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2011年3月 8日 (火)

「啓蟄」とポスト菅の行方/民主党とは何だったのか(6)

二十四節気の一つに、「啓蟄」がある。
今年は3月6日だった。
期間としての意味もあり、次の節気の春分前日までである。いま、まさにその期間ということになる。
“啓”は「ひらく」、“蟄”は「土中で冬ごもりしている虫」の意で、 文字通り地中で冬ごもりしていた虫が春の到来を感じ、草木が芽吹く と同時に地上へ這い出してくるという意味だ。
私の亡母は短歌や俳句を慰みとしていた。手作りの遺稿集を作って知己に読んでもらったが、友人の1人が「お前のお母さんは、『啓蟄』という言葉が好きだったんだな」と言ってくれたことを思い出す。

菅政権の行き詰まりが誰の目にも明らかになる一方で、ポスト菅の最有力候補とされた前原前外相がとりあえず候補から外れた。
前原氏自身十分意欲があったたようで、10日発売の「文芸春秋」のインタビューにおいて、「年内解散については「あった方が日本のためになるかもしれない」と強調し、菅直人首相に対しては「何にこだわりを持って首相を続けているのかを『殺されてもいい』ぐらいの気概で語れるか、実行できるかにすべてはかかっている」と“注文”したという。
この限りでは、その通りであろう。

さて、ポスト菅の行方はどうなるだろうか?
先ず、前原氏の辞任の影響はどう見られているか。

前原誠司外相の辞任により、仙谷由人前官房長官に続き、菅直人首相を支えてきた主要閣僚が閣外に去ることになった。両氏が所属する前原グループの「菅離れ」が起き、政権基盤の弱体化が進むのは確実なことに加え、ポスト菅の筆頭だった前原氏の目がなくなったことで、民主党政権の今後の戦略も描けない混とん状態に陥った。自民党など野党は勢いづき、国民年金第3号被保険者の切り替え漏れ問題で細川律夫厚生労働相にも辞任を迫る構えだ。「ドミノ辞任」の可能性も否定できず、衆院解散・総選挙か内閣総辞職に追い込まれる「3月危機」が一段と現実味を増してきた。
「ポスト菅の一番手がいなくなるのは大きい。前原氏以外の首相の下で解散しても支持率は上がらないだろう」。自民党幹部は6日夜、前原氏辞任の報を聞いてほくそ笑んだ。

http://mainichi.jp/select/today/news/20110307k0000m010071000c.html

確かに、前原氏の辞任は、民主党にとって限りなく「一本」に近い打撃といえよう。
しかし、自民党の期待しているようには、それがそのまま自民党のプラスにならないと思う。

ポスト菅については、次のような分布図が描かれている。
Snk20110308123view_2
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/politics/snk20110308123.html

菅首相を取り巻く情勢はどうか。

菅首相の足もとは驚くほどもろい。女房役である枝野幸男官房長官は党内屈指の政策通ではあるが、周囲には「どうやって記者の質問に正面から答えなくていいか、ばかり考えている」と話しているといい、前任者で「影の宰相」と呼ばれた仙谷由人代表代行のように、自ら泥を被って菅首相を守るような姿勢は見えない。
藤井裕久官房副長官は、旧自由党時代の組織活動費疑惑を野党に猛追及されてか、お疲れ気味。福山哲郎官房副長官や寺田学補佐官は「いい情報ばかりを菅首相に入れる傾向がある」(官邸筋)という。

http://myamebabackup.seesaa.net/article/188898488.html

横田由美子氏の『小説民主党・「内部ゲヴァルト」水滸伝』は、かなり事実を踏まえているようだ。
⇒2011年3月 7日 (月):民主党は内ゲバ集団か?/民主党とは何だったのか(5)
従来、「反小沢VS親小沢」の図式において、菅首相と前原前外相は統一戦線を組んできた。
それが今回の辞任劇で、ひび割れたということである。
菅、前原の両氏と共に主流3派の一翼を担っていた野田財務相も、泥舟に乗ったまま心中するつもりはないだろう。

となると、真の菅シンパは自身の「国のかたち研究会」だけということになる。
「国のかたち研究会」とは、「かたち」だけつけようとする菅首相に相応しいネーミングではあるが、概要は以下の通りである。
Wikipedia101130最終更新

2000年に、かつて社会民主連合で同僚であった菅直人と江田五月が世話人として発足。毎週木曜日に菅の自宅での会合を定例としているが、菅自身はあまり運営等にタッチしておらず、江田が実質的な運営者となっている。
民主党内ではリベラル的傾向が比較的強いとされている。旧日本社会党、旧民主改革連合出身者や市民運動家の受け皿となっている一面もあるが、菅が民主党代表時代に当選した国会議員や菅の選挙区である東京都、江田の選挙区である岡山県の選出の議員も多く、人間関係を元に作られたグループという側面もある。

江田氏は、1941年まれ。東大教養学部自治会委員長時代、大学管理制度改革に反発し、全学ストを決行し、退学処分となった。
翌年復学し、法学部で丸山眞男の薫陶を受け、吉野作造の研究に従事しながら法律を勉強し、東大在学中の1965年に司法試験に合格した秀才である。
1月の菅再改造内閣で法務大臣に就任し、18年ぶりに2度目の入閣したが、国会の議長経験者の入閣は、第2次田中角榮改造内閣で法務大臣に就任した中村梅吉元衆議院議長以来であり、異例といえば異例であろう。
与謝野馨氏の入閣と共に、菅再改造内閣の疑問点である。

さて、民主党内は、四分五裂の状況にある。
中枢的な立場にいる人が、分党計画や「菅降ろし」に言及し始めた。
啓蟄になって、政治家も蠢き始めたくなったらしい。

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