纏向遺跡は邪馬台国なのだろうか?/やまとの謎(26)
邪馬台国はどこにあったのか?
果てしない議論が続いているが、邪馬台国の有力な比定地とされる纏向遺跡がマスコミを賑わしている。
今日のNHKスペシャルも、「“邪馬台国”を掘る!」と題して纏向遺跡の発掘成果を報じていた。
邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋められていたことが分かり、桜井市教委が21日、発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた祭祀(さいし)の状況も浮かび、市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。
http://sankei.jp.msn.com/life/print/110121/art11012117300064-c.htm
昨年9月のモモの種の発見の際には、以下のように報道された。
古代中国の道教の神仙思想では、桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされた。3世紀末の中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は卑弥呼が倭国(わこく)を鬼道(きどう)(呪術)で支配したと記し、鬼道を道教とみる説もある。辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が竹ざるに桃を積み上げて祭事を行ったのではないか」と話す。
http://www.asahi.com/culture/update/0917/OSK201009170081.html
2つの記事を併せて読むと、「邪馬台国=纏向」がほぼ固まったかのようである。
NHKの放送内容は、邪馬台国探究はまだまだ続くとしながらも、纏向遺跡の発掘についてがほとんどで、九州説については、吉野ケ里にちょっと触れていた程度である。
しかし果たして「邪馬台国=纏向」で決着しそうなのだろうか。
「邪馬台国=纏向」の論拠は以下のように説明されている。
邪馬台国畿内説の候補地
■ 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、『魏志』倭人伝に記された邪馬台国の時期と重なる。
■ 当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
■ 遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命の墓との伝承をもつが、これは墳丘長280メートルにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90メートル前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀では列島最大の墳丘規模を持ちヤマト王権最初の大王墓であり各地にも纒向型前方後円墳が築造され、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
■ 倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説がある。
・・・・・・
■ 3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がないほどで、出土土器全体の15パーセントが駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できない。また、祭祀関連遺構ではその割合は30パーセントに達し、人々の交流センター的な役割を果たしていたことがうかがえる。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。
Wikipdeiaの纏向遺跡の項(110121最終更新)
纏向遺跡での相次ぐ考古資料の発見は、「邪馬台国=纏向」を強化ないしは決定づけるものであろうか?
上記のように、「候補地」の論拠とされるものはいずれも状況証拠というべきものである。
今回もその域に留まるものとしていいだろう。
纏向に高度な集積があったことは疑えないが、それが直ちに邪馬台国に結びつくものではない。
九州説あるいは他説も同様であると思われる。
だからこそ「果てしない」論争になっている。
決定的な物証(書証でもいいが卑弥呼の時代に直接的なものは期待しがたいと思う)が発見されるまで、邪馬台国比定地論争は論理ゲームに留まるのではないか。
先日も年末を沖縄で過ごしてきた友人が、木村政昭『邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く 』第三文明社(1006)という本をプレゼントしてくれた。
沖縄滞在中に入手したものを、私が邪馬台国論争に興味を抱いているのを思いだして送ってくれたのだ。
著者は地質学者として実績のある学者であり、よくある郷土史家の身びいき的なお国自慢に傾いた説とは一線を画すものである。
いずれゆっくりと味読したいと考えている。
沖縄説も含め、まだまだ邪馬台国論争は終結しないのではないか。
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コメント
昨晩のNHKの放送、私も、見ました。
纏向遺跡の発掘者の、纏向遺跡への思い入れの強さに、少し、驚きや怪訝なものを感じました。
纏向遺跡が邪馬台国だったと、決定付けられるものを掘り当てたい・・・、纏向遺跡は、きっと、邪馬台国なのだと、決めて掛かっているようで、それは、“よくある郷土史家の身びいき的なお国自慢に傾いた説”を論じているのと同等のものだと感じました。
贔屓のお国への思いの強さで邪馬台国の候補の優先順位が決まって行くのは、ヘンです。
(ー ー ー 日本人の大和(近畿)への思いの嵩は、山よりも高く、海よりも深いものがありますね・・・・)。
投稿: 五節句 | 2011年1月24日 (月) 11時59分
五節句様
コメント有難うございます。
纏向遺跡発掘の努力は貴重なものでしょうが、「邪馬台国とは……」というそもそもの概念はどこかに行ってしまって、卑弥呼の祭祀の跡だとかいうのに違和感を持ってしまいます。
私も大和と聞くだけで、(さしあたって何の地縁もないにもかかわらず)郷愁のようなものを感じてしまいます。大和という言葉には危険な魔が潜んでいるようなので、自戒しているのですが。
投稿: 夢幻亭 | 2011年1月26日 (水) 22時15分
新聞記事やNHKの番組にはありませんでしたが隋書に「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」という記述があり、はっきりと邪馬台国は大和にあるとしていますし、それを裏付ける発掘成果が纏向遺跡からでてきているといことでしょう。
魏が外国に金印を印綬しているのは西の大国の大月氏国と倭国だけですから、少なくと九州だけではなく西日本を支配していることを前提としている大和説の方が有力だと思いますが。
投稿: 古代 | 2011年2月22日 (火) 23時44分
邪馬台国九州説が、最後の勝利者となると思いますよ。
考古学と一致しています。
投稿: 諸葛Akira | 2011年9月14日 (水) 11時59分
この巻向遺跡の話では、必ずと言っていいほど、武器型青銅器や舶来品の話題が無いですよね。三国志の記述には、卑弥呼の居所を武装した兵士が厳重に守っていた。また、倭国宗主の政がうまくいかないと内乱が起きたり、狗奴国との抗争が続いたことなどが記述されています。まず武器の存在が前提になるべきでしょ。さらに漢式鏡や金印・三種の神器なども言及するべきじゃないかと思いますね。
投稿: 閑人 | 2015年1月10日 (土) 12時47分