« 菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ | トップページ | 福島第1原発事故と放射線量の用語について »

2011年3月19日 (土)

谷沢永一氏と聖徳太子論争/やまとの謎(28)

震災の被害規模がどれくらいの規模で、どの程度の期間に及ぶのか見当もつかない。
亡くなられた方の数は既に阪神淡路大震災を大幅に上回っている。
行方不明の人の数も把握できない。
私の知人に南相馬市出身の人がいる。ご両親は無事だったとのことだが、津波の難を逃れたと思ったら原発の状況が予断を許さないようだ。

3月8日、文芸評論家・書誌学者の谷沢永一氏が亡くなった。
保守派の論客として知られ、渡部昇一氏の盟友だ。
私にとっては反面教師の役割を果たしていた。

それまでの発言内容から、「おやっ?」という印象を受けたのは『聖徳太子はいなかった (新潮新書) 』(0404)である。
概していえば、保守派にとって聖徳太子は、神のごとき存在である。
その存在自体を否定したのだ。
「あとがき」部分に次のようにある。

聖徳太子がいなかったことは、とっくに学界の常識となっている。いまさら素人の私などが出る幕ではないのであるが、また一般人の立場からながめると、聖徳太子がフィクションであるという知識が、世界のすみずみにまで広がっているとは、かならずしも言えないように見てとれる。

聖徳太子は、数多い「やまとの謎」の中でも、トップクラスの謎を秘めている。
小学生でも馴染んでいる歴史上の偉人の存否が問題になっているのである。
確かに、『日本書紀』に描かれた人物像には非現実的な部分が少なくない。

私も大山誠一氏の『「聖徳太子」の誕生 (歴史文化ライブラリー)』吉川弘文館(9904)などによる聖徳太子非実在論は知っていた。
⇒2010年12月17日 (金):聖徳太子(ⅰ)/やまとの謎(19)

谷沢氏は、大山説をベースに、該博な知識を駆使して「いなかった」ことを解説したものである。
これに対し、当然保守派を中心に激しい反発がある。
例えば、「新しい歴史教科書をつくる会」の会長だったこともある田中英道氏(美術史家、東北大学名誉教授)は、『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所(0409)を著わして、谷沢氏を批判している.
大災害に遭遇して、日本の国のあり方を再考すべき時がやってきた。
生きている間に体験するとは思っていなかった状況である。
「以和為貴」に始まる十七条憲法。
この語をどう解するか。
私は、「和」すなわち「争わないこと」だと理解し、それが大事なことだというように考えていた。
日本国憲法の前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」に通じるような。

しかし、続けて「無忤為宗」とあるのを知り、「どういうことだ?」と思った。
「忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」
「忤うこと」とは、誰が誰に忤うことを指しているか。
その解釈次第で、意味は大きく異なる。
聖徳太子論争は、すぐれて現代的なテーマでもあるといえよう。

|

« 菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ | トップページ | 福島第1原発事故と放射線量の用語について »

ニュース」カテゴリの記事

日本古代史」カテゴリの記事

やまとの謎」カテゴリの記事

コメント

日本古代史の中で 石渡信一郎&林順治氏の 『倭韓交差王朝説』は
きわめて理論的な説であると思いますが、どうして、異端説 扱いなのでしょうか?
(注:私は石渡教授&林先生と呼びます)

『倭韓交差王朝説』とは
①崇神は加羅から渡来し、九州のヤマタイ国を滅ぼし、350頃、纏向に第1倭国『加羅(南加羅))』を建て、箸墓に眠る。
②5世紀の中国に遣使した倭国王『讃珍済興』は 崇神の子孫になる。大きな前方後円噴に眠る。
③昆支と余紀は百済の蓋鹵王の弟。ともに崇神王家の済(ホムタマワカ)に入婿。昆支は応神になる。余紀は継体になる。
④応神は倭国王武として宋に遣使。491年に第2倭国『大東加羅(あすから=飛鳥ら)」を建てた。八幡大名神になった。
⑤継体は仁徳陵に眠る。仁徳から武烈の間は架空天皇。継体の息子の娘の石姫は欽明との間に敏達を生む。
⑥欽明は応神の息子で 531年継体の息子を討つ(辛亥の役)。ワカタケル大王となる。蘇我稲目と同一人物。
⑦蘇我馬子と用明と聖徳太子の3名は同一人物で、欽明の息子。隋に遣使したアメノタリシホコのこと。
⑧蘇我蝦夷はアメノタリシホコと敏達の娘の貝蛸(フツ)姫との息子。子の入鹿とともに天皇。崇峻、推古、舒明、皇極は架空天皇。 
⑨馬子に殺された物部守屋は敏達の息子の押坂彦人大兄と同一人物。その息子が天皇になれなかった田村皇子。
⑩天智も天武も田村皇子の息子。但し、異母兄弟。天武の母は馬子(聖徳天皇)の娘で 天武は古人大兄と同一人物。

以上 10個は私の子供(小5)はウソだウソだと言っており、確かに、驚くべき説で、
内容も難しく、すぐには理解できないもの(特に記紀信者には)ですが、
石渡教授が論理的に証明された真実です。

ただちに、石渡教授は東大か京大の日本古代史の教授に推挙されるべきです。
そしてこの『倭韓交差王朝説』で 日本史の教科書は書きかえられるべきです。
私の子共もウソをマークシートしなければいけない不幸をだれか救ってください
どうして、当たり前のことが、できないのでしょうか??

投稿: むらかみからむ | 2011年4月 8日 (金) 22時00分

むらかみからむ様

私は基本的に異端(少数派)好きですが、仰るように
「石渡信一郎&林順治氏の『倭韓交差王朝説』」 は、「内容も難しく、すぐには理解できないもの」だと思います。しかし、それが論理的でありかつ物証の裏付けがあれば(要するに検証可能であれば)、きっといつの日か多数派になるでしょう。

投稿: 夢幻亭 | 2011年4月12日 (火) 11時50分

最近珍しい書籍を教えてもらいました、ご存知かもしれませんが、紹介したいのですが。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。

投稿: いしやま | 2013年12月28日 (土) 05時44分

いしやま様

貴重な情報を有り難うございます。
ロドリゲスの「日本大文典」は、Amazonで見ると土井忠生という人の訳で出版されているようですが、古書価格が非常に高額になっています。近くの図書館で調べてみようと思います。

投稿: 夢幻亭 | 2013年12月28日 (土) 20時49分

ロドリゲスの仕事に感動していただきたいと思います。

投稿: いしやま | 2013年12月30日 (月) 07時06分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 谷沢永一氏と聖徳太子論争/やまとの謎(28):

« 菅首相の器のサイズと事態の深刻さのミスマッチ | トップページ | 福島第1原発事故と放射線量の用語について »