リビング・サイエンティスト/梅棹忠夫は生きている(3)
今朝の日経新聞の文化欄に、民族学者の石毛直道さんが、「小松左京さんを悼む」を載せている。
石毛さんは小松さんとは、親族だけで行われた通夜や告別式に参加するほどの長い親交だった。
わたしの人生において幸せなことは、天才ということばにふさわしい二人の人物に巡り会ったことである。一人は昨年亡くなった国立民族学博物館の創始者である梅棹忠夫さん、もう一人が小松左京さんである。七〇年万博で一緒に仕事をして以来、この二人の天才は親しい間柄であった。
そのことは、わたしにとって幸せだっただけではなく、日本のためにも幸せなことであった。この二人が立案した、関西活性化のプロジェクトで実現したものがいくつもある。
お二人は、「3・11」後の日本のあり方についても、貴重な「ものの見方・考え方」を提示してくれたのではないかと思う。
いまや、その二人ともが不在ということになった。
佐倉統氏は、「3・11は<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>の終焉」と位置づけたい、とした。
→佐倉統『梅棹忠夫と3.11』「中央公論」11年8月号
大阪万博パラダイムの内容についても、大阪万博以降の期間を梅棹忠夫の時代とすることについても、全面的には賛同し難いが、梅棹が万博に積極的に関わったことは事実である。
梅棹の自伝ともいうべき『行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)』(0204)には、次のように書かれている。
わたしたちは「万国博を考える会」という研究会をつくった。メンバーは林雄二郎、川添登、加藤秀俊、小松左京とわたしの五人である。林は当時経済企画庁経済研究所長であった。のちに東京工大教授をへて、東京情報大学長をつとめた。川添は評論家として活躍していた。加藤は京都大学教育学部の助教授であったが、のちに学習院大学教授となり、その後、放送教育開発センターの所長をつとめた。小松はSF作家として、売りだし中であった。
わたしたちはときどきあつまって、自由勝手なテーマで議論をした。
いかにも楽しげな集まりである。この集まりが発展して、1968年に日本未来学会が誕生した。
梅棹は、さまざまな形で大阪万博に関わった。テーマ委員会の宣言文のほか、佐藤総理の演説、石坂泰三万博会長のあいさつ文などを書いた。
八面六臂の活躍ぶりであり、確かに大阪万博を動かしていた1人といっていいだろう。
しかし、繰り返しになるが、「3・11」に至る時代を<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>と規定し、「3・11」をもってそれが終焉したというのはどうだろうか。
佐倉氏は、「3・11」が梅棹忠夫の時代を終焉させたという前提の下に、梅棹忠夫の何を受け継ぎ、発展させ、何を批判して捨て去るべきか、という問いを立てる。
梅棹忠夫から受け継ぐべきことの第一に佐倉氏が挙げているのが、専門家の見通しや知識の不十分性である。
それは専門的知識そのものが不正確ということではなく、巨大システムだと少数の専門家では全貌をカバーしきれない。
専門家といえども群盲象をなでる状態だというわけだ。
有名なイソップ童話であるので説明は不要であるが、たまたま丁度いい例を見つけた。
前衆議院議員小野晋也氏(愛媛県、自民党)のブログである。
自民党にはすっかりイヤケがさしていたが、そして今でも自民党政権に戻るのはゴメンだと思うけれど、民主党との比較ならばよりマシかも知れない?
東京電力は12日、福島第一原発一号機で原子炉圧力容器内の水位計を点検し、調整した結果、その水位は、燃料棒の上部から少なくとも5m低かったと発表した。そうなると、これまでは水の注入などにより、燃料棒の冷却が行われていると判断されてきたわけであるが、実は、燃料棒のすべてが露出をしてしまっていて、全く冷却がなされず、その結果、おそらくは燃料棒の大半が自らの熱によって溶融し、圧力容器の底に貯まる形になってしまっていたということになる。そしてさらに、その底に貯まった燃料の熱によって、圧力容器の底が損傷して穴が開き、強い放射能を帯びた水と燃料とが外へ漏れ出していた可能性が高いということである。
おやおやと思う。これでは、これまでの発表はすべて違っていたということではないか。燃料棒が十分に冷却されていることを前提として、対策も打ち出されていたのではなかったか。その判断の一番大事なデータが全く信用できないものであったということである。
「群盲、象をなでる」という言葉があるが、全体を見ずに、部分だけをあれこれとみて判断していたとするならば、あまりに稚拙な対応であったと言わざるを得まい。ほとほと愛想を尽かした次第である。
http://iratan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/512-7fb2.html
佐倉氏は、例示として原発事故の影響評価をとりあげる。
放射線医学、気象学、土壌学、疫学、生態学などの専門的知識が必要になるが、このような膨大な知識を統一的な視点から編集することは、特定分野の研究者や専門家にできることではない。
ここで必要になるのは生活者としての目線や価値観からの意味づけである。
この佐倉氏の意見は納得できるものである。
佐倉氏は続けて、3・11後の科学技術と社会の双方にとって必要なのが、生活のための科学技術であるとし、専門家と生活者が、情報を往復させることが必要だ、とする。
生活者の目線で、専門的科学技術を再編集する作業を、リビング・サイエンスと呼び、佐倉氏自身が、その具現化のプロジェクトを実践したことがある、という。
佐倉氏は、自分たちのプロジェクトは、専門家と生活者の間の情報の往復運動の回路を有効にデザインできたとはいえないが、梅棹はまさにリビング・サイエンティストであったのではないか、としている。
もっとも、佐倉氏がプロジェクトを行っていたときには気がつかなかったということであるが。
梅棹の仕事は、家庭論にしろ情報産業論にしろ文明論にしろ、彼自身の日常生活から得られた情報をもとに思考を展開しているから、卓抜な説得力と見通しを持つことができたのだ、と佐倉氏はいう。
そして、この点に注目し評価しているのが、鶴見俊輔氏だという。
私はこの部分の論旨には全面的に賛成である。
ただ、「膨大な知識を統一的な視点から編集すること」は、シンクタンクの歴史と共に古い。
満鉄調査部にまで遡る必要はないだろう。
日本には三波のシンクタンク・ブームがあった。第一波は戦後の復興期、二波が高度成長と列島改造ブーム、野村総研や三菱総研はこの時期に出来た。三波が80年代からバブルにかけて。都銀から地方銀行まで金融界が横並びで参加し、研究所ブームが全国に広がった。セゾン総研やフジタ未来研はバブルの落とし子である。
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/482.html
要するに、アプローチの仕方自体が不明というような多様な要素から成る問題が起きると、シンクタンクに光が当てられるわけだ。
多くのシンクタンクが、総研(総合研究所)を名乗っているのも、個別専門領域を超えて、という意味であろう。
私が体験したのは上記でいうところの第二波にあたる。野村総研の設立が1965年、三菱総研の設立が1970年、田中角栄の『日本列島改造論』が出版されたのが1972年であるから、大阪万博はシンクタンクブームの第二波と同期していたともいえる。
梅棹は、川添登や加藤秀俊らが中心となった京都のシンクタンクCDIの設立にもかかわっているが、日本のシンクタンクの元締めであるNIRAの創立時の理事(非常勤)だった。
⇒2010年7月27日 (火):シンクタンク/梅棹忠夫さんを悼む(15)
私は、そもそも探検という活動がリサーチそのものだと思う。
シンクタンクが政策科学や政策工学を標榜するのも、膨大な情報を政策として編集することを主なミッションとしているからである。
政治家はもともと何かの専門家として期待されているのではない。
期待されているのは、生活者の感覚である。研ぎ澄まされた生活者目線で専門家の情報を編集することである。
元市民運動家という菅直人に期待したのも生活者目線での政策の編集であったはずだ。
しかし、実態は、市民運動家を偽装した権力主義者であったようである。
現在も、良質のシンクタンクが求められる時代ではなかろうか。
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