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2011年7月

2011年7月31日 (日)

アマチュアリズム/梅棹忠夫は生きている(4)

佐倉統氏は、受け継ぐべき梅棹の思想として、リビング・サイエンスと共に、アマチュアリズムを挙げる。
→「中央公論」11年8月号の『梅棹忠夫と3.11』
梅棹の初期の文章に、『アマチュア思想家宣言』がある。
「思想の科学」の創刊号(5404)に載せたものである。
1963年に「思想の科学」の『思想の科学の主題』という特集で採録された(『著作集12巻』)。

初出の時の1954年の世相を覗いてみよう。

・3月1日、太平洋のビキニ環礁でアメリカが水爆実験を行い、第五福竜丸が被曝した。
・6月2日、近江絹糸で「人権ストライキ」。世論は組合を支持。9月に妥結。
・7月1日に防衛2法が施行され、3自衛隊を統括する防衛庁が総理府の外局として設置された。
・7月に、東通工(現=ソニー)が東京のデパートでトランジスタの「展示即売会」を開催。
・9月26日、青函連絡船「洞爺丸」が暴風のため航行不能となり、高波を受けて沈没した。

1954年[ザ・20世紀]

ほんの一端であるが、戦後復興から高度成長へ移行しようとしてした時期であることが窺えよう。
翌1955年には保守合同と社会党統一がなされ、「55年体制」が成立した。
私としては、映画「ゴジラ」が公開されたのが1954年であったことに注意を喚起しておきたい。
⇒2011年5月 9日 (月):誕生の経緯と香山滋/『ゴジラ』の問いかけるもの(1)
⇒2011年5月10日 (火):技術の功罪と苦悩する化(科)学者/『ゴジラ』の問いかけるもの(2)
⇒2011年5月19日 (木):核エネルギー利用と最終兵器//『ゴジラ』の問いかけるもの(3)

ゴジラ[東宝](11月3日封切)
<度重なる水爆実験により安住の地を破壊されたゴジラが放射能をまとい東京に上陸する。「ゴジラ」はゴリラとクジラの合成語で、社員のあだ名から名付けられた。制作費は破格の6300万円>
[監督]本多猪四郎、[特技監督]円谷英二、[出演]宝田明、河内桃子、志村喬

1954年[ザ・20世紀]

年譜によれば、梅棹は、1952年に肺結核の診断をうけ、2年間の自宅療養生活送る、とあるから療養中の作品であろうか?
梅棹は、『アマチュア思想家宣言』で何を宣言したのか?
当時は世相から窺えるように、論壇の主流は、講壇マルクス主義者によって占められていた。
梅棹はカメラを引き合いにして、思想を論じる。

梅棹がカメラのことを知りたいと思い、入門書をみると、むつかしそうなことがたくさん書いてある。
たとえば各種レンズの球面収差について書いてあるが、球面収差とはなにか、ということは書いてない。
読んでわかるのは、読む前から分かっている人だけだ。
つまりカメラのプロである。

思想も同じようである。
思想について論じられているが、分かるのはプロ思想家だけではないか。
思想の本は、一般人の役に立たない。
役に立たないのは思想の本や雑誌であって、思想そのものは役に立つ。カメラの本が役に立たなくてもカメラは役に立つのと同じように。

梅棹は、思想に対する接し方に次の2通りがあるという。
1.思想を論ずる。
2.思想をつかう。
思想を論ずるのは思想家の仕事であり、思想をつかうのは、民衆の仕事である。
思想は論じられるものである、という考えが圧倒的であった思想界に、梅棹はアンチテーゼを立てる。
思想はつかうべきものである、と。

思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって、アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである。プロにはまかせておけない。アマチュア思想道を確立するべきである。

佐倉氏も言うように、思想を科学技術に、思想家を科学者・技術者に置き換えれば、リビング・サイエンスと同じことである。
「思想の科学」は、いわゆる思想雑誌の一種だろうが、創刊号から梅棹のような、自称アマチュアに誌面を開放しているのは英断で、毎号アマチュアに勝手にしゃべらせろ、と梅棹は提案して(アジって?)いる。

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2011年7月30日 (土)

地震・津波による原発災害を予見していた高木仁三郎と市民科学者育成のための「高木学校」

東日本大震災について、「未曾有」とか「想定外」という言葉がよく使われる。
確かに、地震や津波の大きさは「未曾有」のものであった。
⇒2011年3月12日 (土):想像を絶する激甚災害へ対応するための体制を
⇒2011年3月13日 (日):歴史的な規模の巨大地震と震災
しかし、「未曾有」=「想定外」と直ちに結び付けられるものではないだろう。
⇒2011年3月17日 (木):「想定を超えた事態」ならば免責されるのか?
「未曾有」の事態を如何に想定の中に入れておくか?
一般大衆の想像の域外のことを論理的に指摘して、可能な限り計画の想定の視野に入れておくのが専門家の責任ではないか。

原発のような巨大システムにはとりわけ専門家は大衆に開かれた姿勢を持つべきであろう。
メディアはそれを分かりやすく伝える努力をして欲しい。
しかし残念ながら、わが国では、まったく逆の事態が大勢であった。

専門家の大半は、原子力ムラという閉ざされたエリアで活動する人であった。
メディアも多くは大勢の専門家の言い分を伝えた。
結果として、「安全神話」がと常識となった。
原発が事故を起こす確率は、ネグリジブルである。ゆえに、事故が起きたときの対応は考える必要がない。

しかし、現実に事故は起きた。
準備していたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)を、国民がパニックを起こすという理由で公開しなかった。、
⇒2011年7月 5日 (火):官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)

九州電力の「やらせメール」が問題になったが、今度は安全性を保全する側が、原発賛成を促すよう働きかけていたという驚がく的(というか、やっぱりなあという感じの方が強いが)事実が明らかになった。

7月29日、中部電力は名古屋証券取引所で第1四半期の決算説明、および定例記者会見を開催した。浜岡原発停止の影響により、通期営業利益は1700億円の営業赤字になる見通しだと発表。1951年の会社設立以来初の営業赤字転落だ。
会見では、同じ浜岡原発関連で、2007年8月に静岡県御前崎市で開かれた国主催の「プルサーマルシンポジウム」についての質問も相次いだ。九電で発生した「やらせ発言依頼問題」を受け、経済産業省は国が主催したシンポジウム等で特定の意見表明を要請した事実があるかどうか社内調査を行うように電力会社に指示。その回答期限が29日だった。
中電は、午前中に調査結果を発表し、社員や関係会社社員に対し出席を促す依頼をしていた事実があったものの、原子力安全・保安院から「地元住民に賛成か中立の立場での質問を要請するように」との働きかけは断った、という調査結果を公表したばかり。 
依頼を断った理由について、水野明久社長は「02年以来、当社はコンプライアンスの強化を推進してきた。そうしたこともあり、意見表明まで要請するのは明らかに行き過ぎだ、との判断が担当者レベルでも働いた」と説明した。

http://www.toyokeizai.net/business/strategy/detail/AC/cac1ff1d4737e3301476552d71dc5cdc/

われわれは、絶望すべきか? 
中電が辛うじてコンプライアンスに軸足をおいた判断をしたことは、ホッとした感じがする。
それも、フクシマと同じように、浜岡の現場の所長の判断によるらしい。
現場は正常な判断力を持っているのだ。
政治家は、こういう現場の声を大切にすべきだ。

菅首相が現場主義を標榜して発災の翌日、ヘリコプターで視察に赴いた。
現場を大事にするようで、似て非なる行為である。
単なるパフォーマンスに過ぎなかったことは、その後の経緯が示している。

ところで、原発のリスクについてのリビング・サイエンティストはいなかったのだろうか?
たまたま沼津朝日というコミュニティペーパーの「言いたいほうだい」という投稿欄に昨日、『高木学校』という投稿があった。高月フミコという元沼津市議のひとである。
高木学校というのは、市民の立場から問題に取り組む市民科学者を育成するために、98年に創設されたという。

高木というのは、1995年に、原発が地震と津波に襲われたときの危険性に警鐘をならしていた高木仁三郎のことである。
Wikipedia110704最終更新では、次のように記されている。

政府の原子力政策について自由な見地からの分析・提言を行う為、原子力業界から独立したシンクタンク原子力資料情報室を設立、代表を務めた。原子力発電の持続不可能性、プルトニウムの危険性などについて、専門家の立場から警告を発し続けた。
特に、
地震の際の原発の危険性を予見し地震時の対策の必要性を訴えたほか、脱原発を唱え、脱原子力運動を象徴する人物でもあった。原子力発電に対する不安、関心が高まった1980年代末には、新聞、テレビ等での発言も多かった。

残念ながら、高木さんの予想は最悪の形で現実化してしまった。
しかし、高木さんの遺志は高月さんらにより受け継がれている。
リビング・サイエンスティストの育つ土壌は広がっていると考えたい。

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2011年7月29日 (金)

リビング・サイエンティスト/梅棹忠夫は生きている(3)

今朝の日経新聞の文化欄に、民族学者の石毛直道さんが、「小松左京さんを悼む」を載せている。
石毛さんは小松さんとは、親族だけで行われた通夜や告別式に参加するほどの長い親交だった。

わたしの人生において幸せなことは、天才ということばにふさわしい二人の人物に巡り会ったことである。一人は昨年亡くなった国立民族学博物館の創始者である梅棹忠夫さん、もう一人が小松左京さんである。七〇年万博で一緒に仕事をして以来、この二人の天才は親しい間柄であった。
そのことは、わたしにとって幸せだっただけではなく、日本のためにも幸せなことであった。この二人が立案した、関西活性化のプロジェクトで実現したものがいくつもある。

お二人は、「3・11」後の日本のあり方についても、貴重な「ものの見方・考え方」を提示してくれたのではないかと思う。
いまや、その二人ともが不在ということになった。

佐倉統氏は、「3・11は<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>の終焉」と位置づけたい、とした。
→佐倉統『梅棹忠夫と3.11』「中央公論」11年8月号
大阪万博パラダイムの内容についても、大阪万博以降の期間を梅棹忠夫の時代とすることについても、全面的には賛同し難いが、梅棹が万博に積極的に関わったことは事実である。
梅棹の自伝ともいうべき『行為と妄想 わたしの履歴書 (中公文庫)』(0204)には、次のように書かれている。

わたしたちは「万国博を考える会」という研究会をつくった。メンバーは林雄二郎、川添登、加藤秀俊、小松左京とわたしの五人である。林は当時経済企画庁経済研究所長であった。のちに東京工大教授をへて、東京情報大学長をつとめた。川添は評論家として活躍していた。加藤は京都大学教育学部の助教授であったが、のちに学習院大学教授となり、その後、放送教育開発センターの所長をつとめた。小松はSF作家として、売りだし中であった。
わたしたちはときどきあつまって、自由勝手なテーマで議論をした。

いかにも楽しげな集まりである。この集まりが発展して、1968年に日本未来学会が誕生した。
梅棹は、さまざまな形で大阪万博に関わった。テーマ委員会の宣言文のほか、佐藤総理の演説、石坂泰三万博会長のあいさつ文などを書いた。
八面六臂の活躍ぶりであり、確かに大阪万博を動かしていた1人といっていいだろう。
しかし、繰り返しになるが、「3・11」に至る時代を<大阪万博パラダイム=梅棹忠夫の時代>と規定し、「3・11」をもってそれが終焉したというのはどうだろうか。

佐倉氏は、「3・11」が梅棹忠夫の時代を終焉させたという前提の下に、梅棹忠夫の何を受け継ぎ、発展させ、何を批判して捨て去るべきか、という問いを立てる。

梅棹忠夫から受け継ぐべきことの第一に佐倉氏が挙げているのが、専門家の見通しや知識の不十分性である。
それは専門的知識そのものが不正確ということではなく、巨大システムだと少数の専門家では全貌をカバーしきれない。
専門家といえども群盲象をなでる状態だというわけだ。
有名なイソップ童話であるので説明は不要であるが、たまたま丁度いい例を見つけた。
Photo_3
前衆議院議員小野晋也氏(愛媛県、自民党)のブログである。
自民党にはすっかりイヤケがさしていたが、そして今でも自民党政権に戻るのはゴメンだと思うけれど、民主党との比較ならばよりマシかも知れない?

東京電力は12日、福島第一原発一号機で原子炉圧力容器内の水位計を点検し、調整した結果、その水位は、燃料棒の上部から少なくとも5m低かったと発表した。そうなると、これまでは水の注入などにより、燃料棒の冷却が行われていると判断されてきたわけであるが、実は、燃料棒のすべてが露出をしてしまっていて、全く冷却がなされず、その結果、おそらくは燃料棒の大半が自らの熱によって溶融し、圧力容器の底に貯まる形になってしまっていたということになる。そしてさらに、その底に貯まった燃料の熱によって、圧力容器の底が損傷して穴が開き、強い放射能を帯びた水と燃料とが外へ漏れ出していた可能性が高いということである。
おやおやと思う。これでは、これまでの発表はすべて違っていたということではないか。燃料棒が十分に冷却されていることを前提として、対策も打ち出されていたのではなかったか。その判断の一番大事なデータが全く信用できないものであったということである。
「群盲、象をなでる」という言葉があるが、全体を見ずに、部分だけをあれこれとみて判断していたとするならば、あまりに稚拙な対応であったと言わざるを得まい。ほとほと愛想を尽かした次第である。

http://iratan.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/512-7fb2.html

佐倉氏は、例示として原発事故の影響評価をとりあげる。
放射線医学、気象学、土壌学、疫学、生態学などの専門的知識が必要になるが、このような膨大な知識を統一的な視点から編集することは、特定分野の研究者や専門家にできることではない。
ここで必要になるのは生活者としての目線や価値観からの意味づけである。

この佐倉氏の意見は納得できるものである。
佐倉氏は続けて、3・11後の科学技術と社会の双方にとって必要なのが、生活のための科学技術であるとし、専門家と生活者が、情報を往復させることが必要だ、とする。
生活者の目線で、専門的科学技術を再編集する作業を、リビング・サイエンスと呼び、佐倉氏自身が、その具現化のプロジェクトを実践したことがある、という。

佐倉氏は、自分たちのプロジェクトは、専門家と生活者の間の情報の往復運動の回路を有効にデザインできたとはいえないが、梅棹はまさにリビング・サイエンティストであったのではないか、としている。
もっとも、佐倉氏がプロジェクトを行っていたときには気がつかなかったということであるが。

梅棹の仕事は、家庭論にしろ情報産業論にしろ文明論にしろ、彼自身の日常生活から得られた情報をもとに思考を展開しているから、卓抜な説得力と見通しを持つことができたのだ、と佐倉氏はいう。
そして、この点に注目し評価しているのが、鶴見俊輔氏だという。

私はこの部分の論旨には全面的に賛成である。
ただ、「膨大な知識を統一的な視点から編集すること」は、シンクタンクの歴史と共に古い。
満鉄調査部にまで遡る必要はないだろう。

日本には三波のシンクタンク・ブームがあった。第一波は戦後の復興期、二波が高度成長と列島改造ブーム、野村総研や三菱総研はこの時期に出来た。三波が80年代からバブルにかけて。都銀から地方銀行まで金融界が横並びで参加し、研究所ブームが全国に広がった。セゾン総研やフジタ未来研はバブルの落とし子である。
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/482.html

要するに、アプローチの仕方自体が不明というような多様な要素から成る問題が起きると、シンクタンクに光が当てられるわけだ。
多くのシンクタンクが、総研(総合研究所)を名乗っているのも、個別専門領域を超えて、という意味であろう。
私が体験したのは上記でいうところの第二波にあたる。野村総研の設立が1965年、三菱総研の設立が1970年、田中角栄の『日本列島改造論』が出版されたのが1972年であるから、大阪万博はシンクタンクブームの第二波と同期していたともいえる。

梅棹は、川添登や加藤秀俊らが中心となった京都のシンクタンクCDIの設立にもかかわっているが、日本のシンクタンクの元締めであるNIRAの創立時の理事(非常勤)だった。
⇒2010年7月27日 (火):シンクタンク/梅棹忠夫さんを悼む(15)
私は、そもそも探検という活動がリサーチそのものだと思う。

シンクタンクが政策科学や政策工学を標榜するのも、膨大な情報を政策として編集することを主なミッションとしているからである。
政治家はもともと何かの専門家として期待されているのではない。
期待されているのは、生活者の感覚である。研ぎ澄まされた生活者目線で専門家の情報を編集することである。

元市民運動家という菅直人に期待したのも生活者目線での政策の編集であったはずだ。
しかし、実態は、市民運動家を偽装した権力主義者であったようである。
現在も、良質のシンクタンクが求められる時代ではなかろうか。

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2011年7月28日 (木)

小松左京氏を悼む/追悼(13)

小松左京さんが亡くなった。

「日本沈没」「復活の日」などのベストセラーで知られ、日本SF界を代表する作家、小松左京(こまつ・さきょう、本名実〈みのる〉)さんが、26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去した。80歳だった。
・・・・・・
1931年、大阪市生まれ。京都大文学部卒。在学中にモリミノルの筆名で漫画を描き、同人誌などに小説を発表。作家の故高橋和巳とは学生時代からの同人誌仲間だった。
61年、「SFマガジン」誌のコンテストで「地には平和を」が入選。以後、生物兵器ウイルスと核戦争による人類滅亡を描いた「復活の日」や社会性の強い「日本アパッチ族」、超能力者スパイをめぐる活劇「エスパイ」、第6回日本SF大賞受賞作「首都消失」、自ら映画監督も務めた「さよならジュピター」など多くの話題作を送り出した。
中でも、当時の地球物理学の最新研究を織り込み、地殻変動で日本列島が海に沈む「日本沈没」(73年)は400万部のベストセラーに。危機に直面した国家と日本人の姿がセンセーショナルな話題を呼び、ドラマ、映画化もされ、一大ブームを起こした。

http://www.asahi.com/obituaries/update/0728/OSK201107280178.html

東日本大震災が起きたその年に亡くなるというのも因縁だろう。
私は、「3・11」が想像を絶するような規模であることを知って、多くの人がそうだろうが、すぐに『日本沈没 小学館文庫』(0601)を連想した。
⇒2011年3月12日 (土):想像を絶する激甚災害へ対応するための体制を
⇒2011年3月16日 (水):『日本沈没』的事態か? 静岡県東部も震源に
ちなみに光文社ノベルズとして『日本沈没』が刊行されたのは、1973年のことである。

上記の記事にもあるように、高橋和巳と大学時代からの親友であった。
作風からは、小松の陽、高橋の陰と反対の印象を受けるが、二人ともかなり破天荒であったのではないか。

私の記憶に残っているのは、『日本アパッチ族』である。1964年の作品で、学生時代のつれづれに読んだ。
内容は全く異なるが、万城目学さんの原作の『プリンセス・トヨトミ』という映画を観たとき、この小説を思い出した。
京大の先輩・後輩の間柄であるが、まあ関係はないだろうなあ。
⇒2011年6月 7日 (火):『プリンセス トヨトミ』

Wikipedia110728最終更新は、『日本アパッチ族』の誕生背景を以下のように解説している。

大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった。

カレル・チャペックの『山椒魚戦争 #岩波文庫#』(栗栖継訳 (1978)については触れたことがある。
⇒2010年5月23日 (日):「恐竜の脳」の話(4)山椒魚
カレル・チャペックは、ロボットという語を作った人である。

日本沈没』の背景知識として重要なのは、プレート・テクトニクス理論である。
一般人向けの啓蒙書としては、竹内均・上田誠也『地球の科学―大陸は移動する (NHKブックス 6)』(6404)が最初であろう。
⇒2011年7月15日 (金):日本人はムー大陸から来た?/やまとの謎(36)

原発事故は、否応なしに科学技術の持つ意味を考えさせられる。
それは、小松さんの生涯をかけたテーマでもあったといえよう。

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2011年7月27日 (水)

大阪万博パラダイム/梅棹忠夫は生きている(2)

佐倉統「中央公論」11年8月号の『梅棹忠夫と3.11』の続きである。
⇒2011年7月20日 (水):梅棹忠夫は生きている

佐倉氏は、「3・11」と梅棹を結びつけるものとして、《科学技術と社会の関係に関する一九七〇年代大阪万博パラダイムの終焉》という表現をしている。そして、それは科学技術と社会の蜜月時代の終わり、と付言している。
私は、ここでちょっとした違和感を感じた。
もちろん、科学技術と社会の蜜月状態がずっと続いていたわけではないことは、佐倉氏も認めているところである。
「公害問題や人間疎外など、むしろ科学技術の弊害が目立つようになってきたのがこの時代でもある」と言っている。

しかし、「も」を付けて表現していることから、佐倉氏の主眼は「蜜月時代」の方にあると考えられる。
そして、それを「大阪万博パラダイム」と評していると理解するのが、文脈的に自然な解釈であろう。
私の感覚では、まさに科学技術のあり方が問われているときに開催されたのが大阪万博ではないか。

個人史的に言えば、大阪万博が開催された1970年は、社会人2年目だった。
まだ新入社員の感覚が抜けない貧しい青年だったが、結婚して世帯主と呼ばれる立場になった。
当時は千葉県に住んでおり、二軒続きの長屋暮らしだった。妻も勤めを継続していたが、家計は火の車状態で、大阪まで出かけるゆとりがなかった。

経済的な面を別にしても、大阪までお祭り騒ぎのイベントに出かける気持ちにもならなかったように思う。
万博という一過性のイベントに重要な意味があることを悟るようになったのは、1985年の「科学万博」で某広告代理店の下請けの仕事をした頃だと思う。
1970年頃には、既に科学技術のマイナス面は、クローズアップされており、企業内技術者といえども無関心な人間は少数派であったように思う。
水俣病のことは学生時代から、宇井純氏等の活動を通じて知っていた。
修士課程を終える頃に過熱した大学紛争でも、大きなテーマだったように思う。

水俣病の“発見”は、1956年のことであるとされる。
紆余曲折があって、熊本大学水俣病研究班により、原因物質がメチル水銀だという公式見解が示されたのは、1968年9月26日であった(Wikipedia110723最終更新)。
しかし、作家の水上勉が、水俣病(当時の言い方では“水俣奇病”)をテーマにした小説『海の牙』双葉文庫(9511)の元になる「不知火海沿岸」を発表したのは、1959年12月の「別冊文藝春秋」であった。
⇒2009年7月 7日 (火):水俣病と水上勉『海の牙』
原因物質の完全な特定はできていなくても、チッソ水俣工場の廃液に起因するであろうことは、十分に推測可能であった。

今振り返ってみれば、1960年代(それは、私の高校から大学を出るまでの期間にほぼ対応している)は、科学技術の負の側面が意識されるようになった時代といえよう。
レーチェル・カーソンの『沈黙の春 (新潮文庫) 』が、『生と死の妙薬』というタイトルで邦訳されたのが、1964年のことである。
DDTなどの農薬類を代表とする化学物質の危険性を、「鳥達が鳴かなくなった春」で訴求したものである。邦題は、直接的であって原題の持つ象徴性がないとして評判がよくなかったように記憶しているが、原題(Silent Spring)を直訳しても、通じ難いと判断したためであろう。
『沈黙の春』は、生態系における人工物の挙動に対する警告の書であり、水俣病はその典型例であった。

大阪万博が開催された1970年は、60年代の総決算としての意味があったのではなかろうか。
大阪万博のテーマは、「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)である。テーマ委員会の委員長は桑原武夫。梅棹はテーマ委員会の人選に係わった。
このテーマは、「人類の文化や科学技術の負の側面も考察し、西洋中心主義に疑義を投げかけるものであった」(吉見俊哉『万博幻想』からの佐倉氏からの引用)とされる。
佐倉氏は、続けて「実際の大阪万博が、そのような陰影に富んだ文化的深みをもたないものになってしまったのは、その後の万博協会の事務局や堺屋太一らの演出によるものである」と吉見の言葉を引用している。

しかし、佐倉氏は続けて次のように書く。

けれども、すでに述べたように、大阪万博以降の、いや、第二次大戦以降の日本の社会の動向は、梅棹の軌跡とぴたりと一致する。梅棹は近代主義者である。物質的な豊かさを肯定する。生活水準や知識水準が、量的に右肩上がりに進むことを、とりあえずの幸福とみなす。その先の人類社会が暗澹たるものになるかもしれないという予感をもちつつ、当座の世の中がその方向で進むことには疑問をもっていない。
・・・・・・
梅棹は、さまざまな領域に深く本質的なところで関わり続けた。それゆえに、戦後日本社会の良質の部分--民主的で公平で平和を愛する--を体現していたと同時に、その負の部分--技術に頼って目先の利益を負う--を助長する言説を生産することにもなったのではあるまいか。その意味で、3・11は梅棹忠夫の時代の終わりを告げていろとも言えるかもしれない。

私の理解では、梅棹は科学技術のもたらしたものについて、もう少し懐疑的あるいは負性について自覚的であったように思う。
⇒2010年7月19日 (月):人間にとって科学とはなにか/梅棹忠夫さんを悼む(7)
吉見の言葉を借りれば、「陰影に富んだ文化的深み」の追求者ではなかったか。

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2011年7月26日 (火)

中国高速鉄道事故と情報技術

日本もまんざらではない、とつくづく思った。
中国で起きた高速鉄道の事故の報道に接してである。
追突した車両の運転席部分を、現場に掘った穴に埋めてしまったというのである。

Photo_2 中国浙江省で23日夜に起きた高速鉄道の追突・脱線事故から一夜明けた24日早朝、中国当局は、 夜明け前。現場では、落下した1両の車体が、一部は地面に突き刺さり、高架に寄りかかるように立っていた。わきの地面の上では、追突した後続列車とみられる先頭車両が、真っ二つになっていた。切断部分は鉄板や部品がめくれ、後ろ半分は原形をとどめていなかった。
空が明るくなり始めた午前6時ごろ、7台のショベルカーがすぐ横の野菜畑に穴を掘り始めた。深さ4~5メートル、幅も約20メートルと大きい。午前7時半過ぎ、ショベルカーがアームを振り下ろし、大破した先頭車両を砕き始めた。計器が詰まっている運転席も壊した。そして残骸を、廃棄物のように穴の中に押しやってしまった。

http://www.asahi.com/international/update/0725/TKY201107240595.html

さすがにこのような事態に対しては、反発する民衆の声が強いようだ。

事故後の政府の対応に不満を持つ遺族らは、25日夜、温州市政府前で座り込みをするなどして抗議した。
遺族は「政府も、少しは市民の気持ちになって考えろ!」と話した。
遺族は、当局の調査や救援活動に不満を募らせていて、今後、抗議活動が広がる可能性が出ている。
中国政府は、「証拠隠滅」などの批判を回避するため、26日朝から、高架から転落して地上に残っている車両の搬出を開始した。

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00204089.html

結果的に、中国政府は、一度埋めた車両を掘り起こしたと報じられている。
批判の声が政府を動かしたということだろう。
中国においても、情報化の波は押しとどめられるものではない。
それにしても、日本では考えられないことである。

中国は、戦略・戦術について長い歴史と蓄積を持っている。
有名な「孫子」はその代表格といえよう。
中でも、「彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず。彼れを知らずして己を知れば、一勝一負す。彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に必らず殆うし 」という言葉は人口に膾炙している。
つまり、「相手の実状も知って自己の実情も知っていれば、百たび戦っても危険な状態にならない。相手の実情を知らずに自己の実状だけを知っていれば、勝ったり負けたりする。相手の実情も知らず自己の実状も知らなければ、戦うたびに必ず危険に陥る」ということである。
孫子の兵法

情報あるいはインテリジェンスの重要性を言っていると理解される。
そのような国であるから、情報の統制は厳しい。
しかし、いくら統制を厳しくしても、技術革新がそれを突き破っていくことは必然である。

この事故で注目すべきは、情報統制大国が、「制御システム」という情報技術のもう1つの側面で、著しく未熟であることを露呈したことだろう。
日本経済新聞の朝刊コラム「春秋」でこの問題を扱っている。

人は1日に何回くらい信号機を見るだろう。都会を走るドライバーなら何百回か、それとも何千回か。前後の方向が青なら左右の流れは赤。ありふれた装置で、基本は簡単な仕掛けである。ところが同じ信号機でも鉄道はまったく違う。
▼前と後ろにしか進めない1次元の線路の上で、交通を整理する原理はこうだ――。まず一定の区間の中に、別の車両がいるかどうかをチェックする。もし先に1本でも列車が入っていれば、信号が赤になり、2本目は入れない。いわば列車どうしが出合わぬように「部屋に閉じ込める」のが、信号機の役割である。
▼中国浙江省で起きた事故では、その決して入ってはならない部屋の中に後続の列車が、いとも簡単に進入してしまった。赤信号が点灯しなかったのか。信号の見落としに備えた自動停止装置が、作動しなかったのか。それとも、そもそも部屋の中にいる列車を検知できていなかったのか。いくつもの疑問符が付く。

Photo_3信号は最もシンプルな情報である。
最近はLED化が進んで視認性が一層高められている。
赤は、血の色であって、危険を連想させるのは万国共通であろうか。
その補色が青である。緑色のようにも見えるが、「青丹よし奈良(寧楽)の都は……」という青はこの色に近いようである。薬師寺金堂の連子窓の説明で聞いた。
情報は、識別できることが要件である。
わざと識別を難しくしているのが、迷彩服や暗号である。
信号は、最も識別しやすい色が用いられ、それぞれが反対の意味を担っている。
黄色は色相的にも意味的にも中間である。
「孫子」の国の制御情報の扱いのお粗末さは想像を絶している。
日本の国も、原発事故などで情報隠蔽が疑われるが、中国よりもマシということだろう。

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2011年7月25日 (月)

菅首相のいわゆる「退陣三条件」なるものについて

菅首相が、自分が退陣する条件として次の法案の成立を挙げ、それが当たり前のことのように報じられている。
・2011年度第2次補正予算案
・特例公債法案
・再生エネルギー特別措置法案
しかし、考えてみれば、これは奇妙なことではないか。
首相が通したい法案が通れば退陣し、通らなければ退陣しないとは。
ごく自然に考えれば、逆はあり得ても、法案が通れば退陣するというのはおかしな話だ。

これらの案件の状況は以下のようである。 

2次補正は25日の参院予算委員会を経て、同日夕の参院本会議に緊急上程され、民主、自民、公明各党など与野党の賛成多数で可決、成立する。
また、14日の衆院本会議で審議入りした再生エネルギー特措法案は、26日にも衆院経済産業委員会で参考人質疑を行い、審議を進める日程を与党は描いている。与党は修正協議を本格化させ、8月初めに衆院通過させたい考え。
最大の焦点は、赤字国債発行に必要な特例公債法案だ。民主党は22日、同法案成立への協力を取り付けるため、自民党の求めに応じて衆院選マニフェスト(政権公約)の不備を認め、陳謝。子ども手当の修正も新たに提案し、自公両党は26日に回答する。民主党は特例公債法案について「来週中には(衆院財務金融委員会での)採決の環境を整えたい」(
安住淳国対委員長)としているが、合意の道筋はまだ見えない。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011072300166

私は、これらの案件は、菅総理の去就に関係なく、必要なものは可決し、不要なものは否決すればいいと考える。
逆にいえば、これらの案件に係わりなく、菅総理はなるべく早く退陣すべきだろう。
いまや管氏がいろいろなことの障害になっていることは明らかである。復興のためには、まずガレキをどかさなければならないが、その意味でまさにガレキ化している。
⇒2011年5月30日 (月):王様は裸だ、いやガレキだとの声も/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(39)

国会は衆参が逆転した状態で、しかも参院の方が直近の民意を反映しているともいえる。
少なくとも、菅首相下で行われた唯一の国政選挙や統一地方選挙は明らかに政権与党の敗北であった。
各種の世論調査の支持率も惨憺たるものだ。

私は、このような状態は、政策の問題でもあるが、より大きくは菅氏の人間性に由来する問題だと考える。
⇒2011年3月18日 (金):菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)
⇒2011年7月22日 (金):拉致問題への菅首相の係わり

政策論の問題でもなければ、ひところネット上の検索で、「菅無能?」が話題になったように、有能か否かの問題でもない。
人間性とか人柄といった範疇の問題である。
先ごろ首相補佐官を退任した馬淵澄夫氏は以下のように言う。

「個人的に深く付き合いがあるわけではない。雑談の中で人柄がうかがえるというのがあるじゃないですか。(首相とは)そういう場面はほとんどなかった…」
補佐官退任後、メディアへの露出が増え、そこでは東京電力福島第1原発事故をめぐる政府の対応を「隠蔽(いんぺい)体質」などと真っ向から批判している。
http://www.sankei.jp.msn.com/politics/news/110724/stt11072422390002-n1.htm

課題は山積している。
国会もマスコミも退陣条件云々とかしましいが、時間を空費してはならないはずだ。

退陣3条件のほかに、東京電力福島第1原発事故の賠償支援の枠組みを定めた原子力損害賠償支援機構法案と、原発事故被害者への賠償金を国が仮払いする野党提案の法案に関しては、民主、自民、公明の3党が22日に修正で大筋合意した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011072300166

原発事故被害者の救済は十分に行うべきであるが、原子力損害賠償支援機構法案には問題もあるようである。
また、放射性セシウムが検出された肉牛の問題は、全国的な広がりとなっている。
⇒2011年7月19日 (火):拡大する放射能汚染と補償の範囲/原発事故の真相(5)

肉牛の問題は、適正な措置さえ講じていれば防げたという意味で、人災である。
国民が放射能汚染に怯えているのに、まだ思いついたイシューで延命を図ろうとしている。
再生エネルギーの利用を促進するのは結構だが、太陽光発電も、さまざまな課題を解決しなければ実用的ではない。再生エネルギーの買い取りを急いで制度化しなければならない必然性はないのだ。
目先を変えることで難局を凌ごうとすると、さらに大きなツケが回ってくるのがオチである。

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2011年7月24日 (日)

様々なる引き際-魁皇、湛山、菅総理

不祥事で2場所休みだった大相撲が再開した。
昨日の白鳳-日馬富士戦は、さすがに力のこもった一番だったように思えた。
日馬富士が白鳳の連覇新記録を阻止して優勝を決めたが、見ごたえがあった。

この場所は、大関魁皇が現役を引退した場所としても記憶されるだろう。
初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活だった。今場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目だった。
初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1046勝の記録更新となった。
10日目を終えた時点で3勝7敗と負け越しがほぼ確定的となり、取組後の記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。
本人の言う通り、悔いの残らない現役生活だっただろう。

それに引き換え、いつまでも地位にしがみついて見苦しいのは菅総理である。
私は子供の頃、石橋湛山が総理大臣を辞めた時のことをぼんやりとではあるが憶えている。
Wikipedia 110711最終更新によれば、その経緯は以下のようであった。

内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない状況の中での辞任表明には、野党でさえも好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。

当時は中選挙区制であり、湛山の選挙区は、東・中・西と三分される静岡県の伊豆半島を含む東部(静岡2区)であった。
この頃の当選者は以下のようであった。
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遠藤三郎は建設大臣、勝間田清一は日本社会党の委員長を務めた。久保田豊は、鴨緑江の水豊ダムで有名な日本工営の創業社長。山田弥一は熱海の旅館大月ホテルの創業者であり、同じく熱海のつるやの創業者畠山鶴吉と激しく争う仲だった。
大月ホテルもつるやも、廃業したり経営破綻して再建中であり、熱海の老舗旅館も苦難の時代で、往時の勢いはない。
もちろん私は選挙権がなかったが、結構多士済々の選挙区だったと言えよう。

石橋湛山は、保守合同後の初代自民党総裁であるが、岸信介、石井光次郎と争った総裁選は、1位の岸を2・3位連合で逆転するという劇的なものとして語り継がれている。
戦前は東洋経済新報に拠り、日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えた。
一流の言論人であり、今の政治家と比べると……、と思うのは私が馬齢を加えたということか。

石橋が首相を退陣した時の潔さは高く評価されることが多い。
しかし、弁護士の正木ひろしは、、私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判した。
正木が生きていれば、「私的な感情で首相の地位にしがみつく」菅総理をどう評価したであろうか。

世に引き際は多様である。
小林秀雄風に言えば「様々なる引き際」ということになろうか。
よく知られているように、小林秀雄の文壇デビューは、雑誌「改造」の懸賞に、『様々なる意匠』を以て応募したことによる。
小林は2位に留まったが、1位は宮本顕治の『敗北の文学』であった。現在の時点でみると、まことにレベルの高い懸賞で、総額がいくらだったかは知らないが、十分に元はとっているといえよう。
それにしても、マスコミでは当たり前のように、「退陣三条件」などと言っているが、自分の退陣を重要な政策課題と絡めること自体がおこがましいのではないかと思う。

訂正
上記で「石橋湛山は、保守合同後の初代自民党総裁である」としているのは、第2代総裁の間違い。
「保守合同後初の総裁選で総裁に選ばれた」とすべきであった。
7月27日

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2011年7月23日 (土)

マニフェスト見直しをめぐって

民主党が雪崩をうったようにマニフェストの放棄へ向けて動き出した。
もともと無理なマニフェストで破綻しているのは明らかだったが、政権獲得から約2年、衆議院議員の任期のちょうど半分という時期である。

菅直人首相は22日の参院予算委員会で、民主党が政権交代を果たした2009年総選挙のマニフェスト(政権公約)について「本質的な方向は間違っていないが財源問題で見通しが甘い部分があった。不十分な点は国民に申し訳ないとおわびしたい」と述べ、公約不履行を陳謝した。
岡田克也幹事長も同日の自民、公明両党幹事長との会談で陳謝した。政権として赤字国債の発行に必要な特例公債法案の成立に向け、マニフェストの見直しを求める自民、公明両党の協力を得る狙いがある。
公明党の渡辺孝男、みんなの党の小野次郎両氏の質問に対し、首相は「埋蔵金やむだな費用の削減を図ってきたが、十分な財源捻出ができず、実現できていないものがある」などと答弁。マニフェストに掲げた政策の今後の取り扱いについて「東日本大震災対策をより優先する場合もある」と述べ、実現できない政策もあるとの考えも示した。

http://www.asahi.com/politics/update/0722/TKY201107220236.html

菅首相は「陳謝した」とされるが、例によって、「本質的な方向は間違っていないが」という弁解じみた言い方である。
「本質的な方向は間違っていないが」という条件をつければ、フーリエ、サン・シモン、オウエンらの空想的(ユートピア)社会主義でさえ是認されるだろう。
まったくこの人の言葉には、真摯さや誠意という重要な徳目の存在が感じられない。
⇒2011年1月21日 (金):政府・民主党における真摯さの欠如
⇒2011年1月27日 (木):言葉の軽さが裏付ける首相の真摯さの欠如

佐伯啓思京都大学教授が、「政策以前に、菅首相という人物にはほとんど人格上の問題がある」としているのは、この徳目の欠如があるからではないか。
佐伯氏は続けて次のように言う。

私は菅氏がどのような人物かまったく知らないが、民主党も含め、政権を支えるはずの側近までがこぞって菅おろしに走るのは、この人が首相として不適格だからだと解釈するほかあるまい。
                   ◇
そうすれば、先ほどの、「菅氏は国民の喜ぶことを何でもする」という批判と「菅氏は国民のことなど何も考えていない」という一見したところ対立する批判も理解できる。「菅氏は国民のために政治をするのではなく、自己の権力のために国民を利用しているにすぎない」ということだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110718/plc11071803080002-n1.htm

岡田幹事長は、原理主義者だといわれている。
原理原則を保持することは重要であると思うが、それも現実の状況に照らして柔軟に判断してこそ、であろう。

民主党の岡田克也幹事長が平成21年衆院選マニフェスト(政権公約)の見直しを表明したことにより、民主党は大混乱に陥った。マニフェストを「金看板」に政権交代を果たしただけに見直しは自己否定に等しい。鳩山由紀夫前首相と小沢一郎元代表のグループはさっそく反撃ののろしを上げた。原理主義者の岡田氏は「自爆ボタン」を押してしまったらしい。
http://sankei.jp.msn.com/politics/print/110723/stt11072300360000-c.htm

「政権公約を実現する会」という名称のグループを率いる鳩山前首相は、「命のように大切なものを投げ出してしまった。そもそも衆院選は何だったのかという話になる。納得するわけにはいかない。発言の撤回を求めたい!」と怒った。
しかし、破たんしているマニフェストを固守しようとするのは、それこそ空想的である。
まさに「そもそも衆院選は何だったのか」ということが問われているのだ。
閣僚らは、岡田氏の見直し発言を是認する大勢にようだ。

野田佳彦財務相は「与野党協議をしなければ政治が前進しない。適時適切な表現だ」と全面支持。玄葉光一郎国家戦略担当相(政調会長)は「マニフェスト作成時に財源の検討の甘さがあった。見直すべきところは見直すことが国民にとって正直な姿勢だ」と開き直った。
同上

正直だからいい、というものでもない。
マニフェストを否定する内閣というのは、無原則も極まっている。
自分たちが、マニフェストという旗を掲げて政権交代をしたのを、忘れてしまっては困る。

菅首相の「東日本大震災対策をより優先する場合もある」という発言も、当たり前だが、東日本大震災によって、マニフェストが実現できなくなったかのようにいうのも誠実な態度ではない。
震災対応は喫緊の課題であるから、優先するものもあるのは当然である。
しかし、マニフェストの破綻は震災以前の問題だったのではないか。
⇒2011年1月22日 (土):民主党の政治主導とは何だったのか?
⇒2011年1月25日 (火):民主党政権と詐欺師/「同じ」と「違う」(23)
⇒2011年2月10日 (木):マニフェストを履行するための消費税増税?
⇒2011年2月12日 (土):マニフェストを履行するための消費税増税?(2)

震災を言い訳に使うとは、それこそ、震災を政権延命として利用するもの以外の何ものでもないだろう。
絶体絶命的なピンチに陥っていた菅首相が、震災が起きて「これであと2年できる」といった話も、故のないことではないのである。

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2011年7月22日 (金)

拉致問題への菅首相の係わり

菅首相の資金管理団体が、森大志という今年の4月に三鷹市議会議員選挙に立候補した人物が所属する政治団体「市民の党」の周辺団体に多額の政治献金をしていた問題がクローズアップされてきた。
森大志氏は、よど号ハイジャックの主犯と日本人拉致容疑者として指名手配されている女性の間の長男である。
⇒2011年7月18日 (月):市民には快挙の感動が湧き、市民運動家には疑惑が明らかに

21日の参院予算委員会に拉致被害者家族の増元照明さんが出席し、首相に説明を求めたのである。
19日の衆院予算委員会で自民党の古屋圭司衆院議員がこの問題を質問したが、首相は「政治資金規正法にのっとって寄付をし、収支報告にきちんと記載しており、法令に沿っている」と強調した。
法令に沿っているかどうかというような形式上の問題ではないと思うが、古屋氏は追及しきれなかったような印象である。

増元さんは以下のような発言をした。

家族会結成は平成9年だが、それ以降、日本の闇に傷つけられて13年過ごした。赤い旗を振る人たちから、朝鮮半島に日本がしたことをどう考えるんだ、という非難の言葉を投げつけられた。家族を取り戻したいだけなのに、いまだイデオロギーで反対する人がいる。
今回の献金問題で、横田早紀江さんは『何を信じていいか分からない』『本当に私たちの家族を取り戻してくれる政府なのか』と、吐き気がするほど具合が悪くなった。
・・・・・・
私の父は『日本を信じる』と言って死んだ。父が信じた日本は、国民の命を救出できる国だと思う。そういう国づくりをしていただきたい。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110721/plc11072122040019-n2.htm

さすがに首相も、「(拉致実行犯と深い)関係があると認識していなかったがそうしたことがあるとすれば、そうした関係の濃いところとの政治的なつきあいは控えていきたい」と謝罪の言葉を口にした。
しかし、この謝罪の言葉をどう受け止めるべきであろうか?
何しろ、各紙がこぞって号外まで出して報じた「退陣表明」を、「私自身はそう言っていない」と否定して、多くの人に脱力感を抱かせて平然としている人だ。
⇒2011年7月 7日 (木):原発迷走で、閣内不一致は明らか。海江田大臣は辞任すべき(かどうか)

第一に、「(拉致実行犯と深い)関係があると認識していなかった」ことで免罪されるものだろうか?
「認識しているか否か」は本人の問題であるが、拉致問題対策本部長でもある首相が、認識していないことはないはずだ。つまり、虚偽の答弁をしている可能性が高い。
もし、本当に認識していなかったとすれば、認識能力を問われる問題である。
中国メディアは以下のように報じている。

中国メディアの環球時報(電子版)は2日、菅直人首相の資金管理団体「草志会」が日本人拉致事件の容疑者の長男が所属する政治団体「市民の党」の派生団体「政権交代をめざす市民の会」に計6250万円の政治献金をしていたと伝え、「菅直人首相が北朝鮮系の団体に政治献金していた問題は、『北朝鮮拉致問題対策本部』の本部長でもある立場としては厄介(やっかい)な事態だ」と伝えた。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0704&f=politics_0704_018.shtml

第二に、「政治的なつきあいは控えていきたい」というのも、例によって曖昧な表現である。
「政治的なつきあい」と限定しているのは如何なる意図を含んでいるのか?
おそらく、もろもろの抜き差しならないような「つきあい」があって、今後それらの一部が表に出てきた時の予防線を張っているつもりなのだろう。

私は、横田滋・早紀江ご夫妻の話を聞いたことがある。
1977年11月15日に、当時中学生だっためぐみさんは、クラブ活動を終えて学校から自宅に帰る途中に北朝鮮の工作員に拉致された。既に34年の時間が経過している。
ご夫妻の胸中は察するに過ぎないが、菅首相の行為は余りにも日本人の心を逆なでするものではなかろうか。

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2011年7月21日 (木)

菅・蓮舫は、なでしこジャパンの快挙に便乗しようとするオポチュニスト

蓮舫首相補佐官(前内閣府特命大臣)が、ツイッターで、「なでしこJapan、優勝!!すごいです」と、祝意の書き込みをしたら、炎上の憂き目にあったと報じられている。

「白々しい。スポーツ振興も仕分けしたくせに」
「2位じゃダメなんです!!!」
なでしこジャパンがW杯で優勝した2011年7月18日朝。蓮舫氏がその歴史的快挙を称えると、ツイッターでは、こんな皮肉や嫌みの声が次々に上がった。それは、09年11月25日の事業仕分けで、スポーツ振興などの補助金を「予算縮減」と判定したことを指したものだ。
この仕分けで、蓮舫氏は、日本オリンピック委員会(JOC)や日本体育協会など同じような団体が広く薄く事業をしているとし、その効果に疑問を呈した。ほかの民主党議員からも、メダルが取れないようなマイナーな競技も選手強化の対象になっているとの指摘が出て、予算縮減に際して役割分担の見直しなどが求められた。
ところが、この判定に、一部競技の五輪メダリストらから、自己負担が増えて、メダルも取れなくなるなどと不満が噴出。その記者会見の模様が、テレビ放映される騒ぎにもなった。

http://www.j-cast.com/2011/07/19101825.html

私は、蓮舫氏が個人的に祝いの言葉を書き込むのは勝手だと思うが、余りにも身勝手、と考えた人が多いということだろう。
もちろん、劇場型の政策の仕分け自体に、ポピュリズムというか、あえて言えば衆愚のような感じもしていたのだが。
文化大革命の紅衛兵みたいな感じ、といえようか。
批判の書き込みは、たとえば以下のようなものである。

仕分けをした方とされた方,皮肉な結果になりましたね。
「した」方は,強大な権限と巨大な予算を行使して,何の成果も上げられず。ボーナス600万以上もらいながら,やったことはファッション誌のモデルだけ。
「された」方は,給料0~20万で世界一。
復興に向かう日本にとってどちらが有用であったか言うまでもありません。
昔の武士なら切腹でもしてたんだろうけど,今の政治屋にそんな度胸もないだろうしなあ。

http://www.j-cast.com/2011/07/19101825.html?ly=cm&p=1

ツイッターというメディアには、当然のことながら、メリットもあるが、リスクもある。
蓮舫氏にとっては「想定外」の事態だろうが、私は、オポチュニストとしてのにおいを嗅ぎ取った批判であるのではないかと思う。
⇒2011年1月17日 (月):民主党における菅・蓮舫的な胡散臭さ
オポチュニストとは以下のような考え方・態度である(Wikipedia日和見主義110511最終更新)。

日和、つまり天気を観て行動を決めるかのようであるのでこの名がついた。普通、政治的な場で相手を侮辱する時に使う言葉である。機会主義(きかいしゅぎ)、投機主義(とうきしゅぎ)、オポチュニズム(Opportunism)とも言う。
一般には右翼的立場を批判するのに用いられるが、「図式主義」を意味する場合もあり、情勢の変化を弁えず現実性を持たない急進主義的方針を常に主張するような考え方を「左翼日和見主義」と(批判的に)呼ぶのはこの用法である。
長期的な趨勢を踏まえた上で有利な側につけば、時には望ましい結果を得る事が出来る。一方で、短期的な利益のために立ち位置を変え続ければ、信用を失うリスクを抱える事になる。
日和見主義に陥る事を、
1960年代大学闘争の現場においては“日和(ひよ)る”と軽蔑した。

私は蓮舫氏や菅首相は、上記に照らして、オポチュニストと言っていいだろうと思う。
⇒2011年7月13日 (水):民主党有志、全国知事会、西岡参院議長の菅首相批判
“逃げ菅”と評されている菅氏は、おそらく学生時代から、日和っていたのではないか。

菅首相も、帰国したばかりのなでしこジャパンのメンバーを、早速官邸に招待した。

午前の衆院予算委では、女子スポーツ環境の改善を訴えた首相。だが、なでしこの粘りを引き合いに「私もやるべきことがある限りは、諦めないで頑張らなければならない」と、あくまで政権にしがみつくことまで、宣言してしまった。退陣を前にした首相が口にした「諦めない」姿勢に、野党側からは「総理諦めろ!」とヤジも飛んだ。
この発言を、自民党の小池百合子衆院議員は「もうレッドカードが出されている」と皮肉で一喝。同党の小泉進次郎衆院議員も「沢選手のリーダーとしての信頼は(首相と)真逆ですね。総理は『学びたい』と言ったらしいが、遅すぎる」とバッサリ。日本中にさわやかな感動を呼んだ、なでしこにあやかろうとした首相だが、その方針は諦めた方がよさそうだ。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110719-OHT1T00308.htm

首相の「脱原発」発言は、長期的なテーマとしていえば、ほとんどの人が賛成するだろう。
しかし、原発事故が収束していない状況で、わざわざ記者会見まで開いていうべきことではないと考える。
まさに、「情勢の変化を弁えず現実性を持たない急進主義的方針を常に主張するような考え方」である。
北朝鮮への日本人拉致犯との関係が云々されているが、よど号をハイジャックした赤軍派こそ、「情勢の変化を弁えず現実性を持たない急進主義的方針を常に主張する」党派であったに違いない。
同時に、北朝鮮の体制も、非人道的なものであることが、いまや明らかである。

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2011年7月20日 (水)

梅棹忠夫は生きている

「人が完全に死ぬのは、皆がその人のことを忘れ去った時だ」というような意味の言葉を聞いたことがある。
梅棹忠夫は、物理的には、去年の7月3日に亡くなった。
⇒2010年7月 7日 (水):梅棹忠夫さんを悼む
しかし冒頭のような意味では、ますます「生き生きと、生きている」といっていいだろう。

3月11日の天変地異とそれによってもたらされた未曾有の大災害を前にして、「梅棹さんならば、どう言うだろうか?」と思った人は多いはずだ。
「中央公論」11年8月号に、佐倉統氏が『梅棹忠夫と3.11』という巻頭論文を書いている。
佐倉氏は、進化生物学者、東京大学 情報学環・学際情報学府教授である。
松岡正剛さんの「千夜千冊」のサイトの第三百五十八夜(010816)に、『現代思想としての環境問題 脳と遺伝子の共生』が取り上げられている。

その他にも、河出書房新社の「文藝別冊」で「梅棹忠夫-地球時代の知の巨人」(1104)があり、季刊「考える人」の11年夏号で「追悼特集梅棹忠夫-「文明」を探検したひと」という大特集がある。
死して1年を閲して、その存在感が否応なく高まっている。

佐倉氏の論文は、梅棹の死の直前の昨年6月19日に、国立民族学博物館で開催された日本展示学会の回想シーンから始まる。
この梅棹さんが中心になって設立され、初代会長を務めた学会に参加した帰りに、佐倉氏は、「薄暮の中の太陽の塔」に見下ろされ、挑発されているように感じた。

佐倉氏は、梅棹の足跡を、論壇で着目された論文等によってレビューする。
広く論壇で注目を集めたのは、1957年の「文明の生態史観」によってであった。
日本と西欧の並行進化を説いたこの論文は、論壇を覆っていたマルクス主義の軛に風穴を開けたとされる。

1959年には「妻無用論」を発表して、家事労働の将来像を展望し、家事専従者は不要になって、女性が社会で働く世の中が来るとした。
50年後の今日、梅棹の予測は、ほぼ的中しているといってよい。
1963年には、「情報産業論」を発表した。

私の個人史の中で、「情報産業論」は特別に大きな意味を持っている。
発表された1963年は、大学に入った年である。
しかし、重要な意味をもって迫って来たのは、最初の就職に疑問を持ち、転職を考え始めたときだと思う。
⇒2010年7月18日 (日):「情報産業論」の時代/梅棹忠夫さんを悼む(6)

化学系の学科を修了して、化学系の会社に就職した。
この就職についても、人並みにあれこれ考えた。私の父親は早く亡くなっていたので、身内で相談する人もいなくて、就職担当教授に相談をしてみた。
「最近できたばかりの野村総合研究所というシンクタンクが理系の卒業生にも門戸を開いているんですが……」
教授の反応は、「工学部の学生は、実業をやりなさい」だった。

バブル期には、理工系の卒業生が、金融・証券等の業界に殺到して問題視された。
特に東大工学部の機械工学系の卒業生の就職先の動向が注目されることがある。
それは、彼らが、全業種で受け入れられるので、その時々の就職人気産業を示すからであるが、長期的にみると、「企業の寿命は30年」などといわれる中で、30年先の構造不況業種を示唆するとも考えられるからだ。
私の就活はバブルよりずっと前のことであり、まさに工業社会の絶頂期であったが、新しく勃興しつつあった情報産業に魅力を感じたのだった。

就職担当教授の指導に従い、石油化学の会社に就職して日常業務に従事しながら、「自分はこれでいいのか?」という疑問が次第に大きくなっていった。
いわゆる情報化社会論や未来学の書籍も結構溢れていたが、直接的な後押しをしたのは、藤原肇『石油危機と日本の運命―地球史的・人類史的展望』サイマル出版会(1973)であった。
当時、34歳くらいだった藤原さんは、ほとんど無名に近い存在だった。どうして手にしたのか記憶にないが、この書が、私の工業から情報産業への転機となったことは間違いない。

1969年には、『知的生産の技術』が発刊される。
現在のパソコンを使ってデータ整理や文章執筆と同様の内容を、40年以上前に梅棹は具体化していた。
1987年には、「メディアとしての博物館」というコンセプトを提唱している。
今日、博物館をメディアといってもさしたる違和感がないが、当時にあっては相当に先進的な理念であった。

1988年に両目の視力を失うが、その後も驚くべき生産性を発揮している。
佐倉氏は、老人の生きがい論、介護論の注目すべき事例だとするが、同感である。
⇒2010年7月17日 (土):ハンディキャップとどう向き合うか?/梅棹忠夫さんを悼む(5)

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2011年7月19日 (火)

拡大する放射能汚染と補償の範囲/原発事故の真相(5)

福島第一原発の事故による放射能汚染は、底なし沼のような広がりを見せている。
私は、南足柄の茶葉から基準値を超える放射能が検出されたと聞いたとき、汚染の広がりについて、政府が責任をもって開示すべきだと考えた。
⇒2011年5月14日 (土):放射能汚染は、どこまで、どの程度?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(28)
しかし、この時から、既に2ケ月以上が経過しているというのに、国会は空転していると言わざるを得ない。
首相が、自ら辞めると言ったのを止めるというような次元の話に振り回されてきたからだ。

枝野官房長官は、福島県内の肉牛から国の暫定基準値を超える放射性セシウムが検出されたことを受けて、福島県内のすべての肉牛を出荷しないよう、福島県知事に指示したことを明らかにした。

対策本部は、暫定規制値(1キログラム当たり500ベクレル)を超えるセシウムが検出された肉牛が県内の広い範囲で見つかり、牛肉の検査態勢も十分ではないことから、緊急に停止措置が必要と判断。汚染疑いのある牛計94頭が出荷された山形、新潟両県については、セシウムが検出されたケースがないため、停止指示の対象から除外した。
福島県内では南相馬市、郡山市などの計14戸が3~7月、セシウム汚染の疑いのある肉牛計554頭を出荷、一部の牛肉から暫定規制値を超える放射性セシウムを検出した。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110719k0000e040092000c.html

枝野長官は農家への補償について「今回の出荷制限に関連する畜産農家には、適切な賠償が行われるよう、政府として万全を期す」と述べ、出荷できなくなった肉牛を国が買い上げるなど、補償に万全を期す考えを示しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110719/t10014301421000.html

餌の稲わらから、放射性セシウムが検出された自治体は、下図の通りである。
Photo_2
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011071602000020.html

この問題は、フクシマの事故対策のマズサを象徴しているようである。
的確な情報を迅速に開示することによって、畜産農家も放射能汚染された稲わらを餌として食べさせることは避けられたのではないか。
可愛い牛が、放射能で内部被曝しようとは思ってもいないことであろう。
消費者も、大手スーパーで売られていることに安心感をもっていたはずだ。

厚労省は「基準値を超えた肉を数回程度食べても健康に影響はない」と説明しており、実際問題として「直ちに健康に影響がある」ようなことはないであろう。
しかし、それでは何のための基準値であり、どう判断していいか分からない。
目に見えない汚染だけに、消費者はナーバスにならざるを得ないのだ。
それにしても、東電の損害賠償額は、素人的には天井知らずのように思う。
どう考えても、ネットの企業価値はマイナスだと思うが、株式が堂々と流通しているのが不思議といえば不思議である。

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2011年7月18日 (月)

市民には快挙の感動が湧き、市民運動家には疑惑が明らかに

文句なしの快挙である。
フランクフルトで17日行われたサッカーの女子ワールドカップ(W杯)の決勝戦で、日本代表「なでしこジャパン」が米国を2-2からのPK戦で破り、初の世界制覇を成し遂げた。
早朝(未明というべきか)のTV放映に、一喜一憂した人も多かったに違いない。
私も、固唾を飲みながら観戦した。
追い込まれた状況においても決してあきらめず、最後まで戦い抜いて栄冠を手にした。

Photo_2日本は2度リードを奪われるが驚異的な粘りで追いつき、PK戦を3-1で制した。前半は米国のペース、28分にはワンバックのシュートがゴールポストに当たるなど攻め込まれる場面が目立った。この流れの中で後半24分、米国はモルガンのシュートで均衡を破る。しかし同36分、日本もゴール前の相手守備陣のクリアミスを突いて宮間が同点ゴールを挙げた。
延長戦でも前半終了直前にワンバックが強烈なヘディングシュートで再び優位に立つが、日本は後半12分のCKを沢が見事なボレーで決め土壇場で追いついた。
PK戦ではGK海掘の好セーブで米国の最初3人が失敗、日本は2人目が止められたが3人が成功、過去21敗3分けの米国から初勝利を挙げた。

http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_spo&k=20110718027318a

3月11日以後、沈鬱だった国内の気分を奮い立たせるものと言えよう。
もちろん復興は生易しいものではないだろうが、「努力をすれば報われる」ということの証明として、子供たちにとっても大きなプレゼントになるはずだ。

これに引き換え、居座りを続ける菅首相に、大きな疑惑が浮上してきている。
北朝鮮の拉致問題への関与が疑われる団体と長年親密な関係を維持していたことが判明しつつある。

Photo_3 菅直人首相の資金管理団体が、日本人拉致事件容疑者の長男(28)が所属する政治団体「市民の党」(酒井剛代表)から派生した政治団体に計6250万円の政治献金をした問題をめぐり、菅首相が約30年前から、市民の党の“機関紙”に寄稿したりインタビューに応じたりしていたことが17日、産経新聞の調べで分かった。同紙には長男の父親であるよど号ハイジャック犯の故田宮高麿元リーダーが、北朝鮮から寄せたメッセージも掲載。市民の党側が、菅首相や拉致容疑者側と長年近い関係だったことが伺える。
問題の新聞は「新生」というタイトルで、昭和54年から月2~3回刊行されていた。平成14年以降は休刊状態となっている。題字横には「市民の党をつくる新聞」とあり、酒井代表が主筆を務めていた。市民の党が推す
議員らの選挙を詳しく報じるなど、事実上の機関紙として機能していた。
・・・・・・
菅首相の資金管理団体「草志会」は、市民の党から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に、平成19~21年に計6250万円を寄付。民主党からは同時期、草志会へ計1億4980万円が献金されていた。献金の意図について、菅首相は7日の参院予算委員会で「政治的にいろいろな意味で、連携をすることによってプラスになると考えて寄付した」などと答弁している。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/print/110717/crm11071722180012-c.htm

よど号ハイジャック事件といっても、もう知らない人も多いだろう。
1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派を名乗る9人の若者が、日航機をハイジャックした。日本で初めてのハイジャック事件である。
どちらかと言えば、それまで実態がないのに大言壮語していた(たとえば、世界革命の前衛)赤軍派が、初めて日本国を震撼させるような実力行動を起こしたのだ。
リーダーは、田宮高麿。大阪市立大学の出身。
出発時に、次の声明文を残し、人質を解放するとき、別れの詩吟を謡ったといわれる。

われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきた事を知らない。…最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである。
Wikipedia110624最終更新

田宮の消息について、Wikipedia110718最終更新は、次のように伝えている。

知人でジャーナリストである高沢皓司から日本人拉致事案について追及を受けている。これに対し田宮は「難しい問題だが(解決に)努力したい」と語っている。1995年11月30日に平壌で死亡したとみられる。当局は死因は心臓麻痺と発表している。しかし、11月29日に赤軍派議長だった塩見孝也が田宮に平壌駅で見送られており、死亡日前日まで田宮が元気であったことが確認されていることから、高沢をはじめ拉致事案を追っているジャーナリストの多くが田宮の不可解な死に不審を抱いている。特に親交の深かった高沢は、田宮の死でよど号グループとの交渉のパイプ役を失ったと語っている。

よど号ハイジャック犯は、北朝鮮による日系日本人拉致事件への関与が言われている。以下、Wikipedia110624最終更新による。

メンバーやメンバーの日本人妻らにより日本人拉致事件への関与が様々な証言により確実視される者もいるが、現時点では詳細は不明な点が多い。警察庁により国際指名手配された者もいる。

田宮の妻だった森順子は有力容疑者の1人である。

長男である森大志は2011年4月に三鷹市議会議員選挙に市民の党から立候補したが、37人中33位(定数28)で落選した。
Wikipedia110718最終更新

日本国の現総理が、拉致事件への関与が疑われる容疑者と親密な関係にある組織に係りを持っていたとしたら大きな問題である。
市民運動家出身というイメージも訂正しなければならないだろう。
市民の生存を脅かし、家庭を破壊する市民運動家などあり得ないからだ。

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2011年7月17日 (日)

代通寺の蓮の花と大井川の蓬莱橋

友人が「蕎麦を食いに行こう」と誘ってくれた。
前に行った「藪蕎麦宮本が旨い」と仲間が言うので、行きそびれたU子が、「どうしても一度行きたい」と切望していた願いを叶えてやろうということである。
⇒2011年5月15日 (日):静岡の美術館
友人が自分で運転してくれるので、ただ便乗していればいい。

蕎麦屋に行く前に、富士で蓮の花祭りをやっているので、それを見て行こうということになった。
代通寺という寺で、「第2回蓮祭り」というのをやっている。
Photo
蓮の花と言えば、池に浮かんでいる姿をイメージするが、鉢植えだった。
花自体は見事なものだが、ちょっと期待外れである。
増やすのに13年掛かったということであるし、池では管理が大変なことは分かる。
連休の好天ということもあって、駐車場も結構混んでいた。

蕎麦は期待に違わず旨かった。
U子も満足である。
蕎麦を食すと、蕎麦屋で聞いたバラの公園に行ってみようということになった。
島田市ばらの丘公園である。

途中に蓬莱橋という有名な橋があったのでちょっと立ち寄ることにした。
全長897mの世界一長い(ギネスブック公認)木の橋である。
Photo_3
木の構造物

さすがに長い。私の歩行を気遣ってか(?)、他の2人は3分の1くらいまでで引き返したが、山歩き等をしているU子は完全往復した。
Photo_4
いわゆる「流れ橋」である。
洪水時には流れるような構造になっている。
ハードな橋は流下してくるモノを堰き止めるので被害を増大させる場合がある。
復興構想会議の「復興への提言~悲惨のなかの希望~」で提唱されていた減災の具体的な形と言えよう。
橋の袂にある売店で「世界一長い木の橋」に因んだ「ナガイキノハシ=長生きの箸」という菜箸を売っていた。

蓬莱橋からちょっと行くと、ばらの丘公園がある。
昼下がりの焦げ付くような暑さだったので、屋外よりも温室の中の方が涼しいかと思ったが、やはり風の通らない温室は暑苦しかった。

Photo_5
約360種類8,700株のばらが植えられている。
市営だが、なかなか管理とサービスの両立は難しそうである。

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2011年7月16日 (土)

伊豆でのんびりと

久しぶりに伊豆でのんびり過ごした。
孫のRクンが自分の荷物を背負えるようになったこと、私の歩行が杖なしでも不安感が小さくなったので、昨日から一緒に伊豆の海辺に1泊旅行に出かけた。
息子たちは東京から、スーパービュー踊り子号に乗ってきた。
Rクンは、ずいぶん前からこの電車を楽しみにしていたそうだ。
私たちは熱海から合流した。
Rimg03842

宿泊は、北川温泉のつるや吉祥亭。
ずい分前に、会社関係の旅行で泊まったことがあるが、その時はずっと宴会モードで過ごしたのであまりはっきりした記憶はない。その時は別館だったが、今回は本館である。
本館はシーサイドに建っているので、津波が来たら……、と思ったが結構な賑わいだった。
Photo

暮れなずむ夏の夕から夜にかけてのひと時は、私が一番好きな時間である。
海を感じながら、その時間帯を、妻も今日ばかりはカロリーやビールの制限についてウルサイことを言わない約束で、美味を堪能した。
Photo_2
津波のことを話題にしていたら、夜かなり大きな地震があってびっくりした。
TVでは栃木県真岡市で震度5弱と言っていた。

今日はRクンが楽しみにしていた稲取のアニマルキングダムへ行った。旧名は、伊豆バイオパーク。
大学時代の同級生たちと稲取ゴルフクラブでプレーしてからもう20年くらい経つだろうか。働き盛りだった彼らも、第一線を退いたことだろう。
海を見下ろす眺めのいいコースだった。

アニマルキングダムは、ゴルフ場の手前にある。
Photo_3
一種のサファリーパークを中心とした複合施設であるが、面白いのは、普通は車の中から動物たちを見るのが、ここは動物たちの中を歩いて行く、というコンセプトで構成されていることである。
人間の歩行エリアが、細長い檻(人が入る)になっていると考えればいいだろう。
幼児でも安心して猛獣類を観察できる。
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動物の種類は結構豊富だが、最大の売りものはホワイトタイガーだろうか。
2
インド北東部のベンガル地方産とのことである。
王者の風格と言えようか。

昼食は稲取の港へ行った。
壊滅的な被害を受けた東北の漁港も似たようなたたずまいの港町だっただろう。
稲取といえば、金目鯛と吊るし雛が有名である。
金目と地魚のお任せ握りを頼んだ。
2_2
シャリがそんなに大きくないのだが、満腹感があった。
金目の味噌汁は、出汁が良くきいて旨かった。
Rクンもご機嫌で帰途についた。

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2011年7月15日 (金)

日本人はムー大陸から来た?/やまとの謎(36)

竹内均さんといえば、科学雑誌「NEWTON」の編集長を長く務めたことで有名である。
私は、受験生時代に旺文社の「物理の傾向と対策」でお世話になった。
この本を何回か読み返しているうちに、物理の問題のカンドコロとでもいうようなものが会得でき、問題に向かうと手が自然に動くような感じになったのを覚えている。
大学に入ってから、NHKブックスの上田誠也氏との共著『地球の科学―大陸は移動する (NHKブックス 6)』(6404)を読んで、こんなに面白い学問があるのか、と思った。
プレートテクトニクス理論がまだ眉に唾をつけて語られていた時代である。
東日本大震災は、改めて地球科学に一般の人の目を向けさせた。
しかし、竹内氏は、残念ながら2004年の4月に亡くなられており、この震災からの復興のあり方に関する意見を聞くことは適わない。

その竹内さんが書いた著書の1冊に、『ムー大陸から来た日本人-私の古代史』徳間書店(8009)がある。
たまたま散歩の途中に立ち寄ったBookOffで見つけ購入したが「竹内均と古代史?」「ムー大陸?」と、釈然としない思いがしていた。
しかし、決してキワモノとは言えない内容を含んでいる。

結論は、「縄文人は、“ムー大陸”の住人だった」である。
常識人は、ムー大陸の存在自体を信じないであろう。
Wikipedia110624最終更新によれば、ムー大陸は、お話の域を出ない説とされる。

Photo ムー大陸(ムーたいりく、: Mu)は、ジェームズ・チャーチワードの著作によると、今から約1万2000年前に太平洋にあったとされる失われた大陸とその文明をさす。イースター島ポリネシアの島々を、滅亡を逃れたムー大陸の名残であるとする説もあった。しかし、決定的な証拠となる遺跡遺物などは存在せず、海底調査でも巨大大陸が海没したことを示唆するいかなる証拠も見つかっておらず、伝説上の大陸であるとされる。

存在しなかった大陸の住人とは?
竹内さんも次のように言う。

チャーチワードの言うようなムー大陸が太平洋に存在しなかったことは、地球物理学者の私には、初めからはっきりしていた。しかし太平洋とインド洋を含む地域に住む人たちが持つ五〇〇〇年の歴史は、これを<ムー文明>と呼んで何のはばかりもないものである。

つまり、竹内さんは、ムー大陸の存在とムー文明を峻別しているのである。
それでは、ムー文明とはどういう意味か?
竹内さんは、ポリネシアやミクロネシアの人々が、5000年以上の歴史を持つこと、東南アジアを船出して太平洋を東に向かった人たちの子孫であることから、太平洋上に散在し、かつ交流をしている人たちが1つの文明圏にあるとしたのだった。
それを、大陸は実在しないという意味から、<象徴のムー帝国>と呼んでいる。

そして、以下のような考察の上で、「縄文人は“ムー大陸”の住民だった」としているのである。
・稲作あるいは焼畑農耕の伝播
・血液型の分布
・日本語の系統
・脳の機能の比較
・化石人骨の形態
・HB肝炎ウイルスの分布
・神話/習俗・儀礼の分析 etc.

興味深いのは、いわゆる『魏志倭人伝』に、南方的記述が多い、と指摘していることである。
もちろん、一読すれば、以下のような良く知られた記述に南方を感じる。

男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。
・・・・・・
男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
・・・・・・
倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

アカデミズムの世界で竹内説がどう評価されているかは分からないが、私たちの中には確かに南方の海洋上の人と共通する要素があるように思う。

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2011年7月14日 (木)

日本人の起源-アフリカから日本列島へ/やまとの謎(35)

日本人の起源をめぐっては、さまざまな考え方が提起されてきた。
九州大学の「インターネット博物館・倭人の形成」というサイトには、日本(列島)人の起源をめぐる論争が、以下のように整理されている。
Photo_3
同サイトでは、「本格的な研究は、幕末から明治始めにかけて来日した外国人研究者によって開始され、以後「日本人の起源」は、日本人類学会の最大の研究テーマとして、現在に至るまで熱い論争が続けられている」としている。
つまり、現在もまだ決着していないということである。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/112.html

人類はアフリカで誕生したというのが定説である。
その人類は、いつ、どのような経路を辿って日本列島まで来たのか。

最初の人類(猿人)は、約500万年前にアフリカで生まれた。
猿人から原人へ進化したのは、約150万年前といわれるが、原人が初めてアフリカから脱出し、ユーラシア大陸各地へと広く拡散した。
⇒2011年7月 1日 (金):日本人のルーツと旧石器遺跡捏造事件/やまとの謎(33)

アジアでも、最初は熱帯域に住み着いた原人(ジャワ原人)やその子孫達は、やがて様々な環境への適応能力を増して徐々に北上し始め、遅くとも50~60万年前には北緯40度の北京・周口店の位置まで達していたことがわかっている。

先史モンゴロイドの一派は、その後さらに北上を続け、おそらく4~5万年前には北緯50度を、約2万5千年前にはついに北緯60度を越えて、極北の広大なシベリアへの拡散を果たす。彼らの一部は、さらに氷河期に陸地化したベーリング海峡(ベーリンジア)を渡り、無人の大地、アメリカ大陸にも流入していった。アメリカ大陸に住むインディアンやイヌイット(エスキモー)、アリュートの人々も、われわれと同じモンゴロイドの一員であることが、近年の遺伝子分析で明らかにされている。
・・・・・・
日本人も含めた現在の北方モンゴロイドの特徴、扁平で目の細い、頬骨の張った顔つき、手足の短いずんぐりした体型は、モンゴロイドの一派が酷寒の地に定着する過程で生存に有利な形質として獲得したものとされ、人類学ではそうした特徴をもつ人々を、「新モンゴロイド」と呼んでいる。遥か後世の弥生時代に日本列島に流入し、日本人の形成に大きな役割を果たした人々も、この大陸北方を主な原郷とする新モンゴロイドであった。

Photo
世界の18人類集団の遺伝的近縁関係を23種類の遺伝子の情報をもとに近隣結合法によって推定した結果(斎藤成也)。図下部のオーストラロイドとアメリンドは、アジアのモンゴロイドと共に、広義のモンゴロイド集団に含まれる。日本人は外見だけではなく、遺伝子レベルでも、中国や朝鮮半島の人々に最も近い。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/113.html

Photo_2

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2011年7月13日 (水)

民主党有志、全国知事会、西岡参院議長の菅首相批判

民主党議員有志が、首相の即時退陣要求を求める意見書を出した。

民主党の吉良州司、長島昭久両衆院議員らは13日、首相官邸に仙谷由人官房副長官を訪ね、菅首相が進めるエネルギー政策では電力危機を招く恐れがあるなどとして、首相の即時退陣を求める意見書を提出した。
意見書は、退陣を求める理由として、九州電力玄海原子力発電所の再稼働を巡る混乱などを挙げ、「菅内閣の機能は完全に崩壊した。菅首相のもとでの被災地復旧・復興、原発事故の早期収束、国全体の復興は実現不可能だ」と首相の対応を批判した。意見書には、同党の若手衆参両院議員11人が名を連ねた。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110713-OYT1T00950.htm?from=y10

一方、菅首相は、今後の日本のエネルギー政策について原発への依存度を計画・段階的に引き下げ、将来的には原発がなくなっても可能な社会を実現させたいとの考えを明らかにした。

首相は原発事故について「リスクの大きさということを考えた時に、これまで考えた安全確保という考え方だけでは律することができない、そうした技術であるということを痛感した」と指摘。その上で「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していく、これが、これからわが国が目指すべき方向だと考えるに至った」と言明した。
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920019&sid=aN40MiK4XFHo

言っていること自体は、1つの見識のように見える。
方向性といては、評価できるものともいえよう。
しかし、民意は既にその方向に動いているのである。
つまり、菅首相は変革の旗手というよりも、機会主義者としての姿が浮き彫りになっているのではなかろうか。
退陣表明したのを自ら否定するような言動は、まさに機会主義者(またの名を日和見主義者という)のものである。

民主党議員有志の意見書によって、菅内閣は自壊のコースへ入ったと見るべきであろうか。
また、秋田市のホテルで開催されている全国知事会議では、政府に対する厳しい批判がなされた。

会議では、東京電力福島第1原発事故への対応について「場当たり的な対応に終始し、国民の不信感はかつてなく高まっている」として、菅直人首相が事故の経緯について説明責任を果たすことなどを求める緊急提言を、近く政府に行うことが決まった。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110713ddm002010046000c.html

同時に、原発政策のあり方をめぐっては、自治体間の意見の相違が浮き彫りにされた。
今まで、原発を地域政策の要としてきた県では、展望を失っている感じである。
佐賀県の古川康知事は「誰を信じていいのか分からない。菅首相がこの夏は再稼働なしで乗り切れるというなら、正面切って言えばいい」と怒りをあらわにした。
石川県の谷本正憲知事も「ストレステスト(耐性試験)を導入するなら、首相自ら地元を説得する覚悟でやらなければ解決の道筋は見えない」と首相を批判した。
福島第1原発を抱える福島県の佐藤雄平知事は「福島第1原発をしっかり収束させてから再稼働の話が出るべきだ」と、早急な再稼働に不快感を示した。
大阪府の橋下徹知事は「(再稼働を止めれば)壮大な社会実験ができる。この国は原発何基までで(電力供給が)耐えられるか、実証データを見ることが重要だ」と発言した。

中長期的なエネルギー政策についてはどうか?
山形県の吉村美栄子知事(欠席)と滋賀県の嘉田由紀子知事は共同で、原発への依存から卒業する「卒原発」を提唱した。
北海道の高橋はるみ知事も「自然エネルギー拡大のためにできることをするのは大賛成」と述べた。
愛媛県(四国電力伊方原発所在地)の中村時広知事は「『卒原発』という新しい言葉に違和感がある」と発言した。
広島県の湯崎英彦知事は「菅首相は政局のために『脱原発』を打ち出すのではないか」と懸念を示した。

エネルギー政策は、立国の基本であるから、十分に熟議を重ねて頂きたい。
前から菅首相に批判的であった西岡参院議長が、立法府の長としては異例の首相批判をした。

西岡武夫参院議長は12日、菅直人首相の退陣に向けた手続きを取るよう民主党議員に呼び掛ける論文「国難に直面して、いま、民主党議員は何をなすべきか」を発表した。同党が両院議員総会で菅代表の解任を進め、実現しない場合は衆院で内閣不信任決議案、参院で首相問責決議案を同じ日に提出すべきだと主張している。
内閣不信任決議案は6月2日に衆院で否決されており、同じ議案を一国会で2回審議しない「一事不再議」原則の対象になる。しかし、西岡氏は論文で「理由と提出者が異なれば、今国会にもう一度提出できる」と強調。党所属議員に対し「延命に汲々(きゅうきゅう)とする首相を辞任させることこそ、国民への責任だ」と訴えている。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110713ddm005010014000c.html

私は三権分立の原則は固守すべきだと考える。
従って、西岡氏の論文は如何かと思う。
同時に、現在の混乱した事態は、詐欺師の手法で首相の座に居座っている菅首相に、大元の原因があるとせざるを得ない。
災害を延命のチャンスだと捉えるような人が人心を掌握できるはずもない。難局に立つリーダーに求められるのは、無私の姿勢である。
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)
⇒2011年6月 8日 (水):菅首相は一流詐欺師(ビッグコンマン)たりえたか?

私は、西岡氏はルール違反だと思うが、そうせざるを得ない状況であることは十分に理解するものである。
ご法度に敢えて触れた田中正造の直訴のように、身を捨てる覚悟であろうか?

かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸
(長谷川櫂『震災歌集』)

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2011年7月12日 (火)

『万葉集』を書いたのは誰か?/やまとの謎(34)

9日に聞いた『私の万葉集とことば』座談会でも、白村江の敗戦という時代背景が、日本語の表記とかかわって、万葉仮名が考案されたのだろう、ということが言われていた。
⇒2011年7月 9日 (土):「大岡信ことば館」における『私の万葉集とことば』座談会
日本語を書き表わすという営為が、いつ、誰によって、始められたかは、まことに興味深いテーマである。

発症前のことになるが、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)の著者・藤井游惟氏の説を紹介したことがある。
⇒2008年4月15日 (火):藤井游惟氏からのコメント
⇒2008年4月16日 (水):藤井史観の大要…倭王朝加羅渡来説
⇒2008年4月17日 (木):言語学から見た白村江敗戦の影響
⇒2008年4月18日 (金):言語学から見た白村江敗戦の影響②

この度、藤井氏が、自説の紹介ビデオを作り、そのデモ版をYouTubeにアップされた。
http://www.youtube.com/user/Youwee5847?feature=mhee#p/a/u/0/xPvxfGA_ews
私には上記した以上の理解はできないが、少なくとも今までに唱えられたことのない新しい考えではないかと思う。
藤井説の適否については、いろいろな考えがあるのではないかと思う。
多方面から検証することが望ましいと思うが、藤井氏のように、在野の研究者の説は、陽の目を見るのに多大な時間を要することになりがちである。

わがブログは、もちろん現在も依然としてロングテールの先っぽの方の存在に過ぎないが、より広く藤井氏の説が批判の俎上に乗ることを願い、紹介する。
⇒2011年6月29日 (水):東電株主総会と民主党両院議員総会に対するコメント

なお、私などよりはるかに該博な知識を持っておられるDon Pancho氏のサイトに、より包括的な解説がある。
『記紀万葉』を書いたのは白村江敗戦後の亡命百済人?
廃仏氏族物部氏の寺のコメント欄

私としては、音の聞き分けが言語中枢によるとして、それがどのようにして形成されるかが興味あるところである。
⇒2011年7月10日 (日):失語症か構音障害か/中間報告(21)
英会話において、自分で話したことを理解してもらう方が、ヒヤリングよりずっと難しいようにおもう。

私たちの先輩は、日本語を文字として定着させるために、一方ならぬ苦労を重ねたと想像する。
結果として、漢字かな交じり文として、今日一定の体系を確立するに至っている。
漢字かな交じり文には、もちろん優位性と同時にデメリットがあるだろうが、私は、表意文字と表音文字の絶妙な組み合わせにより、世界でも稀にみる合理的な言語になっているように思う。

白村江という国家存亡の瀬戸際に立った日本人(と言っていいのかどうか)は、何を考え、どう行動したのだろうか?
もし、大震災によって日本人が文明史的な生き方の変容を迫られるならば、1350年前の敗戦体験を思うことにも意味があるのではないか。

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2011年7月11日 (月)

震災復興会議の提言と「霞ヶ関文学」/花づな列島復興のためのメモ(2)

発災から今日で4ヶ月である。
福島県南相馬市の肉牛の餌にする藁から、基準値を越える放射能が検出された。
この餌で育った食肉の一部がすでに市場に出回り、消費されているものもあるという。
生産者にとっても、消費者にとっても悲劇というべきだろう。

悲劇はその他にもある。
例えば、仮設住宅に住んでいる被災者の孤独死が相当数いる。
慣れぬ住宅と人間関係から、ストレスも増進することは容易に想像できる。
このように、自宅を離れて避難生活を余儀なくされている人が、まだ11万人以上いる。

一方で、退陣表明(?)した首相は、1月以上経っても、依然として続投に強い意欲を示している。
ほとんどの人が退陣表明と受け止めた演説は、実は無期限続投したいという意思表示だったのである。
復興担当大臣は就任後間もなく辞任せざるを得なかったし、原発の運転の可否に関する新基準についても、必ずしも好意的に受け止められていない。
なんとなくチグハグ、というよりも、やはり政権の体をなしていないというべきであろう。
世論調査でも内閣支持率は、首相交代以来最低の水準である。

東日本大震災からの復興の指針となるべきものとして、復興構想会議から「復興への提言~悲惨のなかの希望~」が6月25日に政府に提出された。
いよいよ、復興へ向けて本格的な政策が実施されていくことになるだろう、と期待したい。
菅政権は、復興会議の提言を待つという形で、敢えて言えば、モラトリアム状態のことが多かったからだ。
もちろん、復旧と復興は「違う」という観点からすれば、緊急の復旧の遅れの隠れ蓑として使うこと自体間違いと言うべきなのだが。

復興への提言~悲惨のなかの希望~」は、次のような構成になっている。
復興構想7原則
Ⅰ.前文
Ⅱ.本論
Ⅲ.結び

もちろん、中心は「Ⅱ.本論」である。
これは、次の4章から成る。
第1章 新しい地域のかたち
第2章 くらしとしごとの再生
第3章 原子力災害からの復興に向けて
第4章 開かれた復興

目次を見た限りでは、必要なことには目配りしている、という印象である。
しかし、あくまで一般論というか抽象論・「考え方」のレベルであって、こういうものならばもっと早く出せるのではないだろうか。

本論に入る前に、先ず目に入るのが「前文」部分である。

破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年(2011年)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。地震と津波との二段階にわたる波状攻撃の前に、この国の形状と景観は大きくゆがんだ。そして続けて第三の崩落がこの国を襲う。言うまでもない、原発事故だ。一瞬の恐怖が去った後に、収束の機をもたぬ恐怖が訪れる。かつてない事態の発生だ。かくてこの国の「戦後」をずっと支えていた“何か”が、音をたてて崩れ落ちた。
・・・・・・
かくて「共生」への思いが強まってこそ、無念の思いをもって亡くなった人々の「共死」への理解が進むのだ。そしてさらに、一度に大量に失われた「いのち」への追悼と鎮魂を通じて、今ある「いのち」をかけがえのないものとして慈しむこととなる。そうしてこそ、破壊の後に、「希望」に満ちた復興への足どりを、確固としたものとして仕上げることができると信ずる。

名文である。美文と言ってもいいだろう。
しかし、発災後4ヶ月経ってもまだ現在進行中という状況に対しては、美文過ぎるような気もする。
この国の「戦後」をずっと支えていた“何か”とは何か?
文脈的には、後ででてくる「現代文明(の脆弱性)」ということになろうが、余りに抽象的であるように思う。
大震災によって文明のあり方が問われていることは、発災直後の多くの人が感じたことだろう。
⇒2011年3月22日 (火):津々浦々の復興に立ち向かう文明史的な構想力を

「本論」の評価は、成果との関連でなされるべきであると考える。
この提言が、今後の復興をダイナミックに牽引していく力を発揮するか否か。
しかし、「提言」が「霞ヶ関文学」ではないのかと危惧する人がいる。
「霞ヶ関文学」に通暁している岸博幸・慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授である。

「霞ヶ関文学」とは何か?
今の日本で、「ある意味」レトリックに最も長けているのは、霞ヶ関の官僚であろう。
それは、彼らの作成する文書が一国の政策を規定するのであるから、当然のことでもある。
しかし、彼らのレトリックは、必ずしも文意を明晰にするために用いられるものではない。というよりも、むしろ逆の方向に使われることが多いようだ。
官僚のレトリックを、「霞ヶ関文学」というらしい。

霞ヶ関文学とは、法案や公文書作成における官僚特有の作文技術のことで、文章表現を微妙に書き換えることで別の意味に解釈できる余地を残したり、中身を骨抜きにするなど、近代統治の基本とも言うべき「言葉」を通じて政治をコントロールする霞ヶ関官僚の伝統芸と言われるもののことだ。
霞ヶ関文学では、たとえば特殊な用語の挿入や、「てにをは」一つ、句読点の打ち方一つで法律の意味をガラリと変えてしまうことも可能になる。また、特定の用語や表現について世間一般の常識とは全く異なる解釈がなされていても、霞ヶ関ではそれが「常識」であったりする。若手官僚は入省後約10年かけて徹底的にこのノウハウを叩き込まれるというが、明確なマニュアルは存在しない。ペーパーの作成経験を通じて自然と身につけるものだといわれるが、あまりに独特なものであるため、政治家はもちろん、政策に通じた学者でも見抜けないものが多いとも言われる。

元通産官僚が明かす「霞ヶ関文学」という名の官僚支配の奥義

どういうことであろうか。
実例を見てみよう。

道路公団や郵政改革でよく耳にする民営化という言葉があるが、「完全民営化」と「完全に民営化」とが、霞ヶ関文学では全く別の物を意味すると言う。「完全民営化」は株式と経営がともに民間企業に譲渡される、文字通りの民営化を指すが、「完全に民営化」になると、法律上3パターンほどあり得る民営化のどれか一つを「完全」に実現すればいいという意味になるというのだ。つまり、「完全に民営化」では、一定の政府の関与が残る民間法人化や特殊法人化でも良いことになるという。しかも驚いたことに、霞ヶ関ではそれが曲解やこじつけではなく、ごくごく当たり前の常識だと言うのだ。
同上

確かに、一般人では見分けることができないだろう。
民主党が、政治主導の旗を高く掲げて政権交代を果たしたものの、さっぱり期待した効果を上げ得ないのも霞ヶ関文学に通暁した政治家が少ないからではないか。
今まで野党だったのだから、官僚を使いこなす経験が足りないのは止むを得ない。
早く自分たちの経験不足に気づいて、官僚を味方にすることに意を注ぐべきなのだが、首相みずから、自分で何に対してもイニシアティブを持っているような印象を与えることを第一に考える。
政治は、結果が問われるのであって、どう見えるかが問題なのではないにもかかわらず、である。
⇒2011年1月22日 (土):民主党の政治主導とは何だったのか?
⇒2011年5月29日 (日):菅政権における政治主導の失敗学/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(38)

霞ヶ関文学の解説者の岸博幸教授は、次のように言う。

菅政権は、政策面では基本的に官僚依存の政権なのですが、それがもっとも如実に現れているのが、復興構想会議の提言だと思います。
この報告書は、最初の前文は同会議の委員が書いたであろう文学的な表現になっていますが、本論は霞ヶ関文学の羅列になっているからです。
・・・・・・
このように客観的に提言の中身を見ると、議長や首相がいくら強弁しようとも、この提言は基本的には官僚主導で作られたと考えざるを得ません。被災地の復旧・復興のために必要なのは前例に囚われない改革的な政策のはずなのに、抽象論ばかりが並び、具体策まで書いてあるのは基本的に官僚がやりたいことだけというは、はっきり言って松本前復興相の発言以上に被災地の方々に対して失礼だと思います。

「霞ヶ関文学」の羅列になった復興構想会議の提言で見えた菅政権の引き際

松本復興相の辞任劇で水を差された復興への動きであるが、その後も菅政権の取り組みにはダイナミズムが感じられない。
未曾有の大災害から復興は、別の政権によるしかないと思われる。
⇒2011年3月18日 (金):菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ

長谷川櫂氏の一首が見事に表現しているのではないか。
⇒2011年7月 3日 (日):長谷川櫂『震災歌集』/私撰アンソロジー(3)

かかるときかかる首相をいただきてかかる目に遭ふ日本の不幸

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2011年7月10日 (日)

失語症か構音障害か/闘病記・中間報告(25)

私は、脳梗塞の後遺症として、右半身の麻痺がある。
現在リハビリ中で、僅かずつではあるが改善している。
⇒2010年11月22日 (月):著しく緩徐的ではあるが・・・・・・/中間報告(12)
しかし、依然として右上肢はほとんど機能を失っている。

言語障害もある。
言語障害には、言語の理解と言語の表出の2つの側面がある。

理解の側面については、障害の程度を客観的に捉えるのは難しい。
発症前に特段のテストなどしていないからだ。
なんらかの影響はあるだろうと思うものの、評価できない以上対策も考えにくい。

表出については、明らかに発話に障害があることを自覚している。
気の置けない人は、発症前からそんなものだったと言うが、本人は誤魔化せない。

言語の表出については、内容を考えるプロセスとそれを音として表わすプロセスが考えられる。
前者は言語中枢が関与し、後者は呼吸筋や口を動かす筋などの運動中枢が関与している。
そのいずれかに障害があるか、もしくはそれらの間の連絡に障害があると、結果的に言葉の表出は阻害される。
Photo_3
http://www.fujimoto.or.jp/tip-medicine/lecture-125/index.php

言語中枢にダメージを受けている場合が失語症である。

失語症とは、一度獲得された正常な言語機能が、大脳の言語領野(主に左脳)の障害により、ことばを「聞く・話す・読む・書く」すべての言語様式に何らかの能力低下を生じた状態をいいます。同時に計算能力の障害も認められます。
ことばを理解したり、ことばで表現したりするのは脳の言語中枢という部分の働きです。一般的に言語中枢は脳の左側に位置しています。脳卒中や事故などで、この言語中枢が損傷されると、これまで正常に行われていた言語(ことば)の活動に障害が起こります。

http://www.otagawa-hp.com/otagawa/08_riha/pdf/2010_05kensa_shitsugosyou.pdf

Photo_6失語症の検査には各種のものがあるようだが、標準失語症検査(SLTA)というものが一般的である。
http://ncg.kzan.jp/blog/2008/10/

左図のような簡単なツールを用いて検査する。
言語聴覚士(ST)が担当し、私も入院中に1回とリハビリ通院をするにあたって1回受検した。
結果は、失語症ではない、ということであったが、言語中枢にダメージがあるか否かは分からない。
加齢によっても、同じような現象は起こるからだ。
歳相応と言われれば、そうかなという気になる。

失語症ではないが、言葉の表出に障害がある場合が構音障害である。
脳卒中の典型的な後遺症である。

Photo_5 簡単に言えば、舌とか唇とかほっぺたとか、そういう顔の筋肉であるとか、それを支配している神経とかが、何らかの原因によって病気になると、動き自体がうまくいかなくなって、音を作る事が難しくなるという事です。結局は動きが悪くなるわけですから、それによってはっきりした発音が出来ない場合とか、口がちゃんと閉まらない場合とか、そういう事によって起こってくる障害の事を構音障害と言います。
http://www.phoenix-c.or.jp/~hideo/reha/kouen/007kouon.html

舌とか唇の運動機能であるから、対策は一種の身体運動のリハビリと同じことである。
私の場合、咽頭部に違和感があって、時々嚥下し難い感じがある。
発症前は、辛い食べ物はいくら辛くても構わなかった。今は、辛い物を食べると咽てしまう。
医療保険の時間数の制限から、手足のリハビリを優先させ、言語訓練は受けていない。
できるだけ音読などをするように心がけている。

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2011年7月 9日 (土)

「大岡信ことば館」における『私の万葉集とことば』座談会

三島駅の北口に、「大岡信ことば館」がある。
受験産業の雄・Z会の展開している事業の1つである。
2009年10月にオープンしたが、その直後に発症したので、今まで尋ねる機会がなかった。
Photo

三島市出身である大岡信さんの活動をもとに、人間の源泉であることばについて模索していくことは、Z会グループの理念をまさに体現するものです。次代に続いてゆく若い世代、地域に住まう人々とともに、ことばの豊穣を味わい、芸術の素晴らしさを楽しむ。その大きな意義、理念の追求の場として、「大岡信ことば館」を設立いたしました。
設立趣意書

Z会は、私が受験生の頃にはもう通信添削で有名だった。
高度で難解(すなわち良問ということだろう)を丁寧に添削していた。私は世話にはならなかったが、友人でやっている人がいた。
記憶では、月3回の出題があり、その都度成績ランキングがあった。
上位入賞を目指して、全国の秀才たちがしのぎを削っていた。
2010年度実績として、東大合格者数1,339人とある。どこまでの人数をカウントしているのか不明だが、相当数であることは間違いない。

なぜ三島にZ会の拠点があるかといえば、戦前に東京で事業をしていたが、戦災で中断し、戦後にに中伊豆(現伊豆市)で再開したことが、この地との関係の始まりである。
私が受験生の頃には、中伊豆にあったはずだ。
中伊豆から三島に隣接する長泉町に移転し、三島駅北口の整備事業に乗る形で、新しい事業拠点を設けた。

その「大岡信ことば館」で文化的なイベントを行っている。
今日、「私の万葉集とことば」という座談会があった。
110709
定員意150名とあるが、95%くらいは女性だった。
座談会のメンバーが豪華である。

伊藤一彦氏と栗木京子氏は、私でも名前を知っている代表的な現代歌人である。
辻原登氏は、日本経済新聞に連載されていた『発熱 (文春文庫)』(0503)は、毎日読むのが楽しみだった。ストーリイテラーとして類稀な才能の持ち主だと思う。
俳人の長谷川櫂氏は、触れたばかりの俳人である。
⇒2011年7月 3日 (日):長谷川櫂『震災歌集』/私撰アンソロジー(3)

これで1,000円は廉いが、Z会のCSR活動の一環ということだろう。
期待に違わぬ楽しく為になる座談会であった。
司会進行は長谷川氏が担当し、前半は、辻原、栗木、伊藤の順に、出身地に因んだ万葉歌の紹介や、それぞれの万葉集体験談等が語られた。

印象的だったのは、和歌の読み方の「切れ」に関して、伊藤氏が殊のほか熱弁を振るっていたことである。
俳句の「切れ」はよく問題にされる。
しかし、五・七・五・七・七を、五・七/五・七/七と読むのと(五・七調)、五・七・五/七・七と読むのでは味わいが違う、という。
確かに、五・七調で2回切れを入れ、4句切れにすろと、結句の7音の効果が、大きく違う(場合がある)。

Photo_4もう1つは、大岡信さんのキーワードの1つである「うたげと孤心=詞華集の編纂、歌合、連歌といった古典詩歌の創造の場としての「うたげ」、それに対峙する「孤心」の営為」についてである。
長谷川櫂氏の『震災歌集』中央公論新社(1104)の中の左の一首が事例として引用された。

人麻呂は、言うまでもなく万葉集を代表する歌人であって、座談会でも言及されていた。
興味深いのは、柿本(カキノモト)ではなく、杮本(コケラモト)ではなかったのか、という辻原氏の説である。
当時は、媒体として紙ではなく木が使われていたが(木簡)、木簡の材料が杮(コケラ)だったのではないか、というのである。
今、杮(コケラ)は、杮落しとして使われるくらいであるが、鉋屑(すなわちコケラ)などを落として落成するということから来ている意味だそうだ。

左の長谷川さんが歌集に引いた人麻呂の歌は、四国で詠まれたものと言われる。
東国から来たであろう防人が、異国に仆れている情景と理解される。
防人の故郷である東国は、いま未曾有の大災害に見舞われているのだ。
亡くなった防人よ、鶴でも白鳥でも変身して、はるかな故郷へ還れ、という意味だろう。

人麻呂の歌と呼応して、見事な作品だと思う。
うたげ、すなわち饗応が、時空を超えて成立している。
もうひとつ、西国の人へ、防人で助けてもらった東国に、今度はこの災害への救援を呼びかけているのだ、という解説があった。
なるほど、と思うが、そこまで読むのはなかなか難しい。

私と同じように、「はじめに」の「まだよくわからない」の語について、「その後はどうか」という質問が会場からあった。
⇒2011年7月 3日 (日):長谷川櫂『震災歌集』/私撰アンソロジー(3)
まだ「まだ」らしいが、『震災歌集』ができた後、ばったり歌が浮かんでこないそうだ。
『震災句集』は、苦闘中とのことである。

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2011年7月 8日 (金)

「ある意味」と「まさに」-菅首相の言語技術について

言葉と思考は切り離せない。
レトリックの諸要素は、思考の方法論でもある。
しかし、私は学校教育において、レトリックについて学んだ記憶がない。学校では、思考の方法などは教えない。
教えるのは個別の教科である。

個別の教科の学力をアプリケーションソフトの性能だとすれば、思考の生産性はOSの性能に相当すると考えられる。
私は、リサーチャー時代に、思考と作文が密接に関連しているだろうという認識のもとに、初めて意識的に文章修業をした。
小学生の頃、作文をした記憶があるが、何のためにやるかまったく分かっていなかった。
といっても、先輩の添削を受けた他は、自分で名文だと思うものをお手本にして独学しただけではあるが。
私がお手本と考えたのは、例えば去年亡くなった梅棹忠夫氏である。梅棹氏の文章は、難解な語彙を使わず、実に明快である、と思う。

菅政権の中枢にいる枝野官房長官と仙谷官房副長官(前長官)は、共に弁護士である。
さすがにその弁論技術はしたたかといえよう。
しかし、それは時に、レトリックというよりは、強弁あるいは詭弁であるように思われる。
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
⇒2011年4月27日 (水):またしても菅政権の強弁/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(18)

菅首相の場合はどうか?
「一定のメド」というような曖昧な言葉を使うのを、言質をとられないことの武器と考えているフシが窺える。
あえて、明晰でない言葉を使い、コミュニケーションに齟齬があると、自分はそういう意味で使ったのではない、と聞き手側の責任にする。
それは、たまたまそうだったということではなく、性癖なのだろう。
松本健一内閣官房参与との、東京電力福島第1原発の半径30キロ圏の避難・屋内退避区域について、「少なくとも10年間は居住が困難との認識を示した」という話について、首相が「私が言ったわけではない」と発言を否定したことなど、その典型であろう。
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)

演説や答弁を聞いていて、耳につく口ぐせは、「ある意味」と「まさに」の多用である。
これは、言葉というものを考える上で、まことに興味深い事例である。
言葉は有限である。それに対し、言葉で表そうという対象(すなわち森羅万象)は無限である。
したがって、1つの言葉が複数の事象に対応することは必然である。

例えば、われわれは「7色の虹」と言い、別に何の不思議も感じない。
しかし、可視光線のスペクトルは7分割されていつるわけではなく、連続している。
アナログの事象を、デジタル(離散的)である言葉で表現しようと思えばそういうことになる。
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虹は、例えば赤・黄・青の3つに分けられないこともなく、そうすれば3色だとも言える。
一方、黄色と緑色の中間には、いくらでも細分できる色がある。
どう細分化するかは、その人の表現欲求(能力・関心など)と、実用性・効率性などによって決まる。

あるいは、「やま:山」という言葉には、以下のような意味がある。

①起伏がいちじるしく、平地より高くそびえる土地。丘陵より高度や起伏が大きい。mountain。対義:川・野・海。-山に登る。
②山のような形に高く積んだもの。pile。滞貨物の-。
③物事の絶頂。climax。今が-だ。
④樹木の群生している所。山林。forest。-を持っている。
⑤鉱山。mine。-がさびれる。
⑥(鉱山経営は当たりはずれが多いことから)非常に確率の低い幸運への期待。まぐれ当たりをねらう予想。speculation。-が外れる。
⑦「やまぼこ」の略。
⑧比叡山。また延暦寺。対義:寺
講談社「日本語大辞典」(1989)

①を原義として、②以下が派生したと考えられよう。
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「やま:山」については、円の中心に①があり、その周りに、②~⑧が広がっている、と表わすことができるだろう。

また言葉は、生き物であるから、一応のルールはあるが、使う人によって変わりうる。
場合によっては、表面的な意味の他に、隠された意味もあるかも知れない。
特定の集団で使われる「隠語」などは、まさに隠されている意味を知っていることが重要であって、知らなければモグリということになる。
世代間でコミュニケーションギャップが生じるのは、こういった事情があるからだと思う。
Photo_12
例えば、「カワイイ」という言葉の使い方が、われわれの世代と若い娘達では違うような気がしていたが、男と女で定義が異なるのだ、という説明がされている。
なんで男女の「かわいい」の定義は違うの!?

さて、菅首相の口ぐせとも言うべき「ある意味」と「まさに」はどういうことになるであろうか。
「ある意味」というのは、意識しているか否かは別として、一般的に中心として考えられている意味とは異なる、ということを言っているように思う。
これに対し、「まさに」は、原義に近いことを主張するものであろう。
場合によっては、「ある意味」は、水面下に隠れている意味かも知れない。

「一定のメド」の例で分かるように、確信犯的に誤解を招くような言葉使いをするのが高度な技術だと考えているのであろうか。
梅棹忠夫の文章は、「まさに」正反対である。
菅首相の口ぐせには、意味の確定から逃げようとする姿勢が露呈しているように思う。
やはり、「ある意味」もしくは「まさに」ペテン師という言葉が当たってるのではないか。

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2011年7月 7日 (木)

原発迷走で、閣内不一致は明らか。海江田大臣は辞任すべき(かどうか)

菅首相が前言を翻した。
昨日の国会答弁で、「自分の退陣について、自分で言ったことはない」とした。
確かに民主党の代議士会の演説で、「自分にはお遍路の宿題もある。若い世代に引き継ぎたい」などと言って、退陣を匂わせはしたが、明言したわけではなかった。
しかし、多くの人が「退陣表明」だと理解したのも事実である。
民主党の反菅といわれる人のほとんどが反対票を投じたのも、各紙が号外まで出して報じたのも、退陣の意思表示だと理解したからであろう。
そして、現在民主党執行部でさえ、早く退陣すべし、と言っているのも、当然退陣は折り込み済みの合意事項だと考えているからであろう。

どこかの時点で退陣することは必然であり、ニュースにもならない。号外を出したのは、ごく近い将来に、ということの理解と同義であろう。
⇒2011年7月 2日 (土):国難の時に政府が機能不全という最大不幸
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結果的に、これらの号外は「世紀の大誤報」だったということになる。
しかし、これはやはり詐欺師の手口と言わざるを得ないだろう。
⇒2011年6月 8日 (水):菅首相は一流詐欺師(ビッグコンマン)たりえたか?

繰り返しになるが、詐欺師の手口とは以下のように定式化される。
⇒2009年5月 4日 (月):詐欺の第一段階としての錯覚誘導
⇒2009年5月 5日 (火):詐欺の第二段階としての瑕疵ある意思決定
⇒2009年5月 6日 (水):詐欺の第三段階としての財物の受け渡し

あるいは、首相は、「誤解をした者が悪い。私はそう言ったのではない」と言いたかったのかも知れない。
しかし、早期退陣という理解が錯覚だったにしても、大多数がそう錯覚するように誘導したのである。
したがって、昨日の国会で、石破茂氏が一事不再議の慣習に言及したが、私も、意思決定に瑕疵があり、その瑕疵が明らかに誘導された錯覚にある場合には、再議もあっていいのではないかと考える。
錯覚は本意ではなく、国会の議決は本意でなされるべきだと思うからである。

上の「沖縄タイムズ」紙記者(?)は次のように書いている。

参議院選挙に敗北し、統一地方選挙に敗北し、震災対応もままならず、原発事故では国中から批判を受け、遂に与野党ともに菅総理では国が持たないと提出された内閣不信任決議案に対し、それが可決されそうになるや与党民主党の議員に対し退陣を表明し、不信任案の否決を呼びかけ、あたかも辞任するかの如くの偽装を行い、造反議員に反対票を投じさせ、不信任決議案が否決されるや直後の会見で辞任には条件があると云い出し、それは復興目処だと云いだしたのである。
これまでの自民党政権時の議会制民主主義では、全く聞いた事がない、内閣総理大臣が退陣を偽装し、内閣不信任決議案を否決すると云う前代未聞の事態が起きたのだ。
小紙は、菅首相が退陣を表明し、それを受けて293人もの与党議員が反対票を投じた時点で、民主党が挙党一致になれると喜んだがヌカ喜びに過ぎなかった。
採決が行なわれた後に、岡田幹事長が鳩山前首相との会談は非公式なもので、辞任するとは云っていないと云いだしたのである。
つまり、鳩山前首相の錯誤であったと云うのだ。
即ち、自らが辞任するとの弁は、偽装に過ぎず、造反議員を錯誤させ、反対票を投じさせるためのものでしかなかった。
しかしながらさような国会の議決に関する事項に関し、当の国会議員を錯誤に陥らせ、誤った結論に導くようなことが許されて良いものだろうか。
是で小紙は確信した。
おそらく先の代表選でのサポーター票もペテンであろう。
いわくこの政党はペテンを行なうとんでもない政党であることが浮かび上がって来たのである。
つまり、政権維持のためなら、SPEEDIの情報も隠蔽するし、官邸の原発情報でさえ書き換える。
皆さん、さような退陣偽装を平気でやるような政党にもう政権を任せてはおけないだろう。

http://www.olive-x.com/news_30/newsdisp.php?n=109717

以前、耐震偽装が大問題になったが、タイシンならぬタイジン偽装は濁点が付いている分汚れもヒドイ、などと冗談を言っている場合ではない。
もう、この人の信憑性は限りなくゼロに近いが、昨日、原発に関し重大な政策変更を行った。
日経新聞の朝刊は、次のように報じている。

菅直人首相は6日、原子力発電所の再稼働や安全性確認に関する従来の政府方針を覆し、新たな原子力行政の制度や法案づくりに意欲を示した。退陣を表明した末期政権の首相が重要政策で新たな方向性を示し、これまでの見解を覆すのは例がない。原発が立地する自治体には戸惑いと不信が、与野党には「原発問題を長期化させて政権の延命を図る思惑か」との疑心暗鬼が広がった。

Photo_4 私も、原発にストレステストを実施することにまったく異論があるわけではない。
しかし、なぜ、いま、それを言い出すのか、である。
中電に浜岡の一時停止要請をした時に、わざわざ「浜岡は特別」などと言ったのか。
私は、浜岡の停止要請に賛成であるが、その根拠には疑問を感じる。
⇒2011年5月 7日 (土):唐突に浜岡原発の運転中止要請/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(23)

同じことであるが、ストレステストを実施すること自体に反対する人は少ないだろう。
しかし、左表にある通り、6月19日の段階では、ストレステストを行うことなど、まったく考えていなかったと思われる。
百歩譲って、考えを改めたのならば、それも結構なことだろう。
しかし、唐突に、思い付きで言われるのは如何かと思う。
玄海町の町長が「町を小バカにしている。熟考を重ねて下した私の同意判断は無駄だったことになる」と憤り、同意判断を白紙撤回したのももっともである。

要するに、判断過程が透明ではないのである。
したがって、場当たり的なその場しのぎのように受け止めざるを得ないのだ。
松本前復興相の暴言は自爆テロとの見方がある。
松本氏には福岡空港に関する利権話もあり、深読みし過ぎだと思うが、そうかも知れないという気にもなる。
海江田大臣はよく我慢していると思っていたら、先ほど「辞任を示唆」というTVニュースが流れた。
いよいよ、末期的症状である。

いまや細野氏は、すっかり菅親衛隊の如くである。
新風見鶏という、決して褒め言葉ではない呼び方をされているようだが、「国民がパニックになるから情報を出さなかった」という発言を忘れてはならないだろう。
パニックにならない代わりに、被曝してしまった、あるいは被曝してしまったかも知れないという不安にさいなまれる人々に対して、どう釈明するのか?

菅首相が、「脱原発」をシングルイシュ―に解散総選挙を行うとの観測もあるが、今や「脱原発」自体は、国民のコンセンサスというべきであり、イシュ―になり得ないのではないか。
それとも、そういうコンセンサスに至ったのは自分の手柄などと言うつもりなのだろうか。

一方、玄海原発再稼働に向けた佐賀県民への説明番組で、九州電力が原発賛成の「やらせメール」を出すよう指示していたということが明らかにされた。
政府や電力会社のような権力あるいは強者が偽装するとはどういうことであろうか?

インターネット上では放送があった先月26日以前から、やらせメールの存在が暴露されており、九電の姿勢を皮肉る複数の例文がネットユーザーらによって用意されていたことが分かった。
「明日の説明会で、九電がグループをあげて佐賀県民を装って発電再開容認のメールを送るよう業務命令が出されている」
6月25日、ツイッターなどで、こんな情報が出回った。参加の方法なども詳しく記されていたため、報道各社は九電側に事実関係を問い合わせたが、広報は真っ向否定。しかし、共産党の日刊機関紙「しんぶん赤旗」は7月2日付で「九電が“やらせ”メール」などと報じていた。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1107/07/news062.html

偽装国家は自民党政権の専売ということではないようである。
⇒2007年9月 2日 (日):偽装国家
自民党の場合は「やっぱり」という感じであったが、市民性をウリにしてきた菅氏は、より罪が深いというべきであろう。
権力の魔性とでもいうものであろうか。
しかし、政府の質は、国民の質の反映であることを思うならば、問われているのはわれわれでもあることを肝に銘じたい。

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2011年7月 6日 (水)

箱根美術館と強羅公園

3日の日曜日に、天気も良かったので箱根に出かけた。
箱根強羅公園で「あじさい祭り」をやっているのと、隣接する箱根美術館にかねてから行きたいと思っていたからである。
強羅公園は、箱根登山鉄道が経営している公園である。
四季折々に花が楽しめるが、今はバラとアジサイの季節だった。Rimg03782
園内には、斎藤茂吉の歌碑がある。

おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿に沈みぬ

母方の祖父がアララギに所属していたと聞いたことがあるが、私が生まれた時には既に他界していて、直接の記憶はない。
結構勾配がきつく、リハビリには格好の公園である。

箱根美術館は、熱海のMOA美術館の姉妹館である。
共に、世界救世教の創始者・岡田茂吉のコレクションを母体としている。

岡田茂吉は、元来無神論者だったが、不幸が続き、人間の力の儚さを感じ、色々な宗教の講話を聴いた。
1920年大本教に入信。大本教のお筆先にある「世直し思想」(キリスト教でいう「最後の審判」、仏教でいう「末法の世」)に心を打たれたことと、歯痛に悩んでいたが詰めていた消毒薬を取ったら歯痛がよくなったなどの経験に基づく「薬が病気の本ではないか」という自分の考えと、大本の薬毒の教えが一致していたことが入信の理由であった。
Wikipedia110522最終更新

1944年箱根強羅に疎開。1952年箱根美術館を開館した。
縄文時代から現代までの幅広い美術品の収蔵と美しい庭園が有名である。
特に、大きな壺類の収集が豊富だった。
丹波や越前など、窯を尋ねたことのある地を懐かしく思い出した。
Photo_2
Rimg03822
苔が敷き詰められた庭は見事だった。
緑色の多様性を感じたが、秋の紅葉の季節もきっと素晴らしいだろう。
その季節に再訪したいと思った。

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2011年7月 5日 (火)

官邸は誰の責任で情報を隠蔽したか?/原発事故の真相(4)

松本龍復興担当相が信じられないような失言(暴言?)によって、辞任に追い込まれた。

「一定のめど」での退陣を表明しながら閣僚人事に踏み切った菅直人首相が5日、東日本大震災対応の柱として起用した松本龍復興担当相の辞任に追い込まれた。1月まで官房長官として首相を支えた仙谷由人官房副長官には後任就任を固辞され、野党は首相の任命責任を追及して攻勢を強める構え。与野党が早期退陣圧力を強める孤立状態となった菅内閣は政権末期の色を日増しに濃くしている。
http://mainichi.jp/select/today/news/20110705k0000e010043000c.html

松本氏は部落解放運動で有名な松本治一郎氏の養孫であり、自身も部落解放同盟の副委員長を務めている。
菅内閣の中では期待できる人かと思っていたが、辞任はやむを得ないところだろう。
菅首相は、ますます末路を汚しつつあると思うが、それでもなお延命しようというのだろうか?

深読みすれば、自ら挙げた退陣の条件をクリヤーしないように、わざわざトラブルを起こすように仕向けているのではないか。
せっかく復興へ向かって本格的に動き出そうとかという歩みに、水を差すものであることは間違いない。

松本氏はともかく、震災の対応、特に福島の原発事故に関して、官邸の様子に不可解なことが多々ある。
当初から、情報開示が、恣意的というか隠蔽を窺わせるようなことばかりなのである。
⇒2011年5月 6日 (金):政府による情報の隠蔽と「見える化」/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(22)
⇒2011年5月26日 (木):情報を隠蔽していた(ウソをついていた)のは誰か?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(36)
⇒2011年5月27日 (金):情報の秘匿によりパニックは回避されたのか?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(37)

この問題について、フリー(記者クラブに所属しない)ジャーナリストの上杉隆氏は次のように言う。

記者クラブメディアがポスト菅の候補にあげる枝野幸男・官房長官だが、なぜいますぐ辞任すべき人物が次期首相なのか、はなはだ疑問である。彼は官房長官として、原発事故から3か月間、東電とともに「メルトダウンはしていない」「格納容器は健全に守られている」「放射能の外部放出はない」「放射能汚染水の海洋流失はない」などといい続けてきた。
それが、いまやどうだろう。1号機は3月11日午後8時頃にはメルトダウンしていた。それどころか、燃料が原子炉圧力容器の底に溶け落ち、容器に開いた穴から外側の格納容器に落下して堆積する「メルトスルー(溶融貫通)」まで起きていたのだ。事故から6日間の放射能放出は、4月に報告された数値の「倍以上」に訂正され、重いから飛ばないとされていたプルトニウムが原発敷地外から検出された。
結果として枝野氏は、東京電力とともに国民にウソをつき続けていたことになる。それだけではない。政府は情報を隠蔽することで、国民を重大な危険にさらしたのだ。
放射能拡散予測システム「SPEEDI」の結果などを公表しなかったことで、高放射線量を記録した飯舘村などの住民の被曝を招いた。また、半減期が長く、骨などに蓄積しやすい放射性物質ストロンチウム90の調査を怠り、最近になって原発から62キロ離れた地点から検出された。
さらに政府は、国際環境NGOグリーンピースからの海洋放射能汚染調査に関する協力要請を拒否していた。私はグリーンピースの調査をもとにした取材結果を『週刊文春』で発表したが、それがなければ国民は、海産物の放射能汚染の実態を知らされないままだったことになる。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110613-00000012-pseven-pol

枝野氏は、ポスト菅の有力候補とされている人である。
作為か不作為かは別として、枝野氏の記者会見の内容が、結果的に被害の拡大を招いた(正確に情報が発表されていれば、避難したかも知れない)ことになる。
何のためのSPEEDIなのか?

昨夜放映されたTV番組「たけしのTVタックル」において、この一端が、須田慎一郎氏によって解説されていた。
須田氏といえば、コワモテでいかにもウサンくさいように見えるが、経済誌の記者を経て、評論家として活動している人であり、取材力のある人だと思う。

私が特に関心を持って視聴したのは、ERSS(緊急時対策支援システム)とSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)の取り扱いである。
前者によって、官邸は11日の夜にはメルトダウン(定義については問題があるようであるが)の可能性を認識していたと思われる。
また、後者により、ベントを行った際の拡散予想図が、午前3時の気象状況と午後0時の気象状況により作成されていたという事実だ。
風向の関係で、午前3時の場合は海側に拡散し、午後0時の場合は内陸側に拡散することが予測されていた。

菅首相の原発視察は、12日早朝強行された。
⇒2011年3月14日 (月):現認する情報と俯瞰する情報
ベントを首相到着前に行うことは、東電の現場としては躊躇せざるを得ないだろう。
首相は、自分は与り知らぬことだというかも知れないが、少なくとも間接的には陸側に拡散する時間帯になる要因を作ったことは間違いない。

常識的には海側に拡散する時間帯に行うだろう。
番組中に、勝谷誠彦氏が「だから米原子力空母ジョージ・ワシントンが慌てて退避したのだ」と付言していたのは納得的である。
ベントの遅れにより被曝してしまった福島県内の人への償いは、誰の責任で行うのか?

ベントが遅れた原因の1つに首相の視察があったことは以前から指摘されていた。
⇒2011年3月30日 (水):原発事故に対する初動対応について
政府が情報を公開せず、自分たちだけが利用しているとしたら、これ以上の背信行為はないであろう。
政府ばかりではなく与党も、岡田幹事長が完全防護服を着用している時に、握手の相手方が平服であったという非対称性も疑いをもって見なければなないことになるだろう。
⇒2011年5月14日 (土):放射能汚染は、どこまで、どの程度?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(28)

天網恢恢疎にして漏らさず。
いまや被害を拡大した責任者、復興の阻害要因となっているのが誰かがはっきりしたと言えよう。
与党幹部も菅首相に対して厳しい発言をしているが、どういうケジメをつけることになるだろうか。

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2011年7月 4日 (月)

根岸英一博士の研究哲学/知的生産の方法(14)

日本の化学企業に就職しながら、フルブライト留学生として渡米し、大学の世界に転職してノーベル賞を受賞するに至る。
根岸英一博士は、履歴からしてかなり波乱万丈の生活を送られてきているようだ。
「現代化学」11年6月号に、『根岸英一博士の研究哲学』という記事が掲載されている。

根岸教授は、2010年のノーベル化学賞を、有機合成におけるパラジウム触媒を用いたクロスカップリング反応により受賞した。
⇒2010年10月 7日 (木):日本人研究者のノーベル化学賞を祝す
先ごろは、スーパーコンピュータの演算速度で世界一を奪還したというニュースがあった。

理化学研究所は21日、神戸市中央区の同研究所計算科学研究機構にある演算速度ランキング世界1位となった次世代スーパーコンピューター(スパコン)「京(けい)」を報道陣に公開した。平尾公彦機構長は「性能を生かしたシミュレーションで、防災研究や医療分野などで成果を上げていきたい」と話した。
京は理研と富士通が約1120億円かけて開発しており、来年6月の完成予定。毎秒1京(1兆の1万倍)回の計算速度を目指しており、今年4月から一部が稼働している。
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20110622ddlk28040381000c.html

蓮舫大臣に、「世界一でなければならない理由は何ですか?」と仕分けられそうになったが、科学者(特にノーベル賞受賞者)の強い反発と世論の後押しで、何とか免れた。
科学技術の研究は、震災後の日本においてますます重要であろうし、世界一を目指さないことには話にならないだろう。
民主党の底の浅さの一端である。

根岸博士がアジテートされたのが、ワトソンとクリックによるDNAの二重らせんモデルだという。
1962年のノーベル賞だが、根岸博士の渡米直後のことで、まだ教科書にも載っていなかったが、夢中で勉強したらしい。
二重らせんという形・構造について、論理的に頭の中で導き出したのがすごいと感じた。

「現代化学」11年6月号には、たまたま(?)岡田吉美『DNAの二重らせん構造モデルを考えたワトソン25歳とクリック37歳』という記事が載っている。
その中に、「DNAの二重らせんモデルについては、高校の生物でも勉強していると思いますから……」という記述がある。
半世紀近くの間に、高校生でも知っているべき知識になったということである。

根岸博士のアメリカでの研究は、バデュー大学のブラウン教授の下で始められた。
当時、ブラウン教授は、ホウ素の化学をやっていた。
ホウ素は周期律表で炭素のとなりに位置するが、まったく異なる性質である。

周期律表にはたくさんの元素が並んでいるが、有機化学では、水素、炭素、窒素、酸素、ハロゲン、硫黄、リン程度の元素しか使わない。
根岸博士がブラウン教授の下で研究を始めたころ、周期律表の大部分をしめる金属はほとんど使われていなかった。
使われていたのは、マグネシウム、リチウム、ナトリウムくらいであった。
根岸博士は、今まで使われていなかった金属を使って有機合成をしようと考えた。
周期律表のいろいろな元素を使おうという「元素戦略」のはしりである。

根岸博士は、ブラウン教授の影響として、exploration(探求)という言葉を挙げている。
未知の世界の探検家である。
ブラウン教授にとって、ホウ素が新大陸であったが、根岸博士にとっては、周期律表が新大陸であった。

根岸博士は、基礎的なことでも分からないことはたくさんある、という。
たとえば、触媒の多くがd-ブロック遷移元素であるが、なぜかということが最近分かってきたという。
そして、分かってみればそれは、福井謙一先生のフロンティア軌道理論そのものずばりだという。
日本人がこの分野で目覚ましい貢献をしていることが窺える。

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2011年7月 3日 (日)

長谷川櫂『震災歌集』/私撰アンソロジー(3)

長谷川櫂といえば、現在の俳人の中でも最もアクティブな人だろう。
その長谷川さんが、3月11日から12日間で1冊の歌集になる短歌を詠んだ。
震災歌集』中央公論新社(1104)である。
近くの本屋で見かけ、そのうちにと思っていたら、売り切れてしまった。Amazonに注文しておいたのが、今日届いた。
Photo_2

なぜ俳人が、短歌か?
誰もがそう思うだろう。
「はじめに」に次のようにある。

その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。私は俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか、理由はまだよくわからない。「やむにやまれぬ思い」というしかない。

本人が「まだよくわからない」と言っているのだから、他人がどうこう言っても始まらないが、そこには短歌と俳句の差異の本質が潜んでいるような気がする。
「まだ」ということは、長谷川さん自身がこれから考察を深めていこうということだろうから、楽しみに待つことにしよう。
素人的には、「五・七・五・<七・七>」と<七・七>だけ、感情移入の余地が広いような気がする。

実際に試みてみると、俳句の方がずっと難しい、というか「らしさ」を出すのが難しい、と思う。
短歌の方は何となくそれらしくまとめることができるが、俳句を俳句らしく作るのは大変である。
字数が少ないkら簡単だろうと錯覚しがちであるが。
日本人には短歌の形式が、大脳の旧皮質に浸みついているのではなかろうか。
⇒2010年4月25日 (日):「恐竜の脳」の話(1)最近の政局をめぐって

それにしても、記憶を定着させる作用は、口誦の良さにあり、それは「五・七・五・七・七」という定型にあることを、改めて感じさせられた。
引用した4首目は昨日(+一連)の、6首目は3月18日等の文章を、ワーディングや気分まで含めて三十一文字に集約してくれているような気がする。
⇒2011年7月 2日 (土):国難の時に政府が機能不全という最大不幸
⇒2011年3月18日 (金):菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ
⇒2011年4月16日 (土):節電の優先順位をつけられない蓮舫節電啓蒙大臣/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(8)
⇒2011年6月28日 (火):蓮舫大臣とは何だったのか

なお、「本書の印税は、東日本大震災で被災された方々への義援金として寄附されます」とのことである。

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2011年7月 2日 (土)

国難の時に政府が機能不全という最大不幸

不信任案を否決してから1カ月。
この間、菅首相がいつ辞めるのか、という不毛なイシューに振り回されている。
各紙が号外まで出して伝えた退陣表明。
Photo_2
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/245278

通常の理解力に立てば、不信任案可決という不名誉は避けたいから、自ら辞任するという意思決定をしたのだと思うだろう。
退陣を約束するということは、それほど時間を置かずに退陣すると考えるだろう。
それを一方的な思い込みだとして、自分で「一定のメド」がつくまでは、辞めないのだという。

子供たちの間で、「一定のメドがついたら」という言葉が流行っているそうである。
親:「早く宿題をやりなさい」
子供:「一定のメドがついたらね」
困ったものだ。

誤解が起きないように、いかにして曖昧な表現を避けるか。
ビジネスマンにとっては、もっともベーシックなスキルである。
それを逆手にとって、意識的に曖昧な表現を使う。
「こういう意味のハズだ」とお互いが譲らず、時間を浪費する。

「瑕疵ある意思決定」を故意に誘導したのだから、やはり詐欺の要件は満たしていると言えよう。
一流であるかどうかは別にしても。
⇒⇒2011年6月 8日 (水):菅首相は一流詐欺師(ビッグコンマン)たりえたか?
政権与党の執行部や一部閣僚すら嫌気がさしているらしい。
もはや政府は機能不全状態である。
Photo
http://sankei.jp.msn.com/politics/photos/110702/plc11070201110001-p3.htm

一時、  グーグル検索で「菅 有能」と入力すると、検索結果ページで「もしかして『菅 無能』」と出ることが話題になった。
「もしかして」の機能は、間違って入力したと思われる単語に対し、正しいと思われる単語を提示するものだから、「菅 無能」と検索する人が一定数いたことを示している。
Photo_3
http://www.j-cast.com/2011/04/12092887.html

毎日新聞に、「近聞遠見」という岩見隆夫氏のコラムがある。
6月25日は、『菅の「心境」を想像する』というタイトルが付いていた。

30年ほど前は、新聞の政治面に、折に触れ<心境モノ>と呼ばれる囲み記事があった。
政治記者の腕の見せ所であったが、ゴマスリになりがちなこともあって、消えてしまった。
「菅の心境ものを……」と言われたらどう書くか、という話題である。

岩見氏は、「菅は割合理解しやすい人物とみていたが、そうでもないことがわかってきた。複雑人間とも違う。」と書く。
菅にはトータル・イメージがなく、心境を推し量る因子が乏しいというのだ。
市民運動家であったことがウリかと思えば、「市民運動家と言われるのは好きでない」と国会答弁したりする。

場当たり、思いつき、思い込み、が菅批判の常套文句になっているが、<なぜこんなことになったのか>が自分でわからなくなっているようだ、と岩見氏は書く。
普通、その人の言った言葉は、心境理解の重要なキーである。
国会の会期延長を受けて、菅首相は「全力を挙げ、燃え尽きる覚悟で取り組んでいきたい」と最上級で決意表明した。
ところが、菅の言葉は、言葉が大仰なほど、表と中身のちがう浅薄さを感じて、心境理解に役立たないというのだ。

岩見氏は、首相の適格性は、私心をどこまで捨て切れるかに懸っている、という。
保身的心情を極力抑え、公に奉仕することができるか?
それができれば、「一定のめど……」などと退陣に条件をつけるはずがない。

岩見氏は、「実績が乏しい菅は、首相を辞め、一介の議員になることを恐れている。だから少しでも名が残るような仕事をしたい。それが保身、個人的野心である。」と結ぶ。
文脈からして、首相として適格性を欠いているということだろう。
もっとも、そんなことはずっと前から明らかなことではあるが。
この国難の時に、まさに最大不幸社会ではないだろうか?

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2011年7月 1日 (金)

日本人のルーツと旧石器遺跡捏造事件/やまとの謎(33)

日本列島には、いつ頃からヒトが住み始めたのか?
私たちは、中学生の頃、人類が下図のような進化を遂げてきたと学んだ。
Photo_4
果たして、日本列島には、旧人や原人がいたのだろうか?

明石原人という名前を聞いたことがあるが、標本の現物が戦禍で失われ、今では確認のしようがないらしい。
静岡県の三ヶ日というところから発掘された人骨を三ヶ日原人と称したこともあったが、縄文時代のものとされている。
そういう中で、東北旧石器文化研究所という民間団体が目覚ましい発掘成果を挙げているとされた。
しかし、2000年11月に、この研究所をの副所長による捏造事件が発覚したのだ。
Photo

当時、「神の手」などともてはやされていた発掘の名人芸の持ち主・藤村新一が、予め用意しておいた石器を埋めている姿を、写真・ビデオという動かぬ証拠で、捏造していることを毎日新聞が11月5日の朝刊でスクープしたのだ。
この報道は01年度日本新聞協会賞、菊池寛賞、第1回早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した。

事件は、一般人のこの学問に対する期待を根底から揺るがすものであると共に、日本人のルーツを探るというロマンに冷水を掛けるものであった。
1949年、アマチュア考古学者の相沢忠洋さんが、群馬県岩宿の切り通しの赤土層から、黒曜石で作られた鑓の穂先の形をした石器を発見して、日本の考古学は大きな画期を迎える。
日本で旧石器時代の存在が確認されたのだ。
旧石器と新石器は、打製すなわち石と石を打ちあわせて作るか、石と石とを摺り合わせて(磨いて)作るかによって区分される。旧石器は、さらに石器を木で作った柄に埋め込んで包丁のような使い方をするかどうかで、前期と後期に区分される。その境は、およそ3万年前だという。
相沢青年が発見した石器は、およそ2万年前のものであり、後期旧石器時代のものであった。
相沢青年の発見以降、多くの人が旧石器時代の研究にのめり込む。

しかし、石器は古い時代に遡れば遡るほど、加工の程度が低くなるから、人工的に作られたものか、自然のものなのかの判別が難しくなる。
そういう中で、藤村氏の活躍は目覚ましいものであった。

当時、講談社版『日本の歴史』が、「常識を覆す新しい日本像」の提示を目指すという触れ込みで、刊行が始まったばかりであった。
シリーズ第1巻の岡村道雄『縄文の生活誌/旧石器時代から縄文時代』の第1刷は、10月24日の日付がある。
同書から、藤村氏に関連する部分の記述を抜粋してみよう。

……当時会社員であった藤村新一氏の独壇場で、みんなで石器探しに出かけても第1発見者はほとんど彼であった。
……(座散乱木遺跡での第三次発掘調査の成果は)それまでの学界のかたくななまでの否定的な雰囲気をいっきょに払拭して、全国の研究者やマスコミに中期旧石器文化の存在を認知させた功績はきわめて大きい。
……彼が遺跡を探し求めて歩き回る範囲がそのまま、前期・中期旧石器文化が確認された範囲と同じであるのも、彼の業績のすごさを証明している。
……休日を迎えた彼が、やおら遅れて黙々と堀はじめる。すると発掘現場に緊張感が走り、やがて発見の勝ち鬨が上がってあたりが途端に活気づく。

最も権威ある人が、このような「絶賛」の文章を書いていた。
藤村氏が「神の手」ともてはやされていたことは、一般読者には十分に納得のできることのように思える。
思い込みが人の判断力を狂わせるのであろうか。
岡村氏は、全面的改訂を余儀なくされ、2002年11月10日の日付の改訂版が出版された。
藤村氏の捏造の動機および多くの専門家が捏造を見抜けなかったことは、旧石器研究に残された謎であろう。

それでは、現時点では日本最古の遺跡はどこまで遡るとされているのだろうか?
鳥取県出雲市の砂原遺跡らしい。
Photo_2
http://haku1414.blog44.fc2.com/blog-entry-135.html

日本最古とみられる約12万年前の旧石器が出土した島根県出雲市の砂原遺跡について、同遺跡学術発掘調査団の団長で、同志社大の松藤和人教授は23日、都内で開かれた日本考古学協会総会で「国内最古級の石器であることには変わりないが、年代は約12万年前から7万年前までの可能性が出てきた」と発表した。
松藤教授によると、12万7千年前ごろにできた地層の上に石器が出土した地層があり、その層のすぐ上にあった火山灰層は、昨年の記者会見では三瓶木次層(約11万年前)と発表していたが、分析の結果、三瓶雲南層(約7万年前)と判明したという。

http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010052301000347.html

捏造はとんでもない所業だが、“起源”についての興味は尽きない。

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