平城京モデルと白村江の戦い/やまとの謎(25)
松岡正剛氏の「『平城京モデル』に学べ」(日経新聞・経済教室110114)に、『平城京レポート』の以下の5つの柱が載っている。
日本の進路を東アジアとの関係においてどう捉えるかということは、きわめて今日的な課題といえる。
平城京への遷都の約50年前に、日本(倭国)は国際的な軍事行動において惨敗ともいえる大敗北を喫した。
「白村江の戦い」である。
この敗戦の日本史的意義についてはいろいろな側面が考えられるだろう。
私にはそれを包括的に整理する力量がないので、すこしずつメモとして書き留めたい。
先ず、平城京の建都に与えた影響については、以下のような理解が一般的かと思われる。
663年唐に攻撃された百済の要請を請けて2万7千の大軍を朝鮮に派遣した日本は唐・新羅連合軍に大敗し(白村江の戦い)、百済は滅亡した。唐・新羅連合軍の来襲を恐れた大和朝廷は都を大和盆地から大津京へさげ、大宰府に山城・水城を築き、瀬戸内海沿いに狼煙の連絡網を設け防衛体制を固めると共に、大宝律令を制定(701)し、貨幣和同開珎を鋳造(708)し、平城京を建設して遷都(710)し、先進国・唐に倣った近代化を急速に推進したのである。このように、平城京は白村江の敗戦による外圧・危機感から建設されたという側面を持ち、そのことは明治維新や先の敗戦による近代化と同じように、この国が外圧によってしか変革されない(逆に言えば、何かのきっかけがあれば、前向きの物凄いエネルギーが発揮される)という特徴を、早くも裏付けるものであるといえる。
http://www.geocities.jp/mryuumin/10event/nara.html
つまり舵取りを間違えれば、国の存亡に係る事態であった。
確かに歴史的に、外圧の存在によって日本史は大きな影響を受けてきた。
島国であることから、ポテンシャルがある臨界点に達しないと顕在化しない(言い換えると顕在化したときにはプラスにもマイナスにも大きなものとなる)というようなメカニズムがあるだろう。
白村江の敗戦により倭国に移入してきた大量の百済人の影響はどの程度だったか。
⇒2008年4月15日 (火):藤井游惟氏からのコメント
⇒2008年4月17日 (木):言語学から見た白村江敗戦の影響
⇒2008年4月18日 (金):言語学から見た白村江敗戦の影響②
⇒2008年4月24日 (木):白村江帰化人
以下のサイトでは、同じ問題を私より遥かに該博な知見をもとに論じておられる。
⇒「『記紀万葉』を書いたのは白村江敗戦後の亡命百済人?」
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/index.htm
白村江の敗戦に関しては、古田武彦氏の倭国(九州王朝)・大和朝廷権力交代説とその影響下にある以下のような説が魅力的であると思う。
⇒2008年1月15日 (火):砂川史学…①大海人皇子(1)
⇒2008年2月15日 (金):天武天皇の出自…大芝英雄説
⇒2009年8月28日 (金):「同じ」と「違う」(4)さまざまな「戦後」
特に室伏志畔氏は、『白村江の戦いと大東亜戦争―比較・敗戦後論 』同時代社(0107)において、70年前に日本が始めた戦争(東アジアと欧米の双方を相手としたという意味で、私は「東亜・太平洋戦争」と呼ぶのがいいのではないかと考えている)と対比させて捉えることも試みられている。
これらは興味深いテーマではあるが、次のような所説はいまだ私の理解を越えている。
白村江戦で唐・新羅に敗れ捕われたのは、九州王朝「倭国」の薩夜麻(=白鳳王)である。薩夜麻の父の甘木王(=常色・白雉王)は「常色の改革」を断行する。その甘木王の弟が難波副都常駐・天下立評を甘木王に命じられた伊勢王である。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/waikoku/view/20101216/1292497393大阪の前期難波宮は、九州王朝が、すでに建設していた
首都:太宰府に対し
副都として建設したものではないか。
http://nnagoya.blog64.fc2.com/blog-entry-385.html
電子的な力、サイバー的な影響力が増大しているとはいえ、争いの端緒は依然として物理的である場合が多いだろう。
尖閣諸島における中国漁船の体当たりの様子は、素朴でありながら物理的な衝突という意味でリアリティを感じさせるものであった。
菅内閣は、衝突映像の全容を未だに開示しないが、仙谷氏の交代(更迭というよりも栄転のような印象である)により、ウヤムヤのうちに幕が引かれるのだろうか?
パックス・アメリカーナの終焉が明らかになりつつある現在、東アジア情勢は、白村江当時と似ているようにも思う。
大陸-半島-海洋-島国という地政学的条件は変わりようがない。
中国が、帝国的な大国となって隣接しているわけである。
中国と日本(と朝鮮半島)は、文字通り一衣帯水なのだ。
朝鮮半島の一部勢力と連携して中国と対峙した古代の敗戦も、無謀にも大陸に派兵した近代の敗戦も、共に歩みたくはない道である。
情報の秘匿には限界がある。
政府は、平成の開国をいうならば、先ず国民との間の信頼感を築く努力をすべきではないだろうか?
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