永訣の悲しみ/私撰アンソロジー
今日は東日本大震災から49日目にあたる。
被災した各地で、四十九日の法要が行われた。
東日本大震災では、万で数えるほどの、数多くの命が失われた。未だ行方の分からない人も、届け出があっただけで、万を超えている。
長年身近にあった人がいなくなるということは、余人には窺い知れない悲しみをもたらす。
震災により失われた数多くの人は、それぞれの場で、それぞれの形で、周りの人たちに悲しみを与えたことだろう。
死の悲しみは、震災のように多数が一度に失われた場合においても、それぞれに固有のものであるに違いない。
歌人の永田和宏さんは、昨年の8月12日、妻で歌人の河野裕子さんを病気で失った。
その最期の様子は、河野裕子・永田和宏・その家族『家族の歌 河野裕子の死を見つめた344日』産経新聞出版(1102)に綴られている。私が同書に触れ、読後の感想めいたものを記したのは、震災の前日であった。
⇒2011年3月10日 (木):『家族の歌』と歌人の宿命
思えばあの日から、私においてさえ、目にする景色が一変してしまったような気がする。
永田さんは裕子さんとの永訣の悲しみを挽歌にして発表した。
永田和宏さんと河野裕子さんは、夫婦であると同時に共に歌人であった。
歌人としての二人は、互いに相手の力量を認めあっていたであろう。
夫婦が共に同じジャンルの作家であることは、多分制作の喜びを倍増するであろう。
しかも、自他共に一流歌人と評価されている人の作品に、×をつけるなどというのはおそらく至福のひとときではないか。
しかし、もちろん生活は楽しいことばかりではあるまい。
創作というのは、基本的に属人的な作業であり、いかに親しい人であっても、気配そのものがわずらわしい時もあるはずだ(ろうと思う)。
ところが、協同的な創作の行為というものもある。
例えば連歌である。
連歌(れんが)は鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。
Wikipedia101214
上掲書によれば、永田家でも家族四人で連歌を巻いたことがあった。NHKBSの5時間生放送番組で放映されるものである。
1人の持ち時間は5分で、時間の経過を知らせるために砂時計が使われた。
紅さんによれば、創作の個性は次の如くである。
砂時計を見ているとますます焦る。辞書を繰って言葉を探したり、縁側で長考したり、寝ている猫を起こしたり、自分の句が無事にできると、次の番が回ってくるまでしばらく気が楽になり、ビールなど飲みながら、うだうだと他の二人と無駄話などしている。
順番が回ってくると、百科事典にあたって調べる兄、一瞬で作ってしまう母、どこかへふらりと歩いていって、よし出来たと戻ってくる父。それぞれの性格がよく出る。
掲載の日付は、21年10月14日である。
裕子さんが亡くなる10カ月ほど前である。
歌人一家らしい微笑ましい光景ともいえるが、裕子さんは20年7月に乳癌の再発が分かり、化学療法を受けている時である。
化学療法には副作用が伴うと思われる。
にもかかわらず、「一瞬で作ってしまう」のは、やはり類稀な才能ということになる。
ふとした日常生活に、もうその人はいないと気付かされる。
いや、永田さんにとって、日常生活は裕子さんと共にあったもので、もう戻ってこないものかも知れない。
掲出歌は「短歌」誌の3月号に『二人の時間』と題して掲載された。
表紙に「妻・河野裕子を悼む絶唱30首」とある。
4月18日の産経抄が、ある詩集の紹介とその反響について書いていた。
▼1週間前、『ときぐすり』という詩集を紹介したところ、作者の藤森重紀さんや小欄のもとに、少なからぬ手紙が届いた。そのほとんどが、5年前に奥さまを亡くした藤森さんと同じく、大切な人の死という形で、別れを経験した人たちからだった。
▼そのうちの一人は、10年前にご主人に先立たれた。周囲の人々の励ましに疲れ果て、体調を崩し、引きこもり状態になったこともある。最近ようやく「生きていてよかった」と思えるようになったという。
▼そんな経験から、親族の命と家財産の両方を失った、東日本大震災の被災者を思いやる。「今がんばりすぎていらっしゃる心の“バネ”が、働かなくなってしまう日がくるのではないか」。だからこそ、「ときぐすり」の存在をできるだけ多くの人に知ってもらいたい、と結んであった。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110418/trd11041803350001-n1.htm
私の幼馴染も、ご主人を交通事故で亡くしてから引きこもり状態になり、とうとう自ら命を断ってしまった。
自殺は良くないことだ、と言われる。たった一つの大切な命……。
しかし、生きている人間が自死を諌めることができるのか、と自ら死を選んだという報に接するたびに思う。
私には、彼女の心の奥は想像するしかないが、何となく理解できるような気がした。
生きていても、今までより楽しいことなど、金輪際起こりはしない。
彼女はそう確信したのではなかったか。
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