「書く」ことと「考える」こと/知的生産の方法(5)
「書く」という行為は、知的生産の行為として最も基礎的なことであろう。
しかし、文を作ること、すなわち作文については、多くの人が、小学校の頃作文の時間があったことは覚えているが……、という程度の記憶があるくらいのものではないか。
私は、高校や大学で、作文の訓練を受けた覚えがない。
私が作文について、いくらか意識的になったのは、リサーチャー時代である。
何しろ、商品(?)が、報告書という文章の塊だったから、いかに早く良質の文書を仕上げるかが、評価に直結していた。
もっとも、良質の、というのに明瞭な評価基準があったわけではない。
しかし、少なくとも「名文」が求められていたわけではないことは確かだろう。
あえて言えば「達意」の文章ということになろうか。つまり、言いたいこと(結論=主張あるいは意見)がしっかり伝わるということである。
具体的な訓練として、どのようなことが行われたか?
結論的には「添削」に尽きる。
要するに、他人の目に晒すこと、そして自分のクセを指摘してもらい、それを直すことだ。
人間は、その歴史の中で、環境に対して「ことば」を付与し、それを概念化(シンボル化)してきた。
概念は、実在するモノとの関係において成立しているだけでなく、非実在的なモノについても生み出されてきた。
つまり概念(シンボル)の自己運動である。
人間「だけ」がシンボルを操作する動物かどうかは分からないが、人間がシンボルに非常に敏感な動物であることは間違いないだろう。
人間は、シンボル環境の中で生活し、人間の行動はすべてシンボル的な側面をもっている。
環境の中から、特定の部分を識別して認識する上で大きな役割を果たすのは「ことば」である。
例えば、山を見て山だと認識したり、川を見て川だと認識するのは、客観的にそこに山や川が存在するからであることに間違いはないが、そこでは見ている人が既に「山」や「川」という「ことば」を獲得していて、目に見えるモノとしての「山」や「川」と「山」や「川」という「ことば=概念」が結び付くことによって、あそこに「山」がある、あるいは「川」があると認識するわけである。
幼い子が言葉を獲得していくプロセスは面白い。
最初は、興味のある対象とそうでない対象の区別がつくところから始まる。
例えば、アンパンマンをみてニコニコする等である。
そのうち、アンパンマンを見て、「アンパンマン」と発語する。
しかし、多くの場合、例えば母親だけが聞き分けられるような発音である。
それがやがて母親以外の人間でも分かるようなレベルの明らかさで発音するようになる。
そして、単語だけの発語から、2語で構成される最小単位での文の形で発音できるようになる。
「好きな花は何ですか?」という質問をすれば、「ヒマワリです」と答えるというように。
発達学上、単語だけの発音と、たとえ2語だけであろうと文の形で発音するのとでは大きな違いがあるらしい。
複雑さへの階段を登り始めるか否かということであろう。
あとは、単語の組み合わせ方の問題である。
リサーチャー時代、作文の鍛錬=思考の訓練、ということを次第に理解するようになった。
文を作る場合、文法とレトリックは車の両輪である。
文法は必要条件であり、文法的にオカシナ文章は、それだけで失格である。
日本語の場合、いわゆるテニヲハはとくに重要である。テニヲハの間違っている文章は読んでもらえないと思った方がいい。
文法が正しいうえで、他者との差別化を図るのがレトリックの役割である。
レトリックについては、一筋縄では論じられない。なぜならば、一筋縄では論じられないような工夫を凝らすのがレトリックであるからである。
文章を書く場合、意識していなくてもレトリックの要素は入り込む。
よく言われるように、「見たまま、感じたままを書けばいい」というわけにはいかない。「見たり、感じたり」する行為は、多かれ少なかれ、無意識的に行っているのであり、文章を書くという意識的行為とは全く性質が異なる。
文章にはどうしても意識的な操作が入り込まざるを得ない。レトリックへの第一歩である。
「書く」という作業は、「見たこと、感じたこと」を素材とはするが、そこから取捨選択という意識的な作業として、「あるまとまり(一種のシステム)」を構成していく作業である。
つまり、「見たまま、感じたまま」ではなくて、目的意識的な思考の結果の産物なのである。
思考は、言葉の働きによって推進される。言葉をインプットし、それを処理(論理的に展開したり、連想によって拡げたり、ひらめきによって飛躍したり)して、アウトプットを再び言葉(より一般的には記号)で表現する。
このプロセスは人間の頭の中で行われる(コンピュータでも試行されているが、今のところその自由度において人間にはかなわない)。
しかし、頭の中だけで行うことは、余程の天才でない限り限界がある。モーツアルトは、ペンをとる時には既に頭の中で曲が完成しており、あとはただそれを五線譜に表現するだけだったというが、それはモーツアルトがいかに天才であったかを示す逸話であって、一般人にはとてもそんなことはできないだろう。
一般人は、頭の中で起きたことを一度目に見える形にして、それを対象化することによって思考を進める。
頭の中だけで分かったような気がするのは、多くの場合「分かったつもり」になっているだけである。
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