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2011年5月28日 (土)

退院してから1年が過ぎた/闘病記・中間報告(24)

昨年の5月29日に退院したので、1年間が過ぎたことになる。
⇒2010年6月 1日 (火):中間報告(6)退院(1)

1年間という時間は、人生の時期によって、感覚として感じる長さが異なるようだ。
小学生の頃の1年はずいぶん長かったように思う。
それが加齢とともに早く感じられるようになる。
最近では、ことに歳末などになると、「もう今年もおわりか~」という気分である。

退院してからの時間も、基本的には早かった。
幸いにして、家族の協力を得てリハビリ通院を続けており、今に至るも少しずつ改善している。
残念ながら、「男子三日会わざれば刮目して見よ」という訳には行かないけれど、「三月会わなかった」人には、「ずいぶん動きが軽やかになりましたね」などと言われる。
主に足の印象だろうが、手も三月前とは明らかに違う。軽装になって楽になったこともあるが、着替えの時に、口を利用する回数がずい分少なくなった、と思う。
冗談で、「口は手ほどにコトをする」と言っていた頃は、シャツなどの着替えにも口の出番が多かった。

人によっては、「口もずい分滑らかになったようで……」などと言ってくれる。
これは自覚がなかなか難しい。もちろん、現在でも言いたいことが直ぐに言えるほど円滑ではない。
意識と実際の発語にはかなりの落差がある。
しかし、もともと能弁ではなかった。だから、その時のことを知っている人は、「前とほとんど同じ」と感じるらしい。

これも知人たちの協力を得て、であるが、僅かばかりの社会復帰をさせて頂いている。
もちろん、非常勤としてではあるが、行くところがあることが、リハビリのためにも好結果をもたらしていることは確かだ。
遠隔コミュニケーションの手段が広がったので、障碍者にはいい方向に社会は発展していると思う。

この1年を振り返ると、さまざまな出来事があった。
おめでたい話もあったし、悲しい報せもあった。
何といっても衝撃的だったのは、「3・11」である。

何年に一度かは分からないが、少なくとも日本という国の歴史に刻まれるのは間違いない。
私は、地震・津波という天災と、フクシマの事故とは峻別して捉える立場である。
地震・津波は、平安時代の貞観以来とも言われている。

近代になってからでも、吉村昭『三陸海岸大津波 (文春文庫)』に描かれているように、明治29年、昭和8年、そして昭和35年と青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われている。
明治以来の日本の近代化とは何だったのか?

私の人生との関係で言えば、フクシマでの出来事は決定的な意味を持っている。
何よりも、現在という時代が、原発という選択の結果としてあるという現実と向き合わなければならないだろう。
武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ - 増補版「核」論 (中公新書ラクレ)』(1105)によれば、「原発大国」路線の歩みは、1954年の映画『ゴジラ』に始まる。
1954年と言えば、ほぼもの心がついた時期だ。
私の人生は、日本の「原発大国」への歩みと同期していることになる。
原発の「恵み」を享受してきたという事実の上に立って、フクシマを体験したものとして、「脱原発」を現実化していく選択は必然だと思う。
その上で、さまざまな選択肢の中から、何を選び、何を捨てるのか?
改めて問い直したい課題である。

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