「ある意味」と「まさに」-菅首相の言語技術について
言葉と思考は切り離せない。
レトリックの諸要素は、思考の方法論でもある。
しかし、私は学校教育において、レトリックについて学んだ記憶がない。学校では、思考の方法などは教えない。
教えるのは個別の教科である。
個別の教科の学力をアプリケーションソフトの性能だとすれば、思考の生産性はOSの性能に相当すると考えられる。
私は、リサーチャー時代に、思考と作文が密接に関連しているだろうという認識のもとに、初めて意識的に文章修業をした。
小学生の頃、作文をした記憶があるが、何のためにやるかまったく分かっていなかった。
といっても、先輩の添削を受けた他は、自分で名文だと思うものをお手本にして独学しただけではあるが。
私がお手本と考えたのは、例えば去年亡くなった梅棹忠夫氏である。梅棹氏の文章は、難解な語彙を使わず、実に明快である、と思う。
菅政権の中枢にいる枝野官房長官と仙谷官房副長官(前長官)は、共に弁護士である。
さすがにその弁論技術はしたたかといえよう。
しかし、それは時に、レトリックというよりは、強弁あるいは詭弁であるように思われる。
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
⇒2011年4月27日 (水):またしても菅政権の強弁/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(18)
菅首相の場合はどうか?
「一定のメド」というような曖昧な言葉を使うのを、言質をとられないことの武器と考えているフシが窺える。
あえて、明晰でない言葉を使い、コミュニケーションに齟齬があると、自分はそういう意味で使ったのではない、と聞き手側の責任にする。
それは、たまたまそうだったということではなく、性癖なのだろう。
松本健一内閣官房参与との、東京電力福島第1原発の半径30キロ圏の避難・屋内退避区域について、「少なくとも10年間は居住が困難との認識を示した」という話について、首相が「私が言ったわけではない」と発言を否定したことなど、その典型であろう。
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)
演説や答弁を聞いていて、耳につく口ぐせは、「ある意味」と「まさに」の多用である。
これは、言葉というものを考える上で、まことに興味深い事例である。
言葉は有限である。それに対し、言葉で表そうという対象(すなわち森羅万象)は無限である。
したがって、1つの言葉が複数の事象に対応することは必然である。
例えば、われわれは「7色の虹」と言い、別に何の不思議も感じない。
しかし、可視光線のスペクトルは7分割されていつるわけではなく、連続している。
アナログの事象を、デジタル(離散的)である言葉で表現しようと思えばそういうことになる。
虹は、例えば赤・黄・青の3つに分けられないこともなく、そうすれば3色だとも言える。
一方、黄色と緑色の中間には、いくらでも細分できる色がある。
どう細分化するかは、その人の表現欲求(能力・関心など)と、実用性・効率性などによって決まる。
あるいは、「やま:山」という言葉には、以下のような意味がある。
①起伏がいちじるしく、平地より高くそびえる土地。丘陵より高度や起伏が大きい。mountain。対義:川・野・海。-山に登る。
②山のような形に高く積んだもの。pile。滞貨物の-。
③物事の絶頂。climax。今が-だ。
④樹木の群生している所。山林。forest。-を持っている。
⑤鉱山。mine。-がさびれる。
⑥(鉱山経営は当たりはずれが多いことから)非常に確率の低い幸運への期待。まぐれ当たりをねらう予想。speculation。-が外れる。
⑦「やまぼこ」の略。
⑧比叡山。また延暦寺。対義:寺
講談社「日本語大辞典」(1989)
①を原義として、②以下が派生したと考えられよう。
「やま:山」については、円の中心に①があり、その周りに、②~⑧が広がっている、と表わすことができるだろう。
また言葉は、生き物であるから、一応のルールはあるが、使う人によって変わりうる。
場合によっては、表面的な意味の他に、隠された意味もあるかも知れない。
特定の集団で使われる「隠語」などは、まさに隠されている意味を知っていることが重要であって、知らなければモグリということになる。
世代間でコミュニケーションギャップが生じるのは、こういった事情があるからだと思う。
例えば、「カワイイ」という言葉の使い方が、われわれの世代と若い娘達では違うような気がしていたが、男と女で定義が異なるのだ、という説明がされている。
→なんで男女の「かわいい」の定義は違うの!?
さて、菅首相の口ぐせとも言うべき「ある意味」と「まさに」はどういうことになるであろうか。
「ある意味」というのは、意識しているか否かは別として、一般的に中心として考えられている意味とは異なる、ということを言っているように思う。
これに対し、「まさに」は、原義に近いことを主張するものであろう。
場合によっては、「ある意味」は、水面下に隠れている意味かも知れない。
「一定のメド」の例で分かるように、確信犯的に誤解を招くような言葉使いをするのが高度な技術だと考えているのであろうか。
梅棹忠夫の文章は、「まさに」正反対である。
菅首相の口ぐせには、意味の確定から逃げようとする姿勢が露呈しているように思う。
やはり、「ある意味」もしくは「まさに」ペテン師という言葉が当たってるのではないか。
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