『北帰行』ノスタルジー
昨日、BookOffに立ち寄ったら、小松健一『啄木・賢治-青春の北帰行』PHP研究所(8707)が、¥105均一のコーナーに並んでいた。
上質の装丁の写真・文集であるが、BookOffの値付けは、コンテンツには無関係に発行年等で行われているので、時折こうした掘り出し物に出会う。
北帰行!
何故だか分からないが、私たちは、北方に対するロマンチックな憧れの気持ちがあるようだ。特に青春期にはそうではないだろうか。
私の高校では、伝統的に国公立大学の中でも、東北大学や北海道大学への進学を希望する者が多かった。同級生にも結構いた。
異なる風土に対する想いかもしれない。
旧制旅順高校の寮歌(?)といわれる宇田博作詞作曲の『北帰行』は、私の高校時代からの愛唱歌の1つである。
窓は夜露にぬれて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人ひとり
涙流れてやまず
・・・・・・
いまは黙して行かん
何をまた語るべき
さらば祖国わがふるさとよ
あすは異郷の旅路
一般には小林旭の歌によって、人口に膾炙した。「渡り鳥シリーズ」の主題歌であるが、見た記憶がない。
Wikipedia101017最終更新によれば、次のような事情である。
昭和36年(1961年)、この歌は日本コロムビアのプロデューサや小林旭に見い出され、同社からレコード化されて大ヒットした。この際 作者捜しが行われ、当時TBS社員だった宇田の名乗り出、および旅順高校時代の友人が持っていた宇田直筆の歌詞から、作者が確定したという。
歌のヒットにより、小林が主演する映画 『渡り鳥シリーズ』(日活)の昭和37年(1962年)正月封切り版『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』の主題歌となった。小林のバージョンは現在まで最も流布したものであるが、原曲とは相当に変化した部分がある。もっとも作者の宇田自身は、小林の歌を晩年に至るまでいたく気に入っていたという。
日本コロムビアのプロデューサというのが、五木寛之の艶歌三部作・『艶歌・海峡物語』『旅の終りに (文春文庫―平成梁塵秘抄劇シリーズ)』」の主人公・艶歌の竜のモデルになった人物である。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を
私は、加藤登紀子さんの『日本哀歌集(知床旅情)』がお気に入りの1つで、20代の頃LPを買い、レコードプレーヤーを使わなくなってCDを買いなおした。
昔、文藝賞という文学賞の受賞作品に『北帰行』というのがあった。
出版当時購入して読んで感心した記憶があるが、散逸してしまって書棚に見当たらない。
作者の名前は外岡秀俊。まだ東大在学中の学生だった。Amazonの商品説明には以下のようにある。
『一握の砂』をかかえて、青春は北へ旅立った。苦汁にみちた炭鉱での少年期、そして上京後の挫折を記憶に甦らせながら…。石川啄木の軌跡に現代の青春を重ね、透明な詩情と緊密な思索が交響する青春文学の不滅の名作。
『されどわれらが日々― (文春文庫)』の柴田翔よりも文章力がある感じで、どんな作家になるのだろうと期待していたが、朝日新聞社に入社して記者になってしまった。
東京本社の編集局長になって役員も間近、そのうちに「天声人語」の執筆者にという声もあったらしいが、今年3月に早期退職したという。どんな事情があったのか詳らかではないが、朝日としてはエース級の逸材が流出したことは痛手だろう。
いまの朝日新聞社にはそれほど魅力がないということだろうか。
『啄木・賢治-青春の北帰行』の冒頭の「旅立ち-若きいのちを求めて」に次のようにある。
若き日に「生きる」ということの意味を、その文学作品を通じて強烈に印象づけてくれた啄木と賢治。
短い生涯を終えるまで生き方のちがいはあっても、自然も生活もきびしい北の地に、生命のあらん限りを燃やし続けて、時代を駆けぬけていった二人。
その生きざま、その愛と苦しみと青春の原風景を、作品をはぐくみ、舞台となった北の風土を、自分の眼で確かめながら歩いてみたいという思いは、日、いちにちと私の心のなかで大きな位置を占めるようになっていった。
重いカメラバッグを肩に、啄木と賢治の文庫本をポケットにつめて、二人の足跡を追う旅へはじめて立ったのは、いまから八年前、北国に遅い春を告げる梅、桜、辛夷などが一斉に野山を彩りはじめる季節だった。
私は、啄木が亡くなった歳と同じ、二十六歳になっていた。
東北では、「遅い春を告げる梅、桜、辛夷などが一斉に野山を彩りはじめる季節」から、廻って夏の祭りの季節になっている。
仙台七夕、青森ねぶた、秋田竿灯さらには山形花笠の祭りがこの時期に集中する。
TVで、七夕の飾り付けの様子を中継していた。
今年は格別であろう。日本、いや世界各地から、復興への願いを込めた七夕飾りが寄せられているとのこと。
復興の道のりは遠いが、祭りが行われることが求心力として働く。
私の知り合いは、現地に行って僅かでも消費することに意味があるのではないか、と言って賢治ゆかりの花巻等を尋ねているらしい。
上記を書き写していて、啄木が亡くなった年齢と賢治が最愛の妹を亡くした年齢が同じであることに気づいた。
⇒2011年5月22日 (日):早稲田大学グリークラブによる宮沢賢治『永訣の朝』
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