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2011年6月

2011年6月30日 (木)

黒曜石の産地と利用地/やまとの謎(32)

小学生の頃、近所の山麓の畑地などで、石の鏃を拾って遊んだ記憶がある。
今にして思えば、黒曜石製のものも混じっていたような気がする。
そういう経験からして、黒曜石というのは、どちらかといえば普遍的な材料だろうと思っていた。
ところがそうでもないらしい。
Wikipedia110627最終更新には次のようにある。

黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られているが、良質な産地はさらに限られている。

その限られた産地と、利用地がかなり離れている。
八ヶ岳山麓に、旧石器遺跡群がある。
Photo
図の中央部分左寄り部分に矢出川遺跡がある。
この遺跡から黒曜石石器が出土している。

矢出川遺跡から出土した黒曜石細石刃石核を蛍光X線による産地分析をした結果、写真の5点が、はるか太平洋上に浮かぶ伊豆7島のひとつ神津島産の黒曜石でできていることが判明しました。この地域で八ヶ岳や和田峠の近場の黒曜石を利用していることはわかります。しかしなぜ、200kmもの距離をおいて、野辺山の地まで神津島の黒曜石が運ばれたのでしょう。当時は氷河期で100m以上の海面低下が起きていたとしても、神津島と本土は陸続きにはならず、舟でなくては渡れません。ここに最大のミステリーがあります。私たちの想像以上に,発達した社会的関係を旧石器人はもっていたのでしょうか。
黒曜石の謎

神津島産の黒曜石というのは、限られた産地の中でも極上のいわばブランド品だったらしい。

日本において黒曜石の産地同定研究が開始されて間もない一九七四年、産地同定研究のフロンティアである鈴木正男博士は、神奈川県月見野遺跡のおよそ二万年前の旧石器時代文化層から発掘された黒曜石が、海上を渡って神津島からもたらされたものであるとの産地同定結果をいち早く表明した。これは当時、人類最初の海洋交易といわれた九千年前の地中海の事例を倍近く遡らせる重大な問題提起でもあった。
・・・・・・
さらに神津島から二〇〇キロメートルの距離を隔てた内陸部の山梨県横針前久保遺跡からも、後期旧石器時代初頭の局部磨製石斧に伴って、神津島産の黒曜石が確認されている。
海を渡った黒曜石

旧石器時代の舟といえば、せいぜい丸木舟であろう。
それで果たして大洋を航海できるのだろうか?
神津島産の黒曜石の利用地の分布は下図のようである。
Photo_2
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_09_1kokuyouseki_umi.html

伊豆半島 や静岡・神奈川県などはともかく、能登半島にまで広がっている。
陸路で運んだのか? それとも本州を迂回して海路で運んだのか?
フォッサマグナ=暘谷説の米田良三さんは、自説のエビデンスの1つに黒曜石の利用地の分布を挙げている。
たしかに、フォッサマグナが海峡であったならば、八ヶ岳山麓にでもあるいは能登半島へでも、運搬はさほど困難とは言えない。
⇒2011年4月23日 (土):暘谷(フォッサマグナ)論/やまとの謎(30)

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2011年6月29日 (水)

東電株主総会と民主党両院議員総会

昨日は、東電等の電力会社の株主総会が開催されると共に、民主党の議員総会が開催された。
変革への芽あるいは胎動は微かに感じられたものの、現状が維持されることになったといえよう。

東京電力福島第1原発事故後、初めてとなる東電の株主総会が28日、東京都内のホテルで開かれ、過去最多の9309人の株主が出席、所要時間も過去最長の6時間9分に及んだ。株主からは、経営責任や事故を起こした場合に事業者が無限責任を問われる原発保有の是非を問う厳しい意見が続出した。株主402人が「原発撤退」を求める株主提案を行ったが、賛成は株主(議決権ベース)の約8%、反対が約89%(棄権や無効などが約3%)で、反対多数で否決された。一方、清水正孝社長(67)の引責辞任に伴い、西沢俊夫常務(60)を社長に昇格させるなど取締役17人と監査役2人の選任議案を可決した。勝俣恒久会長(71)は続投する。
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110629k0000m020128000c.html?toprank=onehour

原発撤退の株主提案は、大株主の委任状等による反対多数で否決されたが、福島第1原発事故で市内の一部が警戒区域に指定されている福島県南相馬市と同県白河市も賛成したことは、東電としても重く受け止めるべきであろう。
それにしても、南相馬市の市長は、総理大臣にしたいような、毅然とした判断を示す人である。

大株主が安定株主として経営陣に判断を委任している以上、原発撤退案が可決されるべくもなかった。
結果が決まっているという意味では、セレモニーに過ぎなかったとも言える。
しかし、多くの個人株主が賛成に手を挙げたことは、今後の動向を判断する1つの材料だと考える。
そもそもエネルギー問題は、一私企業の問題ではない。株主の判断に委ねるだけで済む問題ではないだろう。
まして1人の政治家の恣意的な判断だけでコトを進めるのは余りに乱暴にすぎる。

民主党の議員総会では、以下のような発言があった。

 階猛氏(衆院岩手1区) 菅直人首相がある会合で「私の顔を見たくないなら早く再生可能エネルギー促進法案を通せ」と発言した。国会を冒涜(ぼうとく)している。
 
橘秀徳氏(衆院神奈川13区) 自民党の浜田和幸参院議員(参院鳥取)の政務官就任をどう説明するのか。「一本釣り」したことで自民党は聞く耳を持たなくなるのではないか。
 川上義博氏(参院鳥取) メダカみたいな人の一本釣りだ。地元議員に何の説明もない。執行部は配慮、気配りがない。野党は一層硬化した。政局をつくったのは誰か。
 
岡田克也幹事長 (浜田氏起用について)十分説明を聞いていないという思い、申し訳なかった。幹事長の責任でしっかりと自民、公明両党と話し合いを始めている。早期に国会を正常化したい。
 
安住淳国対委員長 (階氏の発言に対し)自民、公明両党も「私の顔を見たくない」という態度で、(国会が)進行しづらい状況なのは事実だ。
 
瑞慶覧長敏氏(衆院沖縄4区) 執行部に提案がある。新代表を速やかに選んでいく作業を示していただきたい。
 
原口一博氏(衆院佐賀1区) (先の内閣不信任決議案採決に際し、首相の)「辞める」という言葉を信じて矛を収めた。責任を取ってこそ政治に信頼が取り戻せる。
 
阪口直人氏(衆院和歌山2区) (首相が)国会、法案を私物化することはできない。小学生が宿題をしない理由として「一定のめどが付けば」と言っている。いつ退陣するかは明確に分からなかった。若い世代にどうバトンタッチするのか。もっと分かりやすい言葉で語ってほしい。
 広野允士氏(参院比例) 全て首相をはじめとするやり方がまずい。8月末までの延長国会で、新代表、首相を選んで、秋の臨時国会に臨むことが大事だ。
 
菊池長右エ門氏(衆院比例東北) 被災地は(政府の震災対応の遅れで)最大不幸社会になっている。首相は(辞任し)一日も早く四国巡礼の旅にたつように意志を固めてほしい。
 
橋本勉氏(衆院比例東海) 首相は「(衆院の)解散」を考えているのではないか。唐突に選挙をされないように、ぜひ執行部にもお願いしたい。
 
川内博史氏(衆院鹿児島1区) 首相の発言が全く信用されない状況を憂えている。辞めるのか、辞めないのか全然分からない状況で、被災者、国民、党執行部さえも裏切り続けている。代表選の準備を可及的速やかにし、新代表を選び、新しい体制をつくらなければ大変なことになる。
 岡田幹事長 首相は(退陣条件の)一定のめどの中身三つを明確に言われた。その三つが満たされた時はバトンタッチするのは明確だ。解散などあるはずがない。これだけ多くの被災者の皆さんを抱え、解散・総選挙をしている時間はない。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011062800951

首相批判が圧倒的であり、擁護論は皆無である。
これだけ見れば、首相が信任されているとはとても言えないだろう。不信任の反対語は単純に信任ではないのである。
しかし、政治的な手練手管では菅首相の方が役者が上だったようである。
なにしろ、地盤、看板、カバンの3バンなくして総理になったのだから、したたかである。二世議員など赤子を扱うようなものかも知れない。

首相は第2次補正予算と再生エネルギー特措法案、特例公債法案をいずれも成立させることが、退陣に向けた「一つのめど」となる考えを重ねて示し、これらの実現に協力を求めた。
加えて、原子力エネルギー政策について「時間が許される中で、新たな方向性を目指すところまでやらせてほしい」と語り、その方向付けが「次期衆院選の最大の争点」と強調した。「脱原発」路線の是非を問う解散・総選挙を視野に入れる構えを所属議員にじかに示したともいえる。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110629/stt11062903160000-n1.htm

退陣に向けてのハードルを次々に置き、「顔を見たくないのなら、ハードルを越えろ」と迫る。
「脱原発」路線の是非は、いずれ国政の争点として問われなければならないイシューではあると思うが、現下の状況で、それを争点として、解散・総選挙などあってはならないだろう。
その前に、事故を収束させ、復興への歩みをダイナミックに進めることが喫緊の課題である。
菅首相は四面楚歌といった状況の中で、すっかり市民運動家モードに入って高揚しているようだが、それは首相退陣後にすべきであることは言うまでもない。

出席議員からは、途中退席する首相に向かって「逃げるのか!」などの厳しい声も飛んだが、結局退陣を迫るには至らなかった。
首相の居座りを許したままでいることは、「人災もしくは菅災」の共同正犯となっていることを意味する。
党代表の座を降ろせるのは、さしあたって民主党の議員しかいないのだから。

したがって、声高に首相批判をしてみても、いかに発言が厳しくても、民主党の議員にとって政権与党であり続けることが第一、というのがホンネということだろう。
それは、菅-鳩山の「確認事項」に如実に現れている。
⇒2011年6月 8日 (水):菅首相は一流詐欺師(ビッグコンマン)たりえたか?

しかし、このままでは次の総選挙で民主党が惨敗するのは火を見るよりも明らかである。
昨年の菅首相の下での参院選が、拡大再生産されることになるのではなかろうか。

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2011年6月28日 (火)

蓮舫大臣とは何だったのか

昨日の閣僚人事の目玉は、原発事故担当相への細野豪志氏の起用である。
首相が原発担当相を新設し、細野氏を任命しようという構想が伝えられたのは4月中旬のことだった。
しかし、こともあろうか、その腹案を公明党の斎藤鉄夫幹事長に電話で相談しようとしたことが明るみに出て、結局引っ込めざるを得なかったという経緯がある。
⇒2011年4月14日 (木):本当に精神異常?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(6)

その念願がやっと適ったわけであるが、条件付きとはいえ退陣表明をする中で、閣僚人事に手をつけたことは、民主党執行部も「意図不明」という感じである。
不信任案否決から約1ヵ月。自らの退陣の条件について、「一定のメド」という曖昧な表現で言質を与えなかった積もりだろうが、公衆注視のもとに無為の時間が徒過した。
マスコミはこぞって、不信任案提出などという「政治空白」を許す状況ではないとしていたが、今や空白を作っているのが誰かは、明々白々と言えよう。

この閣僚人事のあおりで(内閣法の閣僚枠を使い切っているため)、蓮舫行政刷新相を退任させることになった。
蓮舫氏は行政刷新担当の首相補佐官に就き、節電啓発などの担当は細野氏が引き継ぎ、中長期の原発事故対策を担当していた馬淵澄夫氏は補佐官を退任し、行刷相は枝野長官が兼ねることになった。

退任した蓮舫氏の政歴はWikipedia110627最終更新よりピックアップすれば、以下の通りである。

2009年10月21日、内閣府が設置した事業仕分けワーキンググループの一つである、農林水産省・文部科学省・防衛省担当の「仕分け人」となった。
2010年6月8日に発足した
菅内閣において、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)に就任。
2010年9月17日に発足した
菅改造内閣では引き続き内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)に留任。
2011年1月発足の菅第2次改造内閣では、内閣府特命担当大臣((消費者及び食品安全行政刷新担当、節電啓発担当)に留任。

こうして見ると、大臣就任以前の「仕分け人」としての活動ぶりに比べ、大臣としての実績には首を傾げざるを得ない。
特に、この夏の電力供給が危ぶまれている中で、節電啓発担当としては如何なものとせざるを得ないだろう。
⇒2011年4月16日 (土):節電の優先順位をつけられない蓮舫節電啓蒙大臣/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(8)
何のための任命だったか、任命責任を問うべきところではないか。

しかし、そもそも、「仕分け」の時から、蓮舫氏の姿勢には問題があった。
仕分けの総仕上げと言われた3月6日~7日に行われた「規制仕分け」においてである。
通産省OBで、渡辺喜美元行革大臣の補佐官を務めた原英史氏は、検討対象とするテーマの設定そのものに問題ありとした。
Photo_4 
原英史氏の「SAPIO110420」掲載記事

要するに、取り上げたテーマに必然性が感じられず、本質的なテーマは放置されたままだ、ということである。
年金の「第三号被保険者」の処理(専業主婦の切り替えをめぐるトラブル)を、厚労省が課長通達で行われようとして問題になったのと同じような構図といえよう。

原氏によれば、「医薬品のインターネット販売規制をめぐって、「インターネットでの販売が拡大すると、地方の薬局がつぶれる」という規制擁護論が、平野達男規制改革担当副大臣から出た。
規制をどうするかの判断は、建前としては安全性の担保ということにあるが、本音は業界の既得権を擁護するところにあることが露呈したわけである。

民主党の行革は、掛け声は勇ましかったが、国家公務員制度改革推進本部事務局の審議官・古賀茂明氏が、官僚の利権に切り込む大胆な改革案を作り上げると、民主党政権が誕生した2009年9月のわずか3ヶ月後に、仙谷由人行政刷新相によって更迭された。
さらに2010年秋には、参考人として呼ばれた参議院予算委員会で、仙谷官房長官から、公務員制度改革について発言することは、著者の将来のためにならないという「恫喝」を受けたということで明らかである。
蓮舫大臣が業績を上げる余地など、もともと無かったというべきかも知れない。
人寄せパンダは用済みということだろう。

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2011年6月27日 (月)

孤立無援の思想

党執行部まで敵に回した感のある菅首相は、まさに孤立無援の思想を実践しているかのようである。
「敵は幾万ありとても……」
普通なら、男らしい、かっこいい見せ場のはずだ。
しかし、なんとも未練がましく、見るに耐えないシーンではなかろうか。

「孤立無援の思想」といえば、一定の年齢以上の人ならば、高橋和巳のことを反射的に思い浮かべるだろう。
ある意味で、全共闘以上に全共闘らしかった。
わが解体』という著書を残して、文字通り「断腸の思い」でこの世から去ってしまった。

高橋和巳は1931年8月生まれだから、母校の京都大学文学部に助教授として迎えられた1967年6月時点では35歳だったことになる。
赴任直後の10月8日、佐藤栄作首相のベトナム訪問反対闘争で、京都大学文学部一回生の山崎博昭が、弁天橋における機動隊との激突の中で死亡する。
山崎博昭の死は、60年安保が引き潮のように引いた後、四分五裂して低迷を続けていた学生運動を覚醒させることになった。

各大学それぞれ固有の課題を抱えていたが、学生運動は全般的に燻るような状況で、はっきりとした火の手は上がっていなかった。
全国の大学を席巻したいわゆる全共闘運動は、たとえば日大においては、68年5月に税務当局による大学の使途不明金の発覚をきっかけとするものだろう。
しかし、「燎原の火」のように燃え広がったのは、18歳の彼の死を導火線としているとしていいのではないか。

高橋和巳は、全共闘運動の中心となった団塊世代(1947~49年生まれ)から見れば、オッサンと言わざるを得ない。
全共闘運動の象徴的存在である東大全共闘議長の山本義隆でさえ、1941年生まれだから、高橋よりも10歳も若い。
ちなみに、『マイ・バック・ページ』の背景となった陸上自衛隊朝霞駐屯地における自衛隊員殺害事件の黒幕とされた滝田修こと竹本信弘は、1940年生まれである。
⇒2011年6月 6日 (月):『マイ・バック・ページ』

高橋は、そのような歳の差にかかわらず、全共闘側に立った数少ない教師であった。
彼が「全エッセイ集」と銘打った『孤立無援の思想』を河出書房新社より刊行したのは、1966年のことだから、京大文学部助教授に迎えられる前年である。
孤立無援-正しいと信ずるところの自分の心に従う。
後に全共闘の遺した代表的な言葉、「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」は、まさに高橋の言葉の援用であろう。

高橋は、心情的に全共闘側に立ったが、学生側からはどう見られていたか。
わが解体』の中に、1969年3月18日の日付のある「清官教授を駁す」というアジビラのことが記されている。
清は、濁の反対語である。
高橋和巳は、紛れもなく清たらんとした官(国立大学教官)である。
そして、ビラは糾弾する。「彼らの“清”をふりまき、“官”にしがみつく思想の頽廃形式を。」
つまり、清官が流す害毒は、濁官の流すよりもはなはだしい。

高橋にはこたえる文章だった。
それほどまでに生真面目に考えることもなかろうに、と現在からは考える。
しかし、当時の雰囲気は必ずしもそうではなかった。
高橋は、寝酒を飲んで神経を麻痺させようとした。
私にも覚えがある。どうしようもない袋小路に入ってしまった時、ただ眠るために、より強い酒を求めて呷る。

肝臓が弱った時の深酒は、飲んだ直後には悪反応はなくとも、明け方の嘔吐となって、不摂生の報いをあらわす。ちょうどそのように、酒で感情を抑えて仮睡した私は、時刻定かでない明るみのもとでふと目覚め、そして不意に嘔吐するように嗚咽した。
わが解体』河出書房新社(7103)

高橋は、2年後の1971年5月に、すなわち『わが解体』の刊行直後に、結腸癌で亡くなった。
「清官教授を駁す」という思想があり得ることは認めるとしても、それが彼の寿命を縮めることまでをもビラの作成者は想定していただろうか。
高橋和巳が係った雑誌「人間として」は、技術の問題や文明の問題を主要なテーマとしていたような記憶がある。
40年後の現在、原発事故を直接のきっかけとしてふたたび文明や技術が問い直されている。
われわれは、40年間何をしていたのか?

菅首相は、今日内閣改造を行った。
驚くべきは、自民党の浜田和幸氏を、離党のうえ総務政務官に起用したことである。
与謝野馨氏と同様の手法である。
⇒2011年1月13日 (木):与謝野氏が政府に入って、いったい日本の何が変わるのか?
⇒2011年1月14日 (金):再改造菅内閣への違和感

自民党はもちろん、民主党の側にも納得しがたい思いがあるようである。
敵をことさらに増やすことが菅首相のエネルギー源になってもいるようだが、それは「孤立無援の思想」とはまったく縁のない、己の延命を願うものではないのか。
今回の人事で、復旧・復興が滞ることがないように願う。

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2011年6月26日 (日)

沼津は黒曜石研究のセンター

6月24日の静岡新聞夕刊に、沼津市の池谷さんが、日本考古学協会大賞を受賞したというニュースが載っていた。
Photo
黒曜石が、石器の重要な原料であるというのは、漠然とではあるが知っていた。
同紙の解説によれば、黒曜石とは以下のようなものである。

黒曜石 ガラス成分を含む火山岩。旧石器、縄文時代に狩猟や調理などに使われる生活必需品だった。全国に80カ所の「産地」があり、成分の分析で特定できる。沼津市の愛鷹山麓の遺跡からは、箱根、信州、神津島、天城のものが多数出土している。近場の天城は産地としての規模が小さかったため、他産地から黒曜石を入手しなければならなかった地域事情が、愛鷹山麓で黒曜石が多様化した一因とみられている。

池谷さんの受賞の業績を記事から辿ってみよう。

遺跡の出土品の一部という位置付けにすぎなかった黒曜石に価値を見いだして18年。常識を覆す「全点分析」の手法で黒曜石考古学を一分野として確立した。
遺跡1カ所につき数十点の分析が通常だった「常識」に反し、沼津市足高尾上の土手上遺跡から出土した900点もの黒曜石の分析を研究者の望月明彦沼津高専教授(当時)に依頼した。
分布図を作ったところ、「神津島」「信州」「天城」など産地ごとの固まりが幾つかできた。
池谷さんは、「獲物をめぐる緊張関係を避ける場を設けるため、複数の集団が一時的に集まっていたのでは」と見立てた。
池谷さんは分析機を自費で購入。出土する黒曜石全てを分析し、産地から遺跡に残るまでの流れと、各地の状況を考察した。取り組みが注目度を高めるにつれて国内全体の分析量も大幅に増えるなど、考古学界に与えた影響は大きく、今回の受賞につながった。

上記記事中沼津高専の望月研究室は、黒曜石研究センターである。
同研究室の紹介をサイトから引用する。

私たちの研究室は静岡県沼津市大岡3600沼津工業高等専門学校(沼津高専) 物質工学科にあります。北には富士山、南には駿河湾を望み、東と南東には黒曜石産地である箱根山、伊豆半島があります。本校と富士山の間にある愛鷹山の南麓から箱根西麓にかけて、12,000B.P.から30、000B.P.の旧石器時代の遺跡が数多く分布します。
この地域一帯は富士山の火山灰が厚く堆積して、層位的な研究がしやすい地域でもあり、また、遺跡からは近隣の伊豆箱根の産地だけでなく、遠くは信州、神津島、高原山などの産地からの黒曜石も出土していて、交易などの研究にも適した地域といえます。
私たちの研究室ではこのような考古学的な情報を得るために、遺跡から出土する黒曜石の産地推定を主な研究テーマとしています。

池谷さんの受賞研究には、このような背景があったのだ。

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2011年6月25日 (土)

思考や感情の習慣について/知的生産の方法(13)

船川淳志さんは、納得的な思考技術論を展開している数少ない人だ。
私は若い頃、リサーチファームに所属していた時期があって、調査・リサーチの方法論は同僚との永遠の議論テーマだった。
結論としてえたのが思考技術という言葉である。
⇒2010年12月25日 (土):イシュードリブン/知的生産の方法(1)

船川さんは『考えるプロが明かす「思考の生活習慣病」克服法』講談社 (0402) で、「思考の生活習慣病」に冒されがちなわれわれの注意を喚起している。
生活習慣病といえば、先ず頭に浮かぶのは身体のことであろう。メタボリック・シンドロームの恐ろしさは、私自身が身をもって体験したところだ。

三島市の新聞取次店が1回/月の頻度で発行しているフリーペーパー「Mstyle」の最新号に、椋木修三さんの『プラスの思考パターンが賢い子に育てる。』が載っている。
椋木さんは、思考や感情も「習慣」の一部であると考えた方がいい、という。
つまり、習慣化された思考や感情があるということである。
船川さんと同意見ということだが、問題はその習慣をどう自覚するかであろう。
習慣は無意識のうちに行っているものだからである。

椋木さんは、ちょっとでも失敗すると、反射的に「もうだめ」と考えて落ち込む人は、マイナスに習慣化された思考パターンであるという。
結果として、やることなすことのあらゆる面で中途半端に終わってしまう。
逆に、プラスの思考習慣のある人ならば、「なんの大したことじゃない」というように、教訓として創意工夫の契機とすることができる。

椋木によれば、思考や感情が行動を左右していることに気づくことが重要である。
今回は『「賢い子」に育てるためのハッピー親子講座』の第3回であるが、1回目は『子供に自信を持たせる口ぐせを育てましょう』、2回目は『感動する心を育てましょう』だったらしい。
わが家にも届いていたはずであるが、妻がオリコミはごみ箱に直行させる習慣があり、私も育児のことは他人事と思っていたためか、気づかなかった。
要するに、椋木さんは、子供に思考パターンを身につけさせようと、いろいろ工夫していたというわけだ。

椋木さんは、プラスの意欲を持てれば、親がわざわざ「勉強しなさい」と言わなくても、子供は自分から積極的に勉強するようになるという。
なぜなら、勉強することが面白いからだ。
それは子供に限らない。面白ければ、大人も意欲をもって取り組む。

例えば、スポーツでも、正しいフォームは最初は意識して身につける。
繰り返し、繰り返し練習して、無意識のうちにできるようになるまで、続ける。
茶道の所作、楽器の演奏など、みな同じことだろうと思う。

リハビリで、歩行の練習をしている。
我ながら、歩行という人間の基本動作が思うようにできないのは歯がゆい限りだ。
それでも、足は手よりもマシである。手は、神経が繋がっていないので、意識しようがないという感じだ。
気が遠くなるが、繰り返す以外にない。

それでも外来として通院している病院で、多くの車いすに乗っている入院患者を見ると、自分は幸運だったと思う。
僅かの差異で、一生車いすで暮らさなければならなかったかも知れないのだ。
と思って、せいぜいプラス思考を習慣化しよう。

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2011年6月24日 (金)

地震直後にどうすべきだったか/原発事故の真相(3)

西村さんと神足さんは、雑誌「現代化学」11年6月号に、『理論物理計算が示す原発事故の真相』の続報を掲載している。
副題に、「地震直後にどうすべきだったか」とある。
取り返しのつく事故ではないが、後付けで「どうすべきだったか」を問うことは重要である。
いわゆるマネジメント・サイクルで、「see」もしくは「check」は不可欠であるが、それがないのが、民主党迷走の根本的な要因ではなかろうか。
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在

続報では、前報後に明らかにされたデータ等により、前報の変更すべき点とより明確になった点が報告されている。
海域への放射性物質の放出量を、前報では3月21日の1日分しか利用可能データがなかったが、その後4月11日までの公開データを用いて推算した。
その結果、1ヵ月間の海域への放出量は、大気への放出量の1日分程度と修正された。

より重要な検証と思われるのは、水素爆発に至る経緯についてであろう。
前方で明らかにされた重要な結論は、「緊急エンジンは津波の浸水で作動しなかった」という刷り込みを否定したことである。
そして、続報では、緊急エンジンが3時間動いていたという確証を示している。
前報では、炉内の圧力を0.3MPaとして設定したが、圧力制御機構が作動していないならば、炉内は大気圧だっただろうと推測して再計算を行った。
結果は、下図の通りである。
Photo_2

前報(昨日の図)とは、沸点が異なる。
初期水温40℃は、緊急エンジンが作動し続ければそのままの温度で推移したはずである。
冷却水を冷やすいわゆる2次冷却水系が津波で破損したのが、深刻事態の原因か?
西村さんたちは、復水器の水を使えば、水位低下は40時間延ばせたであろう、と推測している。

結論的に、事故の拡大を防ぐためには、どうすべきだったか?
1.現場の責任者
水素爆発を防止するために、以下の努力をすべきであった。
①緊急エンジンを動かし続ける努力
緊急エンジンが作動を停止したのは、ディーゼル油に海水が混ざったのであろうから、1~2時間で復旧したのではないか
②復水器の水を冷却水につなぐ努力
③復水器冷却用の海水ポンプモーターの復旧
④海水ポンプ駆動用の外部電源の敷設
外部電源の敷設には東北電力の架電線からの導入で、架線新設に3日を要した。
200Vに降圧した配線を地上に置くという方式ならば、自衛隊をもってすれば3~5時間でできたであろう。

2.会社としての東電
事故直後、GE社と相談すべきであった。
東電は、電車でいえば運転手であり、電車の修理の専門家ではない。
一定の廃炉は必要だったかも知れないが、1000億円程度で処理できたのではないか。
西村さんたちが、炉の資産価値を東電に問い合わせても、「分からない」という回答だったという。
分からないが本当だとしたら、ずいぶんいい加減な話だ。
建設当時東電から東芝に支払われた代金は、2千~3千億円/基だから、減価償却を考慮すると簿価は5千億円程度ではないか、とする。

3.政府
事故直後、付近の海域にいた原子力空母ロナルド・レーガン号が支援を申し入れしたが、首相は断っている。
この判断は、間違っていた。
原子炉を独自開発した米国と、運転法を知っているだけの日本の実力差をわかっていなかったのである。

西村さんたちの計算は、かなりアバウトな感じがするが、こういう場合、桁が合っているか否かが重要なのである。
菅首相のように、87%などと、有効数字2桁のようにいう方がミスリードしやすい。
「俺は原子力に強い」などと見当違いの自負心をもって、現場の作業をdisturbした菅首相の責任は大きい。
現場視察の間中、吉田所長は対応に付きっ切りだったという。
⇒2011年3月14日 (月):現認する情報と俯瞰する情報
⇒2011年3月30日 (水):原発事故に対する初動対応について

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2011年6月23日 (木)

西村肇さんの水素爆発に至る過程の推算/原発事故の真相(2)

西村さんたちは、「現代化学」11年5月号の『理論物理計算が示す原発事故の真相』において、水素爆発に至る経過を分析している。
フクシマは想定外の津波の襲来による不可避の事故だったのか?
その判断のカギは、フクシマにおいて、「レベル7」という最悪の事故に至った原因は、水素爆発が起きたことにあるということからすれば、水素爆発が防げなかったかどうかということに大きく係わっている。

水素爆発は、1~3号機で起き、爆発の約8時間後に放射線量の顕著な増加がみられる。
Photo_2
1号機と3号機の建屋は、水素爆発の結果、天井が完全に吹き飛んでいる。
その爆発のエネルギーは、TNT爆薬100kgに相当するというのが、爆発の状況から爆薬の専門家が見積もった規模である。
現実には、その後の発表によれば、水素爆発が起きたことで「レベル7」に相当するということだったようだ。
「爆発的事象」などという曖昧なものではなく、「最悪の爆発」だったわけである。
「一定のメド」という遊びが子供たちの間で流行っているらしいが、曖昧な表現で「その場しのぎ」をするのがこの政権のお家芸のようだ。

TNT100kgに相当する水素量は、西村さんたちによれば、40N㎥である。
この水素はどこから、どういうメカニズムで発生したか?

燃料棒を被覆しているジルコニウム合金が高温度で水蒸気と反応して水素が発生する。
高温というのは、700~800℃以上である。
西村さんたちによれば、12日時点では、燃料プールにある燃料は、残存崩壊熱量も小さく、十分な水もあるので、こんなに高温にならないという。
つまり、この反応は、炉心で起こったのではないか、とする。
しかし、当日のデータがなく以下のように推測した。

炉内水位の理論的な計算値と実測値が合っていれば、理論で想定した炉内の状況は正しいと判断できる。
理論値と実測値は下図のようであり、よく一致している。
Photo_4
このことは、次のようなことを意味する。
・水位低下の原因は、水の漏洩ではなく、蒸気と蒸気漏洩である。
・蒸気の漏洩は、タービンへの出口、タービンからの入口と想定される。

また、燃料棒の温度変化の計算結果は下図のようであった。
Photo_5 
1分で平衡温度779℃の90%に達する。
ジルコニウム合金と水蒸気の接触による水素の発生は、700℃以下ではほとんど起こらない。

以上により、次のようなことが結論として導かれる。
・水素爆発のl原因となった水位の低下は、地震によりタービン付近の蒸気配管が破壊されたものである。
(すなわち、津波が原因ではない)
・地震発生時に沸騰状態であった炉の水温が、一反40℃まで下がり、6時間後に沸騰していることは、地震直後に緊急発電系が作動したものの、エンジンが止まって冷却機能がなくなって水素爆発を起こした。

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2011年6月22日 (水)

西村肇さんの放射性物質の放出量の推算/原発事故の真相(1)

原発で何が起きたのか?
最も信頼すべき政府の発表が疑わしいと思わざるを得ない現状では、IAEA等の調査を待つしかないのかも知れない。
⇒2011年6月19日 (日):原発への海水注入問題の真実は?
⇒2011年5月29日 (日):菅政権における政治主導の失敗学/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(38)
⇒2011年5月26日 (木):情報を隠蔽していた(ウソをついていた)のは誰か?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(36)
⇒2010年10月21日 (木):仙谷官房長官の弁論技術

しかし、何が起きたのか、限られた情報で推論した人はいないのか?
そんな思いでいたところ、「現代化学」11年5月号に、西村肇、神足史人『理論物理計算が示す原発事故の真相』という論文が載っているのを見つけた。
化学の雑誌を手にしたのは何年ぶりのことだろう。

西村肇さんは、理系には数少ないジェネラリストの視点を持った学者である。
学校を出て間もない頃、何人かの人たちと技術論の勉強会をしていた時、『技術論セミナーⅡ 現代技術と社会』青木書店(7111)に、『システム技術論』を書いていたのが名前を目を知った最初である。
公害問題に対する発言等により、信頼できる人という印象を持っている。
東大では説を曲げないでかなり圧力を受けたりしたらしいが、現在は自分の研究工房を主宰されている。
⇒2007年12月19日 (水):西村肇さんの考え方
⇒2009年11月 2日 (月):水銀の化学(7)チッソ水俣工場からの廃液と水俣病の発症

西村さんたちはどういう方法をとったか。
先ず、大気と海域への毎日の放射性物質の放出量を計算した。
環境中の放射性物質の測定値から、拡散方程式等を使い、放出量を求めた。

計算過程は省略するが、例えば後に全村が計画的避難地域に指定された飯舘村の場合は、以下のようである。
<大気>
・3月24~25日の環境放射能の測定値は、12.4~9.5μSv/h
・この影響強度に相当する放射物濃度は130Bq/㎥
・1日の放射物質の放出量は、10TBq/d

<海域>
・3月21日の原発排水口の南の地点での放射能測定値は、3万Bq/kg。放水量は200t/d。これから放出量は、6GBq/d
・30km沖合の観測データから、拡散方程式から推算すると、1GBq/d

<チェルノブイリの放出量>
・チェルノブイリ事故は、事故というより核爆発であり、原子炉が保有していた放射性物質の大部分が放出されたと考えられる。
・総放出量は、1760PBq(PBqはGBqの100万倍)

<結論>
1.大気と海域への排出を比較すると、大気の方が1000倍程度大きい。
2.3月22日の状態の放出量が100日続くとした場合、総放出量はチェルノブイリ事故の1/1000を越えない程度

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2011年6月21日 (火)

柿本人麻呂/私撰アンソロジー(2)

小学校の6年ぐらいの国語の時間だったと思う。
どういう授業の流れだったか、教室の雰囲気がどうだったか、というような記憶はない。
しかし、初めて和歌というものが授業の教材として使われた。

中学の時だったかも知れない。
しかし、中学2年の時に、啄木の歌をめぐって、美人の女性教師と論争めいた話をした記憶があるので、それ以前のことではないだろうかと思う。
その時に、なぜか印象に残ったのが人麻呂の下記の歌である。
Photo
「近江の海」の「海」を「ミ」と発音するというように記憶していた。
「五・七・五・七・七」の定型に合致もする。
ところが、上記でははっきり「ウミ」とルビがついている。間違って覚えていたのかと思って調べてみると、「ミ」と読んでいる例もあったので安心した。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%203-266.html

もちろん、その当時は、人麻呂についての知識など皆無であった。
他に憶えているのは、「近江の海」は琵琶湖のこと、汝はお前のこと、と言ったことである。
心もしのに、については大体の語感で、心寂しいことだろうと感じとった。

この歌がなぜ印象に残っているかは定かではないが、和歌というジャンルに自覚的に接したという意味で、個人史的には大きな意味を持っている。
その後、理科的な事象に興味が移り、人麻呂の歌に接するのは、高齢期近くなって古代史に興味を持ってからのことである。
人麻呂には謎が多い。
斎藤茂吉、梅原猛、古田武彦など魅力的な論考も多いが、これらは現在の私には正直に言って重い。
左手が不自由ということは、読書においても結構ハンディで、関心はあるもののしばらくはペンディングである。

NHK教育テレビで「日めくり万葉集」という番組を放映していることは知っていた。
しかし、5分間という短い時間であることもあり、視聴せずじまいのままだった。
書店で、同番組の6月のテキストがおいてあり、手にすると、上記の記事が載っている。

日替わりの選者が一首ずつ、万葉集から選歌する。
森博達さんの撰である。
森さんは、『日本書紀』の漢字の音韻や語法を分析して、渡来中国人が著したα群と日本人が書き継いだβ群を区分けし、『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中公新書(9910)で啓蒙書にまとめた。
つまり、古代における音韻の第一人者であろう。

番組の放映は既に終わっていたので、視聴することができなかったが、森さんは実際に当時の発音でこの歌を読んだらしい。
古代における音韻は、「上代特殊仮名遣い」として知られる。
「上代特殊仮名遣い」については、私なりに関心があるので残念だった。
⇒2008年2月 9日 (土):上代特殊仮名遣い
⇒2008年2月10日 (日):上代特殊仮名遣いの消滅…砂川史学⑯
⇒2008年4月17日 (木):言語学から見た白村江敗戦の影響
⇒2008年4月18日 (金):言語学から見た白村江敗戦の影響②
⇒2008年4月19日 (土):上代特殊仮名遣論争
⇒2008年4月20日 (日):上代特殊仮名遣論争②
⇒2008年4月21日 (月):上代特殊仮名遣論争③
⇒2008年4月22日 (火):上代特殊仮名遣論争④

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2011年6月20日 (月)

そうだったのか! 『もしドラ』とAKB48

書店で、「映画“もしドラ”GUIDE BOOK」というパンフを手にした。
川島みなみ役の前田敦子嬢の写真である。
映画は見ていないが、みなみのイメージに合っていると思う。
Photo_2

「私たちの青春は、一冊の本から始まった。」
確かに、青春期の自己形成において、「本」と「友」は必須であろう。
私には、この類のことを考える際、忘れられない言葉がある。
河上徹太郎『私の詩と真実』新潮社(1954)の一節である。

人は、その青春にあたって先ず情熱を注ぐことは、激しい自己鍛錬によって自分の感受性の形式を確定することである。そしてこの形式の独自性の中に、初めてその人の個性とか資質と呼ぶべきものが芽生えるのだという風に私は考えている。
⇒2008年5月27日 (火):偶然か? それとも……③『雲の墓標』

私は青春期にドラッカーと出会うことはなかった。
しかし、「もし私が高校時代にドラッカーの著作に出会っていたら」と想像することはできる。
が、マネジメントに切実さを感じていなかったので、「馬の耳に念仏」だったに違いない。

『もしドラ』については、6月18日の産経抄が、次のように書いている。

もしドラッカーが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。弱小野球部の女子マネジャーが、彼の著書「マネジメント」を参考にして甲子園出場を勝ち取った、という小説が大ヒットし、アニメや映画にまでなったのだから。

映画のパンフには、次のようにあった。

映画は原作のイメージどおりに展開するが、そもそも原作者の岩崎夏海は、秋元康の下でAKB48のプロデュースに参加していた人物。みなみら登場人物もAKB48メンバーを想定していただけに、映画化はまさに必然だったのだ。

そうだったのか!
『もしドラ』をドラッカーの入門書のように位置づけ、若い人に奨めたりするのは、岩崎夏海氏の手の平の上で踊っているようなものかも知れない。
それでも、1人でもドラッカーの読者が増えてくれればいい。
⇒2011年6月13日 (月):『もしドラ』ブームとAKB48総選挙

産経抄は次のフレーズで締めくくられている。

首相官邸にも気難しくわがままなボスがいる。国民の大ブーイングを糧に見返してやろうという意欲満々である。ただし、落合監督にあって彼にないものがある。ドラッカーが、不可欠な資質としてあげた「真摯(しんし)さ」である。「ペテン師」はマネジャーにも首相にもなってはいけない。

私も、今の菅政権に決定的に欠けているものは、「真摯さ」だと考える。
悪乗りして、「顔を見たくないのなら法案を通せ」と、はしゃいでいるのを目にして、唖然とした。
⇒2011年1月21日 (金):政府・民主党における真摯さの欠如
⇒2011年1月27日 (木):言葉の軽さが裏付ける首相の真摯さの欠如

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2011年6月19日 (日)

原発への海水注入問題の真実は?

東電福島第一原発の事故対応において、海水注入を中断したか否かが大問題となったことは記憶に新しい。
国権の最高機関とされる国会で、野党第一党の党首が首相の関与を問い質したりもした。
結果的には、現場の責任者の判断で、中断そのものがなかったことが判明し、一件落着かに見えた。
原子力安全委員会の班目春樹委員長は、「中断がなかったのなら、私はいったい何だったのか」という迷セリフを口にして世間の笑いを誘い、野党党首はガセネタを信用して、政治における無為の時間を作ったと批判された。

要するに、ナニゴトも無かったのであろうか?
そんなことで済ませるような問題ではないと思う。
ガセネタだったとしたら、このようなネタ(謀略)を考案し、流布した人間がいるはずである。
安易に飛びつくのは軽率ではあるが、決して「火のない所に煙は立たない」のではないか?

6月18日の産経新聞に、この問題に関連する「告発文書」が紹介されている。

同封された2枚のコピー紙のうち1枚には、東日本大震災発生の翌日の「3月12日18時3分」に送信された「記録」と、「官邸リエゾン→消防庁」「消防庁 番号618」が記載されていた。さらにこう走り書きで記されていた。
「18:00 総理指示 福島第1原発について“真水による処理はあきらめ、海水を使え”」

http://sankei.jp.msn.com/politics/print/110618/plc11061800170000-c.htm

以下、産経の記事を追ってみよう。

経済産業相、海江田万里は5月2日の参院予算委員会で、福島第1原発1号機への海水注入について、午後7時4分に「試験注入」を始めたが同25分に中断、午後8時20分に本格注水を開始したと説明している。
ところが、5月20日以降、海水注入による再臨界を恐れた首相、菅直人の言動がきっかけで、注入が中断されたとメディアが報じると、政府の説明は収拾がつかなくなっていく。
原発問題を担当する首相補佐官、細野豪志が早速、翌21日の記者会見で、1度目の海水注入の情報について「首相には届かなかった」と指摘したのだ。
細野は同時に「午後6時の首相指示」も「なかった」と否定した。
・・・・・・
もともと官邸サイドは福島第1原発の事故当初、「『原子炉が使い物にならなくなる』と抵抗する東電に、首相が海水注入を指示した」という情報をしきりに流していた。まず、この「首相の英断」ストーリーが破綻した。
・・・・・・
菅も、5月23日の東日本大震災復興特別委員会で 「報告が上がっていないものを『止めろ』とは言うはずがない」と強調した。
それでは、実際には菅はいつ海水注水の事実を知ったのか。今月7日に閣議決定された政府答弁書にはこう記されていた。
「5月20日に注水に関する報道がされた後」
これが本当だと、菅は5月2日の海江田の答弁を隣席にいながら聞いていなかったことになる。
官房長官、枝野幸男は「首相の認識に基づいて正直に作った」と釈明したが、菅は10日の参院予算委でせっかくの枝野の弁明をぶち壊す発言をした。
「当日(3月12日)に海水注入があった事実関係は伝わってきている」
質問した自民党参院議員、義家弘介から「注水の報告は上がらなかった、と言っていた」と追及されると、菅は慌てふためき「全体の経緯や関係者の対応状況を承知したのは5月20日の後だった」と釈明した。
・・・・・・
政府側は海水注入に関する菅の関与を否定し続けたが、東電側は、現地に海水注入の停止を指示した理由を「首相の『了解』が得られていない」としている。
・・・・・・
しかし、「午後6時の首相指示」が本当であれば、政府の事実関係にかかわる説明はことごとく嘘だったということになる。国民は何を信じればいいのか。=敬称略(今堀守通、斉藤太郎、康本昭赫)

この文書も、ガセなのか?
ひと昔前のように、朝日、毎日ならば信憑性があるが、産経では……、ということだろうか?

今そんなことを言うよりも、事故を収束させることに全力を尽くせ、という声も強いだろう。
しかし、事実関係に虚偽があれば的確な収束などできるはずもない。
第一に、このネタがホンモノだとしたら、最終的な政府答弁は「すべて嘘」だということにもなる。

そもそも、官邸広報は、「午後6時の首相指示」を明記していた。
⇒2011年5月23日 (月):いい加減にして欲しい「水掛け」論議/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(34)
それが海水注入中断の責任論が問題にされ始めると、政府は「午後6時の首相指示」を突然否定し始めたのだ。
要するに、情勢次第で過去の説明さえ変更するのである。
大騒ぎして藪をつつきながら、結果として真相は「藪の中」のままである。

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2011年6月18日 (土)

菅と鳩山の理念と現実と信義/「同じ」と「違う」(28)

日経新聞の6月16日夕刊に、『「友愛」と「ペテン」の間で』という記事が載っていた。
副題は、「鳩・菅15年、理想と現実」。菅現首相と鳩山前首相の「つき合い」の歴史を振り返ってみたものである。
それを一図にまとめたのが下図である。
Photo

「新党さきがけ」で一緒だった2人は、96年にさきがけを離党し、9月に「旧民主党」を結成し、共同代表となった。
15年前は2人ともフレッシュに見える(た)。

02年9月の代表選で菅を破った鳩山は、中野寛成の幹事長人事でつまづき、小沢一郎率いる自由党との合併で乗り切りを図ったが、党内の反小沢感情に乗じて鳩山批判の急先鋒となったのが菅だった。
鳩山辞任後、後を継いだ菅は、鳩山降ろしの材料として民由合併への反発を利用したにもかかわらず、豹変して民由合併に進んだ。

10年5月に政権運営に行き詰った鳩山は、事実上、菅に禅譲した。
しかし、菅は、代表選で樽床伸二を大差で下したこともあって、禅譲されたという意識はなく、独自路線をとる。
10年7月の参院選では、09年の衆院選で鳩山が掲げたマニフェスト(政権公約)にはない消費税率を持ち出し、惨敗した。
10年9月の代表選で、菅の対立候補に立った小沢一郎は、鳩山を民由合併の同志と持ち上げた。
当時の代表であった菅への当てこすりである。
菅は、鳩山と小沢を敵に回して、代表選に勝って、自信を深めた。

そして、不信任案をめぐるドタバタである。
2人の関係は修復し難いところまで決裂した。

以上が、日経記事のほぼ忠実な要約である。
鳩山はルーピーぶりを遺憾なく発揮し、「ペテン師」と罵られた菅は、次々と延命の細工を仕掛けて退陣時期を明言しない。
菅のあざとさが鮮明になった半月であるが、上記の民由合併のいきさつに見られるように、それが菅の身上なのだ。

菅のことをバルカン政治家と評する人もいる。

20世紀前半の東ヨーロッパで小国が乱立する中を行き抜くイメージである。日本では主に三木武夫を指して言われた。三木は戦前に代議士となり、戦中も翼賛選挙を非推薦で勝ち抜き、戦後は国民協同党とか改進党とか、今では現代史研究者しか覚えていないような小党を渡り歩き、田中角栄失脚後の1974年に「椎名裁定」で政権の座についた。
僕は菅直人は現代の「バルカン政治家」だと思う。

http://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/6e6b7884160f729facd8a5553ad8d958

しかし、山内昌之東大教授の次の評言の方が相応しいだろう。

確かに菅氏は、その時々の状況に応じ敵味方を目まぐるしく変える本能に恵まれており、他者との関係を政治力学の変動によって変幻自在に操作できたかもしれない。しかし菅氏の才は、内政とくに民主党内での権力行使に限られる。バルカン半島とは異質な複雑さをはらむ東アジアや東シナ海の国際関係での同盟や友好、ひいては敵対や摩擦に向かいあうことはなく、中国や韓国の首脳に苦汁を呑(の)ませる胆力を発揮したこともない。菅氏を指すバルカン政治家なる呼称は、ひたすら内政の党争次元での個性を表現したものなのだ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110614/plc11061403030010-n1.htm

菅も鳩山も、クリーンを売りにしてきた。
しかし、結局自分の「政治とカネ」の問題にも決着をつけることができなかった。
日経新聞では、鳩山を理想主義、菅を現実主義としているが、2人の共通点は、「言葉の軽さ」であろう。
私は政治家の武器は言葉であり、政治家にとって言葉は本質的な要素だと思う。
鳩山が菅を「ペテン師」と評したが、このことが言葉の軽さを表わしている。

私は、社会人として行動する中で、「信義則」の重要性を学んだ。
契約書の類には、大体次のような文言が記載されていた。
「疑義ある時は、双方信義誠実の原則に基づき協議する」
つまり、「信義則」である。

しんぎ‐そく【信義則】

    社会共同生活において、権利の行使や義務の履行は、互いに相手の信頼や期待を裏切らないように誠実に行わなければならないとする法理。信義誠実の原則。http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/113665/m0u/

「信義則」は、たとえ契約書等に明記していなくても、当然守るべき前提であるといわれた。
人は、政治家に「信義則」を求めるのは、八百屋に行って魚を求めるようなものであるというかも知れない。
しかし、これは理想主義とか現実主義という以前の人間としての問題ではないか。
有権者との「契約」と見なすことができる「マニフェスト」を、弊履のように軽く扱うという点において、2人は瓜二つである。

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2011年6月17日 (金)

その場しのぎと問題解決/「同じ」と違う」(27)

菅内閣の1年間は、結局「その場しのぎ」の連続で、何一つとして本質的な問題解決に向かうことはなかった。
思えば、政権発足時から、言い訳が先行していたのだ。
参院選で惨敗を喫しても、有権者の理解力にその原因を求めた。
⇒2010年7月13日 (火):タレント候補擁立に象徴される民主党の民意の読み違い

典型的なのは、昨年の12月の後援会関係者との会合の席上、政権を担当してからの半年を「仮免許」にたとえたことに現れている。

菅直人首相は12日夜、都内で開かれた自身の後援会会合に出席した。出席者によると、首相はあいさつで「(首相就任から)半年たった。これまでは『仮免許』だったが、これからが本番で、自分の色を出していきたい」と決意を語った。自らの政権運営を自動車運転の「仮免」に例えたような発言は今後、与野党の批判を招く可能性がある。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010121200170

その後、自ら本免許を取得したとした後の状態はどうか?
今年の年頭所感では、大きな政策目標として、次の2つを挙げた。
1.今年を「平成の開国元年」と位置づけ、貿易自由化を促すとし、TPPへの参加の環境づくりとして、農業の構造改革や支援策を打ち出す。
2.社会保障と一体化した税制改革
⇒2011年1月 5日 (水):綱領なき民主党の菅VS小沢の不毛な争い

3月11日の東日本大震災は、もちろん「想定外」だったにしても、掲げた政策目標が前進したようには一向に見受けられない。
震災対応も「その場しのぎ」の連続であったというしかないであろう。
震災発生直後は臨機応変の「その場しのぎ」も重要であろうが、100日になろうというのにもかかわらず、依然として「その場しのぎ」である。
震災・津波に対してもであるが、原発事故に限っても以下のようなことが思い浮かぶ。

例えば、「SPEEDI」の扱いである。
せっかく有用な情報があるにもかかわらず、「国民がパニックを起こすのを避けるため」と称して公表しない。
あるいは、当初からメルトダウンを指摘されていながら、否認し続け、IAEA調査団が来日するとなると、あわててメルトダウンを認める。

校庭の放射能の基準に関しても同様である。
⇒2011年5月 5日 (木):校庭の利用基準をめぐって/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(21)
これについては、保護者から厳しい「突き上げ」があった(「突き上げ」は菅首相の用語)。

福島県内の保護者ら約500人が23日、文部科学省を訪れ、学校の校庭の使用に関する放射線量の暫定基準(毎時3.8マイクロシーベルト)を撤回するよう求めた。県内には文科省が定めた基準は緩すぎるとの批判がある。4児の母親(38)は「我慢ももう限界」と涙声で訴えた。
http://www.asahi.com/national/update/0523/TKY201105230436.html

また、東電の賠償スキームである。
そのものズバリのタイトルの批判記事がある。
⇒田村 賢司「その場しのぎの原発賠償策
⇒「東電賠償問題:新機構の原発賠償案はその場しのぎ、増税と電気料金値上げなき仕組みを

あるいは、震災後の組織の乱立である。
各方面からの批判を受けて、整理するかと思いきや、そうでもないようである。

Photo 政府は27日、東日本大震災に対応するために設置した組織を、「地震・津波」「原子力発電所事故」「復興」の3分野に再編した上、一部は名称を変更して下部組織であることを明確にする方針を固めた。
震災関連組織が20近くも乱立し、「指揮命令系統が見えない」との批判を受けた措置だが、組織の廃止・統合は見送られる見通しで、形ばかりの再編に終わる可能性がある。
具体的には、現在ある六つの本部のうち、「緊急災害対策本部」と「原子力災害対策本部」を存続させる一方、「被災者生活支援特別対策本部」など4本部は「チーム」などに名称を変更する。
復興に関しては、全閣僚が参加する「復興本部」(仮称)を新設してこの分野の中心組織とする方針だが、菅首相が野党も含めた「復興実施本部」構想を持ち出したため、流動的だ。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110427-OYT1T01240.htm

究極の「その場しのぎ」は、不信任案を否決するための詭計であった。
そして、不信任案が否決されると、それを逆手にあの手この手で延命を図る。
自然エネルギーへのシフトを強調し始めたのも、目先を変えるという「その場しのぎ」といえよう。
もちろん、自然エネルギーの重視は多くの人が賛成するに違いない。
しかし、原発傾斜のエネルギー基本計画を策定していたのであり、それを反省することから始めなければならないはずだ。
衣替えのように気楽にエネルギー問題が解決すると考えているのであろうか。
そもそも、フクシマの収束にそれこそメドがたってないではないか。
今に始まったことではないが、言葉が余りに軽いのである。
⇒2011年1月27日 (木):言葉の軽さが裏付ける首相の真摯さの欠如

「その場しのぎ」とは何か?

自分に都合の悪いことを見ようとしなかったり、自分に都合よく解釈しようとしたり、避けることのできないことを避けようとしたり、さまざまのことが上げられます。 その場しのぎや先送りは、まさにその典型的なことです。 問題を先送りすることによって、一応その場をしのげることはありますが、問題が解決したわけではありません。 
http://www4.plala.or.jp/k-k/komoku086.html

「その場しのぎ」で延命した積もりでいるとしたら、後でしっぺ返しを食うのは必定であろう。
現象が見かけ上なくなったように見えても、消えたわけではない。
再び現れるときには、より深刻になっているのが一般的であるからである。

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2011年6月16日 (木)

脱トロイカは「民主党2.0」の必要条件ではあるが十分条件とはいえない

菅退陣(あるいはポスト菅)がどういう決着を見せるかは未だ何とも言えない。
早い段階で名前が挙がった人は脱落する、と言われるが、野田佳彦氏もその例であろうか。
深読みすれば、「菅降ろし」と騒いでいるのは、「菅延命」を狙いとしているのではないか、とさえ思えてくる。
解散総選挙ができないとすれば(被災地の状況からしても総選挙をしている場合ではないと考えるのが普通であろう)、次の民主党の代表者が首相になるのであろう。

私はマニフェストが破綻している以上、政権交代の大義も失われていると考える。
したがって、総選挙を実施できる状態に可及的速やかに持っていき、解散総選挙を行って民意を問うべきだと思う。
例えば、エネルギー政策をとってみても、原発容認か脱原発かは国民投票に値するようなイシューであろう。
東日本大震災によって、政策の大前提が変わったのだから、それを明示して選挙をしたらどうか。

民主党は、鳩山、菅と2人の首相が期待を裏切った。
民主党からポスト菅を選ぶとしても、そのことの反省は踏まえるべきである。
それは民主党のバージョンアップ、いわば「民主党2.0」への歩みでなければならないであろう。
「民主党2.0」の条件は何か?

鳩山-菅の間のいわゆる「確認事項」の第一に、「民主党を壊さないこと」とあるが、否定されるべきはこのような精神ではないか。
幹部が密室で大方針を決める、しかも自己変革の契機を否定するようなやり方では、自民党と差異がない。
むしろ「自民党をぶっ壊す」と広言した小泉元総理にも及ばない。

鳩山、菅、小沢を中心とするいわゆる「トロイカ体制」はもはや賞味期限切れというべきである。
しかし、「脱トロイカ体制」は、必要条件ではあるが、十分条件とは言えない。
現在の民主党は、政権交代を目標とした混成集団である。
だから、政権交代を果たした後の戦略が見えないのではないか。
政権交代を実現したときのマニフェストについてさえ、遵守すべきであるという意見と、変更すべきであるという意見が水と油の如く分離したままだ。

私は、現実問題として、マニフェストは現状では履行不能であると思う。
したがって、遵守派には実現可能性を論証していただきたいと思う。
変更すべきだというのは、現実にはそうに違いないが、政権公約といった以上、変更するに際してはもう一度選挙し直すべきではないか。あるいは、他に納得できるような説明があり得るか?
政権交代を既得権益の如く考え、首相の座をたらい回しするようなことがは許されるはずもない。

問題の根っ子には民主党の成り立ちがあるように思う。
極論すれば、旧自民党(の経世会)と旧社会党が軸になってできたのが現在の民主党である。
いわば、55年体制が党内に温存されているのである。
であれば、綱領など、できっこないといえよう。
⇒2011年1月 5日 (水):綱領なき民主党の菅VS小沢の不毛な争い

「民主党2.0」が可能とすれば、この55年体制を止揚した時ではないか?
東日本大震災という大きな試練によって、否応なく政策力が試されていると考えるべきであろう。
現象への「対応」ではない、問題の「解決」が問われているのである。

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2011年6月15日 (水)

ランドかシーか?/花づな列島復興のためのメモ

ランドかシーか?
と言っても、東京ディズニーリゾートの話ではない。
地政学に、ランドパワーとシーパワーという考え方がある。
例えば、次のように使われている。

世界の国々はランドパワー(大陸国家)とシーパワー(海洋国家)に大別できる。この視点から地球史を眺めてみると、今まで見えなかった側面が浮かんでくる。   
たとえば、米ソ冷戦は資本主義と共産主義の対立ではなく、ユーラシア大陸のほとんどを占めた史上最大のランドパワー・ソ連と、世界の貿易を支配するシーパワー・アメリカの対決だった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog314.html

Wikipedia の解説を見てみよう。

ランドパワーとは国家が支配下に置く陸地を整備、活用する潜在的、顕在的な能力の総称である。
・・・・・・
その構成要素としてはまず基幹的な要素は陸上戦力であり、かつここから派生した陸地とその陸地における住民・資源の支配権である。また陸地を開拓・開発能力、
道路鉄道高速道路などの交通施設や自動車電車などの交通手段を用いた陸上輸送能力、建築物や施設の建設能力が挙げられる。また陸地そのものの能力として、農業牧畜などの食料生産能力、陸地に存在する工業材料やエネルギー資源の保有量などを包括する概念である。基本的に大陸の大部分を領有する国家はその量的な観点からランドパワーに優れた国家であり、半島を領有する国家は強大なランドパワーを求めることが出来ないと考えられる。

シーパワーは国家が海洋を支配し、またこれを活用する潜在的・顕在的な能力の総称である。
・・・・・・
その構成要素としては
  ・海洋利用のための商船隊・漁船隊
  ・海洋を支配するための
海軍力
  ・造船などのための工業力
  ・船舶の活動を支援するための港湾施設
が考えられる。国土が海上交通路の要点にあるかどうかの地理的環境、国土に適当な港湾施設が存在するかどうかの地形的環境、海岸線の距離の観点からの国土面積、人口、国民の海洋への理解や愛着といった国民性、海洋への国家の諸政策を遂行する性質が考えられている。

ランドパワーとシーパワーについて、次のような解説があった。
http://nihonist.com/archives/date/2011/04/06
極度に単純化した3つの島を考えてみよう。
Photo

日本は、石油をはじめとして多くの資源が決定的に不足している。
単純化すれば、上図のロ島のような状態である。
何も持たないロ島としてはどのような戦略が合理的か?
またどのような戦略を他国に採られると都合が悪いか?

第一のパターンは、他島の資源を力づくで自らの手中に収めるという方法だろう。
Photo
古代エジプトがヒッタイトなどに略奪されたように、有史以前から常に生じるのが略奪型の文明である。少数民族によって大国が支配されることも数え切れないほどあり、豊かな土地で開明的な文明が略奪によって滅んだこともしばしばである。

第二は、情報と交易により富を築き、資源を得る方法が考えられる。
Photo_2

一見平和的に思える方法だが、各地域それぞれの比較優位を綿密に分析する分析力や,その分析に基づいて交易価格を決める商業の知識、そしていざとなれば交易権を守るための軍事力を有していなければならない。

第三は、武力においても負け、他国との交渉能力にも欠け、略奪も交易も出来ない場合である。
飢餓地獄の脅威にさらされる。
Photo_3

第一の武力方式がランドパワー、第二の交易方式がシーパワーである。
日本は、江戸時代の鎖国を解いて明治維新で開国した。
そして富国強兵のスローガンのもと、ランドパワー戦略を選択した。
満州国はそのあだ花である。

1945年の敗北により、路線の変更を迫られた。
「花づな列島の奇跡」と称される発展は、基本的にはシーパワー戦略によるものである。
⇒2011年6月 1日 (水):花づな列島の奇跡

しかし、今の路線が永続できるとは限らない。
特に、シーパワー路線を担保する軍事力をどう考えるかは議論が多い。
ランドパワー型戦略を取れない以上、鎖国やのけ者にされないためには、シーパワー型で行くしかないが、その限界と可能性について、コンセンサスが得られているわけではない。
東日本大震災によって、改めて立国の基礎を問い直されているのではなかろうか。

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2011年6月14日 (火)

菅首相の続投戦略の失敗学

菅首相は、不信任案を奇計(詭計)によって大差で否決したものの、その過程で本質を顕わにしてしまった。
不信任案否決の結果が、退陣必至という奇妙な流れになっている。
しかし、首相自身は、何とか形勢を逆転すべく、「決然と生きる」を座右の銘として、客観情勢に立ち向かっているらしい。
被災地のボランティアセンターの壁の寄せ書きにもこの言葉を書き記したという。
「決然と生きる」ことが、多くの人の不幸を招いているにもかかわらず、である。

ポスト菅への動きは複雑で、結果がどうなるかは予断を許さない。
特に、仙谷官房副長官ら、菅政権の共同正犯ともいうべき人たちが「菅降ろし」に積極的に動いているが、私には理解しがたいことである。
私は、菅首相がその座にいるのは、震災が起きたための一種のモラトリアム状態であると考えているので、菅首相が「一定のメド」をつけるのではなく、なるべく早く退陣するべきだと思う。
今のままでは、「一定のメド」はいつまで経っても実現しないであろう。

「サンデー毎日」110619号で、元経済企画庁長官の田中秀征氏がほぼ同意見を述べている。
田中氏は、かつて細川連立政権樹立に際して、菅氏と行動を同じくした1人である。
田中氏は、政治の舞台が大きくなるほど小策は通用しない、として、以下のように述べている。

菅流の政略は、党の代表になるまでは効果があっても、首相になるとマイナスになるだけだ。
なぜなら、首相の言動はほとんどの国民が注視しているので、能力や性格が見抜かれてしまう。
今度の一件も「やっぱり」と見る人が多いだろう。

参院選で惨敗した時に辞めるべきだった。
ねじれ国会出現の責任を負わなければならない。
菅政権は指揮者のいないオーケストラのようなものだ。奏者はそれぞれの持ち場で全力を尽くしているが、指揮系統が不明なので演奏が乱れてしまう。
みなが頑張っているのに、指揮者が存在を誇示するために予告なしに突然タクトを振る。

不信任案をめぐる勝負に勝っても、彼の本質がさらけ出されてしまい、急失速は避けられない。
「一定のメド」を首相が判断するのでは、受験生が自分で採点するようなものだ。
わざわざ、後継に「若い世代を」と言うのも、“あざとさ”を感じる人が多いだろう。

後継体制については、今のような大きな変動期には、職業政治家では限界があるのではないか。民間人の参入がを求めるべきだろう。
今回改めて思い知らされたのは、被災者および被災地域自治体の首長の判断力が、国政のレベルを上回っていることである。
大きな組織の指導者は劣化しているが、土台はしっかりしているので、政治も経済も再建は十分に可能だろう。

以上が田中氏のコメントの大要であるが、全面的に同意見である。
そもそも菅首相は、参院選で負けた後に、見当違いの総括をしたのではなかったか。
⇒2010年8月 4日 (水):迫力欠く菅首相の国会論戦
⇒2010年8月27日 (金):カン違いしたのは、菅首相かわれわれか?

民主党政権は鳩山、菅と2代続けて失格の烙印を押された。
ポスト菅をめぐってさまざまな思惑が交錯しているようであるが、もっと根っ子から考え直すことが必要ではないか。
考えてみれば、現在の政権幹部は、市民運動や弁護士など、普通の組織の経験者が少ない人が多い。
当たり前のマネジメント体験が不足しているのだろう。
⇒2010年8月 1日 (日):民主党におけるマネジメントの不在
『もしドラ』の都立程久保高校野球部以下である。
田中氏の言うように、民間人の知恵を導入することが必要なのかも知れない。

より本質的な問題は、意図的な情報の隠蔽だろう。
もはや過ぎ去ったことということだろうか、今に至るも、尖閣ビデオは全面公開されていない。
原発に関しては、後出しの情報のオンパレードである。
「直ちに健康に影響はない」としても、子供たちに将来影響が出ることはないと言い切れるのかどうか。
事故収束のために現場で作業している人は大丈夫か?
適切な情報さえあれば、避けられたかも知れない被曝だったとすれば、と考えると……。
これは深刻な人災であると言うしかないではないか。

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2011年6月13日 (月)

『もしドラ』ブームとAKB48総選挙

ドラッカーがブームである。
岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』ダイヤモンド(0912)がロングセラーになり、映画化された。
紹介文は次のようである

公立高校野球部のマネージャーみなみは、ふとしたことでドラッカーの経営書『マネジメント』に出会います。はじめは難しさにとまどうのですが、野球部を強くするのにドラッカーが役立つことに気付きます。みなみと親友の夕紀、そして野球部の仲間たちが、ドラッカーの教えをもとに力を合わせて甲子園を目指す青春物語。家庭、学校、会社、NPO…ひとがあつまっているすべての組織で役立つ本。

ドラッカーといえば、ビジネスパーソンなら誰でも知っているだろう。
と思っていたら、意外と社会では認知度が低かった。数年前になるが、私の知人の某有名大学工学部教授は、「誰だ?」という状態だった。
ドラッカーファンの1人としては、『もしドラ』をきっかけとして、ドラッカーの著作が広く読まれるようになれば、と思う。

映画で高校野球部のマネージャーの川島みなみの役を演じたのがAKB48の“あっちゃん”こと前田敦子嬢である。
AKB48という女の子のグループがあることは知っていた。
前田敦子というコの顔も、『もしドラ』のプロモーションで分かるようになった。
つもりだった。
が、下記の写真のどれが彼女だか分からない。
Akb_2

要するに、個体識別ができないのである。
だから次のようなヘッドコピーを目にしても、何のことなのか分からなかった。

「AKB48総選挙、国内外で生中継 大波乱はあるか」

AKB総選挙というのは、プロモーション戦略の1つのようだ。
ただし、1人1票というわけではなく、CDに投票権が付いてくるというしくみらしい。

今やメディアに出ない日はないといわれるAKB48
歌を歌うことのできる
メンバを総選挙にて選出し、グループ内での競争を行なうことで、メンバ間の緊張感を高めファンは自分たちの好きなメンバを選出するためにお金を使い、さらにはその選抜過程がメディアの注目を集めている今や日本を代表するグループになっています。
つい先日行なわれた総選挙では
じゃんけんによりメンバを選出して、歌を歌うメンバを選出し、これまた注目を集めました。
そして結果はこれまで出ていた人気メンバは軒並みじゃんけんに敗退し、これまで
メディアにあまり出て来なかったメンバが当選し、次回のシングルを歌う権利が与えられました
http://ameblo.jp/nowhero/entry-10721109985.html

何とも上手いことを考えたものだ。
競争原理による活性化の典型であろう。
作詞や放送作家として知られる秋元康氏が総合プロデューサーだという。
しかし、次のようなニュースを見ると、何だかなあ、とオジサンは思わざるを得ない。

AKB前田の13万9892票は静岡市長、さいたま市長を超えた
今回、1位に輝いた前田敦子(19)は「1票1票がホント温かくて…。嬉しいです。ありがとうございました」と自分に投票してくれたファンに感謝を述べたが、その得票数は13万9892票。単純に比較はできないが、政令指定都市の市長選挙の当選者の得票数並だ。
 2011年の静岡市長選挙の当選者の得票数13万5224票を4千票以上超えたほか、2005年のさいたま市長の当選者の得票数13万5553票も超えた。
http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/story.html?q=postseven_22954

AKB詐欺 埼玉の高2生立件へ「ツーショット券売ります」6万円詐取容疑
インターネットの会員制サイト「mixi(ミクシィ)」でアイドルグループ「AKB48」と記念撮影できると偽り現金をだまし取った疑いが強まったとして、警視庁少年事件課は15日、詐欺の疑いで、埼玉県内に住む県立高校2年の男子生徒(16)を16日にも立件する方針を固めた。捜査関係者への取材で分かった。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110216/crm11021607150004-n1.htm

先ごろ結果が判明した総選挙では、めでたく“あっちゃん”が1位に返り咲いたという。
『もしドラ』効果なのだろうか?

5月から6月にかけて実施された『AKB48 22ndシングル選抜総選挙「今年もガチです」』では得票数139,892票を集め、1位の座に返り咲く。

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2011年6月12日 (日)

黄瀬川クラシックコンサート・ファイナル

静岡県裾野市は、文字通り、富士山の裾野にある。
市のオフィシャルサイトには次のようにある。

裾野市は静岡県の東、富士山のふもとに広がり、東には箱根外輪山、西には愛鷹連山と豊かな自然に囲まれた工業のまちです。
人口は54,531人(平成23年1月1日現在)、面積138.17平方キロメートル。気候は温暖で、交通の便も良く、豊かな自然と産業が調和したまちです。
また、裾野市は『健康文化都市』を宣言し、誰もが健康で、人と自然のふれあいを大切にして、豊かな裾野の文化を作り続けることを目指しています。
そして、わたしたちの一番の自慢は雄大な富士山の眺望です。稜線が最も美しく、優雅で、気品に満ちた四季折々の富士山を、ぜひご覧ください。

Photo_2 その自然環境の中で、美しい音楽を聴き、観光振興にも貢献しようと、20年ほど前に「富士山麓国際音楽祭」が始まった。
指揮者兼フルート奏者に金昌国氏を音楽監督として、国内外の一流の演奏家を集め、グレードの高い音楽会だった。
しかし、企画実行の中心人物だったS氏が体調を崩したことなどにより、数年前に終了となった。

私見を言えば、金氏とS氏の目指した路線が、いささか大衆のレベルから遊離していたように思う。
もう少し馴染のあるいわゆる名曲を増やしても良かったのではないかと思う。
例えば、「ベートーベン交響曲第2番」と聞いてどんな曲であるかピンとくる人は相当マニアックではないだろうか?
大都市ならともかく、人口5万人程度の地方都市で集客するにはちょっと無理があったように感じる。

谷川雁は、かつて工作者の思想として、、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」存在を唱えたことがあった。
政治家は保守とか革新という枠を超えて、本質的に工作者としての性格を持っている、あるいは持つべきではないか?
だから政治家にとっては未だ味読すべき言葉だとは思うが、大衆と知識人の境界が曖昧になった時代では、とうに忘れ去られてしまっているのだろうか。
ポピュリズムに陥ることなく、なおかつ大衆から遊離することなく、というのは至難の課題である。

Photo_3 「富士山麓国際音楽祭」に連動して、「黄瀬川クラシックコンサート」が開催された。富士山麓が一流のプロの演奏家によるものであるのに対し、こちらは基本的にはプロの卵(?)の演奏家による。
黄瀬川は、裾野市の中心部を縦断し、沼津市で狩野川に合流する。
コンサート会場の裾野市民文化センター(アザレアホール)は、黄瀬川沿いにあるので、相応しい名前だろう。

その「黄瀬川クラシックコンサート」が今年第20回という節目を迎えたのを機に、「ファイナル」となった。
中心となっていたF女史が後進に道を譲りたい、ということである。
草の根的な活動が、国際的な音楽祭を可能にすると思うので、F女史の志を継いでいって欲しいと思う。

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2011年6月11日 (土)

西田利貞氏と人間性の起源/追悼(12-2)

日本モンキーセンター所長の西田利貞氏が、6月7日亡くなった。

チンパンジー研究の第一人者。アフリカ・タンザニアでのチンパンジーの生態研究で、雄を中心としたチンパンジーの社会構造を解明した。国際霊長類学会や日本霊長類学会の会長を歴任。08年に、人類の起源に関する研究者に贈られる「リーキー賞」と国際霊長類学会生涯功労賞を日本人で初めて受賞した。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011060800396

今西錦司氏を始祖とする霊長類研究における京都学派の代表的存在だったといえるだろう。
私は学生時代に、『学者の森』 毎日新聞社 (1963) という本で同グループの研究スタイルを知り、個体識別という方法論に感動した記憶がある。
私などには同じように見える動物の顔(というか身体の特徴)を見分け、群れにおける個体の行動を明らかにして、動物の社会学というジャンルを確立した。

西田氏は、Wikipedia110608には、以下のように解説されている。

伊谷純一郎に師事し、当初はニホンザルのオスと群れの関係を調査した。1965年からタンザニアのマハレ山塊で野生チンパンジーの調査に着手し、1966年に餌付けに成功した。以後世界的にチンパンジー研究の発展に貢献している。

進化論は、人類はサルから分かれた、と教える。
しかし、ヒトはヒト以外の霊長類と、何が異なるのであろうか?
西田利貞『人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ (学術選書)』京都大学学術出版会(9910)は、人間性というものの多くがサルから引き継いだものであることを解説する。

たとえば「人はなぜ太るのか?」。それは、ヒトが、元来は食物を多量に食べることができない環境に適応した動物だったからである----私たちが人間独自の性質だと信じている事柄の多くは、ヒトが「サル」から引き継いでいる。
家族、政治、戦争、言語等々、人間性の起源をサル学から解き明かす。

それでは、ヒトは何によってヒトになったと言えるのだろうか?
進化論自体、誰も目で見て確認したわけではない仮説だが、好奇心をそそられるテーマである。

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2011年6月10日 (金)

「伊達直人」と「風天」の陰徳

タイガーマスク運動については、改めて言う必要はないだろう。
⇒2011年6月 3日 (金):金子詔一さんの『ランドセルの歌』
静岡新聞110608に、御殿場市におけるこの運動の一環が紹介されていた。

Photo_2 御殿場市萩原の市民交流センター交流ロビーに、送り主不明の人物からの寄付金で購入したベンチ形の囲いとカラフルな立方体のブロックが登場し、施設に訪れた親子連れなどの人気を集めている。
 同所にある御殿場市社会福祉協議会にはことし1〜2月に掛けて、「伊達直人」と「風天」を名乗る、送り主不明の封書が計3回届いた。封書には「タイガーマスクの出現に感動した市民です。福祉の役に立てて」「恵まれない子どもに役立てて」などと記した手紙があり、同封された現金は計19万円に上った。
http://www.at-s.com/news/detail/100034931.html

タイガーマスク運動は、「伊達直人」から「風天」さんに拡大したわけである。
風天を名乗った人にどのような思いがあったかは知らない。
しかし、風天の俳号を持つ渥美清さんの人柄が好きな人ではないかと推察する。

渥美さんは私生活を明らかにしなかった人である。
しかし、いくつかの句会に参加する俳人としての一面を持っていた。
俳人渥美清について、森英介『風天―渥美清のうた』大空出版(0807)を参照しつつ、紹介したことがある。
⇒2008年7月12日 (土):風天の詩学…①「お遍路」という季語

⇒2008年7月17日 (木):風天の詩学…⑥「寂び」という美意識

タイガーマスクは、虎のマスクで顔を隠した。
渥美さんも、隠れることの名人だったという。
⇒2008年7月16日 (水):風天の詩学…⑤「秘すれば花」という生き方
表に出るより、隠れている方が好ましいという美学である。

御殿場市における寄付の贈り主も、「伊達直人」にせよ「風天」にせよ、名前を出さない生き方に共感したのではないか。
自分の功績を誇大にアピールしたがる人がはびこる世相ではあるが、この国には、陰徳という生き方に価値ありとする人も少なからずいるのである。

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2011年6月 9日 (木)

宮脇昭氏の講演と「ぬまづの森」の試み

世に松原の名勝地は多い。
その1つ「高田松原」が津波に襲われた映像は生々しい記憶である。

日本百景にも数えられる、白砂青松の弓型海水浴場。 この「白砂青松」の地に年間約 40 万人もの人々が憩いを求めてやって来ます。
盛岡中学時代の石川啄木が激賞し、また俳壇の巨星高浜虚子も日本百景の審査員として訪れた際に句を詠んでおり、それぞれ
歌碑、句碑 が置かれています。
Photo
http://www.3riku.jp/kanko/docs/attractions/coast.html

この松原が1本だけ残り、名勝指定が継続することになった。

Photo_2
文化庁記念物課の本中真主任文化財調査官は20日、東日本大震災で甚大な被害を受けた陸前高田市の国の名勝高田松原を視察し「価値はなくなったとは考えていない」と名勝の指定を継続する考えを示した。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110421_9

沼津市にも、千本松原という美しい松林がある。

千本松原(せんぼんまつばら)は静岡県沼津市の狩野川河口から、富士市の田子の浦港の間約10kmの駿河湾岸(正式名称富士海岸、通称千本浜)に沿って続いている松原。
松林越しに富士山を望むことが出来る。数々の文人たちに愛されたということでも知られている。中でも大正15年(1926年)には歌人若山牧水が静岡県の伐採計画に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち計画を断念させた話は有名である。日本百景、日本の白砂青松100選にも選ばれている。
千本とはいうものの、現在は30数万本以上あるという。
1976年に東海地震説が発表されてから、駿河湾の海岸では津波対策が盛んに行われるようになった。松原と海岸の間には堤防が築かれ、景観を損ねているという意見もある。

Wikipedia100908

沼津市では、「ぬまづの森づくり」を進めている。

沼津市は5日、温暖化防止や環境教育に役立てようと、常緑広葉樹の苗木など約2000本を植樹するイベント「ぬまづの森づくり」を同市東原の市立今沢中学校(渋谷豊寿校長)で開いた。世界的な植樹活動で知られる宮脇昭・横浜国立大名誉教授が指導し、栗原裕康市長や同校の生徒、住民ら約450人が参加した。
昨年8月の片浜北公園(同市西間門)に続き2カ所目。宮脇さんは、土地に本来根付く樹種を選び、多種類を密集して植える方法を提唱しており、今回はタブノキやシラカシなど約49種類の苗木を校内に植えた。
宮脇さんは、実地調査した東日本大震災の被災地の状況や、世界各地での植樹の様子を映像や写真を使って紹介。植樹が防災にもつながると訴え、「命を守る森づくりを、沼津から世界へ広げてほしい」と呼び掛けた。
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20110606ddlk22100095000c.html

沼津のローカルペーパー「沼津朝日110608」に、宮脇さんの講演の内容が紹介されている。

「科学技術は何でもできる」として、津波は堤防で防ぐことができ、原発の放射能は閉じ込められると考えた。
「自然の掟」を無視してきたことで3万人近い人が亡くなった。
津波によって、クロマツは破壊されたが、常緑広葉樹は耐えている。
かまぼこ型の「緑の防波堤」を海岸に沿って築くことにより、津波の威力を減殺することができる。「緑の防波堤」は、津波の引き潮にも耐えられる。

何が幸福か?
「今、生きていること」と「生物誕生以来、40億年続いてきた遺伝子を残すこと」だ。
共存しながら生き、異なったものを排除しないことが大事だ。
日本人は、古来、「木を切ったらバチが当たる」として、鎮守の森や水源林を守ってきた。
木を植えることは、命を植えること、明日を植えること、心に木を植えることだ。

宮脇さんは、今沢中学校で植樹をした後、千本松原を視察し、栗原市長らに、松林を害虫から守るのに、薬剤散布に替わって、生態学的な方法-薬剤に頼らなくてはならなくなったのはクロマツの純林になったからで、多様な樹種が混じっていれば害虫を野鳥が食べるなどして、林そのものは守れる-を提言した。
宮脇さんの話は、東日本大震災の復興のあり方のヒントになるものだと思う。

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2011年6月 8日 (水)

菅首相は一流詐欺師(ビッグコンマン)たりえたか?

不信任案否決で花道を飾るかに見えた菅首相だが、その後の展開は依然として芳しくないようである。
そもそも不信任案が否決されたのは、民主党代議士会で、菅氏の退陣表明に合わせ、鳩山氏や原口氏など反菅の軸となると思われた人が、否決を促す演説をしたことによる。
直後の衆院本会議では、最小限の造反は出たものの、大差の結果になった。
劇的ともいうべきどんでん返しである。

代議士会の様子はインターネットTVで見ていたが、鳩山氏や原口氏の態度が豹変したことの理由はよく分からなかった。
その後、鳩山氏と菅首相の間で確認事項という形で約束が交わされていることが判明した。
2
書式としては、下部に余白があるのが気になるが、両者が署名するスペースと考えるのが一般的だろう。
伝えられるところでは、署名を求めた鳩山氏に対して、菅氏が「同じ党内のことだから」云々ということで署名に応じなかったのだという。
「Trust me.」と言われたら、鳩山氏も強く求められなかったのだろう。
しかし、この余白部分に、本当に重要な密約が書かれていたのだ、などという怪説もあるらしい。
私はそもそもこういうボス交じみたやりとりが好きではないし、余り意味があることとも思えない。
案の定、確認事項の解釈をめぐって、さっそく両者が食い違いをみせた。

菅氏は、復興と原発事故に「一定のめど」をつけるまでは続投する意味だ、と続投に力点を置いて説明し、「一定のめど」とは、例えば原子炉の低温冷却が確認された時点のことだと、東電の実現性が危ぶまれている工程表でさえ来年のことになっている時点を口にした。
あたかも、勝者の余裕の如くにである。
これに対し、早期退陣のつもりでいた鳩山氏が「ペテン師だ!」と最大級の非難の言葉で応じた。
さすがにルーピーと評された鳩山氏も、「オトシマエをつけてやる」と言わんばかりである。お坊ちゃんはそんな言葉は使わないが、明らかにキレたように見えた。

不信任案に反対票を投じた民主党議員も、退陣表明をしたからには、そんなに長く椅子に座っているとは「想定外」だった。
菅氏の無期限(?)続投宣言で、一挙に流れが逆転してしまった。
今や閣僚ですら、今月末か来月初めがコンセンサスのようで、菅氏が「せめて8月まで」と言っても、耳を貸す人はほとんどいない。
完全なレームダック状態で、もはや早期退陣の流れを変えることは不可能だろう。

代議士会での不自然な逆転劇には、門外漢には理解しようもない事情があったようである。
前夜から、首相が退陣表明をするのでは、という情報が流れていたらしい。
そこに代議士会での演説である。
聞きようによってはどちらともいえる内容かもしれないが、「退陣」を刷り込まれていた人たちは、すっかり早期退陣と受け止めた。
菅氏の詐術を、「お見事!」と賞賛すべきであろうか?

私が山崎和邦『詐欺師と虚業家の華麗な稼ぎ方 人はこうして騙される』中経出版(0511)で勉強した詐欺師の手口は以下のようである。
⇒2009年5月 4日 (月):詐欺の第一段階としての錯覚誘導
⇒2009年5月 5日 (火):詐欺の第二段階としての瑕疵ある意思決定
⇒2009年5月 6日 (水):詐欺の第三段階としての財物の受け渡し

一事不再理とされる不信任案への投票は、財物の受け渡しに相当するであろうから、見事に上記プロセスを辿っている。
白昼堂々、弁論の専門家であるはずの政治家を相手に、完璧といっていい形でやり遂げた。
菅氏は、コンマンだったのだろうか?

コン‐マン 【con man】
《 confidence man の
俗称》詐欺師。お人よしにつけこんで人をだます者

しかし、一国の首相が、詐欺師の手口で延命したところで何になるだろう。
しかも、ビッグコンマン(一流の詐欺師)とは、被害者すら被害に遭っていることが分からないような人をいうらしいから、一流とは言い難い。
いまや菅氏の思惑とは異なり、一挙に退陣への流れが本流になった。
花道になるはずの末路を自ら汚してしまったと言えるだろう。
ひょっとして、菅氏を騙した本当のワルがいるのかも知れない。
それにしても、民主党は、そろそろ「トロイカ体制」に引導を渡したらどうか?
⇒2010年8月31日 (火):いまさら「トロイカ体制」か?

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2011年6月 7日 (火)

『プリンセス トヨトミ』

奇想天外な大人のファンタジーと言えようか。
原作は、万城目学の同名の小説。
万城目(マキメ)というのは珍しい姓であるが、本名。京都大学法学部出身で、お笑い芸人の(というよりもクイズで有名な)ロザン・宇治原史規は大学の同級生にあたるという。

大阪全停止。
その鍵を握るのは、トヨトミの末裔だった。

上記のコピーからどんなことが想像できるだろうか?

Photo_3
大阪の機能が全停止したのは、7月8日。
その4日前に、会計検査院の調査官が東京から大阪にやって来た。国の予算が適正に使われているか否かを調べるためだ。
メンバーは、「鬼の松平」こと松平元(堤真一)とその部下の鳥居忠子(綾瀬はるか)、旭ゲーンズブール(岡田将生)の3人である。

3人は、財団法人OJO(大阪城趾整備機構)の検査に入る。
OJOには国から多額の支出が行われているが、その経営管理は完璧に適正なように見えた。
が、OJOの実態は……。

橋下大阪府知事と大阪維新の会によって、大阪都構想が提唱されている。
Monacomap_2大阪都構想の是非はともかく、東京への一極集中化が行きすぎであるとは言えるだろう。
複数の極が存在した方が、例えば東日本大震災等の国難に対する対応力は向上するものと思われる。
大阪は、歴史的にみても、東京に拮抗はできないまでも、カウンター勢力にはなり得るだろう。
もし、地方分権を極端に推し進めて、独立国にまで行ったら?
あながち空想的とは言えまい。
F1グランプリの開催で知られるモナコ公国は、人口3万2千人強の独立国である。

あるいは、日本にも秘密結社が組織されていて、何かを合図として一斉に蜂起するようなことはないだろうか?
最近の政治状況を眺めているとそんな夢想をしてみたくなる。
子供のころ親しんだ水滸伝や南総里見八犬伝のように、何かの縁で結ばれた組織。
いまの国家運営を非として、突如立ち上がる大衆。

外部には秘密にされていることを、生涯に一度だけ息子に伝えるとしたら、どういう機会を選ぶか?
その父の思いを知らずに、自分の都合で機会を失わせたとしたら、息子はどうするか?
私も父の死に立ち会っていず、生前に親しく話をする機会がなかったので、あるいは何か伝えたいことがあったのではないか、とふと夢想することがある。

あるいは、性同一性障害者が身近にいたら、どう接するか?

盛り沢山のテーマが詰め込まれたエンターテイメント作品なので、それぞれの立場で楽しめるだろう。

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2011年6月 6日 (月)

『マイ・バック・ページ』

退院してから、初めて映画を見てきた。
清水港にあるエスパルスドリームプラザという商業施設の中にある「MOVIX清水」というシネコンである。
私が観たいと思った『マイ・バック・ページ』が、県内では、ここと浜松でしか上映していない。しかも、17:30~の1回だけである。
妻は、夜の運転はイヤだというので、電車で出かけることにした。

帰りの運転がないのであれば、妻は自分が観たい『プリンセス トヨトミ』の2本立てでどうか、ということになった。
複数本の映画は、昔は当たり前だったが、ずい分久しぶりである。
エスパルスドリームプラザは、結構な賑わいぶりで、震災の影響は特に感じられなかった。
映画館フロアも人がいっぱいだったが、両作品とも座席には余裕があった。

『マイ・バック・ページ』は、川本三郎さんの同名の作品が原作である。
川本さんは私と同世代の作家であり、馴染のある題材が多い。
「週刊朝日」や「朝日ジャーナル」等の記者を経て、作家になったが、1969~1972年の週刊誌記者時代の体験を基にした作品である。
物語の軸になっているのは、現実に起きた赤衛軍を名乗る自衛隊員刺殺事件である。

1971年8月21日、陸上自衛隊朝霞駐屯地でパトロール中の自衛隊員が刺殺される。現場には「赤衛軍」と書かれた赤ヘルメットと、闘争宣言と題されたビラが残されていた。ビラによれば赤衛軍の目的は武器奪取であったが、奪われたものは隊員の腕章だけであった。
首謀者であった日大生Kはその年の11月に逮捕されるが、彼の供述によって、当時京大経済学部の竹本信宏助手(ペンネーム:滝田修)が赤衛軍の頭目として指名手配され、竹本氏はその後11年に及ぶ潜伏逃亡生活を送ることになる。他にも、朝日ジャーナルの記者であった川本三郎も、Kの証拠隠滅に手を貸したとして逮捕され、退社を余儀なくされている。
この事件は勃発当時から謎に包まれていた。その駐屯地侵入・隊員刺殺という行動があまりにも突発的で、赤衛軍なる組織も全く知られていなかった。そのころの学生運動周辺でウロウロしていた私や友人たちも、皆あれは謀略だと噂していたものだった。

http://med-legend.com/mt/archives/2006/08/post_818.html

Photo 私は既に社会人になっていた。この事件は、不自然なことが多く、フレームアップの可能性が大きいのでは、と思った記憶があるが、実態は知る由もなかった。
川本さんは、当事者の1人だったらしい。
上記の日大生Kとあるのは、菊井某といい、映画では片桐という名前が与えられて、松山ケンイチが演じている。
小雪さんと結婚して有名になった俳優である。
赤衛軍は、赤邦軍という名称で、上記の引用がほぼ忠実に映画化されている。

川本さん役は、沢田という名前で、売出し中の妻夫木聡が演じている。
片桐の言葉を疑いながらも、当時の若者に通有の左翼シンパの心情から、結果的に片桐らの犯行に加担してしまう沢田。
実際に、川本さんも、朝日新聞社を懲戒免職になり、懲役10か月、執行猶予2年の判決を受けた。

滝田修のペンネームで活動していた竹本信弘さんも、前園という名前で重要な脇役として登場している。
黒幕とは言っても、30歳を超えたばかりであったことを考えると、皆若かったと改めて思う。
むしろ未熟という方が妥当ではあるのだろうが。
Wikipediaには次のように書かれている。

1968年、若手研究者として将来を嘱望される一方、京大闘争が始まると、助手の立場から参加。この頃から「滝田修」のペンネームで積極的に論文を執筆するようになる。パルチザンを組織して闘争を行うことを主張。その暴力革命論は全国の全共闘系学生に心情的影響を与えた。竹本に影響を受けた学生の中には同大学出身の奥平剛士安田安之らがおり、2人は1972年テルアビブ空港乱射事件を起こした。

今は昔の話である。
後に、自ら「滝田修解体宣言」という形で自己批判したらしいが、その影響力を償えるものではないだろう。
終演は20時過ぎ、家に着いたのは22時くらいだったので、さすがに疲れた。

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2011年6月 5日 (日)

沼津における津波の歴史

私は、2004年のスマトラ沖地震を映像的には知っていた。
東海地震の想定被災地域に居住する者として、地震と津波には一定の関心を持っていたつもりであった。
しかし、あんな巨大な地震と津波が、私が生きている間に、日本列島を襲うことは想像すらし得なかった。
もちろん、例えば2005年1月1日時点で、特に危険だとされる地震として、以下のような表がある。
Photo
http://jisinbousai.net/?mode=f5

菅首相が、東海地震の発生確率を30年以内に87%として浜岡の運転中止要請をした根拠も上記数値である。
2005年から6年経っているから、84%が87%に上昇した。
宮城県沖は、2033年までに99%(実質的に100%)で地震が起こると予測されていた。
しかも三陸地方は、歴史的に大きな津波災害を受けてきた経験がある。
したがって、さまざまな対策がとられてきたのである。

にもかかわらず、あのような激甚な災害が起きてしまった。
被災地域に住んでいない私でさえ、心が萎える思いである。
もちろん明日にも東海地震が発生するかも知れないので、他人事ではない。
そして東海地震だけではない。日本国中安心・安全な地域はないといえよう。
防災の難しさをいまさらながら思う。

5月27日の静岡新聞に、良く知っている地域の写真が載っていた。
Photo_2
狩野川は伊豆半島を北へ(!)流れて、沼津で左折し駿河湾に注いでいる。
河口に接する沼津港は、水産業の基地としてだけでなく、観光地としての整備が行われている。
フィッシャーマンズワーフのような施設や多くの飲食店があって、休日などは域外からの入込客で結構な賑わいを見せていた。
しかし、3月11日以降は、港ということで、観光客は激減したそうだ。

狩野川を挟んで沼津港の反対側に旧御用邸がある。
現在は、沼津振興公社の管理下にある公園となっている。写真の下端部右側である。
写真で青く網がかかっているのが安政東海地震の津波による浸水域である。

旧制沼津中学出身の井上靖は、自身の中学時代の体験をベースに『夏草冬涛』を書いた。
その文学碑のある妙覚寺は、写真の左上の狩野川右岸である。
Photo_3
Photo
「香貫・我入道・みなとまち」とある部分のほとんどが津波の浸水域であった。
明治史料館所蔵の絵図では、「田地変じて湖水となる」と説明書きがあるという。
狩野川の河口から3.5kmの地点まで、1.8mの水位の海水が遡上したと記録されている。

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2011年6月 4日 (土)

秋川雅史コンサート

「秋川雅史コンサートツアー~ファンタジスタ~」を聴いてきた。
『千の風になって』で一世を風靡したことは知っていたが、今までそれ以上の知識はなかった。
Photo_2 P_3

ご覧のように、バラエティに富んだプログラム構成である。
『千の風になって』は最後に置かれていた。
意外だったのは、『ひばりの佐渡情話』だった。

「作詞/西沢爽、作曲/船村徹」という演歌のゴールデンコンビの作品である。
美空ひばりが、巧みな小節を利かせて唄っていたような気がする。
しかし、そもそも美空ひばりが「my favorite」ではなかったので、はっきりした記憶がない。

♪佐渡の荒磯(ありそ)の 岩かげに
  咲くは鹿(か)の子の 百合の花
  花を摘み摘み なじょして泣いた
  島の娘は なじょして泣いた
  恋はつらいと いうて泣いた
http://8.pro.tok2.com/~susa26/natumero/utagoe/18sadozyowa.html

クラシックのテノール歌手がどう歌うのだろう?
結果は、当たり前だが、見事なものだった。
豊かな声量を操り、ひばりとはまた味わいのちがう『ひばりの佐渡情話』に仕上がっていた。

コンサートツアーは9月~8月のサイクルで、構成を基本的には固定して行われるということだ。
つまり完熟の時期にあたるが、毎年ひばりの曲を入れるようにしているそうである。
意外と相性がいいのだろうか?
ひばりの曲は結構難しく、チャレンジ欲をそそられるのかも知れない。

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2011年6月 3日 (金)

金子詔一さんの『ランドセルの歌』

『今日の日はさようなら』という永く歌い継がれる名曲を作詞作曲した金子詔一さんが、新しく開設したオープンハウス「一人静か」で、東日本大震災義援のためのチャリティ・イベントを開催したことは既に紹介した。
⇒2011年4月13日 (水):左手のピアニスト・智内威雄さんの演奏を目の前で聴く
その時のビデオ映像が届いた。

オープンハウス周辺には桜吹雪が美しく舞って、季節が確実に移り変わっていることを実感できた。
桜花を愛でることは、日本列島に生きる幸せの一つだろう。
しかし、被災地ではようやく復旧の歩みが始まろうかという現実があった。

子供たちがポニーと遊ぶ溌剌とした姿や、音楽家たちの奏でる美しいハーモニーに、萎えそうになりがちな傾向に、改めて「喝」を入れられた思いがする。
金子さんの活動等については、下記サイト等を参照されたい。
http://www.fia2400.com/fiaj/index_j.html

金子さんには『今日の日はさようなら』以外にも、心に響く歌を作られている。
例えば『ランドセルの歌』である。
カセットテープで聞いたことがあったが、ムリなお願いをしたところ、CD版を送って頂いた。
以下の詞は、聞き書きの上、金子さんのチェックを受けていない。だから著作権的な問題もあるかも知れない。

ランドセル 歌ってた 僕たちの 背中で
一年生の 背中には 大きすぎた ランドセル
ラララ ランドセル 覚えてる あの頃の 僕たちを
思い出 包んでる 包んでる
先生に 叱られた 学校の 帰り道
ランドセル 泣いていた 悲しそうに カタコトと
だけど 先生に ほめられた こともある
背中が 温かい 温かい

ランドセル 開けてみる 教室の 匂いです
友達の 笑い声 先生の 声がする
ラララ ランドセル 覚えてる 僕たちの 六年間
思い出 包んでる 包んでる
小さくなった ランドセル 僕たちの 背中で
今別れの 時がきた 有難う ランドセル
だけど ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる

ラララ ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる
ラララ ランドセル 歌ってる いつまでも いつまでも
僕らの 背中で 歌ってる
(繰り返し)

子育ての経験がある人ならば、良く理解できるのではないだろうか。
妻の話では、金子さんのご子息が小学校を卒業する時の作品だそうだ。
そして今や私たち夫婦は、孫のRクンがランドセルを背にする姿が待ち遠しい歳になった。

ランドセルというのは不思議なモノだ。
明らかに単なる小学生用のバッグという以上のモノである。
一種の記号として、象徴的な意味を担っている。

ランドセルだったからこそ、いわゆるタイガーマスク運動があのような共感の輪を喚起したのだろう。
⇒2011年1月12日 (水):出口の見えない菅政権と民主党解党という選択肢
タイガーマスク運動はいまさら説明するまでもない。Wikipedia(110414最終更新)の解説を見よう。

2010年12月25日、「伊達直人」を名乗る正体不明の人物から、群馬県中央児童相談所へランドセル10個が送られたことを皮切りに、2011年1月1日には神奈川県小田原児童相談所にも同人物名義で寄付が行われるなど、全国各地の児童養護施設へ複数存在すると思われる「伊達直人」からの寄付行為が相次いだ。これらの寄付行為は、寄付者の名義である「伊達直人」が、漫画「タイガーマスク」の主人公で、自らが育った孤児院へ素性を隠して寄付をする人物と同名であることから、「タイガーマスク運動」と呼ばれるようになった。またこの寄付行為を全国で相次いでいる現象と見て「タイガーマスク現象」と呼ぶこともある。

大震災の前から、日本社会は物質的な豊かさ(≒GDP)に替わる価値観を求め始めていたのだと思う。
それは『ランドセルの歌』が呼び起こす感情と通底するものであろう。

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2011年6月 2日 (木)

哀しき奇兵隊内閣の末路

菅首相に対する不信任案は、大差で否決された。
菅首相は信任されたのか?
<不信任案の否決=信任>という等式が単純に成り立たないところが政治の世界である。

不信任案の採否が行われる衆議院本会議に先立って開催された民主党の代議士会で、菅首相が「退陣表明」を行った。
直接的には、それで賛成を表明していた議員のほとんどが、反対に転じたのである。
退陣の時期は必ずしも明瞭ではない。
「東日本大震災からの復旧・復興と東京電力福島第一原子力発電所事故への対応に一定の目途がついた段階で」という曖昧な条件である。
今後、その意味合いをめぐって齟齬が生じる可能性があるが、とにかく退陣すると自身の口で明言したのである。
これにより、賛成すると報じられていた鳩山氏や原口氏らは反対に転じ、小沢氏は欠席した。小沢氏に近いとされる議員もほとんどが反対票を投じた。

国民新党代表の亀井氏が自発的退陣を勧め、鳩山前首相が菅首相と話し合って出た結論ということである。
いささか不透明な形であり、復興も原発事故も長期に及ぶ課題であるが、鳩山氏は、「大震災復興基本法案の成立と今年度第2次補正予算編成にめどがついだ段階での退陣」と説明している。
私は、可及的速やかに「大震災復興基本法案の成立と今年度第2次補正予算編成にめどをつけて」欲しいと思う。そして、このゴタゴタによるロスを取り返すべく、復興への取り組みを加速して貰いたい。

不信任案が否決されたからといって、菅氏も安閑としてはいられない。
与党が絶対的な多数を占めている状況において、あわや不信任の成立というところまで追い詰められたのである。
それにしても、首相が不信任案が可決したら解散すると明言したことには驚かざるを得ない。
確かに解散権は首相の専決事項であるが、現在のような事態の中で総選挙の実施など、普通の感覚では考えられないことである。
「解散辞さず」という態度に、菅氏の本質が見え隠れしているのではないか。

菅内閣はおよそ1年前に発足した。
その時、内閣を何と名づけたいかと問われて、高杉晋作の「奇兵隊」としたいとしたことを思い出した。
自らを高杉になぞらえたわけであるが、出身が山口県ということもあって、高杉は、かねてから菅氏が尊敬する人物に挙げる人物であった。
高杉を、「果断な行動を取って、まさに明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した人だ」と称賛し、「幅広い国民の中から出てきたわが党の国会議員には、奇兵隊のような志を持って勇猛果断に戦ってもらいたい」と、各閣僚の仕事ぶりに期待を示したのである。

菅内閣は、奇兵隊のような働きを成し得たであろうか?
首相は、高杉のように、果敢な行動をとり得たであろうか?

「No」と言わざるを得ないだろう。
首相就任直後の参院選で消費税増税を口にしたときから怪しかった。
民主党の源流の1つとして位置づけられる「新党さきがけ」の代表代行を務めた田中秀征氏は、昨年9月の時点で次のように批判している。

菅奇兵隊は、何といつの間にか“霞ヶ関幕府”を警護する“新撰組”に大変身してしまったのである。
私はかつて、これほどひどい政治家の変節を見たことがない。私の期待は失望に変わり、今では絶望を経て、退陣要求に至っている。

http://diamond.jp/articles/-/9323

私も、首相に就任する以前は、菅氏に期待を抱いていた1人である。
市民運動家であった首相とあらば、麻生、安倍、鳩山などの2世議員あるいはブルジョワ階級の出自の人間とは異なるに違いない。
霞が関の官僚とも正面から渡り合って、天下り禁止などの公務員改革にも力を発揮するのではないか。
しかし、その期待は、すぐに雲散霧消した。
⇒⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?
⇒2010年9月21日 (火):再び問う、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」

私もまた、田中秀征氏と同じように、早く退陣することが望ましいと考えざるを得なかった。
⇒2010年10月17日 (日):危うい菅内閣
⇒2010年11月23日 (火):菅内閣における失敗の連鎖
⇒2011年1月12日 (水):出口の見えない菅政権と民主党解党という選択肢
⇒2011年2月 3日 (木):菅首相は、どういう局面で、いつ投了するのか?

「奇兵隊内閣」というネーミングはどうだったのだろうか。
以下はあるブログからの引用である。

「奇兵隊」を知らない人のためにここで説明すると、今話題の大河ドラマ「龍馬伝」の舞台である幕末、長州藩士・高杉晋作の発案によって結成された戦闘部隊で、農民や町民など身分にとらわれない形で組織された軍隊。士農工商すべてが世襲だったこの時代、革命的な組織だったわけだが、何故このような組織が生まれたかというと、この時期の長州藩は攘夷運動によって英、仏、蘭、米の列強四国相手に戦った下関戦争で多くの戦士を失い、加えて幕府による長州征伐の攻撃を受け、まさに満身創痍の状態で人材不足が甚だしい状態に陥っていたわけで、この「奇兵隊」は、いうなれば苦肉の策だったわけだ。奇兵隊の「奇兵」の意味は、武士のみの部隊である「正規兵」の反対語で、つまりは「奇兵」=非常勤といった意味合いの言葉。となれば、菅総理の名付けた「奇兵隊内閣」は、人材不足による苦肉の策で非常勤、ということになる。
 もうひとつ、奇兵隊出身の代表的な人物に
山縣有朋という人がいる。足軽という低い身分から身を起こしてこの奇兵隊に入隊し、明治政府では第3代・第9代の内閣総理大臣にまで昇りつめた人物だが、この山県は日本陸軍の基礎を築いた人物で、「国軍の父」とも称され、後の大東亜戦争における陸軍の暴走の道を作った人物だと言ってもいい。加えて、民主党が忌み嫌う官僚制度の確立にも尽力した人物でもあり、さらに、こちらも民主党が嫌う「政治と金」の部分でも、明治政府最初の汚職事件とも言われる「山城屋事件」においてもこの山縣有朋が深く関わっている。言ってみれば、民主党の目指す政治から見れば「悪の権化」ともいえる人物で、そんな人物が軍監という中核を担っていた組織が「奇兵隊」だ。
http://signboard.exblog.jp/12774574/

結果的に、上記の引用のような意味で、まさに「奇兵隊内閣」であったことになる。
第一には、人材不足という点において、である。
こともあろうに、自民党の重鎮だった与謝野馨氏を重要閣僚に起用した。
⇒2011年1月13日 (木):与謝野氏が政府に入って、いったい日本の何が変わるのか?
⇒2011年1月14日 (金):再改造菅内閣への違和感
⇒2011年3月 5日 (土):与謝野馨氏は疫病神か?

官僚機構を大事にする点でも、自分自身の「政治と金」の問題でも、まったく期待を裏切ってきた。
その意味でも奇兵隊内閣であった。
奇兵隊の末路については以下のようである。

明治二年、大楽源太郎を首謀者とする奇兵隊の一部が蜂起、山口県庁を包囲するという事件が起こりました。いわゆる奇兵隊の反乱です。
これには木戸孝允自らが兵を率い、鎮圧に当たります。大楽はじめ主だった130人あまりが処刑され反乱は鎮圧されました。しかしその残党はその後に起こった農民反乱や萩の乱にも参加し明治新政府への抵抗を続け、そして儚く散っていきました。
幕末期、歴史の主役として躍り出てきた奇兵隊、その末路はあまりにも哀れでした。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/627015/528771/62799902

菅氏が退陣を表明したことにより、政権が終わりに近いと言っていいだろう。
残念ながら、菅氏は自ら退陣を判断する機会を逸したと言えよう。
参院選で大敗した責任を曖昧にしたままズルズルと続投してきたが、2月の名古屋市長選等のいわゆるトリプル選挙で、事実上不信任され、末路を問われていたのである。
⇒2011年2月 8日 (火):トリプル選挙の結果と菅政権の末路

4月の統一地方選の結果も同様である。
⇒2011年4月11日 (月):民意は明らか/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(4)
⇒2011年4月25日 (月):それでも朝日、毎日両紙は、菅続投支持か?/やっぱり菅首相は、一刻も早く退陣すべきだ(16)
もちろん選挙結果に一喜一憂する必要はないが、連戦連敗という結果である。
奇兵隊内閣の新撰組に変じた末路を後世の人はどう評価するであろうか?

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2011年6月 1日 (水)

花づな列島の奇跡

日本列島は、花づな列島という美しい名前でも呼ばれる。
私がこの言葉を知ったのは、小針寛司『花づな列島の奇跡-日本経済の半世紀』日経事業出版社(9611)によってであった。
危機に瀕したある企業の舵取りに悩む中で、戦後50年という間に、壊滅的な状況から世界史上に類を見ない経済発展が達成された日本という国の、その発展の原動力を知りたいという思いから手にしたのだった。

小針氏は日本経済新聞の取締役、監査役等を経て、著述業に入った。
本書執筆時の日本経済は、バブル崩壊後の反動的不況期であったが、小針氏は、戦後の経済発展を世界史の軌跡だと観じた。
そして、その経済発展の基盤は、風土的、社会・経済的な基礎構造にあるとした。

私は、学生時代に和辻哲郎『風土―人間学的考察 (岩波文庫)』(7905)に接し、その構想力と直観力に魅了された。
また、梅棹忠夫『文明の生態史観 (中公文庫)』(改版版 :1998/01)には、通説に捉われないものの見方・考え方の実例を示された。
⇒2009年4月14日 (火):文明の情報史観
⇒2010年7月 7日 (水):梅棹忠夫さんを悼む
小針氏は、和辻、梅棹的な認識を背景に、特に、石油危機以降の電子工業に発展の軸があるとみた。
Photo

http://www.geocities.jp/ttovy42195km/newpage57.html

いま、ある意味では敗戦直後と同じような風景であると言えよう。
地震、津波、原発と考えてもみなかった災害の連鎖が、あっという間に日本経済の姿を一変させてしまった。
私の人生は、ほとんど「戦後」という時代とオーバーラップしているが、この間の経済発展の脆弱性が、自然の猛威の前に丸裸にされたように思えた。
日本列島上の総人口がピークをうち、戦後民主主義の申し子のような団塊世代の総理大臣が、不祥事で進退窮まったかに見えたまさにそのタイミングで地震は発生したのである。
超長期的にみても、短期的にみても、日本人が「生き方」を再考しなければならないタイミングだったといえよう。

もちろん、多くの被災者に、改めてお悔みしたい。
また、数多くの人が、現在進行形で災害復旧や原発の事故処理に身を挺しておられる。その努力にも頭が下がる思いである。
私は、ほとんど被害を受けずに生きている。しかし、それは偶然の結果なのだと思う。
脳梗塞で文字通り倒れ、後遺症に悩まされながらも生きながらえていることも、偶然である。ほんの何ミリか梗塞の位置がずれていれば、どうなっていたか分からない。

であればこそ、自分にできることは僅かだろうけど、全力を尽くしたいとは思っている。 
上掲書からさらに15年。その間にわれわれは何をしていたのか?
失われたn年(nは人によって異なるが、20年くらいが平均値のようだ)がすっぽり入ってしまうような15年間であった。
しかし、当然ではあるが物理的な時間が失われたわけでない。
「失われたn年」という言い方は、津波で丸ごと押し流されてしまった人が使うべきかも知れない。

日本社会は一種の極相にあったと考えられる。
それが、地震や津波という外的条件によって揺り動かされたのである。
わが国の1人当たりGDPの推移は下図のようである。
Photo_2
http://www.nomura-am.co.jp/basicknowledge/mame/10_india/03.html

なお高い水準にあること、と同時に停滞域にあることが分かる。
GDP成長率は以下のように推移してきた。
Gdp
http://www.tuins.ac.jp/~ham/tymhnt/butai/keizai2/shotoku/prefincm/ch_gnp.html

東日本大震災が起きなくても、今までのような経済成長が期待できないことは明らかである。
今後どのような方向を目指すのだろうか?
例えば、以下のような選択肢が考えられる。
Photo_3
http://domodomo.net/keizaiseisaku/gdp/japan/gdp_2.html

しかし、人間の生活は、単純な2軸上の平面だけではとらえられないから、直ちには答は見つからないだろう。
緊急対策は速やかに実行していくべきだが、復興は拙速を避けるべきだと思う。

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