孤立無援の思想
党執行部まで敵に回した感のある菅首相は、まさに孤立無援の思想を実践しているかのようである。
「敵は幾万ありとても……」
普通なら、男らしい、かっこいい見せ場のはずだ。
しかし、なんとも未練がましく、見るに耐えないシーンではなかろうか。
「孤立無援の思想」といえば、一定の年齢以上の人ならば、高橋和巳のことを反射的に思い浮かべるだろう。
ある意味で、全共闘以上に全共闘らしかった。
『わが解体』という著書を残して、文字通り「断腸の思い」でこの世から去ってしまった。
高橋和巳は1931年8月生まれだから、母校の京都大学文学部に助教授として迎えられた1967年6月時点では35歳だったことになる。
赴任直後の10月8日、佐藤栄作首相のベトナム訪問反対闘争で、京都大学文学部一回生の山崎博昭が、弁天橋における機動隊との激突の中で死亡する。
山崎博昭の死は、60年安保が引き潮のように引いた後、四分五裂して低迷を続けていた学生運動を覚醒させることになった。
各大学それぞれ固有の課題を抱えていたが、学生運動は全般的に燻るような状況で、はっきりとした火の手は上がっていなかった。
全国の大学を席巻したいわゆる全共闘運動は、たとえば日大においては、68年5月に税務当局による大学の使途不明金の発覚をきっかけとするものだろう。
しかし、「燎原の火」のように燃え広がったのは、18歳の彼の死を導火線としているとしていいのではないか。
高橋和巳は、全共闘運動の中心となった団塊世代(1947~49年生まれ)から見れば、オッサンと言わざるを得ない。
全共闘運動の象徴的存在である東大全共闘議長の山本義隆でさえ、1941年生まれだから、高橋よりも10歳も若い。
ちなみに、『マイ・バック・ページ』の背景となった陸上自衛隊朝霞駐屯地における自衛隊員殺害事件の黒幕とされた滝田修こと竹本信弘は、1940年生まれである。
⇒2011年6月 6日 (月):『マイ・バック・ページ』
高橋は、そのような歳の差にかかわらず、全共闘側に立った数少ない教師であった。
彼が「全エッセイ集」と銘打った『孤立無援の思想』を河出書房新社より刊行したのは、1966年のことだから、京大文学部助教授に迎えられる前年である。
孤立無援-正しいと信ずるところの自分の心に従う。
後に全共闘の遺した代表的な言葉、「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」は、まさに高橋の言葉の援用であろう。
高橋は、心情的に全共闘側に立ったが、学生側からはどう見られていたか。
『わが解体』の中に、1969年3月18日の日付のある「清官教授を駁す」というアジビラのことが記されている。
清は、濁の反対語である。
高橋和巳は、紛れもなく清たらんとした官(国立大学教官)である。
そして、ビラは糾弾する。「彼らの“清”をふりまき、“官”にしがみつく思想の頽廃形式を。」
つまり、清官が流す害毒は、濁官の流すよりもはなはだしい。
高橋にはこたえる文章だった。
それほどまでに生真面目に考えることもなかろうに、と現在からは考える。
しかし、当時の雰囲気は必ずしもそうではなかった。
高橋は、寝酒を飲んで神経を麻痺させようとした。
私にも覚えがある。どうしようもない袋小路に入ってしまった時、ただ眠るために、より強い酒を求めて呷る。
肝臓が弱った時の深酒は、飲んだ直後には悪反応はなくとも、明け方の嘔吐となって、不摂生の報いをあらわす。ちょうどそのように、酒で感情を抑えて仮睡した私は、時刻定かでない明るみのもとでふと目覚め、そして不意に嘔吐するように嗚咽した。
『わが解体』河出書房新社(7103)
高橋は、2年後の1971年5月に、すなわち『わが解体』の刊行直後に、結腸癌で亡くなった。
「清官教授を駁す」という思想があり得ることは認めるとしても、それが彼の寿命を縮めることまでをもビラの作成者は想定していただろうか。
高橋和巳が係った雑誌「人間として」は、技術の問題や文明の問題を主要なテーマとしていたような記憶がある。
40年後の現在、原発事故を直接のきっかけとしてふたたび文明や技術が問い直されている。
われわれは、40年間何をしていたのか?
菅首相は、今日内閣改造を行った。
驚くべきは、自民党の浜田和幸氏を、離党のうえ総務政務官に起用したことである。
与謝野馨氏と同様の手法である。
⇒2011年1月13日 (木):与謝野氏が政府に入って、いったい日本の何が変わるのか?
⇒2011年1月14日 (金):再改造菅内閣への違和感
自民党はもちろん、民主党の側にも納得しがたい思いがあるようである。
敵をことさらに増やすことが菅首相のエネルギー源になってもいるようだが、それは「孤立無援の思想」とはまったく縁のない、己の延命を願うものではないのか。
今回の人事で、復旧・復興が滞ることがないように願う。
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コメント
大学の学祭で古書市をしたとき、その中にこの「孤立無援の思想」を見つけました。恥ずかしながらこの時が高橋和巳との初めての出会いでした。
高橋和巳が一世を風靡したころからみれば10年以上遅れてきた世代の私のことですから、その時代の空気というものは今一つわかりませんが、この書物に触れることによって、一気に彼の世界に引き込まれてしまったことは確かです。いくつかの評論集、いくつかの小説・・・むさぼるように読みふけったものです。
そして・・・この作家が私を引き付けたものは・・・
・・・それが、首相が持ち合わせているものなのかどうか・・・まあ、期待はできない・・・のですかね?
投稿: 三友亭主人 | 2011年6月28日 (火) 22時44分
三友亭主人様
今日は。
私は、大学に入って間もなくだったと思いますが、河出書房のペーパーバックのような体裁の『悲の器』を読んだのが最初です。ずい分思弁的な小説だなと思いつつ、どんどん引き込まれてしまいました。
しかし、『憂鬱なる党派』は、まだこんなに残っているという感じだったような記憶があります。
彼の場合は、もともと寂しがり屋のくせに孤高を愛するという風があって、それが一種の美学だったと思います。
菅さんは、いまや仲間と敵対してでも延命し抜くという感じで、美学的な要素は皆無ではないでしょうか。政治家に美学が必要かということもありますが、日本人には受け入れられないのではないでしょうか。
投稿: 夢幻亭 | 2011年6月29日 (水) 14時34分