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2011年7月27日 (水)

大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)

佐倉統「中央公論」11年8月号の『梅棹忠夫と3.11』の続きである。
⇒2011年7月20日 (水):梅棹忠夫は生きている

佐倉氏は、「3・11」と梅棹を結びつけるものとして、《科学技術と社会の関係に関する一九七〇年代大阪万博パラダイムの終焉》という表現をしている。そして、それは科学技術と社会の蜜月時代の終わり、と付言している。
私は、ここでちょっとした違和感を感じた。
もちろん、科学技術と社会の蜜月状態がずっと続いていたわけではないことは、佐倉氏も認めているところである。
「公害問題や人間疎外など、むしろ科学技術の弊害が目立つようになってきたのがこの時代でもある」と言っている。

しかし、「も」を付けて表現していることから、佐倉氏の主眼は「蜜月時代」の方にあると考えられる。
そして、それを「大阪万博パラダイム」と評していると理解するのが、文脈的に自然な解釈であろう。
私の感覚では、まさに科学技術のあり方が問われているときに開催されたのが大阪万博ではないか。

個人史的に言えば、大阪万博が開催された1970年は、社会人2年目だった。
まだ新入社員の感覚が抜けない貧しい青年だったが、結婚して世帯主と呼ばれる立場になった。
当時は千葉県に住んでおり、二軒続きの長屋暮らしだった。妻も勤めを継続していたが、家計は火の車状態で、大阪まで出かけるゆとりがなかった。

経済的な面を別にしても、大阪までお祭り騒ぎのイベントに出かける気持ちにもならなかったように思う。
万博という一過性のイベントに重要な意味があることを悟るようになったのは、1985年の「科学万博」で某広告代理店の下請けの仕事をした頃だと思う。
1970年頃には、既に科学技術のマイナス面は、クローズアップされており、企業内技術者といえども無関心な人間は少数派であったように思う。
水俣病のことは学生時代から、宇井純氏等の活動を通じて知っていた。
修士課程を終える頃に過熱した大学紛争でも、大きなテーマだったように思う。

水俣病の“発見”は、1956年のことであるとされる。
紆余曲折があって、熊本大学水俣病研究班により、原因物質がメチル水銀だという公式見解が示されたのは、1968年9月26日であった(Wikipedia110723最終更新)。
しかし、作家の水上勉が、水俣病(当時の言い方では“水俣奇病”)をテーマにした小説『海の牙』双葉文庫(9511)の元になる「不知火海沿岸」を発表したのは、1959年12月の「別冊文藝春秋」であった。
⇒2009年7月 7日 (火):水俣病と水上勉『海の牙』
原因物質の完全な特定はできていなくても、チッソ水俣工場の廃液に起因するであろうことは、十分に推測可能であった。

今振り返ってみれば、1960年代(それは、私の高校から大学を出るまでの期間にほぼ対応している)は、科学技術の負の側面が意識されるようになった時代といえよう。
レーチェル・カーソンの『沈黙の春 (新潮文庫) 』が、『生と死の妙薬』というタイトルで邦訳されたのが、1964年のことである。
DDTなどの農薬類を代表とする化学物質の危険性を、「鳥達が鳴かなくなった春」で訴求したものである。邦題は、直接的であって原題の持つ象徴性がないとして評判がよくなかったように記憶しているが、原題(Silent Spring)を直訳しても、通じ難いと判断したためであろう。
『沈黙の春』は、生態系における人工物の挙動に対する警告の書であり、水俣病はその典型例であった。

大阪万博が開催された1970年は、60年代の総決算としての意味があったのではなかろうか。
大阪万博のテーマは、「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)である。テーマ委員会の委員長は桑原武夫。梅棹はテーマ委員会の人選に係わった。
このテーマは、「人類の文化や科学技術の負の側面も考察し、西洋中心主義に疑義を投げかけるものであった」(吉見俊哉『万博幻想』からの佐倉氏からの引用)とされる。
佐倉氏は、続けて「実際の大阪万博が、そのような陰影に富んだ文化的深みをもたないものになってしまったのは、その後の万博協会の事務局や堺屋太一らの演出によるものである」と吉見の言葉を引用している。

しかし、佐倉氏は続けて次のように書く。

けれども、すでに述べたように、大阪万博以降の、いや、第二次大戦以降の日本の社会の動向は、梅棹の軌跡とぴたりと一致する。梅棹は近代主義者である。物質的な豊かさを肯定する。生活水準や知識水準が、量的に右肩上がりに進むことを、とりあえずの幸福とみなす。その先の人類社会が暗澹たるものになるかもしれないという予感をもちつつ、当座の世の中がその方向で進むことには疑問をもっていない。
・・・・・・
梅棹は、さまざまな領域に深く本質的なところで関わり続けた。それゆえに、戦後日本社会の良質の部分--民主的で公平で平和を愛する--を体現していたと同時に、その負の部分--技術に頼って目先の利益を負う--を助長する言説を生産することにもなったのではあるまいか。その意味で、3・11は梅棹忠夫の時代の終わりを告げていろとも言えるかもしれない。

私の理解では、梅棹は科学技術のもたらしたものについて、もう少し懐疑的あるいは負性について自覚的であったように思う。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)
吉見の言葉を借りれば、「陰影に富んだ文化的深み」の追求者ではなかったか。

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