いいだもも氏の訃報/追悼(12)
震災関連のニュースに埋没するような形でひっそりと1人の訃報が流れた。
いいだもも氏である。本名飯田桃、1926年生まれ。
新左翼の1人ということになるが、左翼自体がすっかり昔日の勢いを失って久しい。
3月31日午後3時37分、老衰のため神奈川県藤沢市の病院で死去した。85歳だった。東京都出身。
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2011040200158
別名として、宮本治を使用。「宮本顕治と太宰治をアウフヘーベンする」との意図だという。
しかし、左翼の政治運動家として宮本顕治に及ばず、文学者として太宰治に及ばなかったと言わざるを得ない。
1944年に東京帝国大学法学部入学。同期に三島由紀夫(本名平岡公威) がいたが、直接の交友はなかったとか。
1947年、東大法学部を首席卒業して日本銀行に入行。まもなく結核のため退職し、茨城県で療養中、新日本文学会などに参加。いわゆる残飯闘争を指導した。
Wikipedia110402最終更新
飯田が首席なら平岡は2番以下ということになるが、そんなことはどうでもいい。
飯田は日銀へ入り、平岡は大蔵省へ入った。後年の2人の姿を思うと、大学卒業頃に抱く人生プランなど全くアテにならないことに、現役の大学生は思いを致すべきだろう。
文学者としての実績は、平岡(三島)の方に軍配を上げることになるだろうが、文学は勝ったとか負けたとかで評価するものでもない。
戦後まもなく、一高生を中心に全国の大学や高校をつなぐ同人誌『世代』の創刊に参加した。伝説的な雑誌である。
『世代』の学生寄稿者には、吉行淳之介、中村稔、八木柊一郎らがいた。多士済々、まことに綺羅星の如くではあるが、その中で、東大法学部首席の飯田が抜群であったとも言い難いようである。
何より、『世代』といえば、遠藤麟一朗の名前が知られる。
⇒2008年5月28日 (水):『世代』と遠藤麟一朗
いいだの活動家としての略歴は以下の通りである。
1961年、処女作『斥候〔ものみ〕よ夜はなお長きや』を発表。水戸市にて梅本克己たちと水戸唯物論研究会で活動する傍ら、農民運動のオルグに挺身。
1965年、綱領論争をめぐって日本共産党から除名処分を受け、新左翼陣営に入る。1960年代後半はベ平連の活動を支え思想の科学研究会で活動。
1967年、共産主義労働者党書記長に就任。後に議長となり、1969年に辞任。その後、同党の赤色戦線派を結成して活動したが、メンバーを結集させる事ができず指導を放棄して組織から離脱した。以降は自称「しろうと」として、評論家・著述家として活動。
1979年、『季刊クライシス』を創刊、編集代表を務める。
Wikipedia110402最終更新
要するに、一貫してサヨクの人だったが、この世代の活動家と同じく、旧から新へ変わった。
最初から新、というのは、1940年生まれくらいからだろうか。
リーダー的立場にはいたが、大衆に対して多少でも影響力を持ち得たのは、ベ平連時代だけだと思う。
才能は余るほどあったと思われるので、もう少し有効な活動をしていれば、現在の政治状況も多少変わっていたのではないだろうか。
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- スキャンダラスな東京五輪/安部政権の命運(94)(2019.03.17)
- 際立つNHKの阿諛追従/安部政権の命運(93)(2019.03.16)
- 安倍トモ百田尚樹の『日本国紀』/安部政権の命運(95)(2019.03.18)
- 平成史の汚点としての森友事件/安部政権の命運(92)(2019.03.15)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「追悼」カテゴリの記事
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
- 「わからない」という方法・橋本治/追悼(135)(2019.01.30)
- 人文知の大輪の花・梅原猛/追悼(134)(2019.01.16)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
こんにちは。
僕なんかは、名前は聞いたことありますが「世代」という文芸誌は手に取ったことないんです。
どちらかというと、寺山修司さんなんかが仕掛けたのか、いわゆる旺文社や学研の「学年誌」なんかの投稿欄に、早熟な中学生や高校生が、詩や短歌や文章を投稿していて、そのなかの優れた連中が、いろんな地方でミニコミを出していたんですね。で、おずおずと東京に出てきて、「天井桟敷」なんかに傾注していくわけです。
遠藤騏一郎さんも僕は不勉強で知らなかったので、ああ、なるほど、と。
投稿: kimion20002000 | 2011年4月 5日 (火) 02時58分