沼津における津波の歴史
私は、2004年のスマトラ沖地震を映像的には知っていた。
東海地震の想定被災地域に居住する者として、地震と津波には一定の関心を持っていたつもりであった。
しかし、あんな巨大な地震と津波が、私が生きている間に、日本列島を襲うことは想像すらし得なかった。
もちろん、例えば2005年1月1日時点で、特に危険だとされる地震として、以下のような表がある。
http://jisinbousai.net/?mode=f5
菅首相が、東海地震の発生確率を30年以内に87%として浜岡の運転中止要請をした根拠も上記数値である。
2005年から6年経っているから、84%が87%に上昇した。
宮城県沖は、2033年までに99%(実質的に100%)で地震が起こると予測されていた。
しかも三陸地方は、歴史的に大きな津波災害を受けてきた経験がある。
したがって、さまざまな対策がとられてきたのである。
にもかかわらず、あのような激甚な災害が起きてしまった。
被災地域に住んでいない私でさえ、心が萎える思いである。
もちろん明日にも東海地震が発生するかも知れないので、他人事ではない。
そして東海地震だけではない。日本国中安心・安全な地域はないといえよう。
防災の難しさをいまさらながら思う。
5月27日の静岡新聞に、良く知っている地域の写真が載っていた。
狩野川は伊豆半島を北へ(!)流れて、沼津で左折し駿河湾に注いでいる。
河口に接する沼津港は、水産業の基地としてだけでなく、観光地としての整備が行われている。
フィッシャーマンズワーフのような施設や多くの飲食店があって、休日などは域外からの入込客で結構な賑わいを見せていた。
しかし、3月11日以降は、港ということで、観光客は激減したそうだ。
狩野川を挟んで沼津港の反対側に旧御用邸がある。
現在は、沼津振興公社の管理下にある公園となっている。写真の下端部右側である。
写真で青く網がかかっているのが安政東海地震の津波による浸水域である。
旧制沼津中学出身の井上靖は、自身の中学時代の体験をベースに『夏草冬涛』を書いた。
その文学碑のある妙覚寺は、写真の左上の狩野川右岸である。
「香貫・我入道・みなとまち」とある部分のほとんどが津波の浸水域であった。
明治史料館所蔵の絵図では、「田地変じて湖水となる」と説明書きがあるという。
狩野川の河口から3.5kmの地点まで、1.8mの水位の海水が遡上したと記録されている。
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