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2010年12月18日 (土)

小澤征爾さんの活動復帰を慶す

Photo_2小澤征爾さんが、ニューヨークのカーネギーホールで、ブラームスの交響曲第1番を指揮して健在なのを示した。
小澤さんは、食道がんのため今年1月から休養していたもので、活動休止からの本格復帰を果たした。
多くのファンがほっとしていることだろう。
小澤さんは、気心の知れたサイトウ・キネン・オーケストラを率いて気迫のこもった演奏を披露したそうだ。
http://www.sankei.jp.msn.com/world/america/101215/amr1012151826013-n1.htm

サイトウ・キネン・オーケストラは、桐朋学園創立者の一人である斎藤秀雄の没後10年記念として斎藤の弟子である小澤征爾と秋山和慶を中心に、国内外で活躍する斎藤の教え子たちが結集し1984年9月に東京と大阪で開かれた「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」で臨時編成された桐朋学園斎藤秀雄メモリアル・オーケストラが母体のオーケストラである。Wikipedia100923

私は、受験生の頃、人に勧められて、斎藤秀雄の父親の齋藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』を使ってみたことがある。
その人は絶賛していたのだが、私の英語力ではその有難味を実感し得なかった。

毎年、長野県松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が開催されている。
私も行ったことがあるが、一般にはなかなかチケットが入手できないほどの人気である。
ある年の小中学校時代の同窓会で、出席していた同級生が松本に嫁いでいて、同フェスティバルにも協力していることが分かって大いに盛り上がった。
何回か、彼女のツテでチケットを確保してもらったが、地元の人でも大変らしい。

小澤さんには、「世界の」という形容詞がつくことが多い。
国際的な場で活躍している日本人は少なくないが、小澤さんはその先駆者であろう。
征爾の名前は、板垣征四郎の征と石原莞爾の爾をとって命名されたという。
満州青年連盟などの運動に携わった征爾の父・小澤開作が2人に傾倒していたことを物語っているが、現在の征爾さんの活動と、われわれが持っている「板垣-石原」のイメージは結び付けがたい。

「智謀の石原、実行の板垣」などと称せられていたようであるが、この2人は一時期の満州を牛耳っていた実力コンビであった。
小澤征爾の父親は、「満州国」に託された理想、五族(漢・満・蒙・朝・日)が協和してつくる王道楽土という一種の理想郷の建設への共鳴者であった。
東アジアにどういうビジョンを持って向き合うかは、現在に持ち越された課題といえよう。

石原莞爾は、満州事変の中心人物として悪名高い。
一方で、その先見力を高く評価する人も多く、カリスマとして神格化されていることすら少なくない。
あの市川房枝ですら、『石原莞爾全集』のパンフレットに「石原讃辞」を書いているほどである。

市川房枝は、私たちのイメージでは、組織に頼らない個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた人の印象が強い。
元祖勝手連である。
現首相の菅氏も、市川の選挙スタッフを務めたことが政治活動の原点である。
石原莞爾とは異質のような気がする。

しかし、戦争中は、市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせていた。
そのことで、婦人の政治的権利獲得を目指すべく評論活動を行うことを確保しようとしたのだという。
しかし、最終的には、翼賛体制に組み込まれて、大日本言論報国会理事に就任している。

同じ職業軍人として活動した人でも、石原莞爾は、例えば東条英機などとは対照的な評価をされている。
石原は、戦争を研究して、そこに内在する法則性を抽出し、いずれ東亜とアメリカが太平洋を挟んで争う最終戦争になると予測した。
そして、その後にはじめて地球上から戦争は無くなる、とする「最終戦争論」(昭和15年)の提唱者として知られている。
最終戦争の時期は30年後内外であり、50年後くらいには世界が1つになるだろうというのがその予測である。

一時期、オウム真理教が、ハルマゲドンだとか世界最終戦争を呼号したことがあった。
もちろん、石原の戦争論と似て非なるものである。
石原は、時期を設定しており、かつ過去の歴史から抽出した法則性を根拠にしているから、予言や予想の類ではない。
石原の考えは現在でも文庫版で入手可能である。
⇒『最終戦争論 (中公文庫BIBLIO20世紀)』中央公論新社(0109)
オウム真理教の思考については、下記が参考になる。
⇒大澤真幸『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争 (ちくま新書)』筑摩書房(9606)

注目したいのは、東亜とアメリカの決勝戦の前に東亜の内部で不要な戦線拡大をすべきではない、としていることである。
満州事変は石原の自作自演とも言えるが、その後は対支戦線不拡大論者であった。その辺りが、いたずらに戦線を拡大して泥沼にはまり込んだ東条英機などとの評価との分かれ目にもなっている。
当時の帝国日本は、閉塞状況を打破するために、満州に活路を見出そうとした。
今から振り返ると無理であり無茶でもあるが、当時は理想郷を実現しようというロマンを抱いた人も多かったのである。
小澤征爾の父親の小澤開作もその1人だった。

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