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2011年2月18日 (金)

民主党とは何であったのか

民主党の所属議員16人が会派離脱届を出した。

民主党の小沢一郎元代表を支持する比例代表選出を中心とする衆院議員16人は17日、党執行部が決めた小沢氏への処分に反発し、民主党会派から離脱する意向を固め、衆院事務局に新会派結成の届け出を提出した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/print/110217/stt11021710180003-c.htm

いよいよ民主党および菅政権が音を立てて崩壊していく感じである。
予兆は既にあった、というべきであろう。
⇒2011年1月 5日 (水):綱領なき民主党の菅VS小沢の不毛な争い

市民運動家だったという菅首相は、おそらく支持率に敏感だっただろう。
就任当初の高い支持率に「オレはやれる」という一種の全能感を持ったのではないか。
そして、支持率の向上という調査結果に、「熟議」をする時間を惜しむかのように参院選に向かい、争点として、唐突に消費税増税のアドバルーンをあげた。
期待に反して(?)参院選で大敗すると、それを自らの責任とするのではなく、有権者の理解力の低さにあるかのように総括した。
⇒2010年7月12日 (月):日本の政治はどうなるのだろうか?
今にして思えば、高い支持率も、前任の鳩山氏への失望感の反作用に過ぎなかったのだが。

この時点で、民主党は、菅氏の続投がベストチョイスであるのか否かを真剣に問うべきだっただろう。
⇒2010年9月11日 (土):菅首相続投で、本当にいいのだろうか?
そして、菅氏が代表選に勝ち、改造内閣がスタートした。
支持率回復を狙う菅首相は、代表選前の「終わった後はノーサイド」という言葉などなかったかのように、反小沢体制を敷く。
⇒2010年9月18日 (土):改造菅政権のスタート
⇒2010年9月21日 (火):再び問う、「菅首相続投で、本当にいいのだろうか?」

新体制は、早くも代表選のさ中に起きた尖閣問題で足許が揺らいだ。
代表選に没頭していた菅氏は、首相として弁解できない失敗をしたが、執行部は強弁で取り繕うという姑息な対応に終始した。
⇒2010年9月25日 (土):尖閣諸島事件の船長を釈放
⇒2010年10月 3日 (日):尖閣問題に対する蓮舫大臣の強弁

そして、反小沢の旗によって支持率が回復するという考えに取りつかれた菅首相や執行部は、疑問の多い検察審査会の議決を批判するのでなく、利用する側に回った。
⇒2010年10月 6日 (水):「推定無罪の原則」はどこへ行った?
⇒2010年10月 8日 (金):冤罪と推定無罪/「同じ」と「違う」(19)
⇒2010年10月 9日 (土):検察審査会/理念と現実の乖離(4)

しかしながら、支持率はジリ貧から脱け出せないまま推移したのだった。
私は、菅政権に求心力が働かない原因を、「真摯に考えること」の欠如にあると考える。
⇒2010年10月17日 (日):危うい菅内閣
⇒2010年10月18日 (月):危うい菅内閣(続)
⇒2010年10月23日 (土):仙谷健忘長官の“真摯な“答弁
⇒2011年1月21日 (金):政府・民主党における真摯さの欠如
⇒2011年1月27日 (木):言葉の軽さが裏付ける首相の真摯さの欠如

真摯な反省がないことによって、失政が繰り返された。
⇒2010年11月 9日 (火):政府は、誰に対し、何を謝罪するのか?
⇒2010年11月13日 (土):菅内閣の無責任性と強弁・詭弁・独善的なレトリック
⇒2010年11月15日 (月):尖閣ビデオ問題の失敗学
⇒2010年11月20日 (土):仙谷官房長官がまたもや失言?
⇒2010年11月23日 (火):菅内閣における失敗の連鎖

にもかかわらず、菅首相は、奇策とでもいうしかない対応で事態を切り抜けようとした。
⇒2010年12月29日 (水):「たちあがれ日本」との連立という発想に驚く
⇒2011年1月13日 (木):与謝野氏が政府に入って、いったい日本の何が変わるのか?
⇒2011年1月14日 (金):再改造菅内閣への違和感

しかし、もはや行き詰まりから脱け出すことは至難の状況になっていた。
そして、執行部は政党としての原点や原則を見失っていったのだと思う。
⇒2011年1月12日 (水):出口の見えない菅政権と民主党解党という選択肢
⇒2011年1月22日 (土):民主党の政治主導とは何だったのか?
⇒2011年1月25日 (火):民主党政権と詐欺師/「同じ」と「違う」(23)

民意は既に民主党にない。
相次ぐ地方選挙どの敗北がそれを示していた。
それを決定的に明らかにしたのが、愛知・名古屋のトリプル選である。
⇒2011年2月 8日 (火):トリプル選挙の結果と菅政権の末路

執行部はそれでもなお、小沢排除に執着した。
⇒2011年2月14日 (月):トヨタのリコール問題と検察審査会による強制起訴
その結果が、今回の離反劇である。

16人の会派離脱は衝撃であろうが、このまますんなり会派離脱で済むとは当人たちも考えてはいまい。
離脱には代表者の承認が必要であるが、代表者の岡田幹事長は「あり得ない」こととしている。
しかし離党すればそれまでだし、法案の投票行動において造反することもないとはいえない。

もちろん、昨日の16人だけが孤立するわけでもない。
例えば、原口一博前総務相が22日発売の月刊誌「月刊日本」のインタビューで、次のように語っているとされる。

政権交代の原点に回帰するグループ」を「民主党A」、「増税ありきの既得権益温存の政策に賛同する議員」を「民主党B」とそれぞれ位置付け、「『民主党B』とはたもとを分かたなければならない
http://www.asahi.com/politics/jiji/JJT201102180047.html

今国会の行方はどうなるだろうか?
特例公債法案など平成23年度予算関連法案が参院で否決されるのが確実視される。
執行部は衆院での3分の2以上の賛成により再可決、成立させるシナリオとして、社民党の協力を模索してきた。
しかし、社民党が6人しかいないときに、16人の造反劇が起きては、社民党の側も本気で考える気を失うだろう。
そうでなくても、鳩山前首相の「方便」発言等により、普通に考えれば協力しがたくなっていた。
つまり、このシナリオも破綻し、現状は予算成立の目途が全く立たなくなったということだろう。

マスコミの論調は、「国民生活を省みない党内抗争はケシカラン」であるが、こういう状況に追い込まれたのも、首相が自分で蒔いた種ということになる。
相次ぐ失政による支持率の低下を、反小沢の旗幟により挽回しようとした。
代表選での大差の勝利で過信したのだろうか。
政権交代は小沢氏なしではあり得なかったと思うし、代表選も、国会議員票をみれば、僅差だったのにかかわらず、である。

3月末という絶対的な期限が迫っている状況で、小沢氏の排除に大方の精力を使っていたように見える。
どういう計算をしているのかと思う。
離反者の批判に対する菅首相の反応は、「まったく理解できない行動だ」というものだった。
これは自身の行動について言うべき言葉ではないだろうか。

政局になるのは不可避の状況と思われる。
会派離脱届が提出された17日発売の「週刊新潮」(110224号)に、横田由美子氏の『小説民主党・「内部ゲヴァルト」水滸伝』が掲載されている。
既に民主党は歴史的な視点で書かれるべき様相だということだろうか。

現在、民主党の国会議員である松崎哲久氏は、「湯川裕光」のペンネームで、『瑤泉院 三百年目の忠臣蔵』(テレビ東京新春ワイド時代劇『忠臣蔵 瑤泉院の陰謀』の原作)などの歴史小説や『マンマ・ミーア』などのミュージカルを書くほどの文才の持ち主であるが、日本新党の結成に参画し、組織委員長や総務委員長などの要職にあった。
詳しい事情は知らないが、日本新党と袂を分かった後、『時代にとって、そしてわれわれにとって日本新党とは何であったのか』フリープレス(9506)という著書を書いたが、『民主党とは何であったのか』は、誰が書くことになるのだろうか?

おそらく、統一地方選で、民主党は惨敗し、自民党にも勢いは戻らないだろう。
それが新しい時代の幕開けとなるかどうかは不明だが、何やら大きな地殻変動が地底で起きているような気がする。

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