原発事故に対する初動対応について
改めて菅首相の原発事故に対する初動が適切なものだったかどうかが問われている。
菅直人首相は29日の参院予算委員会で、東日本大震災後、初めて国会答弁に立った。野党は、震災翌朝の首相の福島第一原発の視察が東京電力の初動の遅れを招いた可能性を指摘。首相は全面的に否定し、「その後の判断に役立った」と反論した。
http://www.asahi.com/politics/update/0329/TKY201103290428.html
首相が視察を敢行した時の状況はどうであったか?
放射性物質放出が続く東京電力福島第1原発をめぐり、経済産業省原子力安全・保安院が東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していながら、菅直人首相が強く望んだ現地視察で、即座に取るべき一連の措置に遅れが生じた可能性が出てきた。また、首相から直接説明を受けた福島瑞穂社民党党首によると、首相に同行した班目春樹委員長はヘリで原発を視察した際、「水素爆発は起きない」と説明したという。政府関係者は「この発言で班目氏は首相の信頼を失った」と明かす。
http://www.minyu-net.com/news/news/0328/news7.html
原発事故の初動については、次図のようだったとされる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011032802000041.html
首相の現地入りが保安院の「評価結果」を受け取ってのものであったことが分かる。
この現地視察については以下のような発言がある。
原子力安全委員会の班目春樹委員長は28日午後の参院予算委員会で、菅直人首相が東日本大震災の発生翌日の12日早朝に福島第1原発を視察したことについて、「首相が『原子力について少し勉強したい』ということで私が同行した」と述べ、首相の判断であることを明らかにした。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011032800484
首相の現地視察が現場第一主義に基づくものだったとしても、このタイミングに「少し勉強したい」ために現場に飛んだとしたら、まるっきり状況認識ができていないと言われても仕方がないだろう。
首相の現地視察の影響について、次の指摘がある。
与党関係者は「首相の視察でベント実施の手続きが遅れた」と言明。政府当局者は「ベントで現場の首相を被ばくさせられない」との判断が働き、現場作業にも影響が出たとの見方を示した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011032802000041.html
「覆水盆に返らず」であるが、今後の教訓にするという意味で、この時点で首相がどう行動すべきだったかを考えてみたい。
作家の曽野綾子さんは、非常時には民主主義が機能せず、一時的に族長支配が発生するとした上で、次のように述べる(『小説家の身勝手・第四十章「ゲリラの時間」』Will2011年5月緊急特大号)
族長支配の要素を突如として強く要求されるようになった内閣総理大臣は、十二日朝現場を視察した。あれをパフォーマンスだという人がいたが、私は少しもそう思わなかった。現場を知ることは、その後の状況の理解に(私なら)不可欠なものだからだ。
果たしてそう言えるだろうか?
私の基本的な考えは既に述べた。
⇒2011年3月14日 (月):現認する情報と俯瞰する情報
政府が対応すべき課題が福島原発「だけ」ならば、あるいは曽野さんの言うことも賛同し得る余地があるかも知れない。しかしながら、今回の震災の最大の特徴は、その広域性と激甚性にある。
地震発生当日の夜には、仙台市若林区で200~300の遺体が発見された、と報じられており、巨大な被害の一端が露わになりつつあったのだ。
事象を理解するのに、現場で近寄って確認しなければならないことがあるのは事実である。
しかし、例えば、虹について考えてみよう。
虹の実態は水滴の集合体であるが、一定の距離で特定の視角から見ないと虹として見えないのである。
複雑な事象、例えば歴史など、はすべからくそういうものであって、個別に詳しく知ることも重要であるが、一歩下がって距離を置くことが重要なのだ。
震災の全体像を把握しないで、適切な被災対策は講じられないだろう。
次の見解に全面的に賛成する。
性急な現地視察という間違った「政治主導」が目の前に迫る危機への対応を滞らせ、首相と補佐役の専門家の間に、あってはならない不信感が横たわる。危機管理システムが人的要因で機能せず、「有事なのに平時の対応をしている」(与党関係者)のが、今の政権中枢の実態ではないのか。
これは、もはや人災と言っていい。世界が注視する「フクシマの核危機」を乗り越えられるのか。首相に猛省を促したい。また関係省庁間の情報共有強化、主要担当機関の指導力向上、国民との相互信頼に基づく戦略的コミュニケーションの実践を首相に求めたい。
http://www.minyu-net.com/news/news/0328/news7.html
しかし、国会での様子を見ると、猛省どころかあくまで自分は正当だと考えているかのようである。
まあ、この人の強弁は今に始まったことではないのであるが。
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
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コメント
我が国が核攻撃を受けたらどのような事態が発生するか。
我が国の原発が大事故を起こしたらどうなるか。
疾走する弾丸列車が貨物列車に激突したらどのようになるか。
悪夢は見たくない。いつまでも能天気でいたい。
天下泰平の気分を壊したくない。
自分に都合の良いことだけを考えていたい。
それ以外の内容は、想定外になる。
ただ「間違ってはいけない」とだけ注意を与える。
「人は、誤りを避けられない」とは教えない。
「お互いに注意を喚起し合って、正しい道を歩まなくてはならない」とは、考えていない。
もしも自分にとって都合の悪いことが起こったら、びっくりする以外にない。
そして、「私は、相手を信じていた」と言い訳するしかない。だから、罪がないことになる。
危機管理は大の苦手。
だが、ナウな感じのする犯人捜し・捕り物帳なら大好きである。毎日テレビで見ている。
日本語には時制がないので、未来時制もない。
未来の内容を鮮明に正確に脳裏に描きだすことは難しい。
一億一心のようではあるが、内容がないので建設的なことは起こらない。
お互いに、相手の手を抑えあった形である。すべては安全のためか。不信のためか。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力を持っている。
親分の腹芸か、政党の内紛のようなもの。
今回の事件はわが国の国民性を色濃くにじませている。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2011年3月31日 (木) 02時41分