統6(692)年に実施されたというのが定説のようである。
しかし、上記記事では次のように解説している。

日本書紀によると、暦は554年に百済から来日した「暦博士」から伝わったとされる。九州大学人文科学研究院の坂上康俊教授(日本古代史)は「暦博士は中国の宋時代に使われ始めた『元嘉暦(げんかれき)』をもたらしたと考えられ、銘文は日本列島で元嘉暦を使いこなしていた証拠とみてよい。わが国最初の暦使用の実例として画期的な資料」としている。

Photo_360年に1度巡ってくる庚寅年のうち、古墳時代で1月6日が庚寅の日なのは570年のみ。この古墳は副葬された土器の年代から7世紀中ごろの築造とみられ、刀は作られて数世代後に副葬されたことになる。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20110921-OYS8T00784.htm

どうもよく分からない。

1.暦は554年に百済から来日した「暦博士」から伝わった。それは元嘉暦である
2.「庚寅」などの文字が西暦570年に製造したことを示す
3.AD692~696の5年間が元嘉暦使用

元嘉暦が使われていたのは554年の伝来直後からであって、この出土大刀は570年に製造されたとすると、持統4年とか6年というのはいかなる意味か?
持統4年(AD 690)に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが暦法の公的採用の勅令だとすると、大刀の製造年から100年以上も経ってから勅令が出たということだろうか?
この間、元嘉暦は使われていたのか、いないのか?

元岡遺跡群では、律令制度の最初の年号である「大寶(宝)元年」(701年)の記載がある木簡などが発見されている。

木簡に残る文字は、時代や社会状況を示す動かぬ証拠で、全国の発掘現場では「お宝」として重要視されている。
・・・・・・

元岡遺跡群は「お宝」の木簡が、今後も続々と出士する条件を備えている。
・・・・・・

元岡遺跡群の大規模な官営の製鉄施設」は、九州全域を統括し、大陸との外交、軍事をつかさどった「大宰府政庁」や、大陸からの使節などを受け入れた迎賓館「鴻臆館」と同時代に存在していた。その役割分担はいったいどうなつていたのか。
日本書紀には、朝鮮出兵に向けて二万五千の兵が嶋郡(現在の福岡市西区の一郡と志摩町)に駐屯した記録がある。元岡遺跡群を合む古代の嶋郡が「武器も含めた鉄の生産工場で、朝鮮半島に向けた最前線基地だった」との見方は、ますまず強まつている。

http://www.itogura.net/motookaiseki/index.htm

今回は木簡以上のたいへんな「お宝」の出土ということになる。
元岡
遺跡群は、下図の九大伊都キャンパスの位置である。
Photo_2
Photo
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20110921-OYS8T00784.htm

伊都といえば、『魏志倭人伝』で有名である。
すなわち、弥生時代にはすでに栄えていた場所だ。
元岡
遺跡群の推移、暦の伝来と普及の実体等興味をそそられる謎は多い。

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